後悔のない時間を
はっきり言って、グレイグは緊張していた。
今までグレイグは主君に仕えることを己が道と定め、戦いに明け暮れてきた。見合い話は全て断ってきたし、傍らには線の細く顔の整った美男子──ホメロスがいたから、城内で女性に視線を向けられたこともない。
淡い恋をしたこともあったが、実らず終えたしグレイグ自身が実らせなかった。
だからグレイグは、己に芽吹いた感情に肯定的になったことがなかった。
年下の女性を見初め、視線を引き付けたいと思う。傍らにいてほしいと願う。男女の愛と呼ぶにはあまりに甘酸っぱすぎる感情だ。だがグレイグは本当に、デートしようと言われただけで緊張し冷や汗を掻くほど、──はっきり言ってウブだった。
──別に、彼女に他意はない。だから緊張する必要もない。
心の中でその事実を反芻し、気を落ち着かせる。この分ではグレイグという男を知ってもらい、気を惹くということもできないだろう。
そもそもなにを知ってもらえばいいのか。婦人が魅力に思う自分の部分。なんだろう。思いつかない。筋肉か。筋肉なのか。しかし臆せず敵に向かっていく胆力も、長丁場の戦いで最後まで膝をつかない体力も力強さも、仲間として共に戦っていればいやでもわかるはずだ。
そのうえで彼女は特にグレイグを意識していないようなので、つまりそういうことなのではないか。
グレイグはダーハルーネの宿屋、誰もいない早朝のロビーで頭を悩ませる。朝早くに目が覚めてしまったので、早々に身支度を整えたあとロビーで茶を飲みながら時間を潰しているのだが、悩みが多すぎて全く時計の針が進まない。
そんな時、後ろから肩を叩かれた。
「お待たせグレイグさん!」
「、おはよ──」
反射的に振り返ろうとして、顔が変なふうにへし曲がった。
グレイグの肩を叩いたのはではない。
つまるところそれは恋のライバルである……シルビアだったのだ。
あからさまに顔をしかめるグレイグに、シルビアは心底楽しそうに頬を持ち上げる。
「表情かたいわよ~グレイグ、もっと笑顔にならないと怖がられちゃうわよ」
「誰のせいだと思ってるんだ」
「緊張するのもわかるけど」
「俺は別に、緊張など……」
否定する声が上擦ってしまう。グレイグは思わずごほんと咳払いした。
シルビアの片耳を飾るピアスが目に入り、グレイグは目を逸らす。誤魔化すようにお茶を口に運ぶ。
「自然体、自然体……でもいつも通り行ってもダメなんだろうけど、あの子は」
大仰な仕草でひたいに手を当て、シルビアはソファの背もたれに身体を預けた。
この分では、昨日の『女子デート』での収穫は芳しくないらしい。ピアスの片割れを贈り、着けさせることに成功しているくせになにが不満なのか──と、グレイグは思った。
グレイグの心中を読み取ったらしいシルビアは、困ったように眉をひそめる。
「てんでダメよ。これも意味がわかってないから素直に着けてくれただけで、わかってたら絶対断られてた。鈍感っていうか、難攻不落っていうか……あの子にどうアプローチすればいいのっ?」
シルビアは軽くテーブルを叩き、身を乗り出した。すこし頬を染めながら。
「昨日も手は繋げたんだけど、それだけなのよ。恋愛対象として見られてないのはわかるんだけど、どうしたら恋愛対象に思わせられるかってのが課題だわ。壁ドンなんかしたら絶対怖がらせるし……はぁ……」
「それを俺に相談するのか、お前は……」
頬に手を当てて考え込むシルビアに、グレイグは思わず突っ込んだ。仮にも恋のライバル、とまで言った相手にここまで言うものだろうか。
「そりゃあ、グレイグからアドバイスもらおうなんて思ってないわよ、恋愛経験なさそうだし。グチよグチ」
これが牽制や嫌味でないのが、シルビアという人間だ。明け透けというか、なんというか。常に明るく陽気で、仲間に秘密を抱えない。
これがシルビアなりの『正々堂々』なのだろう。そう思い、グレイグは苦笑した。
「アドバイスなら、俺がほしい。いったい何を話せばいいんだ……」
