気にせず行こうよ!



 ちゅんちゅんちゅん、と小鳥たちのさえずる音が聞こえる。
 朝日が目にしみて、ぎゅっと目を瞑った。毛布にくるまって光から逃げる。

「もう朝ベロン」
「んん……あと十時間……」

 肩をなにかが揺りうごかす。安眠を妨げるものはなんだ。まだ朝だ。私が起きるべき時間じゃない。夕方まで寝ていたい。
 そんな私の願いを無視して、なにかは私の毛布を引っぺがした。

「ベロンベロ~ン! 起きるベロ~ン! さもないとヒップアタックが待ってるベロ!」
「もー寝かせてよ~……ん……!?」

 ねむけまなこをこすりながら体を起こす。重たいまぶたを持ち上げて目を開けると、
 目の前にまものの姿が飛び込んできた。

「ウワァーーーーッッ!!?! もももモンスターッ!?」

 思わずまくらを投げつける。
 グロッタにまたまものがやって来たというの!? 反射的にベッドの下に隠れた。眠いとごねている場合じゃない。

「何度言ったらわかるベロ! オレは魔物じゃないベロン!!」

 恐る恐るベッドの下から顔を出す。
 ぎょろついたまんまるな目、垂れ下がる長い舌。隆々と盛り上がった筋肉。
 それはまものではなく、ベロリンマンという格闘家だった。

「あっ、な、なんかすみません……」
「慣れてるベロ」

 じとっとした目で言われ、うっと口ごもる。
 そうだ、ここは一人暮らしの仮住まいじゃない。
 孤児院じっかなんだ。
 ベロリンマンさんに促されるがままベッドの下から出る。おかげさまで眠気は吹っ飛んだが、ベロリンマンさんを傷つけてしまっただろう。申し訳ない……。何が申し訳ないって、このやり取りはもう5回ほど繰り返しているのだ。
 服を着替えて大部屋を出ると、ちょうどハンフリーさんも起きてきたところだった。朝なのでいつものバンダナは付けておらず、寝巻きだ。

「ふぁあ~。お、ベロリンマン。お前の顔って朝見るといい具合に眠気飛ぶなぁ~」
「どういたしましてベロ……」

 ハンフリーさんは直球だ。私はベロリンマンさんの不機嫌そうな低い声にいたたまれない。ハンフリーさんはベロリンマンさんの肩を叩いて挨拶する。

「おはようございます、ハンフリーさん」
「あぁおはよう……っ!?」
「は、はい!」

 思わず背筋が伸びる。なにかしてしまっただろうか。ハンフリーさんは慌てて自室へと戻っていく。しばらくして自室から出てきたハンフリーさんは、いつものタンクトップ姿だった。バンダナもつけている。

「悪かった。だらしないとこ見せちまったな」

 そう言って、少し照れたように笑う。
 孤児院に寝泊まりするようになってもう一週間ほどが経つけど、その間ハンフリーさんの寝間着姿を朝のうちに見たことはなかった。単に私の起きる時間が遅いからだと思っていたけど、もしかして意図的に私より早く起きて着替えていたのだろうか。

「気にしないでいいのに。家の中でぐらいだらけていいと思いますよ」
「そうもいかないだろ、年頃の女の子を前にあんな格好はさ……」

 確かに寝巻きのシャツの第三ボタンぐらいまで外れて、肩が丸出しになっててだらしはなかったけど。露出度としては今の格好の方が多い。気にすることはないはずだ。
 なんだかむくれてしまう。ハンフリーさんにその気はなくとも、これはかやの外なのと同じだ。
 洗面所で歯ブラシを取り出しながら会話する。

「家族って言ってくれたのに、私には普段の姿を見せてくれないのかぁ~ハンフリーさんは」
「そ、そういうつもりじゃないさ」

 そういうつもりじゃないこともわかっている。
 女性として見てくれていることも。
 ハンフリーさんは私を女性として意識して、気遣ってくれている。だらしのないところを廃し、かっこいいところだけをなるべく見せようとしてくれていることも、素直に嬉しい。だけど。
 その結果家族の枠組みから外れるなら──気を許してもらえないのなら、女性としてなんか見てくれなくてもいい。義妹でいい。
 いや、その方が絶対にいいはずだ。
 恋人とはいつか別れるけど、家族は一生家族なのだから。

