未だ止まぬ困惑




 兵士たちの進軍から、どれほどの時間が経ったのだろう。
 ややあって、ホメロス様が寝室に戻ってきた。
 先ほど寝室を出ていかれた時と違い、デルカダールの騎士としての正装――将軍の鎧を着こんでいる。

「ああ、ホメロス様!」

 私はベッドから飛び上がり、ホメロス様に駆け寄った。
 しかしホメロス様は私の腕をすり抜けてしまう。部屋のクローゼットを開けてローブを取り出すと、私に放り投げる。

「来い、

 言葉少なな命令。ホメロス様はそれだけ言うと、さっさと廊下へ出て歩いていく。
 慌ててホメロス様のローブに袖を通し、小走りになってついていく。

「あ、あのう……どちらへ行かれるのですか? それに、悪魔の子がどうと聞きましたが……」
「兵士から聞いているなら話は早い。面通しをしてくれ」
「え? 面……?」

 兵士用の宿舎を出ると、王宮の方へと歩いていく。
 城の敷地内は兵士がそこかしこに待機していて、物々しい雰囲気だ。自然と足が重くなると、ホメロス様が私の手首を掴んだ。
 そのまま私を引っ張って、ホメロス様はずんずん歩いていく。小手越しの手は大きい。マントを翻す背中は雄々しく、いつもであれば見とれていたところだ。
 しかし、そんな気分にもなれない。安心できない。
 私の震えが伝わったのか、ホメロス様は手首を握る力を強くする。

 ホメロス様が私を連れてきたのは、王の間だった。
 デルカダール王の前には何十人もの武装した兵士がつめかけている。
 その物々しい雰囲気に、私は反射的にホメロス様の背中に隠れた。デルカダール王は苦手だ。潜在的な忌避感がある。

「安心しろ、お前には指一本触れさせん」

 王に対してとは思えない強気な言葉。それでも怖くて、マントにしがみついてうつむいた。ホメロス様はそんな私に前に出るよう促す。

を連れて参りました」

 ホメロス様が王に膝をつく。私も慌ててそれに倣った。
 恐ろしい。デルカダール王が我が国を攻めたのは悪魔の子が絡んでいたからだ、とはわかっているけれど、本能的にすくみ上ってしまう。

「――おもてを上げよ」

 低くしがわれた声で命じられれば、無視するわけにはいかない。
 私は顔を上げ、王を見上げた。
 皺の隙間から見える瞳は威厳があり、冷たい。心臓を握りこまれたように、息が出来なくなる。

「そなたが悪魔の子と会ったのだな」
「……え? それは、いったい……」
「顔を確認しろ、

 ホメロス様が補足し、私に命じる。
 いったいなんのことだ、と思ったところで、王の前にいた兵士が動き、左右に割れていく。
 そうして、先ほどは兵士に隠れて見えなかったものがあらわになる。
 数人の兵士に、誰かが押さえ込まれている。
 髪が邪魔して、顔立ちはわからない。兵士が髪を掴んで頭を持ち上げさせる。
 ホメロス様に促されるまま立ち上がった。もつれそうになりながら歩み寄る。

「――あ、おねえ、さん……」

 森林で出会った少年が、混乱のまなざしで私を見上げた。宿屋で寝ていたのだろう、タンクトップにステテコパンツという下着姿だ。無防備で、武器も持っていない。
 混乱してしまう。何が起きているのだろう。
 だいたい、兵士たちは悪魔の子を捕らえに行ったのではないのだろうか。恐ろしい予測に、ごくりとつばを飲み込んだ。

「お前が出会い、これ・・を渡した少年とは、その子供のことだな?」

 ホメロス様が小袋と、その中に入っていたのだろう青い首飾りを持ち上げた。
 混乱しきった頭でも、正しく答えねばならないことはわかる。

「は、はい……。ガルーダ退治を協力してくれたのは、この少年です。小袋も預かりました。しかし、それがいったい……」
「ユグノアの首飾りを持ち、さらにそのアザ、か……。やはり伝説の勇者に他ならぬ!!」

