摘まれし花の如く
燃えている。
村が燃えている。
民家は焼け落ち、崩れ、火はくすぶり続けて黒煙を上げていた。
ここに人々が生活していた跡が確かにあるのに、もう、それは無残に踏みにじられている。
イシの村の惨状に、私はなにも言えなかった。
十六年前、祖国を襲ったデルカダール兵。侍女の悲鳴。斬撃の音。燃える国。あの景色が、イシの村に重なる。
「ひでぇ……デルカダールめ、めちゃくちゃやりやがる……」
同じように絶句していたカミュが、絞り出すようにそう言った。
悪魔の子は立ち尽くしている。私の前を歩いているから、その顔がどんな表情をしているかわからない。
だが彼の身の切るような痛みは、顔など見ないでも伝わってくる。私も覚えがある感情だ。
それでも違うものがある。国にユグノア前国王に化けた魔物が逃げ込み、それを本物と信じてかばいたてた父によって我が国は滅んだ。悪魔の子は――は違う。
彼は己の出生によって、そのせいで慣れ親しんだ村を失ったのだ。
デルカダールの政治的判断はわかる。理解する。悪魔の子は生かしてはおけない。それもわかる。
ああ、しかし、しかし……!
この惨状を見ては、とてもそんなことは言えない。
今私の目の前に見える背中は、世界に災いをもたらす悪魔の子のものではない。村を失い、友と家族を殺された小さな少年の背中にしか見えない。
「あっ…………どこへ……」
少年はおぼつかない足取りでふらふらと歩き出した。
広場までやってきて、膝をついた。
息が出来ない。見ちゃいられない。目をふさいでしまいたい。
まあなんてひどいありさまなの、と他人事のように胸を痛めることなどできようはずがなかった。
私が祖国と家族を失った時、ホメロス様が手を差し伸べてくれた。しかしこの少年には誰も居ないのだ。いや、あるいはおなじくお尋ね者のカミュが、私にとってのホメロス様になりえるのだろうか。
わからない。
ああ、脳みそが焼き切れてしまいそう。
十六年のあの日、私を助けてくださったホメロス様が――ああ、ああ、信じたくない!!
イシの村にこのような蛮行を指示しただなんて!
恐ろしい。考えたくない。
「……あんたさ、イシの村に向かったのは自分の――いや、なんでもない……」
「私には……私にはこれがあの方の行為とは到底思えない……でも……」
「確認するのはやめといたほうがいいぜ。あいつらの容赦のなさはこの状況が物語ってる。下手なこと言ったらよくて地下牢監禁、悪くて死罪だ」
この期に及んで、デルカダールの者である私の身を案じる態度は、凶悪な盗賊のものとは思えない。すこし斜に構えているけど優しい青年の素顔が見えた気がして、私はデルカダールと彼らのどちらが正しいのか、わからなくなる。ぐるぐると思考が頭を巡り、答えが出ない。
***
「あんた、馬の扱いはわかるのか?」
野良の馬を捕まえてきたカミュが私に尋ねる。私は問題ありません、と頷いた。
馬術は騎士の妻の必須スキルだろう。もちろん私も仕込まれている。
デルカダールに私が早く帰れば、その分追手の追跡が早くなる。本来であれば私に馬を与えたくはないだろう。それでも、丸腰の私を放り出すことはできず馬を渡す。
本当に、悪人とは思えない。
「……私はデルカダールに帰ったら、すべて報告します。貴方がたがレッドオーブを手に入れようと考えていることも、旅立ちのほこらに向かおうとしていることも」
「あぁ、それでいいさ。その前にちゃっちゃと盗んで逃げるからな」
「――お姉さん」
少年が口を開いた。焼け落ちた村を見た時も、土から手紙を掘り返した時もなにも喋らなかった少年が。
今度こそ恨み言を言われるだろうか。殴られたり詰め寄られないことが不思議な状況だ。
「あの、ご飯代……これ、返します」
財布から小銭を出した少年が、私に差し出す。
なんのことを言っているのだろう、と思ってから、城下町で昼食代を立て替えていたのだと気づいた。
胸が詰まる。
この期に及んで、この少年は決して人を責めない。恨みはあるだろうに。
少年の手を意を決して掴み、小銭を握りこませた。
「あれは私が謝礼として支払ったものです。返す必要はありません」
「でも」
「いいから」
言い聞かせると、少年はしぶしぶ硬貨をしまう。
私は自分の首筋に手を回した。身に着けていた真珠のネックレスの留め具を外し、少年の手に握らせる。