「そんな怒るなよ~。な? 今日のおやつ、オレの分も食べていいからさ」

 背中をポンポン叩きながらの言葉は、まるで子供のあやし方だ。
 ハンフリーさんのあやし方。
 もう子供じゃないよと言いたい気持ちと、たまらなく嬉しくなってしまう気持ちが半分半分。
 私がもっと子供だったら、今すぐハンフリーさんのお腹に抱きついて甘えていただろう。ハンフリーのお兄ちゃん、大好き、と言って。
 しかし幸か不幸か私はハンフリーさんに女性と意識されていて、子供として抱きついて甘えられる年齢でもなく、そしてまた付き合ってもいない。
 よって抱きつくことは到底叶わないのだった。

「じゃ、それで手を打とうかな!」

 私がにこっと笑って機嫌を直すと、ハンフリーさんはちょっとホッとしたように口元を緩めた。
 二人で並んで歯を磨く。鏡に映るハンフリーさんを盗み見る。
 リビングの方でガヤガヤと子供達の声がする。ベロリンマンさんが食事の配膳を手伝う音も聞こえてくる。
 こうしていると、懐かしい孤児院時代に戻ったようだ。

「こうしてると懐かしいな」

 考えていたこととまったく同じことをハンフリーさんが言う。歯磨き粉の泡を洗面所に吐き出しながら。
 歯ブラシを口から外して返事をする。

「そうですね。同じことを考えてました」
「昔はお互い、みんなの世話で色々話すこともなかったよな」
「余裕ができたと言うことですね」
「そうだな。……ベロリンマンのおかげで人手不足が一気に解消されたからなぁ」

 ククッとハンフリーさんが笑う。
 ベロリンマンさんが孤児院に住み着くようになったのは、グロッタに魔物が現れてからだった。家を持たない流浪の武闘家であるベロリンマンさんは、宿が籠城のため閉鎖したあと、行くあてがなくなってしまった。他の難民や武闘家と同様に、神に守られた教会たる孤児院の門を叩いた。
 当初は子供たちからまものと勘違いされて怖がられていたけれど、やがて打ち解け、グロッタの街が解放されたあとも孤児院に居着いている。

 ベロリンマンさんは分身して戦う格闘家だけども、作り出した分身は炊事洗濯家事手伝いもお手の物なのだ。子供好きだし、意外に家庭的な人なのである。
 おかげさまで孤児院の人手不足は一気に解消されたそうだ──それを知ったのは私が孤児院に出戻って来てからで、正直「それなら私はいらないのでは……?」と思ったのだった。
 以前私が孤児院に泊まった時ベロリンマンさんがいなかったのは、部外者はいない方がいい、という気遣いで外に出ていたらしい。
 ハンフリーさんも私にベロリンマンさんが転がり込んでいることの説明をすっかり忘れていたものだから、ベロリンマンさんの顔のドアップで目が覚めたときは本当に食べられてしまうと思ったものだ。

「あいつは気のいいやつだよ。あの顔にもそのうち慣れるさ」
「起きてるときなら大丈夫なんですよ、いい人なのはわかりますし。……ただ寝起きに見ると、その」
「ベロリンマンも慌てるお前見て楽しんでる節ありそうだよなぁ」
「えぇ~心臓に悪い。面白がってくれた方がいっそ助かるけども」

 歯磨きを終わり、ハンフリーさんが顔を洗う。タオル掛けに伸ばしてさまよう指にタオルを触れさせてあげる。
 ごしごし顔を拭くハンフリーさんに、思わず笑みがもれる。見ていて飽きない人だ。本当に。

「……どうした?」
「いえ、昔と変わらないなと思って」
「オレの顔なんか見てて楽しいかぁ?」
「それなりにね」

 ハンフリーさんが洗面台の前から退く。私が顔を洗う番だ。
 近くの湖から引かれる地下水は美味しいけれどひどく冷たい。顔が張り詰めて震え上がってしまう。

「ほいタオル」

 さまよう手にタオルが渡される。顔の水滴をぬぐいながら、すでにタオルが濡れていることに気づく。
 ……これ、ハンフリーさんが使ったタオルだ。
 昔は使い回しなんてぜんぜん気にしなかったのに、微妙に意識してしまう。長らく独り暮らしをしていたから、同じものを分け合うことに免疫がなくなったのかもしれない。

「動きが止まってるけど、どうした?」
「いいえ。なんでも」

 一ヶ月もすれば慣れるだろう。納得して、少しドギマギする心臓を落ち着かせる。
 仮にもハンフリーさんは私の片思い相手だ。ひとつ屋根の下で暮らすことの緊張は、どうしたって発生するものだ。


