暗中模索
「悪魔の子を取り逃がすとはどういうことか!」
王の間には宰相の怒号が響き渡っていた。その剣幕に、扉の前で控える兵士がわずかに肩を揺らした。
ひざまずく将軍グレイグは微動だにせず、甘んじて言葉を受け入れている。
宰相は続けてさらに言葉を続けようとし、デルカダール王が片手を上げたことに気づき口をつぐんだ。
「──それで、悪魔の子はどこへ逃げたのだ?」
「はっ。旅立ちのほこらに入った悪魔の子らは、祭壇の光に包まれたあと忽然と姿を消しました。扉が閉まる寸前、その様子が見えましたが……もう旅立ちのほこらは開かなくなりました。彼らは扉を開けるのに必要なマジックアイテムを持っていたのでしょう」
「行き先はわかるのか?」
「……いえ。ただいま部隊を出撃させ搜索をしております」
グレイグは頭を垂れたまま王に答える。
悪魔の子を取り逃がすなど、なんたる失態。そう思い歯ぎしりをしているのは、グレイグ自身だ。
王はグレイグの返答を受け、ホメロスへと視線をちらりとやった。
「ホメロス。お前はどう思う?」
「各国に使いを派遣し、指名手配の連絡と連携を取ることが急務と思われます。どこに逃げたかはわかりませんが、国や街を避けては移動できませぬ故……。捜索部隊も増員すべきでしょう」
「ふむ」
「し、しかしあまり兵士を外に派遣しては、諸外国にどう思われるか……国そのものの自治も危ぶまれるのでは」
「失礼ながら悪魔の子をみすみす脱走させ、放置しておくほうが問題かと。災いを呼ぶ悪魔の子を、どんな手段を使ってでも捕らえ極刑に処す。さすれば自然と、デルカダール国の姿勢を諸外国にアピール出来ると言うもの」
宰相が口を出した瞬間、ホメロスはぴしゃりと言い放った。
内政を任されている宰相の悩みもわからなくない、とグレイグは思った。兵士が手薄の時を狙って攻め込まれたら、あるいは内乱が起きたら、と警戒するのは立場上当然のことだ。
王は蓄えた口ひげをしがわれた指先で弄び、重苦しく沈黙した。思案し、口を開く。
「ホメロスの言う通りだ。お前の言うようにしよう」
「もったいないお言葉です」
玉座の傍に立つホメロスは、手を胸元にやり恭しく一礼した。宰相が面白くなさそうに歯噛みする。
デルカダール王は軍師としてのホメロスの言葉を、宰相よりも――誰よりも重んじている節がある。十六年前、ユグノア国が滅んでからというもの、デルカダール王は内政よりも軍事力の強化を優先してきたからだ。
しわ寄せを受けるのが宰相で、ホメロスやグレイグが重宝される傍ら、宰相は入れ替わり立ち代わりというように人が何度も変わったのだった。
下手にデルカダール王に苦言を呈すと、即刻任を降ろされることになる。それゆえ、宰相も思う事があれど中々口には出せない状況だ。
「ではホメロス。グレイグに対して、思うことは?」
デルカダール王の言葉に、グレイグは跪いたままぐっと顔をしかめた。
悪魔の子を取り逃がしたことの責任をどう取らせるか、ホメロスに意見を求めているのだ。
「この国にグレイグ将軍以上に腕の立つ者はおりません。グレイグ将軍が取り逃がしたということは、他の誰が追っていたにせよ取り逃がしたと言うことです。市民の保護を優先したのは、この国の将軍としてあるべき姿かと」
ホメロスはさらさらと言葉を紡いだ。紙面を読み上げるように。
「私個人として、誤解を恐れず言えばグレイグ将軍には感謝しております」
「ほう?」
デルカダール王は太く白い眉をはね上げさせた。厳格な顔つきに不機嫌さが宿る。グレイグは静かに冷や汗をかいた。
己の失態の責任を問う場で、ホメロスは何を言おうとしているのだろうか。と思案する。
「──グレイグが取り逃がしたおかげで、我が妻をさらった不届き者を我が手で捕らえられるのですから」
ホメロスがくちびるを釣り上げて笑った。
「王よ、どうかこの私めにお任せを。必ずや悪魔の子を捕らえてご覧にいれます」
跪いて進言するホメロスに、デルカダール王はほんのわずかに目元の険をゆるめた。
「そうだな。お主も妻をさらった悪魔の子を自らの手で捕らえたいだろう。よい、軍師ホメロスよ。お前に軍の指揮権と出撃する許可を与える」
「感謝致します、王よ」
「グレイグももう下がれ。ホメロスが出撃する間国に待機し、城を守れ」
「はっ!」
グレイグは立ち上がると、ホメロスと共に敬礼する。踵を返し、二人同時に玉座の間を後にした。