「これ……!」
「逃亡中はなにかと入用になるでしょう。すこしでも足しになればいいのですが」
「おいおい奥さん、いいのかよそんなことして……。旦那……ホメロスが怒るんじゃねえのか」
「無傷で城に戻ったら、色々と疑われますから。悪魔の子に魅了されているのでは、などと疑いはかけられたくありませんからね」
少年はこんな高価なもの受け取れない、と首を振っていたが、私の言葉を聞くときゅっとくちびるを引き結び、ネックレスを受け取った。
「じゃあ、受け取ります。……ぼくのせいで、こんなとこまで来させてすみません」
貴方のせいではありません、と言ってあげたかった。
でも、それを言う資格は私にはない。
私は無言で馬に乗り上げた。まっすぐに私を見つめる少年の目元は赤い。しかし瞳の意志は失せていない。そのことに安堵する。
馬を数メートル走らせたところで、私は一度馬を止めた。
「お待ちなさい!」
デルカダール神殿に向かい歩き始めた少年を馬の上から呼び止める。振り返る彼に、ポケットに入れていたものを放り投げた。
ユグノアの首飾りを彼が受け止めたことを確認し、声を張り上げた。
「それは貴方のものです、ユグノアの王子よ。……私はホメロス様に味方することしかできません。だから、私は貴方の敵にしかなれません……だから……でも……」
――息災を祈っています、などと。
そんなことを言う資格は私にはない。言葉を飲み込み、私は馬を走らせた。
人に乗られることになれている馬は、私の指示通りに動いてくれる。
まっすぐにデルカダールへ。地面を蹴り、砂をまきあげ、モンスターを蹴飛ばしながら地面を駆ける。
急き立てられる。
早く、早く。あの方のもとへ。
きっと城内は混乱しているはずだ。突然将軍の妻が失踪したのだから。
ホメロス様はイシの村から帰還している頃だろうか。きっと心配している。心配してくれているはずだ。
一刻も早く、あの方のもとへ。
私はホメロス様のものだ。ホメロス様のことだけを考え、ホメロス様の幸せだけを望んでいる。
だからあの少年に協力することはできない。
悪魔の子だとは、もはや思えない。だからあのネックレスは、ホメロス様を裏切らない範囲での精一杯の助力だ。
***
無我夢中で駆けていると、見知った兵士の一団を発見できた。こちらに向かってきている。
黒い馬と黒い鎧の影が誰なのか、すぐにわかった。グレイグ様だ。
「夫人! ご無事でしたか!」
グレイグ様が馬に鞭打ち、スピードを速める。
集団の騎兵隊が眼前に向かってきたからか、馬が混乱する。馬具がないから、馬の動揺をうまく制御できない。
馬が前足を大きく上げていなないた。私はなすすべなく馬の背から滑り、地面へと振り落とされてしまう。
「夫人!!」
「いっつっ……私のことは構いません! ――悪魔の子が、向こうに!!」
グレイグ様が馬を止め、私に駆け寄る。抱き起こす手を制し、イシの村の方角を指差した。
「やはり、悪魔の子にさらわれていたのですか……!」
「急いでくださいグレイグ様、あの二人はレッドオーブを手に入れると言っていました!」
「……! お前たち、夫人を頼む! 丁重に城までお連れしろ! 第一部隊は俺と来い!!」
「はっ!」
騎兵隊の掛け声に合わせて馬がいななく。
グレイグ様は馬の背に戻ると、部隊を引き連れデルカダール神殿へと向かっていく。
私の保護を命じられた少数の兵士は、慌てて私に駆け寄ってきた。
「ご無事で何よりです、奥様! お怪我はございませんか!?」
「問題ありません……それより、夫――ホメロスは?」
「すでにご帰還されております。奥様が失踪したことを知ると大層狼狽なさって……別動隊であなたを捜索しておりました」
「ホメロス様もご安心しますよ。さあ、私の馬へ」
腕を支えられ、なんとか立ち上がった。身体の節々が痛むし、片足をくじいている。
しかし馬に乗るには問題ない。助けを受け、馬の背に乗せてもらう。
兵士と二人乗りしながら、私はひたすら息を整えた。
***
デルカダールの城下町を、騎兵隊の馬が走る。怯える国民など構わず門から城に一直線に向かっていく。
先導するホメロスは城に辿り着くなり馬を降りる。馬小屋に馬を戻すことすら忘れて部下に押し付け、足早に宿舎の道を歩く。
