たまらなく不器用な人
その背中を目で追うようになったのは、いつのことだろう。
浮き上がる背筋、膨らんだ二の腕。首から下だけを見れば、鋼のような筋肉をまとうその人はとても恐ろしく見える。でも顔を見れば、彼が優しい人なのだと一見にてわかる。
糸のように細い目の奥の瞳は凪いだ海のように穏やかで、深い優しさを讃えているのだ。
事実、彼の筋肉は他者を害するためではなく、家族を守るために作られたものだ。恐ろしいものであるはずがなかった。
「ハンフリーさんが好きですよ、私」
ハンフリーさんにそう告白したのは、バーのカウンターでのことだった。仮面武闘会の予選が終わり、ハンフリーさんの本戦出場が決定した日だ。
武道家として伸び悩んでいた時期を乗り越え、ハンフリーさんは予選で相手選手をちぎっては投げちぎっては投げの大立ち回りを決めた。あまりの活躍にグロッタの町は大きく盛り上がり、酒場は明日の本戦への期待で熱狂的な空気に包まれていた。
カウンター越しにハンフリーさんがいる。そのことは少なからず私を緊張させた。
彼は、私がおごった景気づけのエールをちびちびと飲んでいた。
普段は酒もたばこもやらないハンフリーさんが、この時だけは酒飲みに応じてくれたのだ。
きっと、周囲の期待や本選出場へのプレッシャーが彼に酒を飲ませているのだろう。予選であれだけの活躍を決めたのだから、相手選手は誰もがハンフリーさんを警戒し、対策を考えているに違いないのだから。
グラスをぴかぴかに磨きながら私がどのような言葉をかけたのか、よく思い出せない。取り留めのない会話だったはずだ。本選出場おめでとう、貴方なら勝てるよ、とか、そういうくだらない言葉をかけた気がする。
緊張でなにを言ったのかは覚えていないのに、反面、ハンフリーさんの言葉はよく覚えている。
彼は「孤児院のみんなに賞金を持って帰るんだ」と言い、飲みかけのエールを握りしめ、グラスを睨みつけた。
孤児院出身の彼は、孤児院の経営に充てるために日夜働き、武闘家として賞金を求めている。
名声目当ての武闘家ではない。
負けられない戦いのなかにハンフリーさんはいるのだ。
そう思うと、胸がくんと締め付けられるような感覚がした。
私は孤児院を卒業したばかりだ。バーテンダーの職は得たものの薄給で、お客からのチップで生計を立てねばならない。ハンフリーさんにおごったエールだって、かなり背伸びしている。
孤児院のことを一番に考えるハンフリーさんの力になりたい。そのためにはお金が必要だが、孤児院を支えるほどのお金など私には到底用意できない。
そのもどかしさが、私にあんなことを口走らせたのかもしれない。
――ハンフリーさんが好きですよ、私。
口から飛び出してしまった言葉を舌の上で繰り返し、反芻する。
ずっと秘めた思いだと言うのに。秘めているつもりだったのに。
孤児院に来たばかりでいつも泣いていた私に、声をかけてくれたお兄さん。いつも笑顔で、頭を撫でてくれる手は大きくて優しかった。あの暖かな笑顔をもっと向けられたい、そばに寄り添いたいと考えてしまうことは……罪ではない、はずだ。たとえそれが、義理の妹として優しさを向けてくれるハンフリーさんへの、裏切りだとしても。
「……なんて。武闘会でハンフリーさんが優勝したら、ファンも多くなるでしょう。単なるファンの一人になってしまう前に、告白させてくださいね。『ハンフリーのお兄ちゃん』」
私は笑って肩を竦め、そう茶化した。
断られることはわかっていたから、それは構わない。笑顔を曇らせるのが怖くて、冗談に本心を隠した。
こういう言い方にすれば、ハンフリーさんは苦笑して『本気にしただろ』と流してくれるはずだ。