   ***


 騒がしい弟妹たちと朝食を食べ終える。
 食器を洗うベロリンマンさん、子供の世話をするハンフリーさん。
 夕食係の義妹は最近学校に通うようになったらしい。生活に余裕が出たことの賜物だ。嬉しそうな背中を見送った。

 思い思いに過ごす中で、私だけが手持ち無沙汰でテーブルに頬杖を突いていた。
 ハンフリーさんの保父さん具合は板についている。窓の奥、孤児院の庭で追いかけっこに付き合っている。休みなく動いているように見えるのにぜんぜんバテないのは、さすがに元武闘家は伊達じゃない、というところか。
 皿洗いや洗濯を終えたベロリンマンさんが庭に出て子供たちの遊びに加わった。武闘家ふたりを取り囲んで、子供たちが盛り上がる。

 ああして見ていると、私の居場所などどこにもないように感じる。
 付け入る隙がないというか、自分がいなくても問題ないように映るのだ。
 別に拗ねているわけではなくて、単純な感想だ。
 自室であれば好きに過ごせるけど、こういう他人の家での手持ち無沙汰な瞬間となると、途端に『やるべきことがわからない』感覚に陥る。
 昔は──昔はよく一人でフラフラ出歩いたな。孤児院にいるとやるべきことがわからなくなるから、孤児院を出て勝手に一人で暇をつぶしていた。大きくなれば自然と弟妹の世話に明け暮れるようになるので、私が幼かったほんの数年の間のことだ。
 思えばハンフリーさんだけだった。私が孤児院を出て高い木に登ったとき、いつもハンフリーさんだけが気が付いて迎えに来てくれた。

お姉ちゃん」
「ん……なぁに?」

 過去にふけっていると、突然声をかけられた。小さな女の子と男の子が、私にノートを差し出している。

「算数を教えてほしいの」
「あぁ、なるほどね。もちろんいいよ」

 おとなしい二人だから、外でハンフリーさんたちと遊ぶ気にはならなかったのだろう。
 学習意欲があるのはいいことだ。
 ノートを広げてあれこれと教えていると、ハンフリーさんとベロリンマンさんが外から戻って来た。

「お、勉強してるのか。えらいな。オレは読み書きはできるけど数字は苦手なんだよなぁ~」
「簡単な計算ぐらいはできるようにならないと、給料のピンハネにも気づけないですもの。知恵を身につけなきゃ生きてけませんものね」
「ええっピンハネなんてあるのか!? なんで!?」

 私の言葉に、ハンフリーさんの大げさに驚いた。

「そりゃあ、お金はしぼりつつたくさん働かせた方が得だからでしょう。行くあてのない人に手を差し伸べるふりして、計算できないのをいいことに不毛な賃金で働かせる経営者はいくらでもいますよ。商人も足元見ますしね」
「なんて酷いことをするんだ」

 ハンフリーさんはこぶしを握って憤慨する。労働の実態を今初めて聞いた、と言うように。
 いくら武闘家と言っても、あまりに反応が若すぎる。

「はっ! オレがはじめて働きに出た頃、たくさん働いても大した金にならなかったのってもしかして……」
「…………ハンフリーさん、変な商売とかに騙されないでくださいね。開運グッズとか、ネズミ講とか。友達に金の無心にこられても、武闘家仲間だから、とか大変そうだから、とかの信頼や同情でハンコ押しちゃ絶対ダメですよ。わかりましたか」
「お、おう……?」

 立ち上がって、ハンフリーさんの腕を掴んでとうとうと説明する。曖昧に頷くハンフリーさんがどこまで意味を理解してるか不安なところだ。
 純真っていうか、なんていうか。人を疑うことを知らないというか。鵜呑みにしてしまうというか。
 これだからまものにそそのかされてしまうんじゃないだろうか。
 今までハンフリーさん一人でよく孤児院を切り盛りできたものだ。いや、できていなかったから一攫千金を狙って各国の武闘会を練り歩いていくはめになったのか。
 ハンフリーさんの次に年長の義兄は、足が悪くて外に働きには出れないし、計算も苦手だ。ハンフリーさんも頼るに頼れなかったのかもしれない。
 そうして孤児院のことをひとりで背負いこみ、まものにそそのかされ武闘家として成功したおかげで、逆に純真さを失わずにここまで来た、ということだろうか。
 ある意味で奇跡だ。