無言でまっすぐ前を見て歩く。背後で兵士が扉を閉めたことを確認し、廊下を曲がる。階段の踊り場に誰もいないことを確認し、立ち止まった。
「ホメロス、助け舟をすまない。感謝する」
「構わんさ。オレこそ感謝しているのだから。さっきも言ったがな」
ホメロスは肩を竦めて言った。冗談めかした態度と笑みを浮かべてはいるが、その実激怒していることが見て取れる。
グレイグに対してではない。悪魔の子に対してだ。
「……すまない。俺が捕らえていれば」
「構わんと言っただろう。悪魔の子はオレの手で捕らえなければ気が済まない。……クソ、想像するだけで腹立たしい……」
歯ぎしりして表情を歪めるホメロスに、グレイグは友としてたまらない気持ちになった。
ホメロスは奥方の進言により悪魔の子がデルカダール国に侵入したことを察知し、それを捕らえた。 すると、地下牢から脱走した悪魔の子はあろうことかホメロスの奥方を攫ったのだ。
これは自分を通報した報復行為に他ならない。
奥方は命からがら悪魔の子の元を逃げ出し、グレイグの部隊と鉢合わせした。その場で保護し、悪魔の子を追ったがすでに遅く、すんでのところで逃げられてしまった。
このような経緯があり、ホメロスは悪魔の子への怒りと憎しみを隠さない。
悪魔の子を取り逃がしたのはグレイグの失態だ。責任を問われて当然だし、ホメロスに恨み言を言われても返す言葉がない。
だがホメロスは、グレイグを責めない。
それどころか、かえって感謝している、という。
冷酷で皮肉気なところのある友人だが、この言葉は責任を感じるグレイグを気遣ってのものだ。
だからグレイグは、「すまない」と続けて謝罪する言葉を飲み込んで頷いた。
「しかし、手立てはあるのか? いやに自信満々だったが」
「オレを誰だと思っている、グレイグ。手がかりはある」
「手がかり?」
グレイグが聞き返すと、ホメロスはくちびるの端を持ち上げて笑った。
「妻がネックレスを悪魔の子に渡したのだ。ここまで機転の利く女とは思わなかったが、ともかく売却する時に足がつく」
「なんと……」
「他にもいくらでも手段はある。お前はせいぜい、城で謹慎していればいいさ」
ホメロスは自信満々だ。慎重かつ冷静な男がここまで言うのだから、よほどの勝算があるらしい。
「うむ。共に出撃することは出来んが、一刻も早い解決を祈っている」
「ドブネズミの二匹程度、オレだけで十分だ」
ドブネズミと来たものだ。グレイグは苦笑するが、経緯を思えば致し方ないことだ。
表面上ホメロスは妻のことなどどうでもいい、というふうを装っているが、その実深い愛を向けていることは隣にいてよくわかる。
愛していなければ、周囲の反対を押し切って結婚などしなかっただろう。
平民から騎士になったグレイグと違い、ホメロスは由緒正しい騎士の家系だ。地図にも載っていないような村の娘と結婚するとホメロスが言い出したとき、当然ひと悶着あった。
グレイグも当時のお家騒動はよく知っている。ホメロスの親からどうか説得してくれと泣いて頼まれたことは記憶に刻み付いている。
――なんとでもいえ、グレイグ。オレはあのお方をお守りせねばならん。絶対に曲げんぞ。
背筋を伸ばし、ぴしゃりと言い切ったホメロスの態度は、恋人のいなかったグレイグにとってたいそう格好良く、また羨ましく映ったものだ。
主君に仕え、心から愛せる妻を娶る。それは間違いなく騎士の理想の在り方のひとつだった。
当時ホメロスとグレイグは二十歳そこそこの青年だった。成人しているとはいえ、まだまだ若造の時分。その時すでに、ホメロスは人生を共に歩む伴侶を見つけ出していたのだ。
「お前の奥方は幸せ者だな、本当に」
「いきなりどうした、気持ち悪い。褒めてもなにも出んぞ」
ホメロスはいやそうに顔を歪めた。
昔はよく石剣で模擬戦やチェスをして遊んだが、今となってはプライべートな交流はほとんどない。グレイグは将軍、ホメロスは軍師という肩書きがどうしても付きまとう。気安く街に繰り出すことは出来ない立場になってしまった。
しかし。
――悪魔の子を捕らえ、平和になり、余裕が出来たら。
昔のように腹を割って話すのもいいだろう。
グレイグは微笑み、妻を攫われ国を侮辱され憤るホメロスを見やる。
自分が居て、この男が居る。ならばこの国は安泰だと、心の底からそう思ったのだった。
