美しい影



 ホメロスは苛立っていた。
 デルカダールの城内を軍師ホメロスが歩く。束ねた金の髪を揺らしながら。
 それだけで城内の兵士は居住まいを正し、敬礼をして息を飲む。顔をしかめたまま大股に歩くホメロスに、目をつけられないように。

 ――くそ。

 ホメロスは心中で舌打ちをする。
 ハッキリ言って油断していた。
 このところ出撃がかさんで多忙で、妻の様子をうかがえなかった。
 だからだ。
 グレイグに声をかけられ、耳打ちするように忠告された。
 ――奥方が寂しがっていたぞ。そろそろ誕生日なのだろう。声だけでもかけてやったらどうだ。
 そんな言葉を言われた。
 くそ。屈辱だ。えらそうに。
 妻の誕生日が近いことなどわかっていた。理解していたが忙しかったのだ。独身者のグレイグに心配されるいわれはない。
 不器用なグレイグのことだから、グレイグが結婚したらホメロス以上に家庭がおろそかになるに決まっている。そのはずだ。
 苛立つのは、自身のこの思考が単なる言い訳であるとわかっているからだ。
 忙しさを理由にし、見て見ぬふりをしていたことは否めない。
 のほうからなにかを求めることがないとわかっているから、それに甘えていた。

 自身、ホメロスになにか言われることを期待していなかったのだろうか。
 夜、ホメロスが服を着替えながら言った言葉に、ことりと首を傾げた。

「誕生日ですか?」
「そうだ。そろそろ近いだろう」
「ホメロス様が覚えていてくださっただけで十分です。求めるものはありません」

 控えめな妻の態度だ。予定調和のようにするすると吐き出された言葉に、ホメロスはすこし眉をしかめた。
 ベッドに腰かけているに歩み寄る。

「そうは言っても、なにかほしいものぐらいあるだろう。服か、宝石か? 靴でもいいが」

 髪の毛を撫でながら問いかける。はくすぐったそうに身をよじりながら、ホメロスに頬をすりよせてきた。

「私は……ホメロス様がいてくだされば、それで……」

 欲のないことだ。ホメロスは頭を掻いた。
 手間がかからないのは結構だが、男の甲斐性の見せどころがまるでない。

「でも、ホメロス様がそうおっしゃるなら」
「なんだ?」
「サーカスに……」
「サーカスぅ?」
「はい。ほら、そろそろ城下町でお祭りがあるでしょう? そこで夜サーカスが開かれるんですよ。とっても楽しそうで! たねもしかけも魔法もないのに、ジャグリングの球が消えたり増えたり、軽業とか、綱渡りとか……あぁ、素敵……」

 淡々としていたの言葉は、語るうちに熱のこもったものとなった。やはり行きたいところもしたいことも多いのだ。ホメロスを気遣って言わないだけで。
 確かにの誕生日の前後、城下町では年に一度の祭が開かれる。サーカスがやってくるというのも聞き及んでいるが。
 ホメロスは顔をしかめた。

「チケットの競争率は知ってるだろう、それなら何故もっと早――」

 言葉の途中ではっとして口をつぐむ。はたびたび祭りのことを話題に出して居た気がするし、テーブルにはサーカスのチラシが出しっぱなしになっていた。
 てっきり捨てるのを忘れているのだとばかり思い込んでいたが。あれは控えめなサインだったということだ。
 気がつかなかったのはホメロスの落ち度だ。それに、望みはないと言うに自分から「なにかないのか」と追求しておいて、「もっと早く言え」もない。
 は諦めていたのだから。

「も、申し訳ありません……わがままを……」

 頬を紅潮させて熱く語っていたが、みるみるうちにしぼんでいった。
 しょんぼりとうつむき、うなだれてしまう。
 ちがう。そういう顔をさせたいのではない。が、ホメロスはそれをどう言葉にすればいいのかわからない。
 結局、音もなく呻いた後、根負けしたようにため息を吐いた。

