一緒に歩こ!
夢──。
これは夢だ。
私の意識は記憶の奥深くをたゆたい、夢を見ている。
それは楽しい楽しい記憶だ。私の人生の絶頂。ハンフリーさんが私を好きだと言ってくれてからの数ヶ月。
こんな後ろ向きで臆病な私を受け入れてくれたハンフリーさん。
私の大切な兄。なにより大切な人。
そのわずかな時間を、私は大切に大切に反芻していた。
夢から覚めたくなかった。居心地の良い酩酊の中に居たかった。
だって夢から覚めたら、全部夢だったら。そんな絶望味わいたくない。
ひょっとすると、私はもう死んでるのかもしれない、と思った。別に死んでたってあんまり問題ない。ただハンフリーさんや孤児院のみんなは泣いてくれるだろうか。
──泣かないでくれたほうがいいなぁ、と思った。
ふと気がつくと、甘い記憶の反芻は終わりを告げた。
私の目の前に、小さな子供がいる。父と母の真ん中で、幸せそうに。
家の外で魔物の唸り声がする。
父と母が様子を見に行くと言う。子供は怯えた表情で行かないで、と手を引っ張る。
父と母はにっこり笑って、「大丈夫よ」と笑った。
思い出したくない──私の記憶。
この時、意地でも両親の手を離さずいればと何度も考えた。毎日父と母が私を責める悪夢を見た。
でも、あぁ、そうだ。
本当は分かっていた。両親は私を恨んでなど居ないことに。
だって──あの時私の頭をふわりと撫でた手は、怯えを押し殺した笑顔は、きっと私が弟に浮かべた表情と同じはずだ。
父と母は家を襲った魔物から私を守ろうとした。畑の様子を見に行く、なんて私を気遣った嘘をついて。
そこにあるのは私への慈愛だけで、恨むはずがないのだ。
アラクラトロの攻撃を受けて、全身が千切れ飛びそうなほど痛かった私が最後に思い浮かんだのは──孤児院のみんなの笑顔だった。あの笑顔が失われるところなんて見たくないなと、私のことなんて気にせず、どうか息災でいてほしいと、ただそれだけだった。
だから父と母も、私を恨んでなどいない。
父と母が死んだのは私のせいでもない。ただ守ってもらった側の私がそうやって納得するのはおかしい気がして、自分を責めた。父と母に責めてほしかったから。
父と母に怒られたかった。両頬を手で挟まれて、ばかね、と叱られたかった。殴られたって構わない。二人が生きていてくれるなら。
でもそれは叶わぬ夢だ。父と母はとうに死んでいる。二人が望んでいるのは私の幸せだけだ。
私は自分を責めちゃいけない。
父と母の件で自分を責めてしまったら、弟のために身を呈してかばった私自身を否定することになる。
そしてなにより──私のことを気に病むであろう弟を、肯定することになる。
それはダメだ。一生自分を責め続ける弟なんて見たくもない。あの子たちには笑ってほしい。
この身体が燃え尽き、どんな痛みに晒されたって構わない。だけど孤児院のみんなには幸せでいてほしい。
ああ、なんだ、バカみたいだ。
私はさいしょっから、孤児院が一番大切だったんじゃないか。
ハンフリーさんを含めた孤児院。孤児院を含めたハンフリーさん。子供達を含めた孤児院。
私はあの共同体を──私の居場所を──愛していた。ハンフリーさんに恋をするあまり、孤児院を一番大事にできないと悩む時点で、私は孤児院が一番大事だった。
そんなことにも気づかない大馬鹿者だ。自分を恥じ入るけれど、でも、もう自己嫌悪は感じなかった。
心の中の霧が晴れていく。いつも感じていた目の前にある膜。卵の殻の薄皮を隔てたように、世界が自分とは違うという疎外感。
私は目の前に手をかざした。膜に触れると、実にすんなりと亀裂が入り、そこから光が漏れだした。