待ち構えていた兵士たちは性急な態度に慌て、ホメロスを追いかけて小走りになった。
「お待ちしておりました、ホメロス様! 様がお休みです」
「一体なにがあった? 報告しろ」
大股に絨毯を蹴り上げる度、弾んだ鎧がガチャガチャと音を立てる。
挨拶もなく命じるホメロスの言葉は端的で鋭い。険しく細められた瞳には焦燥が浮かんでいる。
どんな時でも薄い笑みを張り付け、感情を悟らせないホメロスらしからぬ表情だ。
「やはり悪魔の子にさらわれていたようです。命からがら悪魔の子から逃げたところを、我々グレイグ様の部隊が発見しました」
「グレイグは」
「悪魔の子を追いました。悪魔の子はレッドオーブが目的だったようで、デルカダール神殿の方に向かっています」
「クソッ! おい、グレイグに悪魔の子を捕獲したら殺すなと伝令を出しておけ!! このホメロスが直々に手を下してやるとな!!」
「はっ、はい!」
ホメロスの形相に兵士が気圧される。命令を受け、兵士のひとりが下がった。一礼し、来た道を引き返していく。
まっすぐ宿舎に向かうホメロスは不機嫌さを隠さない。
「それ以外は?」
「はっ。様はご無事です。意識もはっきりしておりますが、やはりショックだったようで怯えております」
「――それで?」
「へ?」
聞き返された言葉の意味がわからなくて、兵士は思わず間抜けな声を上げた。
上官への態度ではないが、今回のホメロスはそこを問題にしなかった。
「そんなことはどうでもいい。他に報告すべきことはないのか?」
「い、いえ……我々がご報告できるのは以上です」
「グレイグが帰ってこないとしょうもないか。くそ、ああ、忌々しい」
兵士はごくりとつばを飲み込んだ。
奥方の安否はホメロスにとって、最も重要なことのはずだ。将軍としてデルカダール国のことを考え、真っ先に悪魔の子の行方の話になるのは理解する。しかし人情として、奥方が気がかりに思って当然だ。
――それを、そんなことはどうでもいい、などと。
ややあって、ホメロスの自室に到着した。
ホメロスは部下が開けるより先に自分で扉を開けた。扉が壁に当たり、大きな音を立てることも構わずに。
「!」
「あ、ほ、ホメロス様……」
椅子に座った奥方が侍女の世話を受けている。
落馬で負った怪我は回復呪文で修復され、入浴も済ませているから汚れもない。髪は濡れ、つややかに光っていた。
そうして侍女に髪を結われていると、悪魔の子にさらわれていたとは到底思えない。
しかし、ホメロスを見た途端強張っていた表情がかすかに緩むものだから、彼女の置かれていた環境がうっすらでも見て取れる。
――悪魔の子にさらわれたなんて。どんな恐ろしかっただっただろう。
扉の前に控えた兵士は、奥方の心中を想像して胸を痛めた。
ホメロスはそんな奥方を見ると、ずんずんと奥方に向かっていく。椅子に座る奥方に膝をついて、彼女を見上げる。
「なにがあった、」
「ホメロス様……」
「悪魔の子と会ったのだろう。なにがあったのだ。奴らはどこに行き、どこに向かうつもりだ」
「か、彼らは……」
ホメロスを見つめる奥方の瞳に、さっと怯えが走る。手足が震えはじめ、慌てて侍女がホメロスをいさめた。
「奥様は戻ったばかりで動転なさっております。どうか……」
「あぁ、そうか、そうだな……」
ホメロスは息を吐き、頭を下げてうなだれた。
「もういい。お前たちは下がれ。グレイグの部隊が戻ってきたら知らせろ」
「はっ」
侍女と共に引き下がり、兵士は部屋を出る。
どんな時でも将軍としての己を忘れず、私情に流されない――ということなのだろうか。
部隊を率いる将としては理想的な姿のひとつであるかもしれないが、そのしわ寄せを喰らう奥方は何を感じているのだろう。
兵士は己の仕事に戻りながら、ぼんやりとホメロスについて考えていた。
***
「無事でよかった、。悪魔の子になにかされなかったか?」
兵士と侍女が退室し、扉が閉まるなりホメロス様がそう言った。
私の手を掴んでぎゅっと握り、安堵の息を吐いて。
「ええ、私は無事です。指一本触れられてはおりません」
それは真実であったが、自然と声が震えてしまう。
ホメロス様は目を細める。
「本当だな」
「はい」