「……当日休みをもらう。一日丸ごとは無理かもしれないが、なんとかお前との時間を作る。それで許してくれるか?」
「本当ですか!?」
「ああ」
「ホメロス様とお祭り……! 本当によろしいのですか? 貴重なお休みを私などのために……」
「お前は私の妻だ。当然だろう」

 薄く微笑むと、はぱああっと顔をほろこばせた。
 ホメロスの首元に抱き付いて甘えてくる。その背中をぽんぽんと撫でながら、ベッドに沈み込んだ。


   ***


 祭り当日にホメロスが休暇をもらうのは大変なことだった。
 近隣の村や他国からも人がやってくるので警備を薄くは出来ないし、王がパレードをするときにはすぐそばで控えておかねばならない。
 グレイグと共にデルカダールの双頭の鷲と並び称されるホメロスは、それそのものがデルカダール国の軍事力の象徴だ。
 しかしそれでも、どうにか午後からの休暇を取れたのはグレイグの協力があったからに他ならない。

「普段、あまり奥方に構えていないのだろう。たまには二人の時間も作ってやれ」

 とグレイグが言い、王もホメロスの普段の勤勉さと奉公を評価し、休みを取らせた。
 ホメロスは素直に王の慈悲と親友の計らいに感謝した。
 午前の職務を済ませ、ホメロスが兵舎の自室に戻ると、は驚いた顔をした。まさか本当にお休みが取れるなんて、と。

 城の門をくぐって城下町に降りていく。提灯が糸を張り、音楽隊が太鼓とラッパを鳴らして活気がある。
 あちこちで出店が開かれ、人でごった返している。

「騒々しいな」
「賑やかですね~」

 同じものを見ても、評価は大きく違う。顔を歪めるホメロスと対照的に、はひとごみに目を輝かせた。
 駆けだして、ホメロス様早く行きましょう、とホメロスを急かす。それに手を上げて応えつつ、ホメロスはの望むままついていった。

「ホメロス様ホメロス様、射的ですって!」
「……やりたいのか?」
「やってよいのですか?」

 がホメロスを見上げ、期待のまなざしで見つめる。
 射的と言っても民間用だ。2メートルほど先にある的に簡易の弓矢で当てるだけのしろものだ。的の中央に当てられたかどうかで景品の質が変わるらしい。
 しかし景品のラインナップのくだらないこと。金を出せば変えるものが大半だし、わざわざこれを遊ぶ必要性が感じられない。

「……お前の誕生日だ、好きにしろ」
「では一度、お願いします!」
「あいよ、三回10ゴールドね」

 言われるがまま店主に金を渡す。
 弓矢を請け負ったが、弦を引いた。的を睨んで狙いを定めて矢を放つ。
 それはぴょんっとまぬけな風切り音をさせながら、的の端をかすめて地面にぽてりと落ちていく。

「も、もう一度っ……!」

 今度は先ほどより高めに照準を合わせ、弦を張り詰める。
 だめだな。とホメロスは思った。
 予想通り、の弓矢は先ほどと同じように地面に落下した。

「最後の一回だよー」
「ホメロス様ぁ~……」
「まず、構えがなってないんだ。貸してみろ。的に真正面に向き合うんじゃなくて、こう……」

 弓を受け取り、口に出して説明しながら構えを見せてやる。

「……そして、指の形が変わらないように弦を引いて――」

 視線を感じ、ホメロスは言葉を止めた。
 がぼうっとしてホメロスを見ている。

「聞いているのか?」
「え!? す、すみません、ホメロス様がお美しくてつい……」
「お前はどうしてそう……。はあ、まあいい。構えてみろ、直してやるから」
「こ、こうですか?」

 ホメロスが説明したように、が弓の構えを取る。先ほどはマシになったか。
 指先の角度や腕の位置を微調整してやりながら、背後に立って照準を合わせてやる。ちょうど後ろから抱きしめる体勢だ。