──ハンフリーさんに会いたい。
孤児院のみんなに会いたい。会って、抱きしめて、ギュってしたい。好きだよって言われたいし、好きだよって言いたい。
もう恐怖なんて感じない。私は逸る気持ちで、光の中に足を踏み入れた。
***
私は目を覚ました。
夢から覚めて、現実の中で意識を覚醒させた。
ぼんやりとした視界がじょじょにクリアになっていく。朝まで飲み明かして爆睡したあとの目覚めみたいに、手足がうまく動かない。
目に見えるのは孤児院の天井だ。
昔よくこの天井のシミを数えて寝てたっけな。
指先が動いた。グッグと手を握ったり開いたりして血液を循環させる。でもあまり力が入らない。寝起きが悪いのはいつものことだ。
唯一まともに動く首を動かしてみる。ぐるりと周囲に視線をやると、ここはハンフリーさんの個室だということがわかった。
元は神父様のお部屋。神父様が亡くなってからはハンフリーさんのものとなったベッドの上に、私は寝かされている。サイドテーブルにはぬいぐるみや花が所狭しと置かれていた。
ハンフリーさんがぬいぐるみ趣味だったわけはないから、私へのお見舞いの品だろうか。酒瓶のラベルも見える。
私はゆっくりと身体を起こした。口の中がカラカラだ。かなりの時間寝ていたのか、手足に全然力が入らない。
頑張って身体を起こすと頭がぐらりと揺れ、そのことに自分で驚いた。大した動作ではないのに、えらく消耗する。
身体は包帯だらけで、節々が痛い。着せられた病人服もすこしくたびれているけれど、いったい何日寝込んでいたのだろう。
「さん、入りますね」
不意にドアがノックされた。返事を待たず扉が開く。
目が合った瞬間、妹が硬直する。
手に持った桶とタオルが、すり抜けて床に落ちる。多分、蒸しタオルで身体を清めようとしてくれていたのだろう。
「あ、あ……」
「おはよ、面白い顔してるね」
軽口はしがわれたものになってしまった。ずいぶん久しぶりに声を出した気がする。
妹は目から大粒の涙をこぼしながら私に駆け寄った。強い力で抱きしめられ、息ができない。
「よかった、よかった、さん、本当に」
「うん、心配かけてごめんね」
肩口に涙がしみてくる。私は彼女の背中を撫で続ける。
「ハンフリーさん呼んでくる。ハンフリーさん、さんのことすごく気にしてて……元気な顔見せてあげて」
──ハンフリーさん。
その言葉だけで、胸が熱くなる。私は頷いて、身を離す彼女を引き止めた。
「待って、私が行く」
彼女の手を支えにしながら、ベッドから足を降ろす。膝から崩れ落ちそうになったのを、妹が支えてくれる。
私は膝に手を突いて、無理やり立ち上がった。
「無理しない方が」
「いいの。私から会いに行きたいから……」
心配そうな顔をしていた妹は、私の決意が固いと知ると抱いて支えてくれる。脇の下に手を回して、一緒に歩いてくれる。
「ゆっくり歩きましょう」
「うん、ありがとう」
亀の歩みで病室から出た。
礼拝堂への扉を開けると、子供たちが「おねえちゃん!」と立ち上がった。駆け寄ろうとする子供たちを、妹が制する。子供たちは慌てて立ち止まった。
私の意志を汲み取って、私を見守ってくれる。礼拝堂の絨毯の上をゆっくり歩いていくと、子供たちが外への扉を開けてくれた。
私はみんなの手を借りながら孤児院の外へと踏み出した。
柔らかな日差しの中、ハンフリーさんが玄関先でプランターの植物に水をやっている。
その肩がひどく小さく見えるのは気のせいだろうか。
同じように見えたのか、私を支えてくれている妹が、ぎゅっと私の服の裾を掴んだ。縋るように、支える力を強くする。