そう思ったのに、驚いた顔で硬直していたハンフリーさんは、眉根をぎゅっと寄せた。
「違うんだ。オレは、オレは……どうしようもない男なんだ……」
「ハンフリーさん?」
消え入るような声を絞り出して、俯いてしまう。バーの照明に照らされる隆々たる筋肉が、いやに心細い。肩を揺さぶって撫でたいのに、カウンター越しでは届かない。
どうしよう、そんなに嫌だったのか。
戸惑ってなにも言えないでいると、ハンフリーさんはふう、と息を吐き出した。
顔をあげたハンフリーさんは、いつも通りの表情だった。糸目をさらに細めて笑うのは私の好きな顔なのに、どこか違和感がある。
「すまない。慣れないエールを飲んだもんで、すこし頭が痛くなってな」
「あ……そ、そういう……。大丈夫ですか、ハンフリーさん。水入れますね」
「ありがとう」
水をグラスに注いで差し出すと、ハンフリーさんは一息に飲み込んだ。ついでエールの残りをラッパ飲みで飲み干していく。
すこしむせたあと、口元についた泡を拭う。カウンターに空になったグラスをだんっと置いた。
「……お前なら、いい男が見つかるよ」
「や、やだな、本気にしないでよ、私べつに、」
「オレは……お前が思ってるようないい男じゃないんだ」
ハンフリーさんはそれだけ言った。酒をおごってくれてありがとう、と言い残し、席を立ってしまう。
待って、と私が声を掛ける間もなく、ハンフリーさんの周りにまばらに人が集まる。こっちの席で一緒に飲まないか、明日は負けないぜ、頑張れよ、絶対勝つ。
それらの声に飲み込まれて、私の声はハンフリーさんに届かない。
なんでそんなことを言うのか。なんでそんな辛そうにするのか。それを知ることは叶わなかった。
次の日、ハンフリーさんは圧倒的な強さで相手選手を倒し、とんとん拍子で新たなチャンピオンとなった。
いまやハンフリーさんは時の人だ。歩く先でファンの人だかりができ、グッズは飛ぶように売れる。他国の武闘会にも出ることが多くなり、孤児院にもほとんど帰らなくなったらしい。
本来は喜ぶべきことだ。ハンフリーさんのおかげで孤児院の経営もうまくいっているようであるし。
だけど……。私の胸には、あの時の辛そうな――罪悪感をたたえたような表情が――忘れられなかった。
***
「まさか、あのハンフリーが魔物とグルだったとはなぁ」
「でもよくそれを公表したよな。潔くってさ、批判する気になれないよ」
「あたしたちも、あのひとに重圧をかけていたのかもしれないねぇ」
「魔物にしてやられるとは……まだまだ修行が足りないな……」
酒場の話題は、ハンフリーさんの話題で持ちきりだ。
チャンピオンの座を独占し続けていた男が、表彰式の場で突如自分の行為を告白したのだから当たり前だろう。
その衝撃の事実は瞬く間に町中に広がり、号外が飛んだものだ。
数か月経った今はある程度騒ぎは収まったものの、こうしてほろ酔いのお客がちらほら話題に出す。
私はお客の会話を聞き流しながら注文のカクテルを混ぜ、お客に提供し、愛想笑いを返す。
「で、ちゃんはどう思う?」
「え?」
「ハンフリーのことだよ。ちゃん、ハンフリーのファンなんだろ?」
「あ~……」
また面倒な質問を。耳に入れたくもない話題だと言うのに。
カウンターに座っているお客たちはいずれもチップをはずんでくれる上客だ。邪険にすることもできず、私は曖昧に笑った。
「そうですねぇ、来年の仮面武闘会は誰に賭けようかなってのが目下の問題ですかね」
「確かに!! でもまあ、ハンフリーが引退するなら賭けもスリリングになるよな。俺はベロリンマン推しだなぁ~」
お客たちがどっと口を開けて笑う。話題はすぐに応援したい武闘家の話になり、ハンフリーさんの話題は消えていった。