「グレイグなんてアピールポイントたくさんあるじゃない。でもあの子は簡単にはなびきそうにないわね。どうかしら、グレイグなら違うのかしら……」
シルビアの言葉は尻すぼみになって消えていく。グレイグに合わせていた視線が外れ、背後に向かう。片手を上げた。
が二階の宿から降りていく足音がする。グレイグは思わず飲み終えた茶を再び持ち上げた。
背後から肩を叩かれる。
「お待たせしましたっ。もしかしてかなり待ちました?」
「いや、俺は──」
振り返ろうと首を回した途端、つん、と頬に何かが当たった。
グレイグの肩を叩いたの人差し指が、トラップのように待ち構えていたのだ。
は引っかかったグレイグを見て、えへへと笑った。
「グレイグさんもこういうの引っかかるもんなんですね! ……あ、怒りました? 許して許して、ついいたずら心が……っ」
クスクスと笑みをこらえながら、が片手を上げて降参のポーズをした。
36歳にもなって、こんな子供っぽいいたずらをされるとは。グレイグは苦笑する。
「アラ、イヤリングしてくれてるのね」
「そりゃもう。シルビアさんとお揃いですから~」
シルビアが笑い、がはにかむ。わざわざピアスを見せるような髪型にしているので、よほど嬉しかったのだろうか。
グレイグとしては複雑だ。平静を装うシルビアは、逆に嬉しいのか、あるいはシルビアもシルビアで複雑なのか。なんにせよシルビアは普段通りの態度で、先ほどまで頬を染めていたとは思えない。
この演技力は大したものだ、と素直に思う。
「じゃ、行きましょうかグレイグさん。……それともお二人でお話ししてるなら、私は」
「アタシ今日は女子三人とデートだからパス~二人で楽しんできてね」
「うむ。特に立て込んだ話もしていないしな。行こう、」
立ち上がるグレイグを、シルビアが片手を振って見送った。
宿屋を出て、ダーハルーネの街を歩く。
「その、カフェというのはどこにあるんだ?」
「結構おくまったところにひっそりあったんですよ~! 向こうの方ですね」
「こちらか」
が指差した方角へと歩いていく。鎧を着込んでいないから、身体は普段よりも軽い。緊張の為余計に早足になった。
道の角を曲がるところで、急に腕を何かに引っ張られた。
振り返ると、それはだ。どうしたんだ、と思ってから、歩調が早過ぎたのだと気づく。
「すっすまない、ついひとりの気分で……」
「グレイグさん普段こんなに足早いんですね!? さんのジョギングより早くないですか」
「そこまではさすがに早くないと思うが……」
「足のコンパスが違うんですね~」
慌てて歩調を緩め、に合わせる。デルカダールの将軍時代、部下はみなグレイグに付き従うものだったし、グレイグは軍を率いて先駆けていく人間だった。だから他者と並んで歩いた経験がないのだ。婦人であればなおさらだ。
着いてきているか不安になって、歩きながらついを確認してしまう。
ちらちらと視線を送るグレイグが、そんなに面白かったのだろうか。
口元に手を当てたがぷっと吹き出した。
「ふふっ、さすがにそこまで心配してくださらなくて大丈夫ですよ。いざとなったら手つなぎますから」
「えっ!?」
「あ、いや、手じゃなくて……ええと、服です服! あっでも生地のびるか、じゃあベルトとか!」
慌てるグレイグに、も慌てる。わずかに頬を染めて必死に代案を探すものだから、グレイグもつい笑ってしまう。
恋愛対象として意識はされておらずとも、男として認識はされているらしい。そうでなくては困るのだが、シルビアとは反応が違うことにすこし安堵する。
「そうならないようにゆっくり歩くさ。別に急いでいるわけでもないしな」
「あはっ、すみません、ありがとーございます」
二人で並び、しばし歩き続ける。
……もしかして、手をつなぐタイミングだったのだろうか。グレイグは考える。
しかし、歩調を理由に手をつなぐなどけしからんのではないだろうか。
シルビアであればもっとスマートに肩を引き寄せたり、手をつないだり出来たのだろう。しかし女子同士であるシルビアとだからこその距離感なわけで、それをグレイグがやったらセクハラだ。