傍らの子どもたちも何も言わない。だからハンフリーさんも気づかない。だけどそれはおかしかった。普段のハンフリーさんなら、扉が開けば振り返って笑いかけるはずだ。だから扉が開いたことには気づいている。それでも無視しているだけだ。
「ハンフリーさん」
お腹に力を入れて、できる限りの綺麗な声で呼びかけた。だけどうまく発音できなくて、震えたものになってしまう。
ハンフリーさんの肩がピクリと震える。おそるおそる振り返って、私をみると硬直する。
力が抜けた指先からジョウロを取りこぼす仕草が、妹とそっくりだ。多分孤児院の子たちみんなが、私も含めてこの反応をする。
似ているのだ、私たちは。家族だから。
「起きたのか。そうか……よかった……」
ため息を吐くようにハンフリーさんが言う。こちらに来てくれない。
仕方ないので、こちらから一歩を踏み出す。片足を引きずろうとした瞬間「来るな!」と鋭い声が飛んできた。
ハンフリーさんは私に手を突き出して制止する。もう片方の手で顔を覆い、表情を隠して目をそらした。
「来ないでくれ。おまえに会わせる顔がない……」
「えぇ……?」
思っても見なかった言葉に、思わず変な風に笑ってしまった。
ハンフリーさんは指の隙間から私をちらりと見る。いつものにこやかな糸目ではなく、険しい表情をして、くちびるを引きむすんでいる。
「よく覚えてないけど、ぼんやり覚えてるよ。ハンフリーさんが来てくれたんだよね」
「ちがう。洞窟でおまえを襲った蜘蛛の魔物……アレは、昔オレが仕えてたヤツなんだ。だから、お前の怪我は、オレが」
その言葉で合点が言った。つまり、ハンフリーさんは私を助けに来てくれたけれど、元を正せば蜘蛛の魔物――アラクラトロをハンフリーさんが野放しにしたから私が襲われたのである。と感じて自分を責めている、といったところだろうか。
言いたくもないことだろうに、律儀に説明するハンフリーさんは律義だ。言わなくてもいい己の罪を、子供たちの前で告白するのはどんな気分だろう。
私を支える妹の手が震えている。その態度から、私が寝ている間ハンフリーさんがどれほど悩んでいたのかが伝わってくる。背後の子供たちもなにも言わないから、それがかえって不安げな気持ちを私に伝えてきた。
私は努めて明るく声を出した。
「でも、生きてたよ。ハンフリーさん。あなたが助けてくれたんでしょう」
「そんなのただの偶然だ。それに、お前の傷を治したのはロウやセーニャたちだ。お前を助けたのはオレじゃない」
頑な態度は、まるでバリアのようだ。ひりつくような感覚に、こっちまで辛くなる。私がなにを言っても、ハンフリーさんは納得してくれそうにない。
私は妹の手を離した。ふらつきながら自立する。
「ハンフリーさん、つもる話しはあとにしましょう。今は、モンスターに襲われて死にかけた妹を労わって、抱きしめてほしいところなんですが」
「それはだめだ、」
私がよろけつつ一歩を踏み出すと、ハンフリーさんが首を振って後退した。
縮めようとした分だけ距離があく。
「オレには、お前を抱きしめる資格がない……」
「ハンフリーさん、あなたはなにを、」
「すまない。本当に、オレは……っ」
ハンフリーさんはぐっと眉根を寄せた。胸元を掻きむしるようにこぶしを握るハンフリーさんは、私のほうを見てくれない。
二歩、三歩と後退して、踵を返して走り出す。ハンフリーさんは孤児院前の階段を逃げるように駆け下りて、すぐに見えなくなってしまう。
「ハンフリーさん!」
「ハンフリーにいちゃん!」