「うん、もっと強く引いて……そうだ。息を止めたほうがやりやすいぞ」

 静かに弦が引き絞られていく。が静かに集中しているのがわかる。
 カッ、という、木矢が的に当たる甲高い音がし、矢が的の中央を射抜いた。

「ホメロス様!!」
「よくやったな。中心からずれているが、まぁ及第点だろう」
「ホメロス様のおかげです……!」
「おめでとう! A賞から好きなの持って行っていいよ」
「ホメロス様、どうします?」
「決めていいぞ。お前が射ったんだ」

 が頬に手を当てて考え込んだ。
 何を悩むことがあるのかとホメロスは思う。
 A賞とは言え、子供向けのおもちゃのようながらくたばかりだ。デルカダール伝統の工芸品も置いてあるが、きちんと金を出せばもっと作りの綺麗な細工のものが手に入る。
 ホメロスの心中を知らぬは、ひとつの景品を指差さした。
 木彫りの指輪だ。リング上に切り出しやすりをかけただけのちゃちなしろもので、魔術的な加護もない。

「これにします。あたたかみのある色で素敵。作りも結構凝ってますね」

 確かによく見ると模様が刻まれてはいる。が、指輪そのものの価値はたかがしている。

「ありがとね~」
「こちらこそありがとうございます! 行きましょうか、ホメロス様」

 は笑顔で店主と別れ、再び出店を物色しだした。
 普段常にホメロスの二歩後ろに控えているだから、こうしてホメロスの前を行く姿は珍しい。
 その様子は面白くもある。

「その指輪、どうするんだ?」
「部屋に飾っておきます。せっかくの思い出ですから、無くしたくないですしね」
「そうか」

 ホメロスはすこしほっとした。
 あれを身に着けられては、他人からどう思われられるか。『ホメロス殿は妻への贈り物をしぶるほど困窮しているらしい』と嘲笑されることだろう。
 だからこそ部屋に飾ると言っているのだ。
 は聡明な女だ。面倒なことは言わないし、ホメロスをよく見て支えようとしている。
 わがままを言わず、夫を立て、尽くしている。

「……別に、身に着けたいなら、そうしても……」
「あっ! ホメロス様!!」

 ホメロスのつぶやきが、の弾んだ声で掻き消された。
 が奥にある屋台を指差し、ホメロスを振り返る。
 指の先にはサマディー国から輸入されたサンドフルーツがある。普段あまり入荷されないので物珍しいのだ。

「食べてみたいです。ホメロス様も召し上がりますよね?」
「ん? まあそうだな……」
「並んできます。ホメロス様はこちらでお待ちください」

 言うや否や、はホメロスをサンドフルーツの列に並び始めた。
 ホメロスはため息を吐き、周囲を見渡した。座れる場所を探していると、周囲の会話が聞こえてくる。

「なぁー元気だせって。気持ちはわかるけどさ、うん」
「しんどい」
「そんな落ち込むなよ~! 今夜は一緒に飲もうぜ、せっかくの祭りなんだからさ」

 落ち込む男に、友人らしき人間が肩を叩いて励ましている。
 どうやらこの祭りの最中に恋人に振られてしまった男を、友人が励ましているらしい。
 不運な男もいたものだ、と思いつつ、座れる場所を見つけたので移動しようとし――次に聞こえた言葉に、ホメロスは反射的に振り返った。

「せっかくあいつのために金詰んで最前列のチケット取ったのに……」
「あぁ~サーカス? せっかくだ、付き合ってやるよ……」
「やだよ、むなしくなる……はぁ……こんなもん捨てようかな……」
「ま、待て!!」

 取り出したチケットを破ろうとする男に、ホメロスはとっさに声をかけていた。
 大股に歩み寄り、その肩を掴む。

「あっあなたは……まさか軍師ホメロ――」
「私のことはいい。悪いが会話を聞かせてもらった。辛い思いをしたのだな、同情する」
「い、いやぁ……」
「――そこで相談だが、そのチケットを買い取らせてくれないか? 釣りはいいから取っておきなさい」