そのことにホッとする。
ハンフリーさんが表彰式で告白したことは衝撃だった。私はまだ気持ちの整理がつけられない。
まさか……魔物と手を組んでいたなんて。全然気が付かなかった。
思えばハンフリーさんがチャンピオンとして君臨する前……あの時酒場で見せたあの表情と言葉は、そのまま魔物と手を組んだ罪悪感のことだったのだろうか。
確かめたい気もするし、確かめたくない気もする。
今、ハンフリーさんは町の色んなところを行ったり来たりしている。
ファンのひとりひとり、町民のひとりひとり、グロッタに滞在する選手のひとりひとりに会い、今まで騙していたことを謝罪しているのだ。その誠意ある対応もあって、町民にハンフリーさんを責める人は一人も居ない。むしろプレッシャーをかけてすまなかったね、と労わりの言葉をかけるぐらいだ。
孤児院の子供たちは、武闘家を引退したおかげでずっと孤児院にいてくれる、孤児院に帰ってくれてると喜んでいる始末だ。
昔の笑顔より、今の笑顔のほうがずっといい。夕食係の義妹はそう言って泣いて歓喜している。
孤児院の経営に関しては町長が手を回したそうだ。ハンフリーさんの真実の告白に胸を打たれたのか、元からファンだったのかは知るよしもないけれど。
これらは伝え聞いただけだけれど、ハンフリーさんの環境は以前よりもずっとよくなっていることがうかがい知れる。
だからまぁ――きっと、これはいいことなんだろう。
しかし腑に落ちない。
別に、ハンフリーさんに裁きが下ってしかるべきだ、などとは思わないけど。武闘家から力を吸い取っていたのは魔物であってハンフリーさんではないのだし。
ぼんやり考え込んでいると、時計は私の仕事終わりの時間になっていた。しかし交代のバーテンダーが来ないので、私は抜けるに抜けられない。
ああ、気分が浮かない。なーんか、嫌な気分だ。
磨いたグラスをショーケースの中に入れる。ぴかぴかのガラスは私の冴えない顔を反射し、見ちゃいられない表情に眉根を寄せる。薄暗いバーから顔色に気づかれないのが救いだ。
別に、ハンフリーさんなんてどうだっていいけど。
孤児院にいた時はともかく、孤児院を出た今となっては昔なじみのひとりでしかない。一度振られてるし、ハンフリーさんが武闘家として成功してからは遠目に見つけて会釈することはあっても、会話なんて全然なかった。
そう、だからどうだっていいんだ。町民全員にひとりひとり謝って新しい道を踏み出した――なんて聞いたけど、私のとこに来る気配がないのもどうだっていい。昔振られたこともどうだっていい。むしろなにもなくてよかった、無罪放免とは言え犯罪者なわけだし、付き合ったらもれなく孤児院の子供までくっついてくるような人間、結婚相手としては間違いなく不良債権だ。いや結婚まで考えてたわけじゃない、考えてないけども。
「」
「別に……だから別に……どうでもいいもん……別に……」
「」
「えっ!? すみませんぼーっとして――うげぇっハンフリーさん!」
考え込んでいたら横から声を掛けられ、慌ててグラスを磨く手を止めて顔をあげる。するとカウンター越しにハンフリーさんと目が合うものだから、そりゃあすっとんきょうな悲鳴も出ると言うものだ。
驚きすぎてのけぞって、足元がもつれてバランスを崩す。背後の酒棚に背中からぶつかりそうになった瞬間、
「おいっ大丈夫か?」
カウンターから伸びた長い腕が、私の二の腕を掴んで引き止める。その腕を支えにしてどうにかバランスをとる。
私がしっかり立ったことを確認して、カウンターに身を乗り出していたハンフリーさんが手を離した。
「す、すみません……驚いたもので」
「驚きすぎだ。急に声かけてすまなかった」