妹が泣きそうな悲鳴をあげる。子供たちもだ。悲痛な声はほぼほぼ半泣きだ。ハンフリーさんがずっとこの調子なら、みんなもつらかったことだろう。
ああ、くそ。もう。ばかみたいに真面目な人なんだから。
私はふらふらと歩き、ハンフリーさんを追いかけた。
追いかけないとだめだ、と思った。
久々に起き上がった私の身体はもうへろへろで、すこし歩いてしゃべっただけで息切れを起こしている始末だ。できることなら今すぐ寝たい。だけど甘えていられない。
ここでハンフリーさんを置いてけぼりにしたら、もう二度と会えなくなる――あの人の心に触れなくなるような気がした。
引き寄せられるように私も階段へ向かう。石段を降りようと片足を浮かせた瞬間、重力が失せた。
自分がどれだけ弱っていたのかを自覚する。
支える膝が折れて、前にもつれ込んだ。ぐらりと身体が揺れて、宙に投げ出される。
揺れる視界のなかで、石段を降りた先でハンフリーさんが私を振り返っていた。
「ッ!」
ハンフリーさんが叫ぶ声が聞こえる。石畳を蹴り上げる姿が視界の端に見える。ぎゅっと目をつむった。
衝撃のあと、力強いものに抱き寄せられる。予期していた痛みが来ない。
目を開けると、ハンフリーさんが私を抱きしめていた。
「起きたばっかなんだから無茶するなよッ! またお前になにかあったら、オレは……!!」
「ハンフリーさんはいつも、私を抱き留めてくれるね」
「……っ」
私をぎゅっと抱きしめたハンフリーさんは、触れていることに気がつくと慌てて私から離れようとした。それより早く首筋に腕を絡める。ぎゅっとしがみついて、絶対離さない。
「ハンフリーさん、待って。逃げないで」
「オレは……」
「ちゃんと触ってよ、ハンフリーさん、あなたが守ったものを」
ねじこむように言うと、肩を押す手から力が抜けていく。
それを受け、私も力を抜いて身を離す。ハンフリーさんの膝の上に乗って、ハンフリーさんの手を取った。
まるでグローブみたいな大きくて暖かな手。必死に鍛えて、ごつごつの拳。たこだらけのてのひら。それを両手で包み込んで、私の胸元に誘った。
「ちゃんと触って。ちゃんと聞いて。私の心臓、どくんどくんって動いてるでしょう。生きてるんだよ。ハンフリーさん、あなたのおかげで」
ハンフリーさんの手は大きい。心臓のある位置に触らせると、指先がたやすく鎖骨を超えて肩のほうまで行ってしまう。
どくんどくんと逸る心臓は、久々に起き上がって疲れているから。それだけでは断じてない。
ハンフリーさんが好きだから。
孤児院に居られることが幸せだから。
だからいま、私の胸はこんなにも高鳴っている。
ハンフリーさんにとっては、誰からも許されない罪なのだろう。
実際私は死にかけて寝込んでいたらしいので、罪悪感を背負うのも仕方ない。
だけど、言っちゃ悪いけど、私にとってはそんなことどうでもいい。
今はただ、私の言葉を聞いてほしい。
「あの魔物とハンフリーさんがどういう関係でも、どうだっていいの。私はあなたを責めるつもりも、恨む気もないんだから」
「お前は……何も知らないからそんなことが言えるんだ……ッ」
「そうかな、どうだろう。でも、あなたがどうしても自分を許せないって言うなら……お願いがあります。自分のなかの勝手な罪悪感より、まさにあなたの所業で害をこうむった私と向き合ってほしい」
ハンフリーさんがうっとくちびるを引き結んだ。
我ながらひどい言いぐさだと思う。ハンフリーさんの罪悪感と責任を刺激して、傷つける言葉だ。
だけど、こうでも言わなきゃこの人は納得してくれないだろう。
「ハンフリーさん、私と結婚して」
「……は?」
くちびるを噛み締めていたハンフリーさんが、思わずぎょっと目を見開いた。
