禁欲家の忠告
マイルームのインターフォンが火花を散らして単なるガラクタになった。床にガタリと落ちた残骸が物悲しい。
私はベッドの上で縮こまって、わずかに後ずさりした。すぐに壁が背中に着く。
「おーい、ちゃん。マシュがきみの部屋に入れないって連絡があったけど……」
傍らの通信端末からロマ二の声が聞こえる。カメラは天井を向いているので、彼からはこの部屋の惨状は見えないのだろう。呑気な声だ。
私はロマ二の方をちらりと見て、すぐに視線を前へと戻した。
部屋の入り口からベッドまでは三メートルほど。人間なら走って数秒だが、サーヴァントなら刹那で詰められる距離だろう。
「だ……大丈夫だよ、ロマ二」
本当はまったく大丈夫ではないが。
この状況ではそうとしか言えない。
「ちょっと、インターフォンと扉が壊れたみたいで……」
嘘は言っていない。
私は意図的に、その原因を伏せた。
ロマ二はええっと驚き、間延びした声をあげる。きっと端末の向こうでは頭を掻いていることだろう。
「部屋から出られなくなっちゃったんだね。すぐ人を手配するよ。専門業者ではないけど」
「ああ、いや、大丈夫。そっちの仕事が終わってからでいい」
「だがひとりでなにかあったら」
「大丈夫だよ。──ファントムがいるから」
インターフォンをぶち壊し、電子ロックまで破壊した男は、先程からずっと私を睨んでいる。
逃す気はないと言いたげに扉の前に立ち、私の出方を伺っているのだ。
いやはや、私はいったいなにをしたのだろうか。
ファントムを怒らせるようなことの身に覚えが、さっぱりない。
「ファントムと少し話したいこともあるしさ。一時間ほど待ってよ、ロマ二」
「大丈夫かい? ちゃん。……ちょっと顔を見せて」
「いいから。よろしく」
問答無用で通信を切る。これ以上会話が長くなると、ファントムの不機嫌が悪化するのを悟ったからだ。
一時間は長すぎだろうか。その間に殺されたら──だめだ、笑えない。
私はため息を吐いた。
「どうしたんだ、ファントム。私と話したいんだろう。なにかあったのか」
「……クリスティーヌ」
「うん」
毎度だが、その呼び名はやめてくれないか。何度も言ってるのに直る兆しがないので、もう諦めた。
ファントムは、私に逃げたり暴れたりする意思がないことを理解すると、一歩ずつベッドへ歩み寄ってきた。
いつもふよふよ浮いていたファントムは、再臨を重ねて地に足ついた男になった。しかし変わらず、その動きには気配がない。
反射的に警戒してしまうのは仕方ない。普段ならともかく、鍵を壊された上での密室なのだから。もちろん、恐怖や警戒はおくびにも出さないが。
殺されるかもという警戒はあるが、恐怖はない。信頼関係の下積みが、相応にあるのだ。
「クリスティーヌ」
ファントムはベッドのまで来ると、さっとひざまずいた。
うやうやしい紳士の仕草はいつも通り。しかし圧倒的にピリピリとした怒りが発散されている。
手が差し出されたので、私も手を差し出す。手袋越しにファントムが私の手を取る。手の甲へくちづけるふり。忠誠のまねごと。紳士のマナー。挨拶。
「今宵、私は貴方に説明しなければならない。歌姫の魂の在り方についてを」
「うん……それで?」
てっきり怒られるかと思っていたが、説明と来たもんだ。歌姫の魂の在り方、というのがファントムらしいが。
「クリスティーヌ……歌姫は誰の物になってはならない」
「うん……ん?」
「歌は魂で歌うもの。清らかでなくてはならぬ。他者に魂を委ねては喝采など叶わぬ、音楽の天使も見放すというもの」
「ま、待ってファントム」
「よく聞いてほしい、クリスティーヌ。辛いかもしれないが」
「だから待ってって! な、なんか私が誰かに惚れてるみたいな前提で話が進んでない!?」
ファントムの話を遮って、声をあげる。ファントムはキョトンとして首を傾げた。
「違わないだろう?」
「ちっがうよ! 私が恋する乙女に見えるのか?」
「──だが、貴方の歓心を惹きつける男はいるはずだ」
きゅっ、とファントムの目が鋭くなった。私の手を掴む指が、痛い。
「断ち切らねばならない。クリスティーヌ。残念だが」
「……だから、なんでそういう話になっているんだ」
ファントムの立腹の原因は、どうやら『私が恋をしている』ことらしい。しかし私に意中の相手などおらず、このカルデアにおいて近しい異性もいない。
カルデア職員は忙しい。二十人あまりで施設を維持し、特異点の解析に明け暮れているのだから当然だ。ロマンスをする余裕も、暇もないのだ。無論、私といい雰囲気になる男もいない──そもそも仕事でなければ近づかない人たちだしな。
なんでったって、ファントムはこんな勘違いをしたのだろうか? 彼を誤解させることを言った覚えは、ないのだが。
私の手を握ったまま、ファントムはじっと私を見ている。
そんな顔をされても、心当たりがないんだが。
いや待てよ。
先日、マシュたちの女子会トークに巻き込まれたことがある。
マシュが食堂で、マリー・アントワネットや玉藻、そして自分のマスターと話し込んでいた。いや、詰問されていたと言った方が正しいだろう。おそらく意中の相手はいるのか、などと聞かれていたのだ。
答えに窮したマシュは、たまたま通りがかった私に話を向けた。
***
「そう言えば、さんは好きな男性とかっているんですか」
その瞬間のマリーとマスター、玉藻の顔ったらなかった。
もっと面白いおもちゃを見つけた子供のような顔だ。くそ、特にあのマスターだ。元が一般人で、たまたまマスター適性があったような人間だから、人の恋愛沙汰やら俗世じみたことが気になるんだ。