こうして二人で歩いているだけでもすこし手汗を掻いているというのに、手までつないだらどうなってしまうか。
「あ、ここですここ!」
「こんな路地に店があったのか」
大通りから外れた路地裏に、の言っていたカフェはあった。
奥まった店内はひっそりとしていて、表には小さな看板しかない。営業する気があるのか疑わしくなるほどだ。
「よくこんな店、気づいたな」
「地元の人しか知らない隠れた名店なんですって。シルビアさんが露天商から値切るときに仲良くなって、それで聞いたんですよ」
「シルビアとも来たのか?」
「いーえ。向かってる途中で広場に吸い寄せられて……へへ……」
扉を開けながら、は照れたようにはにかんだ。
昨日広場でシルビアと共にパフォーマンスをしていたようだから、そのことを指しているのだろう。パフェに行く目的も忘れて熱中してしまったことが気恥ずかしいのだろうか。
さびれた通りと違い、店内は明るく清潔感があった。お抱えらしい吟遊詩人が、波の音をバックに弦楽器を奏でている。
二人掛けの席に案内される。
座りながら店内を見渡し、が楽しそうに顔をほころばせた。
「いいとこですね! メニューどうします?」
「昼食を食べてないが、まだ空いてないからなぁ。……じゃあトーストとコーヒーを」
レストランではないので、肉類がない。トーストだけで腹が持つのか不安になりつつ注文するグレイグだった。
「私も同じのを」
「かしこまりました」
店員が去っていく。
はそわそわしながらトーストが運ばれて来るのを待っている。その様子が面白い。
ややあって運ばれて来たトーストにはアイスが乗せられていた。さらにシナモンと砂糖、カラメルまでまぶされている。
見ているだけで胸焼けしそうだ。
「これは……」
「美味しそうですね! あ、もしかしてグレイグさん甘いの苦手? 私、食べましょうか?」
グレイグの渋い顔に気づいたが提案する。が、グレイグを気遣ったと言うより単純に自分が食べたいらしい。
「食べたいのなら持っていっていいぞ。そこまで腹が減ってるわけでもないしな」
「いいんですか? やったぁ!」
喜びを隠さない表情が愛らしい。グレイグの歳になると、こうやって感情を前面に出して喜んだり悲しんだりすることが難しくなってくる。隠すことを覚えるからだ。
だからだろうか、どうにもこの笑顔を見ると、「いいなぁ」とぼんやり思ってしまう。
アイストーストを口に含み、は目を細めて頬を持ち上げる。肩をぶるりと震わせながら、喜びの衝動をこらえているらしい。
アイスのなくなったトーストは、確かにほんのり甘くて美味なものではある。しかしグレイグが美味いと感じる以上には感動しているようだ。
「……っ美味しい! 意外にアイスが甘すぎないのがいいですね。砂糖とシナモンがかかっているけど、こう……パンと一緒に食べることで味が変化してくっていうんですか? この分だとパフェにも期待が持てるなぁ!」
「ただ、そういえばそれが目的か」
「そうなんですよ! すっごく美味しいって聞いて! 楽しみ~」
はすぐにアイストーストをペロリと平らげた。店員に元気よく声をかける。
「カップルパフェひとつ!」
「なにっ!?」
「かしこまりました~」
カップル、という単語にグレイグは思わず目を剥いた。
よくよく考えれば、昨日カフェに誘われたときカップル割りがどうのなどと言っていた気がする。
あからさまに動揺するグレイグに、は苦笑した。内緒話をするように身を乗り出す。
「すみません。カップルパフェって二人で来ないと注文できないって聞いたので……」
「いや、お前がいいなら俺は構わないが……」
「そう言ってもらえると助かります。一緒に食べましょうよ」
「じゃあ、すこしもらおうか」
「よかった!」
グレイグは頬を持ち上げて笑った。
そこでいったん会話が途切れる。は店内を見渡し、雰囲気に浸っているようだ。本棚の本をチェックして店主の趣味を考えている。
……グレイグは困った。
一度会話がなくなると、なにを話せばいいのかわからない。頬杖をついて店内を見ているは笑顔では、このままでは退屈させてしまう。
