向き合い方



 マシュとともに特異点に赴き、聖杯を回収する任に就いてから、どれほどが経ったのだろう。
 カルデアの外が吹雪に包まれ四季すらなくなった現状において、時間とは来たる崩壊へのカウントダウン以上の意味を失ってしまった。
 2016年のうちに聖杯を全て回収せねば世界そのものが崩壊するのだから、一分一秒とて無駄にはできないのだ。
 とは言え休息は重要だ。
 新たな特異点に赴くまでの間は戦いを忘れ、カルデアで疲れを癒す。そうマシュと決めていた。
 幸いカルデアに召喚されたサーヴァントたちは、みな休むのがうまく明るい連中ばかりだ。サポートに明け暮れるカルデア職員も彼らに励まされ、明るさを取り戻していた。
 しかし。
 わたしには一つ悩みがある。
 結構困った事態だ。悩みに判断が鈍り結束が緩めば、それは死に繋がる危険を孕む。
 どんな些細なことでも、迅速に解決せねばならない問題になりうる。しかし、解消には骨が折れる。
 わたしの悩み、それは……。

「おはようございます~…」
「相変わらずよく眠りますねぇ、マスターは」

 早朝、眠気まなこで食堂に入る。食事中のロビンフッドが、わたしを見やって苦笑した。前の空席を指し、座っていいですよと合図してくれる。
 促されるまま席に近づいたとしたとき、ロビンフッドの顔がうげ、と面倒臭そうな顔になった。

「クリスティーヌ」
「うひゃあっ?!」

 突然背後からかけられた声に、わたしは反射的に飛びのいてしまった。
 ま、真上だったからびっくりした。
 わたしの悩みのタネは、仮面の奥のどんよりとした赤い瞳でわたしを見つめ、眉を下げて密やかに笑う。

「クリスティーヌ、ああ、今日も君の声は美しい……」
「ふぁ、ファントムさん……」
「マスターがクリスティーヌってガラかねえ」

 ロビンフッドがちいさくこぼした。ほっとけ。
 ファントム・オブ・ジ・オペラ──オペラ座の怪人のモデルとなった彼は、マスターたるわたしを愛する歌姫と混同しているらしい。
 わたしのことをクリスティーヌと慕い、素晴らしい歌声だと賞賛する彼こそが、わたしの悩みの元凶だ。
 彼に自覚はないのだろうけど。

「いきなり背後から声かけてくるんだもん、びっくりしたよ」

 控えめに抗議するものの、ファントムさんはやはりにこりと笑う。言葉の意味を理解しているか謎だ。
 はっきり言って、やりづらい。
 サーヴァントはみな個性的だけれど、ファントムさんは飛びぬけている。
 なんというか……ただただ苦手なのだ。
 クリスティーヌと呼ばれても、反応に困る。

「クリスティーヌ、我が愛の人……」

 あいさつ代わりの賛辞を謳いながら、ファントムさんは空席の椅子をすっと引いた。
 どうぞお座りなさい、と言っているのだ。
 会釈して席に座る。ファントムさんの態度は基本的に極めて紳士的で、わたしを一番に気遣ってくれる。
 それと言うのも、わたしを歌姫だと混同しているからだ。
 ややあってファントムさんがわたしの分の朝食をトレイに持ってきてくれる。そのことに恐縮してしまう。
 罪悪感を刺激されるのだ。
 わたしはクリスティーヌ氏ではなく、歌姫でもない。彼が望む虚像は、なにひとつわたしに当てはまらない。
 歪んではいるけれど、きっととても無垢であろう彼を――利用しているような錯覚に陥ってしまう。


***


 サーヴァントとマスターのあり方は、それぞれ違うものだ。
 クー・フーリンの陰の側面を強調され、さらに女王メイヴの願いまでも組み込まれたクー・フーリン・オルタは、「サーヴァントは単なる兵器だ」と言う。彼に言わせればサーヴァントの人格は取るに足らない差異に過ぎず、その感情を考慮するだけ無駄なのだ。
 シュバリエ・デオンはわたしを新たな主人と言う。フランスに仕える彼/彼女わたしが、フランスに次ぐ主人だと認めてくれたことをわたしは嬉しく思う。

 ではファントムさんとは、どのような関係を構築すべきなのだろう。
 歌姫とその指導者、と言う関係ではないことは確かだ。
 人理修復の目的を理解しつつも、『君は最高の歌姫なりし者。歌姫には喝采を、喝采を』と──つまり拍手をする観客が滅んでしまっては仕方がないと自己解釈をはじめる彼との、付き合い方。
 はぁ。
 悩む。
 サーヴァントを信頼するだけ無駄であるとか、心を許しては寝首を掻かれるとか、そう言う考えもあるのだろうけど。
 だからこそ、わたしは自分のサーヴァントを信頼したいのだ。
 令呪があるとは言え、サーヴァントはマスターを裏切れる。マスターもサーヴァントを裏切れる。だからこそ。
 信用し、信頼したいのだと強く思う。
 いや、ファントムは信頼にたるサーヴァントである。彼は歪みつつも無垢な気持ちをわたしに向けるだろう。
 わたしをクリスティーヌと認識する、限り。