ホメロス様が大きな息を吐いた。手を引き寄せられ、鎧越しに抱きしめられる。私の頭を撫でて、髪を梳いて、「無事でよかった」と繰り返す。
心底から心配させていたようだ。当然だろう。
「帰還した時、お前が行方知れずだと聞いた時は心臓が凍ったぞ。悪魔の子が、まさかお前に報復を……と……。よくぞ生きて戻ってきてくれた」
「ご心配をおかけして申し訳ありません、ホメロス様……」
心からの謝罪だった。しかし、今はホメロス様の背中に手を回すことが出来なかった。
確認したいことを、確認していない。
私はホメロス様の肩を押して、引きはがした。
「ホメロス様、私はイシの村を見ました。あの惨状を……」
「──そうか、そこまで連れていかれたのか」
コクリと頷いた。ホメロス様は俯き加減で顔を逸らした。長い髪に表情が隠されて、何を感じていらっしゃるのか読み取れない。
「あの村は……やはりホメロス様が……」
「非難したければするがいい。私が命令したことだ」
「……それだけではない、でしょう?」
「なに?」
顔を逸らしていたホメロス様が、私の方を見た。私はホメロス様の手を握り、ホメロス様の目をまっすぐ見つめる。
焼け落ちたイシの村。その光景は十六年前の祖国の末路に重なり、息ができなくなるほど胸がつまった。
でも、ひとつ確定的にちがうものがあった。
「イシの村には、肉が焼ける匂いがしませんでした。――村人をどこに移動させたのですか、ホメロス様」
ホメロス様の手に、脂汗が伝うのがわかった。じっとりした感触は、私の手とホメロス様の手、どちらから生じたものだろう。
どうかホメロス様からのものであってほしい。でもホメロス様の手のひらは小手で覆われているから、手汗を掻いたとしても私の手までは届かないこともわかっていた。
「……お前は冷静だな。普通、あの惨状を見ればパニックになっておかしくないだろうに」
「ホメロス様、それは」
「隠してもしょうがあるまい。安心しろ、村人は全員生きている……デルカダールの地下牢に押し込んでいるがな」
「あぁ、あぁ……よかった……!!」
安堵で肩から力が抜けていく。深い息がもれる。自然と胸で手を合わせ、目の前のホメロス様に頭を垂れた。
「慈悲深いご采配、感謝いたします。ホメロス様……あぁ……!!」
「――別に、私の命令ではない。グレイグだ」
「グレイグ様……?」
「ああ。途中で追いついてきてな、村人に罪はないのだから殺す必要はないとまくしたてるのだから困ったものだ。あいつの留守を隙を突かれて悪魔の子の脱走も許しているしな」
ホメロス様は不機嫌そうに目を細めた。グレイグ様とよっぽど言い合ったのだろうか。
「地下牢で世話をするより殺したほうがてっとり早いというのに、そんなこともあいつはわからない」
「それは……」
「……すまない。お前に対して言う言葉ではなかった。失言だった」
私は首を振った。
小さな村とは言え、村人全員を牢屋で養う出費はバカにはならない。長期的に見れば多大な損失であることも、数字として理解している。
ホメロス様は効率を重んじる方だ。職務に人情は介さないし、単純な実力や数を見て判断をなされる。
「私は本気で村人を殺すつもりだったし、それを止めたのはグレイグだ。感謝するならグレイグであるべきだ」
「ですが、最終的な決定権はホメロス様にあったはずです。お二人の慈悲深いご判断に感謝いたします……」
「俺が慈悲深いなど。非情の間違いだろう。部下からもそう影口を言われる」
ハッと息を吐き、ホメロス様は顔を歪めて自嘲した。
その表情に、たまらなくなる。
手を伸ばしてホメロス様の頬に触れる。長い前髪を掻き分けて、両目を見つめた。
「ホメロス様はご自分が冷酷だと思ってらっしゃるのですか? それは違います。貴方はとてもお優しい方」
「お前が勘違いしているだけだ」
否定するくちびるにくちびるを寄せた。
薄いくちびるに触れられる栄誉を、私はとても嬉しく思う。
軍師として大成し、デルカダールの双頭の鷲としてグレイグ様と並び称されているというのに、その実ホメロス様はあまり自信がないようだ。
軍を率いる重圧がどれほどのものか私は知らない。だから、ホメロス様の孤独を癒すことができない。
私は二歩後ろに控え、付き従うことしかできないのだ。
数秒ほど押し付けたくちびるを離すと、後頭部に手を回された。獰猛な舌が追いかけてきて、私の口は瞬く間に捕食されてしまう。