***
ホメロス様はグレイグ様に代わり、悪魔の子捜索の命を受けたらしい。悪魔の子を捕らえるまでは、ホメロス様とゆっくり過ごせる時間はないだろう。
出撃する際、ホメロス様は私に「部屋から一歩も出るなよ」と言った。
このところ、城から出るとなにか騒動に巻き込まれる。ガルーダとの遭遇もだし、悪魔の子との再会もだ。
ホメロス様が城内に留めておきたい気持ちもわかる。私も外にはしばらく出たくないから、願ってもないことだった。
私が部屋にこもることでホメロス様が安心するのであれば、いくらでも閉じこもるというものだ。
――それでも。
「まさかお手洗いに行くのにも護衛がつくとは……」
「申し訳ありません……これも命令ですので……」
「貴方を責めているのではありません。元々は私の責任ですし、甘んじて受け入れます」
「そう言っていただけると、こちらとしても助かります」
兵士はそう言ってぎこちなく笑う。
お手洗いを済ませ、共に部屋までの道を歩いていく。
部屋に戻ると、侍女が大きな箱を抱えて部屋まで運び込んでいた。
「あ、お帰りなさいませ奥様。こちら、ホメロス様が運ぶようにおっしゃっていた品で……」
「……これが……?」
「はい……」
侍女が所在なさげに、箱から物品をテーブルに置いていく。
スケッチブック。ぬいぐるみ。絵筆。積み木。編み物用の毛糸類。
「奥様がお暇にならないように、とのご用意だと思いますが……」
「それにしたって、積木とは……。あの方は私をいくつだと思っているのでしょう」
思わず眉間に手を当てた。
気遣いは有り難いけれど、遊び道具の対象年齢が疑問だ。
侍女はため息を付く私をみて、口元をほころばせた。以前、厨房でワインを割ってコック長に怒られていた子だ。
「ですが奥様、すごく嬉しそうですよ」
その言葉に苦笑した。そりゃあ、気遣い自体は有り難いのだから嬉しくなってしまうのは仕方ない。
ずれた配慮も、そこがお可愛らしい、と思ってしまう。
今日はホメロス様の代わりに、このぬいぐるみを抱きながら寝ようかしら。
***
ホメロスが出撃してから一週間ほどが経過した。
諸外国への遠征や牽制、使節団の結成など、ホメロスがかかわることは多い。戦争への意見役、という軍師の役目を超えて、ホメロスはデルカダール王から様々な任を与えられているのだ。
何度か帰還したことはあったが、休む間もなくまた出撃していく。
俺はと言うと、悪魔の子の捜索に関わることもできず、ただ石剣の素振りをし、兵士に訓練をつけるだけの毎日だ。
名目上は城の警備であるが、これは実質的な謹慎だ。
ホメロスが忙しくあちこちを飛び回っているというのに、なんと情けない。
自分自身に憤りながら、俺は居ても経ってもいられず城の庭を散策していた。警備も訓練も交代制なので、今日は非番だが、なにかをしていなければ気が済まない。
こうして将軍である俺が散歩しているだけで場の雰囲気が張り詰めるのだから、散歩にも意味は生じるのだ。
気がつくと兵舎の裏手にある馬小屋に来ていた。城をぐるりと一周し、兵舎まで戻ってきたのだ。
数の少なくなった馬小屋を、女性たち――いずれも兵士の妻だ――が甲斐甲斐しく掃除している。俺に気がつくと背筋を伸ばし、きびきびとした動きになる。俺は片手をあげ、気にするなと示した。
馬小屋でよく世話をしているはずの女性が居ない。
――夫人。我が友、ホメロスの妻。
彼女はいま、ホメロスから無断外出禁止令を出されているらしい。
悪魔の子の重要参考人であり、一度攫われているのだから、ホメロスが過敏になるのも仕方がないだろう。
冷たく、酷薄に見えるときもあるホメロスと違い、夫人はいつだって明るく笑みを絶やさない女性だ。騎士の妻たちのまとめ役でもあるので、彼女がいないだけでなんとなく場の雰囲気にハリや活気が足りない心地すらする。
ふとホメロスの部屋を見上げると、ちょうど夫人が窓辺に立っていた。窓を開けて空気の入れ替えをしているらしい。
窓格子に身を乗り出して、地平を見据える目は何を見ているのだろう。
出撃したホメロスを案じているのかもしれない。
その時不意に突風が吹いた。馬小屋の掃除をしていた女性がきゃあ! と声を上げ、身を竦める。
夫人も髪を押さえて身を強張らせた。しかしそれより早く、髪留めのリボンが夫人の指からすり抜けて行ってしまう。