昨日買った武器の話。あまりに無骨すぎる。昨日シルビアとなにを話していたのか。二人の気にかかると思われたくはない。
眉根を寄せて唸る。
店内には二人連れのカップルが多く入店してきている。和気藹々とした会話が聞こえてくる中、無音なのはグレイグとのテーブルだけだ。
さっぱり話題が思いつかない。女性が喜ぶ話題……話題……と頭を必死に巡らせる。
「……やっぱり、いやでしたか……?」
「えっ?」
「やっぱり私と二人でカップルパフェなんていやですよねえ。無理やり連れてきちゃってごめんなさい」
「何の話だ。別に、問題ないと言ったろう」
「でも、さっきから難しい顔して黙り込んでるから……」
「そ、それは」
グレイグは言葉に詰まった。自分の悩みは、思い切り顔に出ていたらしい。
しょぼくれるに胸が痛い。ハラハラしてしまう。
「……恥ずかしい話だが、俺はこの年になるまで女性とこうしたところに来たことがないんだ。だから、なにを話せばいいのかわからなくてな……それで唸ってただけだ」
上手い言い訳が思いつかず、グレイグは思い切って本当のことを喋った。
女性経験のない男だ、と馬鹿にされるだろうか。ちらりとをうかがうと、彼女はぱちぱちとまばたきしていた。
「今まで女の人とパフェとか喫茶店とか来たことないんですか? 真面目なデートもしたことないんです?」
「んっ……。ま、まあそういうことだな……」
「へ~。じゃ私がはじめて奪っちゃったのか~」
「んんっ! 誤解されるような言い方はよせ……」
「あはは。でもよかった。私も結構緊張してたんですよー」
「緊張?」
「ええ。グレイグさんと二人でお店入ることって今までありませんでしたから。それにデルカダールの将軍様と思うと、どうしても背筋が伸びるっていうか……」
――あれで伸びていたつもりだったのか。
グレイグは心の中でそうつっこんだ。
「緊張するっていうなら、ロウさんもマルティナさんも緊張しますけどね。気にしちゃいけないと思うんで気にしてませんけど」
が困ったように苦笑する。確かに、本人に気にするなと言われても身分の違いはどうしても気にしてしまうものだ。
はなりに、身分差を過度に気にしないことで――他と変わらない扱いを心がけることで、仲間に対しての敬意を払っていたのだ。
グレイグは特に年長だ。ロウのように親しみがあるわけでもなく、マルティナのように同性でもない。仲間として過ごしてきた時間も短いので、にとっては一番緊張する相手だったのだろう。
「お互い、どうでもいいことを気にしていたようだな?」
「そうですね! 楽に行きましょうよ、歳の差とか気にせずにっ」
「それは年長の俺が言うことであって、お前が言うことではないな」
「あっはっは」
のボケに突っ込んでやると、は歯を見せてからから笑った。
ややあって店員がパフェを運んできた。大きな器にパフェが盛られているのを見て、が歓喜の声を上げた。
「わぁ~すごいボリューム!」
「こちら二人分となっておりますので~」
「あ、なるほど。二人で食べるからカップルパフェなんですね」
「ううむ……食べきれるのか? は」
「もちのろんですよ! でもグレイグさんもせっかくだし食べてくださいよ」
はすんなり納得し、グレイグにスプーンを差し出してきた。
テーブルの真ん中に置いて二人で食べようとすると、自然と身を乗り出すので距離が縮まる。なるほどだからカップルパフェか、と納得はできるが、だからといって抵抗が和らぐわけではない。
間接キスをどうこう言う気はないが、やはり緊張してしまうのだ。
生クリームにぱくついて喜んでいたが、グレイグのスプーンが動いていないことに気づいて顔を上げた。
「どうしたの、食べないんですか……あ、そういうことですか」
「ん?」
「いや~わかります、ロマンですもんね。私でよければ僭越ながら……」
がにやにやしながらパフェのアイスを掬い取る。
そのスプーンを、グレイグの口元に持って行った。
「はい、あ~んっ」
「なっ……、これは」
「一度はやってみたいですもんね? 結構憧れですよね~」