「もしかしてはじめてやった運び屋の仕事、ピンハネされてたのか? 想像したらショックだ……オレって馬鹿だな……」
「仕方ないですよ。過ぎたことはしょうがないし、おかげで今のハンフリーさんが保たれてると思えば安いもの、ということにしておきましょう」
「うぅーん」
「オレ自分が頭いいとは思ってなかったけど、ハンフリーよりはマシなんじゃないかと思って来たベロン」
「ベロリンマンは算数できるのー?」
「ヒトケタなら……ベロンベロン……」

 さすがにそれは五十歩百歩だ。
 ハンフリーさんががっくりとうなだれる。過去の自分への恥か悔悟か、ぎゅっと顔をしかめるハンフリーさんにこっちまでたまらなくなる。
 自分がここに戻って来た意味……家族としてやり直したい、という私の心根の問題を差し置いて、私が孤児院で役に立てることはあるのか、と自問していたけれど。なんのことはなく答えは転がっていた。うん。
 ハンフリーさんを一人にはしておけない。

「とにかく。いいですか、お金のことはひとりで決めずにまず私に相談してください。私ですよ。いいですか。お金や土地関係、でかいお金が絡みそうなことは私に言ってください!」
「お、おう」
「ハンフリーさん、本当にわかってる!? 契約書のサインも血判もダメですからね、言われるがままサインしたら絶対ダメですよ!!」
「わ、わかったわかった! って昔っから頭よかったもんなぁ、お前がいてくれて心強いよ。これからよろしく頼むぜ」

 ハンフリーさんが歯を見せて笑う。
 もう、本当にわかってるのかな。
 真面目に考えてほしい、と思いつつ、心強いという言葉に嬉しくなってしまう自分がいる。
 ハンフリーさんと孤児院の役に立てるなら、願ってもない。私がしっかりしないとダメなんだ、と思うと気合が入る。

「ハンフリーとって付き合ってるベロか?」
「あっ! ベロリンマン、それもっと言ってやって言ってやって!」

 会話についていけずにノートに向かっていた子供たちが、わっとベロリンマンさんにまとわりついた。とたんに子供たちが元気になる。

「仲良しなのはいいことベロン!」
「あはは、ありがとう~」
「ほんと早く結婚しちゃえばいいのにぃ。ハンフリーさんが危なっかしいって意味わかるでしょ? お姉ちゃん」
「それは理解したけども」
「まじか……危なっかしいのかオレは……!」

 わなわな震えて驚くハンフリーさん。何を今更……と言ったら傷つきそうだから言わないでおこう。
 やいのやいのと騒ぎ始める子供たちの言葉を右から左に聞き流す。時刻はもうそろそろお昼になろうとしていた。

「お昼にしましょうか。私、作りますよ」
「いいのか? 久々だなあ、の手料理」
「ひとり暮らしでろくに料理してなかったから、味は保障しませんけどね」

 肩を竦めると、ハンフリーさんは首を振る。

の作ったのならなんでもうまいよ」

 ……この人は。
 台所を向いて赤くなる頬を隠して、私はため息を吐いた。
 こんなこと言われたら、失敗できなくなってしまう。


   ***


 正直言って、私に恋愛経験はほとんどない。
 男に言い寄られたことは何度かあるけれど、結局なにも起こらなかった。なにかがはじまりそうになったとき、無意識のうちに一線を引いてしまうから。
 そんな私でもハンフリーさんが私を好いていることぐらい、さすがに伝わってくる。

 ――オレはまだ、お前を口説けるラインに立ってなさすぎるだろ。
 ――期待していいのか。それは。まだ好いてくれてると……思っていいのか。

 顔を赤くしてそう言われれば、いやでもわかる。
 ハンフリーさんは私を好きだ。
 寝間着姿を私に見せたくないのだって、好きな女性にだらけた姿を見せたくない、という恥じらいだろう。
 私は……私はハンフリーさんが好きだ。間違いない。
 関係性だけをみれば、私とハンフリーさんは相思相愛ということになる。これで万々歳で大団円、という形で終われれば、それはそれで楽だっただろう。
 ああ、我ながら面倒くさい。
 ハンフリーさんと家族にはなりたくても恋人にはなりたくない、なんて。我ながらふざけている。
 真夜中のリビングで、酒を飲む手がほいほい進んでしまう。