「いえ、私のほうこそ……」
恥ずかしさと居た堪れなさで顔が見れない。
周囲のお客が、私を見て苦笑しているのがわかる。視線をさまよわせると、ハンフリーさんの奥で警備員が何事か、とこちらを見ている。かるく手をあげて大丈夫だと合図。
穴があったら入りたい気分になりつつ、私は気分を切り替えて平静を装った。
「お久しぶりですハンフリーさん。なにかお飲みになりますか?」
「え? ……そうだな、じゃあ、おすすめを適当に一杯。アルコールは低めで……」
「アルコールフリーにしときます」
「助かる」
酒が苦手なのは相変わらずのようだ。
注文を受け、言われた通りにジュースを作る。サバンナ水をサンドフルーツの果汁で割って、ぶどうエキスを足す。シェイクしてグラスに注ぐ。フチに果物の輪切りを添えれば完成。
「はいどうぞ」
「ありがとう。……うまい」
「よかった」
カウンターの下でぐっとこぶしを握る。
単なるお客のひとりだと言うのに、妙に緊張してしまう。何気なくほめられただけで躍りそうになる心を抑えて、平静を保つ。
気まずい。私が勝手に気まずさを感じているだけだけれど。
不意に、他のお客に名前を呼ばれた。注文を受け取り、私は再びカクテルを作りはじめる。
ハンフリーさんはふらりとバーに立ち寄っただけだろう。私のことなど、気にも留めていないに違いない。だから私も、気にも留めていませんよ、というふうにふるまう。
視界になんて入れない。他のお客さんに笑いかける。ちびちびとカクテルに口をつけるしぐさを気にしないし、ふっとカクテルを見て微笑む表情も、視界の隅にどうしても入ってしまうだけだ。
「、おかわりをもらえるか?」
「はい、かしこまりました」
当然、ハンフリーさんにそう言われれば、応えざるを得ない。こちらは仕事なのだから。
要望通り同じものを作っていると、ハンフリーさんが口を開いた。
「いきなり店にきて悪かったな」
「え?」
「もう仕事終わりだと思ったんだ。今夜は忙しいみたいだな」
「交代の人が遅れてるんです。……なにか私に、御用ですか」
「ああ、すこしな」
「ごめんごめんっ、先輩っ」
カウンターに後輩のバーテンダーが入ってきた。やっと到着したらしい。
私はへらへらと反省の見えない顔で笑う後輩のすねを小突いた。
「おそいよ! 何十分居残ったと思ってるの」
「すみませんって! 先輩が働いた分俺の給料から足していいんで……はい……」
「はあ……」
こりゃだめだ。あとでこっぴどく叱っておかないと。
ため息をついて、ハンフリーさんに向き直った。
「……引き継ぎと着替える時間くれたら、このあとはフリーですけど」
「ああ、待ってるな」
ハンフリーさんは目じりを下げ、頬を持ち上げた。私の好きなハンフリーさんの表情。その笑顔に、昔すりつぶした恋心が頭をもたげるのがわかった。
***
もろもろの作業を済ませ、職員用出口から外に出ると、ハンフリーさんが塀の壁にもたれて待っていた。
「すみません、待たせました」
「いや、大丈夫だ。……家まで送る」
「ありがとうございます」
ハンフリーさんと共に自宅までの道を歩く。
話がある、と言ったわりに、私を家に送ると言ったきりハンフリーさんは押し黙ってしまった。
私はすこし歩幅を広げて、ハンフリーさんの背中を見ながら歩く。
夜のグロッタは、昼とはまた違う活気がある。下層はやや治安が悪いけれど、色んな人が路上にひしめいていて退屈しない。
労働者の為の酒場の前を通ると、バーとはまたちがう賑やかな声が漏れ聞こえてくる。
通りを歩く間、ハンフリーさんは色んな人に声をかけられた。
あらハンフリーさん、こんな夜にどうしたの。
孤児院のみんなは元気。
その子は彼女?