がのほほんと笑う。グレイグは思わず身を引いて、うろたえてしまう。周囲の視線が痛い。どぎまぎしてしまう。
グレイグがパフェに手をつけないのを、どこをどう勘違いしたら『はい、あ~ん』をしてみたいけど言い出せない、と解釈するのだろう。こんなことをする歳でもないと言うに。
慌てるグレイグに、が突きつけたスプーンを軽く揺らした。
「溶けて垂れちゃうから、早くぅ」
「いやしかし、このような浮ついたことは……いや……わかった」
根負けして身を寄せる。背中を丸めて、差し出されたスプーンに口に入れた。甘いアイスが口の中に広がる。
スプーンを口から抜いて身を離すと、がすこし頬を赤くした。
「や、やっぱりちょっとどきどきしますね、こういうの」
「俺はその数倍は恥ずかしい」
「えへへ。でもちょっと楽しかった」
グレイグはため息を吐いた。
は基本的に控えめで、調和を重んじて行動力のある人間に付き従うようなタイプだと思っていた。団体の中にいるに対しては、正しい認識のはずだ。
二人きりになると本人の素が出るのだろう。こちらを振り回すような言動がどうにも慣れない。
天真爛漫というか、なんというか。それもそれで悪くないと思ってしまうから困りものだ。完全に惚れた弱みである。
しかしやられっぱなしというのも性に合わない。グレイグは反撃に出た。
アイスをすくって、に差し出す。
「ほら」
「えっ!」
「俺だけというのも悪いだろう。ほら、食べろ」
「ええぇぇぇええ、恥ずかしい……」
は眉を下げて困った顔をする。『はい、あ~ん』をするのはいいのに、されるのはイヤらしい。
「溶けるぞ」
「え~ごめんなさいからかって悪かったです……うう」
根負けしたが腰を浮かし、グレイグの手を掴んだ。角度を調整し、スプーンを口に含む。スプーンの先が柔らかそうなくちびるに隠れ、つるりと出てくる。
「俺の気持ちがすこしはわかったか?」
「はい。すみませんっ!」
「ならいい」
反応があんまり面白から、くっくと笑ってしまう。溜飲も下がった。
はグレイグの手元を見る。
「俺の手がどうした?」
「大きな手だなって。分厚くって、騎士の手ですね」
「あぁ……」
自分の手のひらを見る。毎日見ている手だから、自分の感覚を基準にするならさほど大きい感覚はない。しかし他者と比較するとサイズはまるで違う。
女性であるであればなおさら、比率の違いはすさまじい。と手を合わせてみると、なんと指の第一関節以上大きさに違いがあった。手のひらだけで、の手のほとんどを覆えてしまう。
過ぎ去ってきた人生の重みも、生き方も違う手だ。グレイグは剣の修業で手のひらはタコが出来、ガチガチに固くなっている。対しては手のひらは柔らかいが、指先がガチガチに固い。
「シルビアさんの手にはね、火傷の痕があったんです。サーカスの芸人は、火吹き芸の練習で必ず火傷するんですって」
「なるほどな。火傷はともかく、俺も昔は剣でタコが出来たな。それと鎧で肌がこすれて血が出ることもあったか」
「やっぱりひとそれぞれ、血のにじむ努力をしているものですよね」
「シルビアの場合は芸人を志したのが普通より遅かったはずだ。今の技術を手に入れるまでに、たゆまぬ努力があったのだろう。ヤツは普段おちゃらけていて不真面目に見えるが、誰よりも周囲のことを見ているしな……。ゴリアテがあのような変わり方をしているとは思わなかったが、自然に気遣いが出来るところは昔と……」
褒め言葉がするする出てくることに自分でも驚いた。
仮にも恋のライバルをここまで持ち上げていいものか。しかし本当のことだ。本人には口が裂けても言えないが。
「……すごいな……私なんて全然……」
がぼそりとつぶやいた。
うまく聞きとれず、聞き返そうとすると、がふいと視線をよそにやった。
店内BGMを奏でる演奏家が交代したのだ。新しくやってきた演奏家はに気づくと、かるく会釈する。
「昨日、広場で知り合ったひとだ。ここで働いてたんだなあ」
「あぁ、あの時のか。すごかったものな、あれは」
「見てたんですか?」