 懐から財布を取り出して、銅貨を適当に掴んで手の平に握らせる。

「こんなに!」
「構わん。これできみの気分もすこしは上を向くといいのだが」
「あ、ありがとうございます!!」

 男が勢いよく頭を下げる。ホメロスは鷹揚に片手を上げてそれを制した。男はにこにこ笑顔で頭を下げながら、友人と共に酒場のほうへと歩いていった。

 ホメロスはサーカスのチケットを手に入れた!
 硬貨の枚数を確認しなかったのでかなり渡しすぎてしまったが、交渉の時間を省いたと考えればいいだろう。
 なにせ最前列なのである。の笑顔を金で買ったと考えれば安いくらいだ。
 息を吐き、ぐっとこぶしを握って小さくガッツポーズ。落とさないように大切にしまい込んだ。

「ホメロス様~」

 が帰ってきた。両手に持ったサンドフルーツの片方をホメロスに差し出す。

「おいしそうですよ」
「そうだな」

 サンドフルーツを受け取ってかぶりついた。瑞々しい甘味が口の中に広がる。
 なかなか癖になる味だ。

「面白い味ですね」
「サマディーに遠征に行った時のことを思い出す。枯れ木になるんじゃないかと思うほど汗が出てな、その時食べたサンドフルーツは神の恵みに思えたよ」
「ホメロス様は色んな国に行かれますものね。とても過酷なのでしょうが、色々な文化に触れられるのは羨ましいです」
「そんなにいいもんじゃない。遊びに行くわけじゃないからな」

 ホメロスの言葉に、は嬉しそうに笑った。サンドフルーツを食べながら。
 今でこそホメロスの妻で平民ということになっているが、は本来王族の人間だ。元より城の外にはあまり出られなかっただろうし、国が滅んだあとはホメロスの元で身分を隠して生活している。
 外の世界への憧れは人一倍強いのだろう。

「……もし、今度。まとまった休みが取れたらリゾートにでも行くか。あそこはいいところだぞ」
「まあ、本当ですか? ぜひ……!」
「いつになるかはわからんがな」
「それでもうれしいです。ホメロス様と旅行だなんて」

 両手を合わせ、が微笑む。好意を素直に表す表情にすこし気恥ずかしくなって、ホメロスは何気なく視線をそらした。
 そらした視線の先で、道を少年が駆けていく。石につまずき、「あだっ」という呻きを共に素っ転んでしまった。
 膝をすりむいたらしい。痛みに歪んだ目から、すぐに涙があふれ出てくる。
 薄汚い子供だ。普段は下層の吹き溜まりにいるのかもしれない。泣き声も鶏の首を絞めたようで、聞くに堪えない。
 ――この程度で涙を流すとは。甘ったれている証拠だ。
 ホメロスはため息をつき、顔を歪めた。場所の移動を促そうとするより先に、が服の裾を翻していた。

「大丈夫ですか? ああ、これは痛そう……。でも大丈夫ですよ、すぐ治りますから」

 少年に歩み寄り、しゃがんで視線を合わせる。怪我の具合を見てやり、持っていたハンカチで血を拭い、傷口をしばって止血してやる。
 が頭を撫でて微笑みかけると、少年はぽっと頬を染める。涙も引っ込んだらしい。
 己の指先が汚れることも構わず、ためらうことなく少年に触れて傷を手当てする。そこにあるのは慈愛の精神だ。
 ――ホメロスとは違う。
 ホメロスは少年を見て顔をしかめた。厨房にたかる虫を見るように、汚らわしい、と感じた。
 怪我の容体など考えもしなかった。
 生まれた瞬間から違う品位と言うのだろうか。ホメロスは考える。
 は他人への優しさに満ちている。ホメロスとは違う。