 デルカダール王は声を張り上げ、立ち上がった。
 反射的にびくついてしまう。

「勇者こそが邪悪なる魂を復活させる者!! グレイグよ、この災いを呼ぶ者を地下牢へぶち込むのじゃ!!」
「は!」

 兵士が少年を引きずりあげ、首元に槍を突きつける。
 グレイグ様を戦闘に、五人がかりで少年を連行していく。成人したばかりで、武器も持たない少年に対してあまりにも厳重すぎる対応。
 少年は抵抗も出来ず、成すすべもない。ただ困惑のまなざしで私を見つめ、ぱちぱちとまばたきをした。

「ほら、早く歩け!!」

 急き立てられながら、少年と兵士が王の間から消えていく。
 やがて扉が閉まり、王の間にはデルカダール王とホメロス様、私、数人の兵士が残った。

「ほ、ホメロス様、あれはいったい……」
「――と言ったか」

 小声でホメロス様に話しかけようとした瞬間、デルカダール王が言う。条件反射のようにびくついてしまう。

「そなたのおかげで悪魔の子を捕らえることが出来た。今日は記念すべき日だ!」
「はっ」

 膝をついて返事をするが、脳が現状に追いつかない。
 あの少年が悪魔の子? あんなに純朴そうな子が。あり得ない。でも彼はイシの村で成人したばかりの16歳だと言っていた。年齢は確かに一致する、けれど。
 ぐるぐると頭を巡る。しかしデルカダール王に進言することはできず、私は額に汗を浮かべることしかできない。

「ホメロスも、よくこの首飾りがユグノアのものだと気づいたな」
「いえ。当然のことをしたまでです」
「この件が終わったら褒美を取らそう。ソルティコにでも行き夫婦で羽を伸ばすがよい」
「有り難き幸せです。王よ」

 立ち上がっていたデルカダール王は、玉座に座り直して息を吐く。そうして、片手を持ち上げ「もう下がるがよい」と手で示す。
 ホメロス様と共に一礼する。
 玉座の間を出て、そこでやっと息を吐く。

「礼を言うぞ。お前のおかげで、手柄が私のものとなった」

 私の背中を叩くホメロス様のお声が、珍しく弾んでいる。
 兵舎の自室に戻る道すがら、私はホメロス様の背中に声を掛ける。

「あのう、ホメロス様。本当にあの少年が悪魔の子なのですか? なにかの間違いでは?」
「なにを言う。あの少年は今はなきユグノア王家に伝わる首飾りを持ち、手の甲にはアザがある。証拠としては十分だ」
「ですがっ、やはり」
「王のご判断に不服があるのか?」

 ホメロス様が立ち止まり、私を見据える。まっすぐ見つめられると、なにも言えなくなる。
 私はうつむいて足元を見た。

「……いいえ。なんでもありません」
「気持ちはわかる。だがな、勇者は魔物を呼び、邪悪な魂を復活させる。――お前は悪魔の子と直接会話したから、きっと魔に当てられたのだろうよ」
「はい……」
「もうユグノアの悲劇を起こしてはならない。非情にならざるを得ないのだ、我々は」
「わかっております」

 私の言葉は、思っていた以上に重苦しく、渋い声となる。
 ホメロス様はそんな私を見てくちびるを釣り上げて微笑んだ。腰を抱いて、腕の中に引き寄せてくれる。
 純白の甲冑を着込んでいるので、正直冷たい。でもこうして抱き寄せてくれることが嬉しかった。

「私は……ホメロス様のお役に立てたのでしょうか?」
「当然だ。よくできた妻だよ、お前は」

 それは最上級の褒め言葉だ。ホメロス様のお役にすこしでも立てたのなら、私も願ってもない。
 嬉しいはずなのに、嬉しいと思えない。
 私はあの少年が悪魔の子だとは、到底信じられないでいた。


   ***


 次の日の朝早くから、ホメロス様は出撃の準備をなさっていた。
 少年が育ったイシの村に、その確認をするためだ。村人が悪魔の子にたぶらかされていないとは限らない。もしたぶらかされていた場合、なにをしでかすかわからないからだ。
 私に語った経歴が出まかせだった場合のことを考えて、悪魔の子の処刑はホメロス様の帰還を待って執り行われる。