「ちらりとな。白熱していたのが伝わってきた」
「えー! 気づかなかった。ちょっと恥ずかしい……」
「ずいぶんと今更だな」
が頬を染め、背もたれに身体を預けた。合わさっていた掌が離れ、空気が冷たく感じる。
片手で口元を隠すしぐさを見るに、本当に恥ずかしいらしい。
今までの演奏は何度も聞いている。今更恥ずかしがることもないはずだが。
「違うんですよ、昨日のは、普段と違ったから……」
「普段と違う? シルビアと一緒だった、ということか」
はこくりと頷いた。コーヒーをずずっと飲み、ため息を付く。
表情にあるのは照れではない。もっと険しい顔をしている。
「シルビアさんは……本当にすごい人なんです。技術もそうだし、場と人に合わせた演技が本当に巧みで。一緒に演じた大道芸人をうまく誘導したり、見せ場を譲ったり。横で演奏していて、何度も見とれてしまいそうでした」
「うむ。あまりあの手の娯楽には縁がないが、それでもヤツの技術が卓越していることはわかる」
「私……あの人に相応しい曲を、私も即興で弾かなきゃいけなかったのに、全然……! こんなんじゃ私、見向きもしてもらえない……」
テーブルの上で、の拳がぎゅっと震えた。
「正直へこみましたよ。まだまだだなって。シルビアさんの圧倒的な存在感!! 私……私なんて全然ダメダメなんです。自分の音もないし、楽譜をなぞるだけで、私は……」
言葉がじょじょに消え失せていく。しまいにはがくりと肩を落とし、俯いてしまった。
音楽と曲芸。分野は違えどシルビアとは芸を売る人間だ。
キャンプ場での仲間内の余興ではなく、街で大衆に向けてシルビアのパフォーマンスに音楽をつけた。結果、圧倒的な能力を見せつけられ、自信が失せてしまったということだろうか。
芸のことはわからないが、その感覚にはグレイグも覚えがあるものだ。
――ホメロス。共にデルカダールを担おうと誓った無二の親友。
グレイグはずっと、ホメロスのようになりたかった。
「……俺は音楽にも曲芸にも詳しくないが」
はうつむいたまま何も言わない。構わず言葉を続ける。
「今朝シルビアは言っていた。ほどやりやすい楽師ははじめてだったと」
「え?」
「サーカスにおいて、音楽は脇役だろう。しかし、前に出たがる者が少なくないと聞く。プログラムや進行を無視して、役割を放棄してでも目立とうとする……まあ、楽師に限らん話だと思うがな」
兵士にだってそういう輩はいるものだ。待機命令を破って魔物相手に先走り、部隊の輪を乱す新米の兵士には困らされてきた。もちろんシゴいて身の程をわきまえさせるが。
顔を上げたがきょとんとしている。
「――お前にはそれがなかった。とにかくシルビアのサポートに回り、全力でシルビアの芸を盛り立てようとしていたのが伝わってきた。――と言うようなことをアイツは言っていたな」
「シルビアさんが、そんなことが……」
「お前の言う『自分の音がない』というのが、どのようなことなのか無学な俺にはよくわからない。しかし、シルビアの言いたいことはわかる気がする。……自分の音がないからこそ、裏方として他者を引き立てることが出来るのではないかと……いや、これで合ってるのか自信はないが……」
言いながらどんどん自信がなくなってきて、言葉が曖昧になる。
グレイグは顎髭に手を当て、ううむ、と唸った。
「とにかく。技術のことはよくわからんが、俺はの弾く曲が好きだしな……なんというか、ほっとする音だ。いい意味で気にならないというか、耳にすんなり入ってくる」
「…………。……やだ、好きだなんてそんな、グレイグさん大胆~」
「んんッ」
「ふふ、冗談ですよ。あはは、ありがとうございます、すみません、愚痴言っちゃって……」
「人間、落ち込みもすればへこみもするものだ」
グレイグの言葉に、はぎこちなく笑った。さりげなく目元をぬぐう。
にとっての音楽はシルビアにとっての曲芸であり、グレイグにとっての剣だ。自信喪失は人生を見失うことにもなりかねない。
分野が違うから、えらそうなことは言えないが。グレイグの励ましで、すこし浮上してくれるとよいのだが。