今度サインおくれよ。
ハンフリーさんはそれらの声に片手をあげ、挨拶したり頷いたり慌てて否定したりする。
なるほど町民の噂でわかっていたことだけど、本当にハンフリーさんは慕われている。そのことに、同じ孤児院出身として誇らしい気分になる。
「本当に好かれてますよね。ハンフリーさんは」
「ああ。こんなオレを、町のみんなは受け入れてくれた……。お前も、オレのしたことは知っているよな」
苦々しさがにじむ声で、ハンフリーさんが言った。私は心臓を掴まれたような気分になりながら、「はい」と頷く。
道の真ん中で立ち止まると、ハンフリーさんは私を振り返った。
「すまなかった。オレはずっとお前を騙して――」
「謝らなくていいですよ。しめっぽい話苦手なんで。もしかして話したいことってそれですか?」
「え? ああ、そ、そうだが……」
「そんなこと言うためにわざわざ夜更かししてバーまで押しかけてきたんですか。もっと他に、言うべきこと……っ」
「お、おい待てよ!」
ずんずん歩き出すと、ハンフリーさんが後ろから付いてきた。
振り払いたくて速足になって、でもすぐ追いつかれるからどんどん速度が上がる。最終的に地面の土を蹴り上げての全力疾走になった。
元々の足のコンパスが違うから、こっちが必死に走ってもハンフリーさんはちょっと早く走る程度の感覚だ。そのことにイライラする。
「待てよ、大事なけじめなんだ。」
「そ! れ! は! ハンフリーさんの事情!! 私は関係ない!」
「関係あるんだ! なんで怒ってるのか知らないが、話を聞いてくれ」
「なんで怒ってるのかわからないって!? 本当に!?」
「……すまん、お前の信頼を裏切る行いだった。だがあの時のオレにはそれしか手段がなくて……お前の言うようにくだらない、馬鹿なことをしたと思ってる」
かかとでブレーキをかける。下層は石畳ではないから、靴の底が地面の土を少し削った。
三歩先を行ったところでハンフリーさんも立ち止まる。大股の走りだから、三歩とはいえ結構距離がある。
私はぜえはあと肩で息をする。全力疾走をしたら息が上がっているのか、それとも怒りか。両方だ。
この人は勘違いしている。私の怒りの原因を。
私が――私が、魔物に魂を売ったハンフリーさんを軽蔑して怒っているとでも、思っているのだろうか。屈辱だ。この上ない。くそ。もういやだ。
ハンフリーさんは私に歩み寄ってもいいものかわからず、両手を軽くあげて所在なさげにしている。その様子にも苛立ちが募る。
「……どうして、相談してくれなかったの」
「」
「どうして! そんなに孤児院がお金に困ってるなら! 相談してくれてもよかったじゃないですか!」
私だって孤児院出身だ。ハンフリーさんと一緒に育って、彼を見送り、そして私もみんなに見送られた。いわば仲間のはずだ。それなのに。
「相談してくれれば、私だって頑張った。お金だってこつこつためてたし……それに……それでも……」
やりきれない。感情が言葉にならない。自分でも矛盾を喋っていると思う。
蓄えがあるのは今の話だ。昔――ハンフリーさんが大会で功績を残し始めたとき――私は日々を生きるのに精いっぱいで、貯蓄なんてろくにできなかった。
そんな私を見て、あの時のハンフリーさんがお金の相談なんて出来るはずがない。
だから……別にハンフリーさんは悪くない。
悪いのは私だ。
ハンフリーさんにあぐらを掻いて孤児院を任せきりにしていた。気づかなかった。孤児院にお金がないのは知っていたけど、ハンフリーさんがいるなら大丈夫だろうと思って寄り掛かっていた、私だ。
私の怒りは、子供っぽい癇癪に過ぎない。
「……ごめんなさい。いま、冷静になれない」
「……」
ひとりで帰ろうとした私の手を、ハンフリーさんが掴んだ。引き止められる。
私よりずっと背が高くて、筋肉だってすごい。魔物から得ていたというクスリがなくたって、私など敵ではないはずだ。