「もし本当にイシの村出身だった場合、村人は……」
「――それはお前が知る必要のないことだ、

 鎧を身につけながら、ホメロス様は静かに言う。
 私の頭を撫で、頬に触れ、あやすようにくちびるにキスを落とした。

「これが終わればお暇がもらえる。二人でリゾートだ。嬉しいだろう? だからそんな顔をするな」
「そう……ですね。そうですよね。お帰りをお待ちしております」
「この期に子作りに励むのもいい。ソルティコでしたいことをよく考えておけよ」
「まあ、ホメロス様」

 ホメロス様はグレイグ様と同じく、将軍として数多くの武功を打ち立てているお方だ。お忙しいホメロス様だから、結婚生活は長くとも子を作る時間はなかった。
 しばらくお休みになる時間がいただけるのであれば、願ってもない。逆に私が休めなくなりそうだけれど、ホメロス様に女として求めていただけるのは喜びだ。
 装備を終え、出撃の時間が近づく。
 そんなとき、急にホメロス様が腰に手をやった。鎧の隙間のポケット部から何かを取り出す。小袋だ。

「これは持って行かなくてもいいか、邪魔になるし不吉だ」
「悪魔の子が持っていたものですか?」
「ああ。捨てておけ」

 私が悪魔の子から預かり、ホメロス様にお渡ししていたものだ。
 受け取って、首飾りを持ち上げた。
 青い光を閉じ込めた首飾りは、酷く緻密に作られている。光に透かすと、ユグノア国のしるしが浮かび上がるのだ。
 窓から差し込む朝焼けに照らされ、首飾りはキラキラと輝いている。反射した光がテーブルに映り、青と白の文様を映し出す。
 この光を見ていると泣きたくなる。
 祖国はユグノア国の属国で、付庸国としてユグノアの国内法の干渉を受けていた。王家だってユグノア王家に連なる者たちだ。そのためユグノア国への連帯と従属の意識も強かった。
 今は亡きユグノア国。今は亡き祖国。ふたつの国を愛していた。

「綺麗な光……」
「祖国とユグノアが恋しいか?」

 ホメロス様が目を細めて私に尋ねる。私は首を振った。

「惜しむ気持ちはあります。ですが過去のことです」

 この気持ちに、迷いはなかった。
 私にはホメロス様だけだ。国と共に己のすべてを失った私には、ホメロス様しかいない。

「ホメロス様さえいてくれれば、他はどうでも構いません」
「――すまない、意地の悪いことを聞いた。狭量な男だと見下げるか?」
「それこそ意地が悪いですわ、ホメロス様。私の返事など、わかっているでしょうに」

 私が返すと、ホメロス様は頬を持ち上げて笑った。両手を広げて、腕の中に私を誘う。
 甲冑姿で抱きしめられると、すぐに体温を奪われる。でも、その冷たさが好きだ。

「三日もすれば戻ってこれる。おとなしく待っていろよ」
「はい、もちろんです」
「言ったな? 勝手に国の外に出てまたガルーダに襲われてみろ、そうなったら部屋から出さんからな」
「はい。ちゃんとおとなしく待っています」

 ホメロス様がいたずらをするように私の耳たぶをくちびるで食む。私はくすくす笑いながら身をよじった。
 しばらくそうしてじゃれ合って満足したのか、ホメロス様が身を離す。
 嬉しそうに微笑んで、私の頬を撫でる。

「行ってくる」
「はい。ご無事をお祈りしています」

 ホメロス様は本当に嬉しそうだ。16年間王が探し続け、追い続けた悪魔の子を捕らえたのだから。
 この一件で、王の中でのホメロス様の評価は大きく上がることだろう。褒美もいただけるのだから、喜ぶのは当然だ。
 すべてがホメロス様にとっていい方向に向いているのだろう。それは間違いない。
 だから私も、ホメロス様のことだけを考え、胸中の不安を消すことだけを考えた。

 ――しかし。
 そう簡単にはいかないというのが、世の常らしい。
 ホメロス様が出撃された直後、悪魔の子が地下牢から脱走したという報が入った。幽閉していた盗賊、カミュと共に。
 城内はてんやわんやになり、城下町には手配書が回った。似顔絵は即刻、早馬や伝書鳩で各国に伝えられた。
 私は悪魔の子の脱走を恐ろしいと思うべきなのか、少年のことを思って安堵すべきなのか、わからなかった。
 兵士から伝え聞いたところによると、悪魔の子は盗賊と共に地下水路に逃げ込み、最後は滝に落ちて行方知れずとなったらしい。
 悪魔の子が脱走した翌日の今は、グレイグ様が周辺の河川を漁っている状態だ。