「はぁ……」
「大きなため息だね。お疲れかい、ちゃん」
「ロマンさん」

 よほど大きなため息が出ていたらしい。ロマンが苦笑している。
 わたしはいつのまにか採血が終わっていたことに気づき、恐縮してしまった。
 カルデアでは戦いがないとはいえ、身体管理は重大な任務でもある。こうして日々身体検査を行い、人類最後のマスターに異常がないか調べるのだ。
 肘にガーゼを押し当てて血を止めながら、ロマンが首をかしげる。

「悩みなら聞くよ? 僕は一応医者だからね。臨床心理も任せてくれ」
「え?ロマンさんに相談とか頼りない。彼女いないし」
「そこで彼女の有無を持ち出さないでくれるかなっ!?」

 からかうと、ロマンは笑いながらツッコミをいれてくれた。
 しかし目だけは真っ直ぐにわたしを見つめている。『それで、どうしたんだい』と話をもどされ、わたしはため息をはいた。
 このままはぐらかされてはくれないようだ。

「……ちょっと、サーヴァントとのあり方に悩んでて」
「サーヴァントとの関係? それってファントムのことかい?」
「なんでわかるんですかっ」
「そりゃ、いつもファントムにだけビクビクしてるって感じだもん。みんな知ってるよ」
「まじかい」

 思わず口が開く。
 会話の最中も、ロマンの手は止まらない。ガーゼが外され、注射痕に絆創膏が貼られた。

「ファントムは本来、意思の疎通ができないほどの重篤な精神汚染を抱えてる。彼の言葉が常に歌うようで、具体性に欠け、僕たちには理解しがたいのもその為だろう。それでも、彼はマスターに極めて従順だ」
「その通りだと思います。詩的な口調も、単なる個性と思えば……いいんでしょうが……」
「うんうん、クリスティーヌ呼びはきついよねぇ。ちゃんは可愛い子だけど、クリスティーヌって感じじゃないものなぁ」

 ロマンがしみじみ頷きながら腕を組んだ。事実なんだけど、なんとなーくけなされている気分になってしまう。
 わたしはうなだれた。

「もしかしたら『クリスティーヌ』ってのは愛称みたいなものかもしれないよ? きみをクリスティーヌその人だと勘違いしてるってわけじゃないかも」
「どーだか。わかりませんよ。なに言ってるかもわかんないことのが多いし」
「そういえば、今ファントムくんが君の部屋にいるんだっけ」

 コクリと頷いた。
 万が一にもカルデアが敵に襲撃されることを想定し、マスターであるわたしの部屋には護衛のサーヴァントが一人常駐することになっている。
 以前はマシュだったのだけど、ファントムさんと同室のサーヴァントから「うるさくて眠れない」と苦情が入り、めでたく彼がわたしの同室兼護衛となった。
 わたしがそばにいると静かに眠るだなんて、一体なんでなのか。単純明快だ。わたしをクリスティーヌだと思っているから。
 ただそれだけの話だ。

「うーん……でもまぁ、うまいこと折り合いをつけていくしかない。クリスティーヌ呼びと、会話が難解なことを除けば、彼はいいサーヴァントだよ。たぶん」
「それが致命的なんですよ、もう」

 ため息をついて立ち上がった。ロマンが苦笑し、頭を掻く。

「どうにも警戒しちゃうんです。どうにかしたいんですけど……びくついちゃって」
「医者としてはちゃんとカウンセリングしてあげたいところなんだけど、僕はどうにもその手の話題は疎くてね……まぁ、じっくりと考えていくといいさ」
「その手の話題?」
「きみの悩みは、ファントムを『警戒してしまう』ことでも、『クリスティーヌと呼ばれること』でもないよ」

 ロマンはにっこり笑って、わたしを見やる。訳知り顔で、目を細めて。

「そりぁ、もちろん不満のひとつだろうけどね。でもそれ以上に、きみはファントムのことをなにも知らないのがいやなんじゃないか? 彼はクリスティーヌを謳うばかりで、自分を語らないからね……もどかしいよね」
「へ? ……なんか、勘違いしてません? それもやばい方向に」
「さぁ、なんのことやら。ほら、検査は終わったんだから、早く出た出た! 僕の仕事はこれからなんだからね」
「わわわわわ」