だと言うのに、今私の前にいるこの人は親に叱られた子供のようだ。
「怒鳴ってごめんなさい、ハンフリーさん。でも私に謝る必要なんてないんですよ。むしろ私が……」
「、違うんだ。オレは……」
「――おいおい、嫌がる女になにしてんだよ、元チャンピオンサマよお」
不意に声を掛けられた。気が付くと、道を立ちふさがるように二人のゴロツキが立っている。
彼らの表情には、ハンフリーさんへの軽蔑の笑みが見えた。
「お前、元チャンピオンのハンフリーだろ。そりゃ詐欺師の彼氏なんか振りたくもなるよなあ」
「魔物の手先だったんだろう。まったく武闘家の風上にもおけねえよなあ~最低の野郎だぜ」
「そのくせ、おれ達を予選でボコボコにしてくれやがって……」
二人組は好き勝手にハンフリーさんを笑い者にし、睨みつける。
ハンフリーさんが無罪放免になったのはグロッタの町だけでの出来事だ。他国の武闘家の中にはハンフリーさんを受け入れられない者もいるだろう。
――多分、笑われたり軽蔑されるのを覚悟の上でハンフリーさんはすべてを公表したのだ。
でも、それでも。
「う、うるさい! 何も知らない貴方がたに、ハンフリーさんの気持ちがわかってたまるか!」
「ああ? わかるわけねえだろ、魔物の手先になるヤツの考えなんか」
「っ……! この……!」
「それより、な、こんな野郎放っておいておれたちといいことしようぜ、そこの宿屋に部屋取ってるからよぉ~」
「おいっ、ちょっと待ってくれ」
ゴロツキの言葉に、ハンフリーさんが私を守るように片手を伸ばした。促されるまま、その背中に隠れる。
「オレへの言葉は甘んじて受け入れる。だがは無関係なんだ、勘弁してくれないか」
「へっ……! たいそうな口ききやがって、魔物の後ろ盾がなけりゃあっさりやられるザコのくせによぉ!」
余裕そうに笑い、舌なめずりをするゴロツキ二人。
ゴロツキの狙いは私ではなくて、当然ハンフリーさんだろう。口ぶりからすると、予選で負けた恨みを晴らす、と言ったところか。
今までのハンフリーさんであれば闇討ちに負ける道理はないが、いまは事情が違う。ゴロツキの言うように、ハンフリーさんの強さが魔物のバックアップによるものならば、今のハンフリーさんは……。
逃げたほうがいいんじゃないか、と心配する私が気配で伝わったのだろうか。彼はちらりと私を振り返り、視界にとらえた。
ハンフリーさんは笑っていた。
視線のやり取りは一瞬で、ハンフリーさんはすぐに目の前の二人組に向き直る。
その背中の、なんと大きいことか。
浮き上がる背筋、盛り上がった肩甲骨。首から下を見ればとても恐ろしい見えるその鋼の肉体も、凪いだ海のような瞳を見れば、怖くない。
ふっ……、と、心のなかでなにかが腑に落ちる音がした。
「武闘会の恨み、ここで晴らしてやる!」
ゴロツキがハンフリーさんに大きくこぶしを振りかぶった。狭い路地の中、ハンフリーさんはひらりと身をかわし、バランスを崩した相手の腹にこぶしをお見舞いする。
素人目でもわかる。これは会心の一撃だ、と。
そこからはもう……早かった。ゴロツキはほぼほぼなにもできずにハンフリーさんに倒され、足をもつれさせながら逃げていく。
「このハンフリー、武闘家としてはあまりに半人前で実力もない。しかし、ゴロツキ風情に負けるほど弱くはないぞ!!」
「おっ覚えてろよ!」
捨てぜりふを吐くゴロツキを見送って、ハンフリーさんがパンパンと手をはたく。
それから急にこちらを振り返った。
「、けがはないか」
「う、うん。ハンフリーさんが助けて……くれた……から……」
「すまなかった。危険な目に合わせてしまったな」
「大丈夫。……ホントに強いんだね、ハンフリーさん。圧倒的だった……」
「強い? オレがか?」
私の言葉に、ハンフリーさんは目を見開いて驚いた。