 城内は厳戒態勢だが、私のやるべきことは変わらない。
 いつも通りの仕事をこなし、ホメロス様が帰ってきた時のための準備をする。
 日中の作業を終え、私は自室でホメロス様へのプレゼントを作っていた。
 ホメロス様は将軍だ。相応に年俸も多く、物に困ることはない。そもそも養っていただいている身でもあるので、物品を買う気にもなれないのだ。
 だからこうして、せっせと手作りの贈り物を作ることになる。
 森で採取した雨露の糸と綿糸を折り合わせ、飾り紐を編んでいく。
 雨露の糸とは、森に潜むオオグモの巣に雨のしずくが絡み、雨露を内包した繊維の総称だ。オオグモの糸の強靭さと純水の魔力の遮断力があるので、鉄鉱石に混ぜて鎧の材料にも多く用いられる。
 元が蜘蛛の糸なので弾性と耐久性が強く、髪の毛を結わえる髪紐としては贅沢すぎるくらいだ。お守りも兼ねている。
 ホメロス様は、喜んでくださるだろうか。
 しばらく没頭し、髪紐が完成する。
 しかし雨露の糸がすこし余ってしまった。
 贈り物が髪紐だけと言うのもすこし味気ない。
 この糸でなにかできないだろうか。縛る、くくる、結ぶ……。

 そこで集中が途切れてしまった。私は椅子の背もたれに身体を預け、ため息を付いた。
 悪魔の子のことを考えてしまう。
 作業に没頭していた間はともかく、すこしでも集中が途切れるとすぐに気持ちが重たくなる。
 悪魔の子は魔物を呼び、災いを呼び、邪悪な魂を復活させる。だから生きていてはならないし、殺さなければならない。それはわかっている。
 しかし同時に、悪魔の子はユグノア国の忘れ形見だ。滅んだ今となっては唯一のユグノア王家の直系。属国の一族である私とは遠縁で結ばれている。
 私と悪魔の子は、互いに唯一の親戚に他ならない。
 悪魔の子を見た時の泣きたくなるような懐かしい感覚は、つまりそういうことだったのだろう。互いの身体に流れる血を、本能的に察知していたのだ。
 それを思うとふさぎ込んでしまいたくなって、私は慌てて首を振った。
 気晴らしに散歩でも行こう。
 デルカダールの街を散策するぐらいであればホメロス様もお怒りにならないはずだ。
 そう思い至り、身支度を整えて部屋を出た。

 今日は晴天だ。太陽はデルカダールの混乱など露知らず、さんさんと大地を温めている。
 さて、道具屋巡りでもしていれば、ホメロス様への贈り物のアイディアも出てくるだろうか。
 そう思い歩いていると、犬の鳴き声と男の野太い悲鳴が聞こえた。

「わんっ! わんわんっ!」
「お、おいなんだやめろ……う、うわぁ~!!」

 見れば、城下町の下層に繋がる門から兵士が足をもつれさせながら走っていくところだった。
 犬が兵士を追い立てるように走り、吠えている。
 その犬の毛並みと、首輪の色には見覚えがある。
 悪魔の子と出会うきっかけとなった、ガルーダを連れてきた犬だ。あの時はデルカダールに到着した時にいつのまにかいなくなっていたけれど、飼い主のもとへ戻ったのだろう。
 ということは、近くに飼い主がいるのかもしれない。
 ならば、一度注意しておかないと。放し飼いは危ないし、国の外に放るのはもっといけない。
 犬が出てきたのは下層――貧民街だ。治安が悪いのでホメロス様からは絶対に近づくなと言われている。私も、国を抜け出し森林へ探索に行くことは恐れずとも、貧民街には及び腰になってしまう。
 しかしか弱い犬の命がかかっているのだから、躊躇してはいられない。

 意を決して門に近づいた。すると、少し開いた門の奥から、話し声が聞こえてくる。

「いやあ、ありがとな、嬢ちゃん」
「別にいーよ。借りを返しただけだし。まさかこの子が怪鳥に襲われるなんて、思ってなかったよ。これからはもっとたくさん聖水つけてあげないと……」
「そうしとけよー? よし、行こうぜ