 打ちのめされたような気分になっていると、やがて少年を見送ったが戻ってくる。

「お待たせいたしました。ふふ、かわいい少年でした。あの子がこの国の未来を担うのですね」
「……優しいな、お前は。せっかくなら回復呪文ホイミでも唱えてやればよかったものを」
「そうしたいのはやまやまですが、教会や病院の仕事を奪うわけにも参りませんからね」

 ホメロスの嫌味はには効果がない。気付かれることもなく素通りされ、普通に返答される。

「それにしてもあの子、いやに身体が細かった。なにも食べてないのでしょうか」
「下層の吹き溜まりの連中だろう。浮浪児だ」
「そう……。完璧な国など存在しないとはいえ、やはり痛ましいですね。下層の方々にもなにか雇用を与えられればよいのですが。なにがあるでしょう……やはり建築、舗装……ううん」

 ぶつぶつと考え込むは、国を憂う王の表情をしている。
 その背中を軽く叩いた。

「そこまでにしておけ。ここはお前の国ではないし、なにかを動かす権限もない」
「あ……そ、そうですね。申し訳ありません」
「いや? いい案があったら王に提言したらどうだ。慈悲深い王のこと、有用であれば採用していただけるかもしれんぞ」
「ご冗談を。おやめください……」

 苦笑するがさっと青ざめる。
 悪魔の子の件で、デルカダール王はの祖国を焼き滅ぼしている。だけはホメロスの計らいで難を逃れ、こうして夫婦として暮らすことになった。
 はデルカダール王の行為を恨んではおらず、必要な政治的判断であったと納得しているという。しかし、はやり潜在的な拒否感と恐怖があるのだろう。
 当然だ。
 ホメロス自身、あれ・・以来デルカダール王のことをどこかおかしいと感じている。ユグノア国王という知己を失い、復讐に燃えているのだ。その様が鬼気迫るものに感じられて恐ろしい。であればなおさら、悪魔の子を草の根を分けてでも探し出さんとしているデルカダール王は恐ろしく見えることだろう。

「……すまない。お前に対して言う軽口ではなかった」
「いえ……」

 先ほどまでの無邪気な表情はすぐにしぼんでしまった。
 ああ、まただ。くそ。
 ホメロスは歯噛みした。
 くだらない劣等感を抱いては嫌味を言って傷つける。

「あ、あっちも見てみましょうよ」
「そうだな……」

 気を遣ったが大通りを指差した。ホメロスも促されるままついていく。無理して明るく振舞っているのがわかるから、ホメロスはため息を飲み込んだ。

 矮小な自分をまざまざと見せつけられた気分になって、勝手に苛立っている。
 との関係が、正しく恋愛結婚であればまたホメロスの胸中も違ったかもしれない。しかし二人の関係は歴然としている――ホメロスはを手中に収めるために、己の立場を利用したのだ。
 自分の元に来ればデルカダール王の残党狩りから守ってやる、と言って。周囲の反対を押し切って強引に婚約した。
 身寄りを失くした姫を哀れみ、どうにか助けてやりたいと思ったのは嘘ではない。しかし下心がまるっきりなかったわけではない。
 共に暮らすうち情が移り、離れがたいと感じた。
 もホメロスを見染め、愛するようになった。
 しかしホメロスは、そこに……自信が持てなかった。はホメロスを愛する以外の選択肢がないから愛しているだけなのではないか。
 にはもっと他に相応しい人間がいるのではないか。
 矮小な自分ではなく、身も心も清廉で強く優しい、光そのものグレイグのような男がふさわしいのではないかと。
 自分の劣等感と浅ましさに勘付かれ、軽蔑されることが恐ろしい。
 屋台を巡る間、ホメロスは暗い気持ちを押し殺して笑みを張り付けた。