なにをそんなに驚くことがあるんだろう。
首を傾げる私をよそに、ハンフリーさんは肩を揺らして笑いだした。
「強い、強いか。オレが、このオレが。ははははは」
口をあけた豪快な笑いは、不意に途切れ途切れになる。それでもハンフリーさんは大口で笑い続けた。音が小さくなっても、鼻水をすすりながらでも、無理やり声を出して。
その様子に、泣きたくなった。
この人はずっと、どれだけの罪悪感を背負っていたんだろうか。
「いま、やっと……その言葉を素直に受け取れた……」
目を手で覆い、ハンフリーさんはか細い声で呟いた。
先ほどあれほど頼もしく、大きく見えた背中が震えている。
肩に触れる権利が私にあるのかはわからなかった。私だってハンフリーさんに重圧を与え、孤児院を押し付けた一人だ。
でも、また以前と同じように、遠くからこの人を眺めるだけにはしたくなかった。
意を決して肩に触れる。ハンフリーさんは振りほどかなかった。
「家まで送ってくださいよ。あなたが付いてきてくれるなら安心だから」
「……あぁ」
短く応えて、ハンフリーさんはすぐ前を向く。目元がすこし赤いけれど、泣いてはいない。
この人はいつもこうやって、ずんずん前を歩いていくんだろう。
***
「よかったら上がります? 茶でも出しますよ」
玄関の前でついそう言ってしまったけれど、よかったのかわるかったのか。
散らかり気味の部屋を見られくない。さっき慌てて片づけたけれど、どこかにぼろが出ていそうだ。
お湯を沸かしてお茶を入れる。台所に立つ私は、準備に熱中しているていを装って、きまずい無言を耐えていた。
「孤児院にいた時から変わってないな、は」
「えっ!?」
「ネコの置物。好きだったもんな」
「あ、あぁ……そうね」
散らかってることを言われたのではないらしい。ほっと胸をなでおろす。
お茶を淹れて、リビングまで持っていく。ハンフリーさんはお茶の匂いを嗅いで笑った。
「茶葉も前から好きな銘柄だ」
「よく覚えてるね。もう何年も前の話なのに
「覚えてるさ、お前のことは」
そんなに手のかかる妹だっただろうか。気恥ずかしくなってしまう。
「お前はいつも元気だったしなあ。いつも高いところにのぼっては降りられなくなって、いつもオレに助けてくれーって」
「ううわ~恥ずかしい。忘れてよそんな昔のこと!」
本当は高いところなんて苦手でもなんでもなかった。
でもちょっと木や家を登ると、ハンフリーさんが血相を抱えて慌てるものだから。両手を広げて、受け止めてやるから降りてこい、と言ってくれるものだから。
あの腕のなかに飛び込むと、いつも頭を撫でてくれたから。
そうやって困らせていただけだ。
……本当、恥ずかしくって忘れたい記憶だ。
「孤児院が好きだ。みんなとの生活を守りたくて……そのためならなんでもするって思った。たとえ魔物の手先になっても。相談なんて考えられなかった……」
「……うん」
「でも、それじゃだめだったんだよな……ずっと見て見ぬふりをしてたんだ。隠しててもいつかぼろがでる。それにこんなやり方で得たお金で孤児院を維持しても、誰も喜んでくれないってことに」
「ハンフリーさん……今まで力になれなくて、本当にごめんなさい」
「いいんだ。武闘家も引退したし、これからはまっとうな仕事で金を稼ぐよ」
「うん、それがいいよ。ちゃんと周りにも……私にも頼ってね」
「ああ」
にかっと歯を見せて笑うハンフリーさんに私も笑った。
ハンフリーさんはとっくのとうに割り切って、前に進もうとしている。
だから私も、子供みたいに「どうして相談してくれなかったの」なんて怒っても仕方ない。
イスから立ち上がって、台所のマットをめくった。床板をはがす。
「なにしてるんだ?」
「えーと、この奥に……あったあった」
床の下から重たい袋を取り出してリビングに戻る。