「おや、、起きてたのかい」
「あ、どうも」

 地下室から義兄が出てきた。
 リビングのテーブルに大量の酒瓶を広げる私を見て苦笑する。
 私は慌てて説明した。夜中に酒浸りになっているとは思われたくはない。

「バーテン生活でため込んだお酒を早く消費しないといけないな、と。もしあの子たちが間違えて飲んじゃったら大変でしょう?」
「そういうことなら協力しないとな。の作る酒、飲んだことないんだよな」
「カクテルですか? 何がいいでしょう」
「おすすめでいいよ」

 そう言われるのが一番困るんだよな。
 椅子から立ち上がって、バーテンらしく振る舞ってみようか。テーブル越しに義兄の向かい側に立った。
 ささっとアルコール低めにカクテルを作ると、義兄は美味しそうに飲んでくれた。

「お前が本当に戻ってくるとは思わなかったよ」
「私も正直、自分が戻るとは思いませんでした」
「助かるよ。おれたち、ハンフリーさんに頼りきりになってて、魔物の件も全然気づかなくてさ……」
「それはお互いさまでしょう。私だって」
「お前は孤児院出てひとり暮らしだったじゃないか。気付かなくて当然だ」

 フォローのつもりなのだろうけど、そういう問題じゃないのだ。義兄は私が孤児院のためにお金を貯めていたことを知らないから、この反応も仕方ない。
 私は愛想笑いでごまかした。

「でもま、だからほんと、戻ってきてくれて嬉しいよ。ハンフリーさんも喜んでるし……結婚ってなったら、やっぱり孤児院で式挙げるんだろ?」
「へっ!? なんの話ですか」
「お前とハンフリーさんの結婚」
「しませんよ! 結婚なんて!! 付き合ってないし!」
「ええっ。その割りには子供たちにはやしたてられるとお互いまんざらじゃなさそうな……」
「――それでも、ないです。あり得ません」
「ふうん?」

 面白そうに片方の眉をはねあげ、カクテルに口をつける。その表情が気に入らない。

「臆病者も大変だね~」
「……なんとでも言ってくださいよ」
「ハンフリーさんはいい人だよ。お前だって知ってるから戻ってきたんだろう」
「そんなんじゃ……。私だってどうすればいいのかわからないんですよ、ハンフリーさんのこと……。義理の妹として、家族として私は……」

 ハンフリーさんのことは好きだ。孤児院で一緒に育った義理の妹としても、女としても慕っている。
 あのひとのことを考えるだけで胸がくんと切なくなる。ハンフリーさんには常に笑っていてほしい。あのひとが守るものを私も守りたいと強く思う。
 でも――あのひとと男女の仲になりたいか、と言われると、今は違う。
 恋人になんかなりたくない。絶対幻滅されるに決まっているのだ。

「不安ならなおさら結婚すればいいと思うけどね、おれは」
「ご冗談を。義理の妹のひとりにはなれても、恋人の座には実力不足ですよ私は」

 思わず乾いた笑いがもれた。
 本当、ハンフリーさんはどうして私に好意を持ったんだろう。そこがわからないから、妙に不安になるのかもしれない。
 度数高めのウォッカをグラスに注いだ。そのまま煽る。喉が焼けついて、身体がカッと燃えるように熱くなる。
 咳き込みかける私をみて義兄は笑った。

「今のセリフ、ハンフリーさんが聞いたら怒るぜ。そんなに気になるなら、本人に『どうして私が好きなの』って言えばいいじゃないか。もしくははっきり振っちゃえよ」
「……義兄さんはさ、恋愛したことないでしょう。絶対」
「うっせーな。幻滅されるのが怖いってうじうじしてないで、腹割って話すべきだと思うねオレは」
「うう」
「だいたい、家族としてやり直したいって言ってたらしいけどさ。なんなんだよ、前から家族だっての。百歩譲って家族じゃなくなってたとして、家族になりたいって言うならその他人行儀な敬語戻せよな!」

 業を煮やしたかのように、義兄が声を荒げた。グラスをダンッとテーブルに置いて。
 思わず気圧される。義兄はだいぶ怒っているらしい。私の態度にだ。

「ご、ごめん……義兄にいさ――いや――ええと、お兄ちゃん・・・・・
「うん。それでいい」
「……かなわないなぁ~」
「お前、昔っから頭でっかちなんだよ。たまにはなにも考えずに動いてみろよ」

 兄はにかっと笑う。私も笑った。
 そこに、玄関の扉が開いた。
 ハンフリーさんが家に帰ってきたのだ。真夜中のジョギングをしていたらしいハンフリーさんは、リビングを見るとにこっと笑う。