そんなに唐突だったろうか。私のなかでは筋が通っている論理なのだけど。
「あなたがどうしようもなく罪の意識に駆られて、私への贖いの気持ちでいっぱいだと言うなら。私と結婚してください」
我ながらこれは、プロポーズというより脅迫めいている。
「私を世界で一番の幸せものにしてください。私と一緒に孤児院に居て、幸せになってください」
「。それは……」
「あなたが幸せにならないと、幸せになれない子たちがいるんです。――だからあなたは幸せにならないとだめなんです」
言葉にしていくと、感情がより強固なものになる。
無意識のうちに引こうとしていた一線から解き放たれた今、私には迷う理由がない。
恥じらう必要もない。
「あなたが好き。私の幸せはきっとあなたなしでは成立しないし、あなたのいない幸せなんかいらない。あなたのいる幸せを享受したい。それはあなたが幸せにならないとできないことなんです。だから全霊で、あらゆる不幸から孤児院を守ってください。なにがあっても私と子供たちを守ってください。私への罪悪感があるなら、そうやって責任取ってください」
「、それは、だが」
「もちろん私もハンフリーさんのこと守るから。もしあなたを責める人がいるなら、あなたの過ちのしわ寄せを喰らった誰かが、被害者があなたを責めるなら、私も一緒に背負う。一緒に謝る。一緒に償う。だから……だから……」
ハンフリーさんの両頬を掴んで、言い聞かせる。
どうかこの思いが届いてほしい。
ハンフリーさんが好きだ。
私を守ってくれた手。私を抱きしめてくれた腕。
いつも怯えて、逃げてばかりだった私を解放してくれたくちびる。
ハンフリーさんのなかで嫌いなところなんてひとつもない。
恨むはずがない。恨むわけがない。
どうかこの祈りが届いてほしい。
アラクラトロの爪先に切り刻まれた時、痛くて熱くてたまらなかった。死ぬほど怖かった。
でもあのとき私は、ハンフリーさんと子供たちへの想いでいっぱいだった。
愛してるのだと、心から思えた。
「――だから結婚しよう。ハンフリーさん」
目を見てまっすぐに言い聞かせる。懇願する。
万感の思いを込めた言葉が、すこしでも伝わってくれたのだろうか。
ハンフリーさんはぐっと歯を食いしばって鼻先にしわを寄せた。力なくうなだれて、ぽつりと言葉をこぼす。
「オレは……幸せになっても。いいんだろうか……」
「あなたが幸せにならないと、孤児院の子は幸せになれないよ」
はにかむと、ハンフリーさんは辛そうに目を細めた。それでもむりして笑ってくれたから。
すこしでもわかってくれたんだ、と思った。
私がほっとするやいなや、孤児院のほうからどたばたと子供たちが駆け下りてきた。わっとハンフリーさんを取り囲む。
「ハンフリーにいちゃんがしあわせになっちゃだめなんて、誰がいったの!」
「ハンフリーにいちゃんは孤児院のヒーローなんだよ! ゆうしゃさまよりもつよくてかっこいいんだから!」
「事情はようわからんけど、ウチ、兄貴には笑っててほしいわ。ウチらの気持ちすこしはわかったってな……」
子供たちは拙い言葉で必死にハンフリーさんを励ます。ハンフリーさんがなにをしていたのかもよくしらない子供たちの言葉は率直で、だからこそ人の胸を打つ。
ハンフリーさんは困惑したように私を見た。今まで何度も、子供たちに同じ言葉を言われていたはずなのに。
今初めてやっと、彼らの言葉の意味が胸に届いたみたいに。ともだちからの贈り物をどうすればいいのかわからない子供みたいな顔で、私をうかがう。
私は自信をもって頷いた。