テーブルに置くと、がちゃんと高い音がした。私のへそくりをため込んだ袋だ。
「これ、孤児院に使ってよ、ハンフリーさん! 最近は仕事も順調で、結構稼げてるんだよ、私」
「お、おい! こんなの受け取れないよ」
「なに言ってるの。これは孤児院のために溜めてたお金なの。寄付するから、気にせず使ってよ」
「いや……今は町長が目をかけてくれるから問題はないんだが」
「へ? 遠慮しないで。そういきなり経営が楽になるってわけじゃないでしょ」
「本当なんだ。ロウが……あーっと、知り合いが町長に話を通してくれて……」
「ええっ?」
「……言っておくが、金の無心に来たわけじゃないんだぞ?」
「ええっ!」
驚く私に、ハンフリーさんはあからさまにため息を吐いた。
武闘家を引退し、きっとお金に困っているだろう……という予想は、大きく外れていたらしい。
やっとハンフリーさんの役に立てると思ったのに。しゅんと肩を落とすと、「気持ちだけ受け取っとくよ」とハンフリーさんは微笑んでくれた。
ああ、やっぱり好きだなぁ。
封じていた恋心がぶり返していくのを感じる。
「オレは今日な、お前に謝って許してもらったら、今度一緒にメシ食わないかって言おうと思ってたんだよ」
「ご飯?」
「みんなもと会いたがってるし」
「ああ、メシってそういう……てっきり二人きりでって意味かと」
「そ、そういうわけじゃ」
ハンフリーさんはうろたえて頬を染めた。困ったように頭の後ろに手をやる様子を見るに、どうやらまんざらでもないらしい。
その反応に勇気づけられ、悪戯心がわいてきた。
「そう、残念です。結構期待したんだけどな。こうやって夜中に家に上がってくれたし」
「かっからかうなよ! !」
「うふふふ」
うぶな反応に笑いがこみ上げてくる。
きっと今まで、ろくに恋愛もしてないんだろう。チャンピオンになって女性ファンも多かったというのに、真面目な人だ。
薬を飲んで強くなって、それでもいい気になって楽しむことはできない不器用な人。
そんなところが昔から変わってなくて、たまらなく好きだ。
この反応からすると、以前私が告白したことは忘れているんだろう。あるいは、義妹からの応援だと普通に受け取られて、告白だと気づいていなかったのかもしれない。
それでもいい、と思った。
友人として、あるいは同じ孤児院主出身の義妹として、このひとのそばにいられれば。支えられれば。
それだけでいい。
――と、思ったのに。
「そ、そういうのは段階ってのがあるだろ……イチから始めたいんだ。孤児院のことも、お前のことも……。それに、オレはまだまだ、お前を口説けるラインに立ってなさすぎるだろ」
「え?」
「だから……待っていてくれるか」
ハンフリーさんは頬を赤くして、ぎこちなく言った。
だめだ、その顔は反則すぎる。
この人が好きだ。どうしようもない。
ハンフリーさんが額に汗まで浮かべて緊張しているものだから、つられて私まで赤くなる。けれど、かえって冷静にもなった。
はい、待っています、と素直に頷いてもよかったけど、せっかくならと悪戯心に従った。
「どうだろう。待つのは趣味じゃないんですよね。追いかけたくなるような男になってくださいよ、今までよりも、もっと」
冗談めかして笑うと、ハンフリーさんは呆気にとられてから破顔した。
「……はは、かなわないな」
素直に受け取るこの人は、私がすでに陥落していることになど気づいていないのだろう。
それでいい。ずっと片思いしてきたのだし、すこしぐらい待たせたっていいはずだ。
だって、これからはハンフリーさんがずっとこの町にいてくれるのだから。
2017/08/25:久遠晶
ハンフリーさんはマジで推せる。すき。糸目褐色マッチョに悪いやつはいないんだ。
試験中。もしいいね!と思っていただけましたら送っていただけると励みになります!