 やがて日が暮れ、祭りの活気も落ち着き始める。
 は空を見上げて息を吐いた。

「もう夕方ですね。そろそろ帰りましょうか。お付き合いくださりありがとうございます」
「もう帰るのか?」
「ええ。存分に楽しませていただきました」
「まだこれからだろう。行くぞ」
「へ?」

 の手を引っ張って、サーカスの元まで歩いていく。
 もう開場しているようで、入り口に人々が集まっている。薄暗い街の中で、サーカスの中から灯りが漏れている。

「ホメロス様……まさか」
「観たかったんだろう」
「はい……はい!」

 が目を輝かせた。
 その瞳を見て、ホメロスは心底ほっとした。

 最前列に通されると、はあわあわと動揺しはじめる。

「こ、こんな素晴らしい席をご用意してくださっていたなんて……。ずいぶんと苦労なさったのではないですか?」
「なにを言う。お前の為であれば当然のことだ。わっはっは……」
「ホメロス様……!」

 我ながらよくもまあ口が回るものだ、とホメロスは自分で感心してしまう。
 は期待に胸を膨らませている。上演時間になり、客席の照明が暗くなりサーカスの舞台に光が灯ると、それだけで失神してしまいそうなほどだ。

「本日はお集まりいただきありがとうございます! どうかおたのしみください!」

 サーカスの団長が声を張り上げ、ショーがはじまる。
 ジャグリングから始まり、綱渡りや目隠しでのダーツなど、客を飽きさせない演目が続く。はそのどれにも感嘆の声を上げ、拍手を送り、熱中した。
 特に流浪の旅芸人・シルビアが登場した時のの反応はすさまじかった。

「楽しんでいただけましたでしょうか?」

 シルビアが燃えたナイフを薔薇に変えて差し出したとき、は目に涙すら浮かべていたのだ。傍らのホメロスがむっとするほどに。
 確かに技術は目を見張るものがあるが、それだけだ。シルビアが別段特別とは思わないし、サーカスなど単なる余興程度のものだ。魅了されるほどのものではない。
 に合わせて笑みを浮かべて、楽しんでいるふうを装いはしたが、はっきり言って退屈なものには違いなかった。


   ***


「お疲れさまでしたーっ!!」

 サーカスの講演を終え、客が全員帰ったあと。
 シルビアたちは芸人たちで労いあっていた。

「打ち上げ来ますよねシルビアさん!」
「あなたのおかげで大成功でしたよ! あなたさえよければぜひうちのサーカスに……」
「悪いけど、束縛されるのは好きじゃないの」

 興奮覚めやらぬ様子の団長に笑顔で返し、シルビアは汗をぬぐった。

「それに、こんなの大成功とは呼べないわ。ああ悔しい悔しい……! こんなのってはじめて!」
「ええっ! あれだけ観客を沸かせておいて……!?」

 なにが盛り上がった、だ。シルビアは悔しさのあまり地団駄を踏みそうになった。もちろんはしたないので我慢する。
 最前列。とてもよく笑う女性がいた。
 芸人として冥利に尽きる。自分が薔薇を差し出したときの心底嬉しそうな表情と言ったら、思わずこちらが赤面してしまいそうなほどだった。
 しかし女性の隣に座る男性の仏頂面と言ったらなかった。
 女性の付き添いで来ていたのだろうか。時折愛想笑いは浮かべて見せていたが、心からの笑顔ではない。
 彼の瞳は退屈と孤独を孕んでいて、ただただ目の前の景色を視界に入れているだけだった。
 シルビアはそれが悔しい。
 笑顔にさせられなかった。魅了し、心からの喜びを与えることができなかった。これでは、世界中を笑顔にするなど夢のまた夢だ。

「はぁ……アタシ宿で技の練習と反省会するから打ち上げはパス。今日はありがとう、アナタたちと演れてよかったわ!」
「しょ、ショーが終わったばかりなのにすぐさま技の練習……! これが旅芸人シルビア……オレたちはいつか伝説になる人を前にしているのかもしれんぞ……!!」