「あれ、二人とも起きてたのか」
「おれはもう寝るけどな。じゃあな、せいぜいゆっくり頑張んなっ」
「お兄ちゃん……。まあいいや、おやすみなさい」

 兄はニヤリと笑って私の肩を叩く。私がこれ見よがしにため息を吐いても、効果がない。
 リビングには私とハンフリーさんが取り残された。

「二人で酒飲んでたのか?」
「ええ。子供のいる前じゃ飲めませんから」
「確かに。オレも一杯もらおうかなぁ。作ってくれるか?」
「もちろん」

 愛想笑いを返す。
 先ほどの会話を聞かれてはないと思うけれど、すこし気まずい。
 下戸なハンフリーさんの為にアルコールは低く抑えて作る。
 自分の分もつくって、椅子に座った。

「お前とこうしてゆっくり酒飲むことって、そういえばはじめてだよな」
「そうですね。お店には何回か来ていただきましたけど、二人で飲むのははじめてです」

 テーブルに肘をついて、ハンフリーさんはちびちびとグラスに口をつける。そのしぐさが兄と似ていて、すこし微笑ましくなる。
 ハンフリーさんは本当にかっこいい。心の底からそう思う。この人に慕われた女性は幸せだろう。――それが自分であることが、信じられない。

? オレの顔になんかついてるか?」
「え? あ、そうですね、目元に睫毛が……」
「どこだ?」
「とれました」

 本当は睫毛なんかついていなかったけど、凝視してしまっていたのをごまかすために嘘をついた。

の頬にも睫毛ついてるぞ」
「あらら。とれましたか?」
「反対側の……そっちじゃなくて……」

 説明しながらハンフリーさんの手が伸びてきた。
 顎を下から掬い取られ、持ち上げられる。
 目を閉じると、目元に暖かい指が触れた。大きな指が何度か目元を優しくこする。

「……うん、取れた」
「あ、ありがとうございます……」

 すこしどきどきしてしまった。ハンフリーさんもすこし照れているけど、私も結構照れている。お酒でほろ酔いだから頬が赤いのだ、とすました顔を装うけども。
 離れていく手が惜しい、と思ってしまう。
 たくましい腕の中に入りたい。ぎゅっと抱きしめてほしい。
 そんな欲望が胸に湧き上がってきて、たまらなくなる。

「あ、あのさ。今度二人で買い物行かないか?」
「へ?」
「せっかくこっちに戻ってきたんだし、なんか買ってやるよ。の分のマグカップとかさ」
「ああ……お気遣いなく。お客さん用のやつ使いますし」
「気にすんなって。専用のがあったほうが家族っぽいだろ」
「じゃあ、お願いしようかな」
「うん。そうしろ。他にも色々揃えなきゃいけないもんもあるだろうしな」

 優しく微笑むハンフリーさんの目が好きだ。
 本当にこの人が好きだ。一挙一動にときめくし、どきどきするし、幸せな気分になる。
 恋い焦がれた人が自分を好いてくれている。それなのに、恋の成就が現実的な段階になって、急に恐ろしくなって尻込みしている。

 ――ハンフリーさんが好きですよ、私。

 私がぽろりとそう言ってしまった時、ハンフリーさんはひどく辛そうな顔をして首を振った。あの瞬間、ハンフリーさんの笑顔は私の言葉によって曇った。
 ハンフリーさんと付き合ったとして、別れの時が来て振られるときに。
 あの時と同じ顔をさせてしまったら・・・・・・・・・・・・・・・・
 もうあんな顔見たくない。あんな顔させたくない。

 ――いつか私に自信がつけば、このひとの手を迷いなく取れるだろうか。
 一歩を踏み出して、貴方が好きなんです、と目を見て言えるだろうか。
 それまでハンフリーさんは待ってくれるだろうか。
 屋根に雨だれの音が聞こえる。外では雨が降り始めたらしい。この雨が朝止んで、出かけられるようになったら。
 ショッピングのついでに、ハンフリーさんをごはんに誘ってみよう。
 誘い文句はどうしよう。想像するだけで緊張して頬が熱くなってたまらなくなる。私は唸って、ウォッカを勢いよく煽った。





2017/09/24:久遠晶
 ベロリンマン友情出演。ベロリンマンかわいいよベロリンマン

 もしいいね!と思っていただけましたら送っていただけると励みになります!
萌えたよ ハンフリー夢もっと読みたい! 誤字あったよ 続編希望!