「ハンフリーさん、やっぱりあなたのやさしさには意味があるの。あなたのやさしさで救われた子が、ここにはたくさんいるんだから」
「……オレは、本当に……」
「うん、いいんだよ。ハンフリーさん」
泣き崩れるハンフリーさんの肩を、ためらわずに抱き寄せた。
この身体を目で追うようになったのはいつのことだろう。
浮き上がる背筋、膨らんだ二の腕。首から下だけをみれば、鋼のような筋肉を纏うその人はとても恐ろしく見える。
でも本当は違う。糸のように細い目の奥の瞳は凪いだ海のように穏やかで、深い優しさを称えている。そしてその優しさ故に、自分の過ちを許せない不器用な人だった。
あれほど大きく見えた背中は、いまこんなに頼りなく震えている。
鼻水をすする音がする。病人服を貫いて、ぬくもりが染みる。涙はすぐに冷たくなって、私の肩口を濡らした。
ハンフリーさんがすがるように私を抱きしめる。子供みたいな手つきで服を引っ張られて、正直痛い。
ハンフリーさんの背中を撫でる。
大きくて、強くて、でこぼこした背中を優しくなでる。
家族を守るために必死だったこの人を、誰が責めたって私たちだけは受け入れる。
孤児院を守り続けたこの人を、私たちだけは守るのだ。
――それが家族というものだから。
その瞬間、空からまばゆい光が降り注いだ。
暗黒に染まった魔王の城が崩れ落ちるのが、遠くに見える。崩れる瓦礫が光の粒子となり、宙に霧散する。
魔王の城が光に包まれる。視界を白く染めるほど強いのに、不思議と見続けていられる優しい光。
世界が再編していく。
光のなかで作り替わっていく城は瞬く間に緑色に包まれる。
燃え尽きたはずの命の大樹が再生していく。
「いったいなにがおきたんだ!?」
遠くのほうで住民たちの動揺が聞こえる。異変を感じて外に出てきたのだろう。
私はハンフリーさんの首元に抱き付いたまま、再編していく命の大樹に見とれる。
太陽の光を受けて、命の大樹がまばゆく輝く。命の恵みとして空におわし、私たちを見守ってくれる。
「これは、いったい……?」
「が魔王を倒したんだ……がついにやったんだ……!」
顔を上げたハンフリーさんが確信をもってつぶやいた。
私に向き直って、ぐしゃりと顔を歪める。
それは、酷く出来の悪い笑顔だった。だけど最高に好きな笑顔だ。
***
グロッタの闘技場は魔物によって破壊され、カジノに作り替えられた。
娯楽の町グロッタのよさは、作り替えられたのならそれを利用してどうにかしよう、という町民のしぶとさによるものだろう。
グロッタの町の最下層。奥の奥にひっそりと、大きな大聖堂がある。
分厚い扉の奥から、うっすらと灯りとパイプオルガンの音が漏れ聞こえてきた。
礼拝堂の長椅子には様々な人間が座り、中央の赤い絨毯を歩く二人を祝福する。
白いタキシードを着た花婿が、ウェディング姿の花嫁をエスコートして歩く。
花嫁の後ろにはドレスの裾を持つ二人の子供の姿がある。
じゃんけんの激戦を勝利し、二人のそばに控える名誉を受けた子供二人は、まっすぐ前を向いて、誇らしそうに胸を張っている。
小さな少年神父の前に新郎新婦が並び立つ。
少年神父は分厚い本を持ちながら、たどたどしく言葉を発する。
「ハンフリーにいちゃん、ハンフリーにいちゃんは、おねえちゃんを妻とすることを誓うの?」
「はい、誓います」
「いい時もわるい時も、とめる時もまずしい時も、病気の時も健康な時も、共に歩み、他の者によらず、死が二人を分かつまで、愛をちかい、つまを想いつまのみにそうことを誓えますか」
「はい、誓います」
少年神父は迷いのない答えに、もっともらしく頷いた。くすくすとした笑いが漏れて辺りに響く。