 ストイックなシルビアの態度に団長たちがごくりとつばを飲み込む。どよめきのなか身支度をして控室を出ると、道の先に二人の男女の影があった。
 先ほどの男女だ。笑わない男性とよく笑う女性の組み合わせ。

「……なんだ。あんな顔も出来るんじゃない」

 シルビアは自然と頬を持ち上げて笑っていた。
 傍らに寄り添う女性を見つめる男性の目は、海を眺めて目を細めるような憧憬に満ちている。
 ――ショーじゃなくても、笑顔にさせられる誰かがいるなら、まあいっか!
 見ず知らずの他人だが、その幸せの表情を見て、シルビアまで元気になった。
 月明りが映し出す影が石畳に伸びて、二人寄り添ってくっついた。


   ***


「は~すごかったですね、シルビアさんのショー! あんなこと、どうやっているんでしょう? 芸人さんはすごいですね!」
「そうだな、すごかった」
「ホメロス様、本当にありがとうございます! 最高の誕生日です!」

 熱狂が覚めないが、道を歩きながら声を弾ませる。
 普段の埋め合わせにはなっただろうか、とホメロスは考えた。

「本当に楽しかったんだな」
「ええ。ショーもですけれど、ホメロス様と一緒に見れたから」

 はにかんだ笑顔と、直球の言葉。
 ホメロスはうっと息を詰まらせた。
 が直球なのは普段からだが、どうにも意識してしまう。
 今日は満月だ。月明りがの服や肌に淡く反射して、光り輝いているように見える。神聖な絵画のように見えて、ホメロスは目を細めた。

「お前は本当に私が好きだな」

 自嘲のようにその言葉が口を吐いて出た。
 はニコリと笑うと、恥ずかしげもなく頷く。

「もちろんです。感謝してもしきれません。心底お慕いしておりますよ、私は」

 光のなかにはいる。そう感じる。グレイグと同種の、美しく清らかな光をは放っている。
 ホメロスは違う。ホメロスはいつだって影だ。光り輝く存在の傍らで、光に影を落とす存在でしかない。
 ――だけど、それでも。

「お前にそう言われると、自分がまるで上等な存在になったような気分になるよ」
「あら、聞き流せないお言葉ですわ。ホメロス様らしくないですよ」
「そうかもな」

 小さな肩を抱いて、腕の中に引き寄せた。
 やグレイグが思うほどホメロスは立派な人間ではない。狭量で矮小な、ちっぽけな人間だ。だがたちがホメロスを立派だと思っているなら、すこしでもそう在れるように努めよう。
 それが信頼への返礼になるはずだ。
 城への道を共に歩きながら、ホメロスの腕に収まる愛しい女を、精一杯大切にしようと誓った。
 この光が穢れてしまわないように。


 ――あるいは、この時胸に湧いた暖かな感情を、ホメロスが忘れることなく保ち続けていたら。
 ――彼が闇に堕ちることはなかったのかもしれない。
 ――だがしかし、結局は結果論だ。ホメロスは闇に落ち、咎と業の果てに死に絶える。
 ――今際の際、彼が何を考えたかは誰も知らない。





2017/09/15:久遠晶
 短編としては初のホメロス。若かりし頃なので性格がマイルド。多分24,26歳ぐらいかな……?
 シルビアさんは友情出演。こういう形でニアミスしていることに萌えを感じる。
 ヒロインは一応中編のヒロインを想定してたり。設定が微妙に違うのは、まあ、そういう仕様と思ってください。番外編だしね!
 「ホメさんと糖分多めのデート」というアンケートコメントを受けて書いたものです。結果として中編のヒロインになってしまいましたが、こんな感じでよかったのかな……?(*´ω`)ドキドキ


 試験中。もしいいね!と思っていただけましたら送っていただけると励みになります!
萌えたよ このキャラの夢もっと読みたい! 誤字あったよ 続編希望!