 幼い少女の声と、粗野な男の声。はきはきと突き放したような喋り方だから、つっけんどんな印象を受ける。
 会話の内容からすると、少女はあの犬の飼い主だろうか。
 反省しているならいいけれど――まって、どうして見てもいないのにガルーダに襲われていたとわかったのだろう――。
 私の疑問は、すぐに解消された。
 門を通りざま、死角から出てきた人と肩をぶつけてしまった。

「あ、すみません」
「ごめんなさい、よそ見をしていて――え?」

 ボロ布の外套を目深にかぶった人物と、視線がかち合う。
 影になって顔はよく見えなかったけれど、黒檀のような美しい黒みがかった茶をした瞳に、見覚えがある。
 見間違えるはずがない。脱獄した悪魔の子だ……!

「うっ……! あ、あくまの、」

 声が震える。悪魔の子がいる、と指を持ち上げかけた瞬間、少年の隣にいた男が服の裾をひらめかせた。
 私の肩を押して塀にぶつけ、そのまま脇腹への一撃。
 拳が脇腹にめり込み、私は息の塊を吐き出した。

「カミュ!」
「わかってる、即刻気絶させ――」
「げほっ、がほっ!」
「だ、大丈夫ですか!? 待って、カミュ」

 殴られた脇腹を押さえて、背中を丸めた。足元の土で足をすべらせたせいで衝撃が逸れ、意識は飛ばなかったが、その代わりものすごく痛い。
 むせて咳き込むと、誰かが背中を労わるように撫でた。
 それが悪魔の子の手だと気づき、反射的にはねのけてしまう。

「いやっ!」
「――あ……」

 瞬間、悪魔の子が迷子になって途方にくれた子供のような顔をするものだから、にわかに罪悪感が湧き上がる。
 時間が止まったように感じてしまう。しかし実際は、彼と視線を合わせたのは数秒ほどのことだった。

「ご、ごめんなさい……」

 悪魔の子はしゅんとうなだれた。
 そんなふうに、人間みたいな顔をしないでほしい。
 混乱してしまう。

「あらぁ、ホメロス様の奥様じゃない。そんなところでどうしたんだい」

 背後から声がかかった。デルカダールの市民が、私に話しかけている。
 一触即発の雰囲気が、カミュという青年――悪魔の子と共に脱獄したと言う盗賊だろう――から発せられる。
 悪魔の子も身を強張らせて私をうかがう。
 頬を汗が流れる。
 私は努めて平静を装って、市民を振り返った。

「じ……実はリボンが風に飛ばされてしまいまして。この方々が拾ってくれたんです」
「あらぁ、そうなのかい。下層は治安が悪いから、奥様が一人で近づくもんじゃないよ~」
「夫にもよくそう言われております」

 ぎこちなく愛想笑いを返す。市民は私の態度を特に疑問には思わなかったようで、手を振って公道のほうへと歩き去っていく。
 ああ、待って、いかないで。すがるように見つめても、市民の背中はまるでいつも通りだ。
 しかしここで市民が異変に気づいたら、それこそ市民の身が危ぶまれる。
 カミュは腰に下げたナイフにこれ見よがしにちらつかせているし、うかつなマネはできない。呪文を唱えようものなら、詠唱した瞬間に刺されてしまう。

「……あー、とりあえず、こっち……人気のないとこ行くか……」

 腕を掴まれ、歩き出す。腰に押し付けられた短刀が恐ろしい。

「カミュ、乱暴なマネは……」
「とはいえどうすんだよ。適当に気絶させとくか踏んじばっておかねぇと、オレたちまた牢屋だぞ!」
「でも」
「だいたいさっきの会話聞いてただろ、ホメロスの妻って言ってたぞ! 軍師ホメロス!」
「それはそうだけど……」
「あーもう、勇者様は慈悲深いこった!」

 彼らにとっては極めて合理的な手段を取ろうとするカミュと、ごねる悪魔の子。地下牢で知り合ったばかりの急造パーティだからか、意見は統一されていないらしい。
 二人とも私を殺す気がないのが救いだろうか。もし殴られても、なんとか気絶せず、気を失ったふりでやり過ごさなければ……!