手を伸ばすものの、もう遅い。
風に吹き上げられたリボンはひらひらと宙をただよい、地面へと落ちていく。
ちょうど、馬小屋の近くに。
拾って掲げると、夫人が俺に気づいた。
「お届けします、夫人。お待ちを」
張り上げた声は夫人には届いていないらしい。
口をぱくぱくと開閉し、困ったような顔をしている。
仕方がない。届けに行こう。
侍女に預けてもよかったが、夫人にはすこしお聞きしたいこともある。
ホメロスの部屋まで出向くと、見張りをしていた兵士が慌てて背筋を伸ばした。
「いかがいたしましたか、グレイグ様」
「夫人にご用があるのだが……」
「少々お待ちください」
兵士が部屋をノックし、扉を開ける。
「グレイグ将軍がお見えです」
「グレイグ様! まさか……」
「こちらが落ちてきたもので」
部屋に入って一礼し、リボンを差し出す。夫人は困ったように眉を下げた。
侍女が夫人の傍らで、腹の前で両手を合わせて控えている。椅子を寄せられているので、二人で座ってなにかをしていたらしい。
「ご足労をおかけしてしまい、申し訳ございません」
「いえ。私も暇でしたので。……少々、お時間を頂戴しても?」
「もちろんですわ。お紅茶を」
「はい」
夫人の言葉に、侍女がさっと歩いていく。
彼女がいなくなったあと、夫人は向かい側の椅子を指し示した。
「どうぞお座りください。時間をもてあましていたので助かります」
「失礼いたします。……これは算数、ですか?」
「ええ。読み書きと共に侍女に教えておりました」
数字の書かれたノートをぱたりと閉じ、テーブルの隅に寄せる。
夫人はふう、とため息を吐いた。
「王宮の侍女が文字の読み書きも出来ないとは……」
「そう珍しくはありません。デルカダールの識字率は年々下がっておりますから」
「え?」
「富裕層と貧民の差がどんどん広がっているのです。下層で生まれ、出生登録もされない子供も多いと聞きますから、実際は数字以上でしょう。教育も満足に受けていないのです、あの侍女も」
俺は思わず面食らってしまった。
内政の問題は俺も問題視してもいるところだが、戦いに出てばかりの軍の人間よりも、城で暮らす夫人のほうがより深刻に捉えているのだろう。
「国を担うのは人です。国民を守らねば、国は成り立ちません。だと言うのに……」
「ですが、王が国防に力を入れたことで国内の犯罪率は確かに減少しているでしょう」
「犯罪件数そのものが減ったところで、国民の不満が消えるわけではございません」
ぐうの音も出ない。軍の人間としては色々思うところはあるが、あっさりと論破されてしまった。
意外だった。俺から見た夫人は、いつだってホメロスの二歩後ろに付き従っていた。何年か前、デルカダールの祭りをホメロスと楽しむ姿を見て二人の時には子供のように無邪気なのだなと思いもしたが。
こうして政治に関心を持ち、きちんと意見を言える類の人だとは思わなかったのだ。
窓辺に視線をやり、まぶたを伏せる夫人は真剣にデルカダール国を憂いている。
普段明るく笑みを絶やさない方だからこそ、その表情に引き込まれる。名のある画家が描いた絵画のように思えてしまう。
「……あ。申し訳ありません。デルカダール王のお考えを否定するつもりはないのです」
「存じております。すみません、私は政治のことは不得手でして。ホメロスであればまっとうに意見を返せるのでしょうが……」
「差し出がましいことを……」
「そんなかしこまらないでください」
頭を下げて謝罪する夫人に、慌ててしまう。どうもこの手の女性は苦手だ。どう扱えばいいのかわからなくなる。
妻としての態度をわきまえている、ということになるのだろう。夫人にとっては旦那の同僚であり、ここで失態を犯せばホメロスの顔を塗ってしまう――と、思っているのだろう。ホメロスもそういうことを気にする人間だ。
「私は今日非番でして。そしてホメロスは私の親友で、貴方はその妻だ。ならば友人として接していただきたい。……俺が緊張してしまうので」
頭を掻きながらそう言うと、夫人はふっと目元をほころばせた。
安心したように微笑む夫人に、俺も安心する。
「寛大なお言葉、感謝いたします。グレイグ様」
ややあって、侍女が紅茶を持ってきた。ご丁寧にケーキまでついている。
流石にケーキまでいただく気はなかったのだが、当然のように二人分用意されると断るに断れない。