 強引に背中を押され、部屋から追い出される。

「そうそう。図書室にオペラ座の怪人の原作小説があるから、興味があれば読んでみるといいんじゃないかい? 理解の一助にはなるだろうさ」

 ロマンは言うだけ言うと、扉をばたりとしめた。締め出され、廊下にひとりで取り残されたわたしはため息を吐いた。
 なんだか、のっぴきならない勘違いをされている気がする。
 ロマンの恋愛経験のなさが浮き彫りだ。恋愛経験がないからそんなアホな勘違いをするんだ……はあ、可哀想に。
 と心の中で憐れみつつ、今度改めて説明する必要がありそうだ。

「クリスティーヌ」
「おわっ」

 突然背後から声をかけられ驚く。しかも相手はファントムさん。先ほどまで話題にのぼっていた相手だ。

「あ、あのさー。いきなり後ろから話しかけないでくださいよ。せめてこう……肩を叩くとか。気配ないから驚くんですって」
「驚く悲鳴も、愛らしい。それが恐怖ならざる声であれば」

 朗々と謳う声。相変わらずの『ファントム語』だ。
 恐怖ならざる……ならざる、ってことは『~ではない』ってことだから……。

「…つまり、わざとやっておどろかせてるってこと? もー」

 呆れて溜息を吐けば、彼は顔の半分を隠した仮面の奥でゆったりと笑った。眉を下げ、濁った目を細めるのだ。
 さっきロマンに意味深なことを言われたからか、妙に意識してしまう。
 彼の視線から目をそらすと、ふと彼の髪の毛に埃がついていることに気がついた。

「ファントムさん、埃付いてますよ」
「ほこり?」
「ええ。左に……あ、そっちじゃなくて、ええと」

 ファントムさんからは右のほうです、と説明するより先に手が出た。一歩距離を詰めて、ファントムさんの髪の毛に手を伸ばす。
 その瞬間、ぎゅっとファントムさんの双眸が細まった。瞬時に彼の手が動き、

「我が顔を見てはならない」

 手首を掴まれ宙に固定された。

「……あっ……」

 ごめん、という言葉が出てこない。
 髪についた埃を取ろうとしたわたしを、ファントムさんは仮面に触れられるものと思い反射的に拒絶した。だからわたしは、ごめんね、違うんだよ、と、謝らねばならない。
 だと言うのに言葉が紡げなかった。険しい顔をした彼の目に絡め取られて、喉が張り付いて舌が動かない。
 手首を掴む手は、決して強くない。痛くない程度に加減された状態で、わたしの腕を宙に固定している。距離を取りたくて引っ張ってみるも、ビクともしない。
 まさに蛇に睨まれたカエル、という状態だ。
 誰か助けて。誰でもいいからこの場に通りかがって──。
 半泣きになりかけた瞬間、ファントムさんの険しい表情が不意にゆるんだ。

「我が仮面、我が醜さを隠すもの……。見たものは恐怖を知ることになる。秘めるべき、隠すべき醜悪なるもの」

 眉を下げて、ファントムさんは静かに目を伏せて視線をそらした。手首を掴んでいた手が外され、解放される。
 詰まっていた息が吐き出され、やっと息ができるようになった。

「わ、わたしは……」

 ごめん、というより先に、ある考えがよぎった。
 怒らせるだろうか。傷つけるだろうか。でも伝えておかなくてはと思った。

「ファントムさんの素顔なら、悪いもんじゃないって思うけどね」
「クリスティーヌ……?」
「ごめんね、仮面に触ったり、素顔を見てやろうってつもりではなかったんだけど。軽率だったよね……許してくれる?」
「……」

 ファントムさんはしばし逡巡した後、コクリと頷いてくれた。許すかどうかを迷ったと言うより、その前に言った言葉が気になっているようだ。

「それで、まだ髪にごみがついてて……改めて、とってもいいかな? 仮面には触らないから……もちろん、自分でとってもいいんだけど」
「……いえ……」

 恐る恐る手を伸ばすと、ファントムさんがおずおずと背中を曲げ、頭を差し出した。
 ほこりをつまんで、取り除く。小さなそれはゆびをすり抜け、カルデアの廊下をひらひらと漂い、すぐに見えなくなった。
 人手不足で廊下の清掃も行き届いていないのだ。今度掃除しとこう。

「あ、まって、ファントムさん」
「……?」

 丸めていた背を伸ばそうとしたファントムさんを止め、頭を差し出した状態でとどめる。
 下を向いた体勢だから、彼のまつげの長さがよくわかる。
 半分しか知らないけれど、ファントムさんの顔はよく整っていると思う。
 仮面に隠されたもう半分がどれほどの異形だとしても、様々なクリーチャーと戦ってみた身からすれば大した問題ではない気が──クリーチャーと比較するのはそもそも失礼か。
 でも。
 アンデルセンの腕を見たことがあるけれど、『普通と違う』というだけで醜いとは感じなかった。読者の想像によって変質した体を痛ましいと思うだけで、醜いだなんて、断じて──。
 異形の素顔により迫害され、オペラ座の地下に住んだ怪人。生前の所業はともかく、生い立ちには同情してしまう。
 死してなお、英霊に座してなお、彼は生まれつきの呪いから解放されていないのだ。