「私、自分の音に自己主張がなくて、人の印象に残らないのがずっと嫌だったんです。曲を聞き流される吟遊詩人に価値なんてないですからね。でも……シルビアさんやグレイグさんがそう言ってくれるなら救われるな」
「得手不得手はどうしてもあるからな。問題は、理想と実際の得意分野とどう向き合っていくかではないだろうか」
自分にも覚えがある感覚だっだ。
軍師ホメロス。無二の親友。
あの男のように判断能力に長けた、聡明な男になりたかった。
遠征中魔物に襲われ、本隊と分断してしまい小隊だけで遭難し孤立無援の状況になったとき、いつも「ホメロスならどうするだろうか」と考えた。
ホメロスのように即断即決で的確な戦術を編み、行動することが出来れば、守れた部下の命がいくつあっただろうか。
しかしそれは無理な話だった。
グレイグの身体は戦うことに特化していた。その場で現れた敵を対処する判断力には優れていても、長期的に部隊を動かす思考はついぞ身につかなかった。
武人としての適性しかなかったグレイグにとって、ホメロスという知将はまさに光そのものだった。
何も考えなくていい。駒としての役割を全うしていればそれでいい。大局的にはホメロスの戦術通りに動き、戦闘では己の判断で動いて敵を屠る。
そうしていれば部下を守れ、誉れも与えられた。
ホメロスが戦術を編み、グレイグが敵を屠る。それこそがデルカダールの双頭の鷲なのだと、そう信じた。
だからグレイグは――ホメロスの心中になにひとつ気づかなかったのだ。
際限なく落ち込みそうになって、グレイグは慌てて首を振った。
はうーんと唸りながら、何かを考えているらしい。
「得手不得手。得意分野とどう付き合うか。確かになぁ……。クサクサしててもしょうがないし、落ち込む前に出来ることからまず練習! ですね!」
「うむ。その意気だ」
「よーしがんばるぞっ! シルビアさんに負けてはいられないな!! あ、パフェ全部たべていいですか?」
「もちろんだ」
がパフェにがっつきはじめる。元気が出たのだろうか。
グレイグはほっとして、安堵の息をもらした。
こういう前向きな態度を見ていると、グレイグもガッツをもらえる。日々の鍛錬にも気合いがはいるというものだ。
***
「あ~おいしかった! でも、本当におごってもらっちゃっていいんですか?」
「構わん。大した金額でもなかったし……そのつもりで俺を誘ったのかと思っていたぞ」
「んな下心満載で誘いませんよ。単純に、二人で出かけたかったんです」
「そんなにあのパフェが食べたかったのか……」
「そういうわけでもないけど……まぁいいや」
妙に含みのある言い方だ。
カフェを出れば、ちょうど三時頃だ。まだ宿に帰るのは早い頃合いだが、どこかに誘ってみるか。
今朝よりはずっと緊張のほぐれたグレイグはそんなことを考える。
真横にいるに話しかけようとしたとき、急にがふらついた。
「危ないっ!」
転びかけた身体をとっさに掴み、引き寄せる。グレイグの身体にもたれかかったの身体はぐったりしている。
「す、すみません。昨日ホントに神経使ったから、まだ疲れてるみたい」
「戦闘とはまた違う気の張り方をするのだろう。今日はもう宿に戻るか」
「そうしていいですか? ふがいないです」
「慣れないことをしたんだろう。出発は明日だし、気にせず休めばいいさ」
「ありがとうございます……」
が、抱き留めていたグレイグの胸板をぐいと押した。すこし距離を取り、顔を隠す。しかし耳元が赤い。
「あ、す、すまない。ついとっさに……」
「いいえ……こちらこそ勝手に意識してしまってすみません……」
二人して頬を染めて謝罪し合う。
この分では、異性として認識はされているのだろうか。少なくともシルビアであれば、はこんなふうに頬を染めはしなかったはずだ。
はまだ、すこしふらついている。先ほどの赤い耳に勇気づけられる形で、グレイグはごほんと咳ばらいをした。
「……その、。まだふらついて危ないようだが、これは別に下心などないのだが」
我ながら言い訳がましい。グレイグは言葉を区切り、思い切った。