パイプオルガンを弾く少女の指も、こころなしかリズムが狂ったが、指摘するものは誰もいなかった。
「じゃあおねえちゃんは、ハンフリーにいちゃんを夫とすることを誓うの?」
「はい、誓います」
「いい時もわるい時も、とめる時もまずしい時も、病気の時も健康な時も、共に歩み、他の者によらず、死が二人を分かつまで、愛を誓い、夫を想い夫のみにそうことを誓えますか」
「はい、誓います」
花嫁の誓いはうっすら笑いまじりのものとなった。
「じゃあボクは、二人の結婚が成立したことをせんげんします。二人がボクたちの前でかわした誓いを、神さまが固めてくれるんだって。きっと神さまも祝福してくれるよね!」
婚姻の誓いと言うのは、あまりに締まりのない宣誓だ。満面の笑みで少年は言い、「それで……」と釣り上げた。
「最後に、誓いのキスをするんだって。これでふたりの誓いにふたをして、一生結ばれるんだってさ」
促され、花嫁と花婿が向き合った。
花嫁の顔にかかる薄いヴェールをめくり、真正面に向き合った。
花婿が花嫁の肩を掴む。
女神像と人々が見守る中、二人の顔がゆっくりと近づいていく。
身をかがませるようにくちびるにくちびるを近づけ――そこで止まった。
「あのさあ、やっぱこの工程飛ばさないか? 人前でキスってのはなんかさぁ~恥ずかしいぜ」
一同がずるりと椅子からずっこけた。
ふざけんじゃねえ、と野次を飛ばしたのはあらくれもののガレムソンだった。
「さっきからそのガキもふくめてなんなんだ! リハーサルじゃねえんだろ! おじけつきやがって、それでも闘士の端くれか!」
「そうだそうだ!」
「こういうときに尻込みする男にはろくなのが居ないってあたいは知ってるのさ。ハンフリーも堕ちたもんだね」
「もっと思うさま振るまえばいいのに。ボクみたいに好きに自分を解放すればいいのんだ」
「ベロンベロン……オレも彼女ほしいベロン……」
闘士仲間からの好き放題の野次に、新郎がうろたえる。困ったように頭に手をやってぼりぼり掻くものだから、せっかく綺麗にセットした髪の毛が崩れてしまう。
花嫁はそんな新郎にくすりと笑って、彼の名を呼んだ。
「ハンフリーさん」
「ん?」
観客の方から花嫁のほうに向きなおった瞬間、花嫁が新郎の首根っこを掴む。首元に抱き付くように絡ませて、引き寄せて。
背伸びをして彼のくちびるを奪った。
瞬間、観客がわあっと沸立った。拍手と紙吹雪に包まれ、新郎が頬を染める。
泣きそうな顔で花嫁を見る。身を寄せ合い、新郎は気恥ずかしそうに胸を張り、花嫁は誇らしげに彼に寄り添った。
きっと新郎は、欲望に負け魔物の甘言に魅入られた自分を、一生許せないのかもしれない。この先何度も立ち止まって迷うだろう。それでもきっと、彼は歩み続ける。
その傍らに、彼を支える者たちがいれば、きっと未来は明るい。そのはずだ。
――こうして、ふたりは孤児院でいつまでも暮らしましたとさ。ちゃんちゃん。
と、いうことにはならないのでした。
大団円で迎えた結婚式。そのあとに。
子供たちがハンフリーとのもとに歩み寄ってきた。
「ふたりとも、改めて結婚おめでとう!」
「ぼくたちもすごくうれしい!」
「それでね、受けとってほしいものがあって……」
「みて! これ!」
こどもがなにかの紙切れを勢いよく差し出した。ハンフリーはそれを受け取り、首を傾げる。
「ソルティコリゾートの宿泊券……?」
「新婚旅行いってきなよ! ぼくたちのことは気にしないでいいからさ!」
子供たちが満面の笑みで二人に笑いかける。