 恐る恐る、彼の頭に手を伸ばした。今度はじっと動かないでいる。
 ぽふん、と頭に手を置いてみた。
 彼の髪の毛はサラリとしていて、指通り滑らかだった。

「クリス、ティーヌ……?」
「あ、いや、この前の戦いも、よくやってくれたから、つい……ごめん」

 いやがる兆しがないから、撫でる手は止まらない。
 ファントムさんはいつだってわたしを守り、絶体絶命のピンチを切り抜け、駆け抜けてくれている。
 会話が通じないし、その澱んだ雰囲気にどうにも警戒してしまうけど──我ながら失礼な話だ。
 この頼り甲斐のある英霊を、警戒するなんて。

「あぁそうか、確かに、ロマンの言うとおりかも、わたし、あなたを知りたいんだ……」

 クリスティーヌと呼ばれるのはいやだ。
 わたしと言う人間を、認識してもらえてないようで。
 すぐそばで守り、戦ってくれる大切な英霊。その人に、自分を認識してもらえないのは悲しい。
 この感謝と信頼が一方通行のように思えて、それが悲しい。
 カルデアに現界した英霊、ファントム・オブ・ジ・オペラ──その人が今、全霊で守り仕えているのはクリスティーヌではなく、『わたし』だ。いずれ別れ、忘れ去られる定めだとしても、いま自分が誰に味方し守っているのかを、知っていてほしい。
 同時に、理解したいと強く思う。
 それなのに、彼の言動は詩的で、煙に巻くようで、理解しがたい。それがもどかしいのだ。

 ねじれていた感情が整理されると、ストンと腑に落ちる。まっすぐ前を向いてファントムさんを見る。
 彼はわたしに頭を撫でられた時から、ずっと驚いた顔で硬直している。
 その目を見ても、もう、居た堪れない気持ちにはならなかった。

「もっと一緒にいれば、あなたのこと理解できるかな? 難しいかな……人理修復するまでには、お互い仲良くなりたいなぁ」
「……クリスティーヌ」
「うん?」
「きみの歌は……愛ではない」

 また詩的な言葉だ。わたしはウンウンと頷き、ファントムさんの真意を探る。

「きみは愛の歌を謳わない……誰にも、誰にも……私にも」
「ん? んぅ、うん?」

 普段明朗と唄うようにしゃべるファントムさんに珍しく、言葉はぎこちない。
 ファントムさんは一歩下がり、わたしから距離をとった。俯いて自分の耳を撫で、顔を背ける。

「もどかしい──願わくばどうか、我が為に──」
「……へっ!?」

 次の瞬間、ファントムさんはバッとマントを翻した。視界が一瞬覆われ、暗闇になる。
 次の瞬間、彼の姿が掻き消えていた。
 アサシンクラスよろしく気配を絶って、この場を離れたのだ。
 まるで逃げるように──というか、完全に言い逃げだ。

「ね、ねがわくば、我が為に……? あいのあた、を?」

 詩的だし、難解だけど、これは、これは、これは──情熱的な、言葉ではないだろうか。
 だって。
 マントを翻す寸前、見えた横顔は朱に染まっていたのだ……。
 つられてわたしの顔も熱くなる。
 どきどきしてきた。
 ファントムさんに『きみの声は美しい』とか、『きみの声を愛している』とか、そんな褒め言葉は何回も言われた。今回も同じやつだ。
 今のはクリスティーヌへの言葉で、きっとわたしそのものに対する言葉じゃない。
 なのに、なのに──。
 わかっちゃいるけど、上がった体温はしばらく引いてくれそうになかった。

 廊下に立ち尽くしたまま、しばらく動けそうにない。
 どきどきする心臓を持て余していると医務室のドアが開いて、ロマンが首をかしげた。

「あれ? どうしたの。忘れ物でもした?」

 その邪気のないへらりとした顔にムッとして、八つ当たりだとわかっちゃいたけどとりあえずペシペシロマンの腕をたたいたのだった。


 次の日食堂で会ったファントムさんは相変わらずの様子で、廊下でのことを覚えているかも定かではなかった。
 だけど、もう彼に話しかけられても、わたしは怯えずに済むだろう。

「クリスティーヌ、きみの声は美しい」

 歌姫に真摯に愛を囁く彼のことを、好ましいと感じている自分がいた。
 重度の精神汚染を受けていたって、彼はわたしの信頼すべき、誇り高き英霊だ。





2017/01/13:久遠晶
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