「か、カミュはとりあえずオーブ取りに行きなよ。この人はぼくが見張っておくから……」
「……わかったよ。それまでにその女どうするか決めとけよな。逃がすなよ?」
「わかってる、さすがにそれがまずいのはわかるから」

 カミュは苛立ったように私を離した。悪魔の子に引き渡し、自分はどこかへと歩いていく。
 オーブ、と言っていた。デルカダールの国宝のひとつ、レッドオーブのことだろうか。あれはデルカダール神殿に奉納されているけれど、そのことを知らないのかもしれない。
 考えを巡らせながらも、目の前の悪魔の子から視線を外せない。自然と震えが走り、情けなくなる。

「あ、あの……」
「……なんですか」
「ごめんなさい、こんなことになって……ぼくも本当はこんなことしたくないんです」

 すまなそうに発せられた言葉には、本当に驚いた。
 てっきり恨み言を言われると思ったからだ。
 私がホメロス様に話を通すといい、結果悪魔の子は地下牢に捕らえられたのだから。一人で城に行ったとしても捕らえられていたと思うけれど、それでも私に恨み言のひとつは言いたくなるはずだ。

「でも、兵士の人たちがイシの村に行くって行ってたし、殺されたくはないし、母さんたちが心配だし……」

 言い訳のように発せられる言葉は、誰に、何を弁解しているのだろう。
 吐き気がした。悪魔の子の思考回路はよくわかる。
 私だって、彼の立場であれば同じように故郷を案じたことだろう。殺されたくないと脱獄を試みるのも、心情として理解できてしまう。
 これが、『悪魔の子に魅入られる』ということなのだろうか。純朴そうな少年の皮を被り、内心でほくそ笑んでいるのかもしれない。
 ──それでも。
 この子が悪人とは到底思えない。
 僧侶として修行を積んだ私は、同時に司祭としての資格も持っている。その私が、この子に宿る邪悪さを感知できない。無垢な少年にしか見えない。
 これが演技や、邪悪な気配を巧妙に隠しているのだとしたら、大したものだ。

 私は悪魔の子になにも言えなかった。ただ息を押し殺して、顔をしかめる。私の態度に、悪魔の子は少し傷ついた顔をする。
 三十分ほどしてから、カミュが帰ってきた。

「おかえり」
「ただいま。オーブなんだけどよ、デクのやつ持ってなかったんだ。アイツ城に返したって言っててよぉ。てっきり裏切ったんだと思ってたんだが、そうでもないらしくてよ……ま、おいおい話す。オーブを保管してるのは南の神殿だそうだ。方角的にイシの村にも寄れるはずだあるから、寄ろうぜ」

 重要なことをさらさら言う。悪魔の子はこくこくと頷いた。

「んで、その女はどうすんだ。手足と口を縛って、樽の中にでも隠しとくか」

 カミュが首をかしげると、悪魔の子が少し悩むそぶりをする。
 そして、おずおずと私の様子を伺いながら口を開く。

「イシの村の近くまで来てもらうってのはどうかな? 途中で解放すれば、この人がデルカダールに戻るまでの間の時間は稼げるし」
「気絶させたり縛るのがダメだってなら、それしかないだろうな」
「それでいいですか?」

 悪魔の子が私に尋ねる。
 拒否権などないというのに、なにを間抜けなことを聞くのだろう。底抜けにお人好しだとかいう言葉では片付かない。これが演技だとするなら過剰すぎる。
 私はため息を吐いた。

「どうせ嫌だと言っても連れて行くのでしょう。ならば聞く必要はありません」
「正論だな」

 カミュが頷く。じゃあ行こうぜ、と私の手を腕を引っ張って歩き始める。
 扱いはあまりに不服なものだが、しのごの言ってはいられない。
 私は契約している攻撃呪文といえば真空バギ系呪文程度のもので、街中で放てば広範囲をぐちゃぐちゃにしてしまう。
 詠唱を待ってもくれないだろう。
 だから市民を守るためには、彼らに従うしかない。

 しかし――私は。どういうことだろう。
 ユグノア国を滅ぼし、間接的に祖国をも滅ぼした悪魔の子。指名手配された大罪人が目の前にいると言うのに。
 私は全くと言っていいほど、恐怖を感じなかったのだ。
 そのことがデルカダールとホメロス様、祖国やユグノア国に対する重大な裏切りであるとわかっているのに、それでも。