仕方なく食べ始める。
「グレイグ様は、ケーキはお好きですか?」
「嫌いではありませんが……」
「そうですか。私はすこし苦手なのです。美味しいと思うのですけど、胃もたれしてしまって」
「そうなのですか?」
夫人の言葉は意外だった。以前、ホメロスが夫人の好物はダーハルーネのケーキだと言っていたのを覚えている。
それを言うと、夫人は困ったようにはにかんだ。
「それはケーキ自体がどうではなくて、ホメロス様のお食事が幸せだったのです。それをケーキが好きだと勘違いしたのですね、あの方は」
「な、なるほど」
直球ののろけだ。思わずこちらが恥ずかしくなってしまう。
ふたりでゆっくりとケーキを食べ、他愛もなく談笑する。
今まで、夫人とふたりで話すことはほとんどなかった。ホメロスがあまり夫人を表に出したがらず、すこし会話しているとすぐ「なにを話している」と割って入るからだ。
なるほど、この女性であればよその男の目に映らせたくない気持ちも、わからないではない。
夫人はとても聡明な方だ。話ぶりからそれが伝わる。ホメロスが妻に選んだ女性なのだから当然だろうか。
あるいは、ホメロスがこの方に学を叩きこんだのか。
小さな村の生まれだと聞いているから、当然、教育も満足に受けてはいないはずだろう。しかし目の前の夫人には、そう言ったそぶりは一切見られない。
紅茶に角砂糖を落とす仕草すらしなやかで美しい。崩れて溶けていく角砂糖すら、夫人との別れを惜しむような。
「――それで、その時ホメロスのやつが、」
「まあ」
口元に手を当て、夫人が話に聞き入って瞬きをする。
些細なしぐさにすら気品が宿る、不思議な女性だ。地図にも載っていないような村の娘だったとは思えない。
ホメロス将軍の妻は元王族らしい――そんな噂が兵士の間で流れていることは知っている。夫人のしぐさが平民には到底思えないからこその噂だ。
これをホメロスが叩き込んだのであれば、ホメロスは王族の世話役にだってなれるだろう。
「……それで、グレイグ様」
「すみません、話し込んでしまいました」
「いえ。……暇つぶしに付き合ってくださるのは有り難いですが、貴方の望む情報を私は持っていませんよ」
「え?」
「悪魔の子の情報を聞きたいのでしょう? ホメロス様にお話した通りです。それ以外、言うべきことはありません」
確信している声だった。事実、図星ではあった。
恐怖を思い出させるかもしれない、と思うと聞くに聞けず、やめにしようと思っていた話題だ。まさか夫人からそれを言うとは思わなかった。
「……夫人は、悪魔の子と数日過ごしたのですよね。どのような人物だったのですか」
「貴方の望む言葉は言えません。極悪非道の恐ろしい少年だったと言えればよいのですが、事実はそうではありませんので」
「なんですと?」
「人のいい、お人好しの少年でした。慈悲深く、心優しかった。私は正直、あのまま逃げおおせてほしい、と心のどこかで考えているのですよ」
「それは……! 夫人、それは国家反逆ととらえかねない発言ですぞ。貴方の為に各地を回って捜索しているホメロスのこともお考え下さい。聞かなかったことにしておきますが……」
「そうですね。失言でした。……とにかく、私は貴方の迷いを払えません」
――そこまで見通しているのか。
グレイグは言葉に詰まった。
デルカダール神殿でレッドオーブを強奪した悪魔の子を、俺はみすみすと逃がしてしまった。
油断をしていたわけでも、手心を加えたわけでもない。
むしろ親友の妻を攫った悪魔の子、という強い義憤を持っていた。
しかし、それでも。少年の目を見て、一瞬……追跡の手が緩んでしまったのは事実だ。
「俺は……。いえ、なんでもありません。ぶしつけに部屋にきてしまったこと、お詫びします」
「いいえ。ホメロス様のことを聞けて幸せでした」
夫人はひそやかに笑う。目元と口元に細かな笑いじわが刻まれ、優しい印象になる。
美しい人だ、と、他意もなく思った。
きっとこの女性は、こうして顔に笑みのしわを刻み、美しく老いていくのだろう。
――ホメロスは幸せ者だ。こんな女性に愛されて。
悪魔の子の一件が終わったら、妻を探してみるのもいいかもしれない。がらにもなくそう考え自分で笑いだしそうになり、口元を引き締めた。
2017/09/25:久遠晶