「腕でも組んでおいたほうがよくないか」
どうにか声が上擦ることは阻止した。何気なく言えた……と思う。グレイグに自信はない。
はきょとんとし、まばたきをした。無言。勘弁してほしい。
やっぱりなんでもない、と言おうとしたとき、がくすっと吹き出した。
「じゃあ、お願いします……でも腕組むのは悪いから」
が控えめに寄り添い、グレイグの服の袖を掴んだ。ちま、と袖を引っ張る感触が頼りない。その頼りなさに、かえってたまらなくなる。気恥ずかしい。
「……こうしてるとグレイグさんって、お父さんみたいだなぁ~」
それが照れ隠しだとわかったから、グレイグも呻きはしなかった。
***
宿屋に到着すると、がそっと身を離した。グレイグは先に扉を開け、を中に入れてやる。
ロビーは仲間たちのたまり場となっていた。カミュが真っ先に気づき、腕を上げる。
シルビアも顔を上げた。
「おかえりなさい。カフェどうだった?」
「美味しかったですよ~! 今度シルビアさんも行きましょうよ。ベロニカたちも誘って」
「それはよかったわ。二人とも楽しめたみたいだしっ」
シルビアがグレイグを見て目を細める。含みのある楽しそうな目だ。
はそんなシルビアとグレイグを見て、なにかに気づいたような顔をする。
「……どうした? 」
「いいえっ。なんでも。シルビアさん、グレイグさんお借りしました、ありがとうございます」
「あ、アラ? なんのこと?」
「私部屋で休んでますね~夕食になったら起こしてください~」
一礼するや否や、は階段を駆け上がって部屋へと走っていってしまう。
「どうしたのかしら」
「さあ……疲れていたようだからそのせいか?」
「ううんー?」
の行動はすこし不審だ。
グレイグとシルビアは顔を見合わせ、首を傾げた。
それはともかく、今日一日はグレイグにしてはかなりの進歩だろう。確実に距離は縮まったと思うし、絆も深まった気がする。
シルビアのようにピアスを贈るような真似はグレイグには出来ない。ではどんなやり方なら出来るのかと言うと、正直よくわからない。
よくわからないなりに、後悔しないようにしよう――と、グレイグは思ったのだった。
***
とあるキャンプ場にて。眠れないと、武器の手入れで起きていたカミュ。
「ねえカミュ、やっぱりシルビアさんとグレイグさんって付き合ってるんだよね?」
「ブフーッ!?」
「うわきったな」
「ごほっ……誰のせいだと思ってんだよ! お、おっさん二人が付き合ってるって? どっからきたその発想」
「だって、お互いすごく信頼してるし、相手のいないときにべた褒めだったんだよ~」
「ううーん……」
「ベストカップルだと思うなあ、私グレイグさんと居る時すごくドキドキしたもん。落ち着きがあるし優しいよね。人生の先輩って感じ」
「多分確実に違うと思うぞ……」
カミュのつぶやきはには聞こえていないらしい。
頭を掻いたカミュは、また面倒くさいことになりそうだな、と思いつつ、面倒なのでその勘違いを放置し、を放置して早々に寝た。
……グレイグとシルビアのバトルは、まだまだ続きそうだ。
2017/09/17:久遠晶
アンケートにて続きのグレイグデート回。
一応、二人が付き合ってるって誤解されてズコ―――ッというのをオチということにしておきたい。
こんな感じでよろしかったでしょうか! 私は書いててすっごく楽しかったです!
書いているうちに夢主は天然鈍感だけど、誰にもそうってわけでもなく、グレイグが男であることを理解してるし肉体の接触でどぎまぎしたりもする。するうえで、「でも仲間だし~」と、性別差のことなどを意識しないように努めている。って感じになりましたね。
親密さや好感度ではシルビアさんに軍配があがるけども、異性・恋愛対象としての意識のしやすさ……で言うならグレイグに軍配があがる……という状況か。
続きは書きたいんですけど思い浮かぶかなあ(´;▽;`)
うまいこといけたらいってみます~案求む。
試験中。もしいいね!と思っていただけましたら送っていただけると励みになります!