ふたりは思わず顔を見合わせ、それから子供たちを抱きかかえた。頭をくしゃくしゃにして抱きしめる。
「なーにバカなこと言ってんだ! おれ達がお前を放って旅行にいくわけないだろ!」
「でももう宿とったもん! 行かないとお金無駄になるもん!」
子供は自慢げに胸を張る。ハンフリーたちの性格を把握したうえで、断れないように外堀を埋めている――出し抜いてやった、という自信が表情に現れている。
そんな子供たちの表情を見て、がにやりと笑った。
「ふふん、きみたちの工作なんてお見通しよ。これをみなさい」
が懐から紙切れを取り出した。
子供たちが見せたのとまったく同じ紙切れを。
「ソルティコリゾートなら、人数分すでに予約済みです!」
「ええっ!」
「そう! だからオレたちが今日から行くのは……新婚旅行兼家族旅行だーっ!!」
「ええ! ていうか今日!?」
「そうだ! すでに荷物はまとめてるからすぐ行けるぞ!」
ハンフリーが子供四人を抱きかかえながらくるくると回り出す。それを見てほかの子供たちも集まってくる。
「ねえ、お姉さん。本当に私たちも一緒でいいんですか?」
「もちろん。相談するまでもなくそのつもりだったし」
妹の言葉にが笑って答える。
子供たちと同じ宿を予約していたのは幸運だった。同じ住所からの予約を疑問に思ったホテルの人間がのほうへ連絡をしてくれたおかげで、ダブルブッキングにならずに済んだというものだ。
妹はすまなそうな顔をして子供たちと遊ぶハンフリーと、を見比べている。
そんなに遠慮しないでいいんだけどな、とは妹の肩を叩いた。
「家族旅行とか、したことなかったし。ちょうどいいじゃない」
「さん……!」
「わわわ、病み上がりだから寄り掛からないで~」
感激して抱き付く妹にが慌てる。抱きしめ返して、家族の体温と感触を染み入るように楽しんだ。
まさに順風満帆の家族、と言った様子だ。
不幸なことはいくつもあったが、それを乗り越えて幸せを築こうとする強さがある。
その様子を遠くで眺めるドラキー一匹、舌の長い人間ひとり。
「ぴきー、あれ、ボクたちはぜったい勘定にはいってないよねー」
「孤児院のメンツじゃないベロ、入ってなくて当然ベロ」
「ボクたちどうしよー」
「……ベロン。みんなの留守を守るベロン。結婚式の片づけしながら待ってるベロン」
ばたばたと着替えて、荷物を持って出かける準備を始める一同を見ながら、寂しげにつぶやいたベロリンマンとドラキー。
二人の様子に気がついたハンフリーが声を掛ける。
「あれ? ふたりは来ないのか?」
「へ?」
「えっ、ベロリンマンさんとドラちゃん来ないんですか。当然来るものと思ってたから、どうしましょう。二人分チケットが余っちゃう……リリアナさんとか来てくれますかね?」
「べ、ベロベロ!?」
「きゅいー。ボクもついてっていいの?」
「もちろん。まもの宿泊可の宿にしたんだよ」
ベロリンマンとドラキーはきょとんと顔を見合わせた。
ややあって、破顔。
「しょ、しょうがないベロねえ、そこまで言うならついてってやるベロ!」
「おっし、そうこなくっちゃな!」
ベロリンマンがハンフリーたちのもとへ走りよる。馬車に入って、みんなで揺られる。
すっかり子供たちのなかに溶け込むベロリンマンとドラキーをみて、ハンフリーとは顔を見合わせて笑った。
命の大樹が空高くに鎮座する。
願わくばこの優しい日々を、見守ってくださいますように。
――こうして、孤児院のみんなはいつまでも仲良く、幸せに暮らしましたとさ。ちゃんちゃん。
……やっぱり物語はこうじゃないとね!
ね、おねえちゃんもそう思うでしょ?
2017/10/26:完結