ホメロス様のキスは激しい。行為そのものは手加減してくださるのだけど、キスとなると容赦がない。
私は酸素を補給する間もなく追い立てられ、息が上がってしまう。
「私の両手はそう多くのものを掴めない。掴む気もない。……王が望めばお前だって捨てるだろう」
「それで構いませんホメロス様。迷わなくてよいのです」
「――だが、我が王は寛大だ。そんなことは命じない。だから私にはお前だけだ。。お前だけだ……」
抱きしめられて、耳元でそう甘く囁かれる。その言葉は私の胸を温かく満たしてくれる。
将軍の鎧を着ているから、抱きしめられるとひどく冷たい。でも構わなかった。
「もうすこし、もうすこしだ。もうすこしですべて成就する。悪魔の子を捕らえ、倒した暁には、王が私のことを認めてくださる。そうすればすべてオレたちのものだ、」
愛の言葉を囁くように目を細め、頬を持ち上げる。
悪魔の子を倒し、デルカダール王の悲願を叶えた後のことを語るホメロス様に、私はなにも言えなかった。
少年――を災厄をもたらす者とは思えない。思いたくない。だけれどあの子が生きているだけで世界に災いがおとずれるとするならば――戦いは避けられないのだろうか。
「ホメロス様……どうか、やカミュへの寛大な対処をお願いいたします。どうかその時は、苦しまずに逝かせてやってください」
「寛大な対処、か。さらわれたと言うのに慈悲深いな、お前は。それとも悪魔の子にほだされたか?」
ホメロス様の双眸が、きゅっと細められる。とがめるような目だ。
「、お前は悪魔の子となにを話した? なにをされた? お前には私だけがいればいい。そのはずだろ?」
「ええ、ええ……ホメロス様。私には貴方だけ」
「ならば私に示せ。お前の愛を」
命じられるまま、私はホメロス様を抱きしめた。
こういうことを命じるときのホメロス様は、まるで迷子の少年のような表情をする。世界に取り残された見捨てられた少年のように怯えた顔をするのだ。
もどかしい。
なにを言えば、この方に伝わるだろう。
ホメロス様が好きだ。愛している。
ホメロス様だけがいてくれれば、私はそれでいい。武功も、武勇も、宝石もドレスも要らない。
例え世界が終わってしまっても、ホメロス様が変わらず居てくれればそれでいい。
ホメロス様が『来い』と言ってくれるなら、私はどんな道だって怖くない。ホメロス様の背中だけを見て、付き従って歩いていける。
「私のそばにいろ。心変わりは許さない」
「ええ、ええ。心得ております」
ホメロス様の頭を撫でて、背中を撫でる。
形式上は夫婦だけれど、ホメロス様は私を愛してはいないだろう。
妻として十六年寄り添ってきたから相応の愛着は向けてくださるけれど、それが『情愛』かどうかと言われると――自信がない。
十年ほど前は愛されていると思えた。この人のなかに私はいると確信できた。
でも、今は……。
ホメロス様のお心に陰りが出たのは、いつ頃のころだろう。私が変化に気がついた時には、この方の心が離れてしまった。という実感だけがあった。
その証拠に、ホメロス様はこの部屋に入ってくるなり「悪魔の子となにがあった」と言った。
安否を確認し安堵するよりも先に、冷静に悪魔の子に繋がる情報を得ようとしたのだ。
私を心配してくださっている気持ちは本心だと思うけれど、優先順位は歴然としている。
きっといま、この方の心の奥に、私はいない。
ホメロス様の心の奥に誰がいらっしゃるのかはわからない。私の知らない女が座しているのか、あるいは仕えるべき王しか存在しないのか。
そんなことはどうだってよかった。
ホメロス様の心がほしいとは思わない。
わがままは言わないから、どうか、ホメロス様の心の隅に、私という女が存在していますように。
一輪の小さな花でしかなくても構わない。いずれ手折られ、踏みにじられて捨てられたっていい。
その瞬間、すこしでもホメロス様のお心が楽になるのであれば――それでいい。
だからやはり、私はホメロス様の味方しかできない。
のことは心配しているし、不安もある。だけれど、ホメロス様が王の為を追い詰めるというのなら、私はそれを止めることが出来ない。
私が願うのは、私を救ってくれたこの方の行く末が、幸せな光に満ちていることだけだから。