「そう言えば、の好みのタイプって気になるね」
「ええそうね! ともお話ししてみたいわ、わたくし。今まで貴方とはあまりお話できませんでしたもの」
ここぞとばかりに畳み掛けるマスターとマリー。
いつの間にか机の空席に引きずり込まれ、尋問を受ける捕虜のようになった。そこで私は、しぶしぶ答えたのだ。
***
「……確かに、マリーたちに『好きなやつはいないが気になる男はいる』って答えたけど……」
「嗚呼、嗚呼、そうだ。そうだとも歌姫よ。聴いていたとも。私は、私は、私は……君の可憐なくちびるがそう紡ぐのを」
「──あのとき、あの場にお前いなかっただろ? ……盗み聞きしてたのか?」
「うん?」
ファントムはゆったりと小首を傾げた。
「盗み聞き、してたのかって聞いてるんだ」
「貴方を指導するのが我が役目だ、クリスティーヌ。いつでも見守っている」
それのなにが問題が? と言いたげにファントムはにこりと笑った。
だめだ……頭が痛くなる。
なにしてるのか、どこにいるのかわかんないやつだと思ってたけど、まさかずっと私を見張ってたんじゃないだろうな。
別に、誰かに聞かれて困る話をすることもそうそうないし、問題ないと言えば問題ないが。それと気分は別だろう。
盗み聞きをした、悪いことをしたという意識すらないところはさすがに『オペラ座の怪人』のモデルとなった人物と言ったところか。
「別に見守ってくれるのはいいけど、着替えの最中はやめてくれよ」
「下品な冗談はやめたまえ、クリスティーヌ」
怒られた。怒りたいのはこちらだが、流石のファントムとそれぐらいの気遣いは出来るらしい。歌姫として尊重しているからこそ、着替えやトイレを覗くことはないということか。
ファントムはファントムなりに、クリスティーヌの為に動いているのだ。
それを制御できなければ悲劇を生む。制御できているうちは、ちょっと行きすぎなボディーガードでとどまってくれるはずだ。
「あの、ドクターロマンという男は……」
「うん?」
「貴方には相応しくない。医者と歌姫は到底釣り合わ──」
「はぁっ!? えっ、ちょ、や、やめろって!」
なんでここでロマ二の名前が出てくるんだ!
まさか、『気になる男』がロマ二だと勘違いしているのか。
ちょ、それはまずい。下手するとロマ二を殺しかねない。『オペラ座の怪人』ならやりかねないぞ。
慌てる私に、ファントムはとうとうと語る。
「そもそも軽薄で無責任で……ロクでもない。目を覚ます時だ、クリスティーヌ」
「い、いや、違うって! 確かにロマ二とはよく話すけど! 仕事上だし! あの人だって興味ないだろうよ私みたいな若造に!」
「クリスティーヌに興味がないとは」
ばんばんベッドを叩きながら抗議する。
ファントムが不愉快そうに表情を歪めた。
ああもう、面倒臭いやつだな。
これが、私が一番最初に召喚したサーヴァントだ。つまり私に本質が近い……ことになるのか。ああ、なんと嘆かわしい。運が悪かっただけだと思いたい。
「ああもう! わかった言うよ! 『気になる男』ってのはお前のことだよファントム! バカ! 盗み聞きするなら最後まで話聞いてろ!」
「──え?」
「そりゃそうだろ! お前って言ってることよくわかんないし、フラフラしてるし、いつもなにしてるかわかんないし……目離したくないって言うか……見えるとこにいてほしいって言うか……」
別に疑ったり警戒してるわけじゃないが。目の届くところにいてくれたら安心だ、とは思う。
マリーたちには『それは異性として気になるとは違うわ』と大不評を食らったが、実際ファントムが今一番気になる相手であることには違いない。
「マスターがサーヴァントのコンディションを気にするのは当然のことでもあるしな……ファントム?」
ファントムはピクリとも動かない。俯き加減になっているから、表情も読めない。
な、なんか悪いこと言ったかな。急に黙ると心配になる。
「ファントム……?」
ファントムが不意に立ち上がり、ベッドに片膝を乗り上げた。ベッドがギシリと音を立て、わずかに傾く。
覆い被さるようにして壁に手をつけられると、私の視界はファントムとそのマントに遮られてしまう。
身を寄せられて、反射的に身体がこわばった。
「クリスティーヌ」
「あ、あのっどうしたファントム? べ、別に深い意味はないからなっさっきのっ」
手袋越しの指先で頬を撫でられると、こそばゆくてぞわりとする。
肩を押してこれ以上の接近を押しとどめる。が、すぐに手を掴まれて制された。
「ファントム、なにを──」
「歌姫は誰かを愛してはならぬ。清らかでなければならぬ。然り、然り……誰も愛してはならぬのだ」
掴んだ手を持ち上げて、ファントムは私の甲にくちびるを押し当てた。
底抜けに柔らかくて、氷のように冷たい。その感触に息が詰まる。
今までくちづけのふりはあれど、本当に手の甲にキスされたことははじめてだ。
「だからあまり──私を喜ばせるな。亡者たる私は所詮、喝采を共に浴びる事も叶わぬ地の底の住民……」
囁きは脳がとろけるほど甘くて、同時に悲痛。
メガネを付けた品のいい美男子が、私を見つめ、その目が、赤くて、爛々としていて──。
「ファン、トム──」
私の手を掴む手がぎゅっと強くなる。敵を前にした時のように、瞳の力が強くなる。有無を言わせない手が、私に伸びて。
ギュッと目をつむった瞬間、頭に優しいものがおりてきた。
「……え?」
「さん! 大丈夫ですかー!?」
目を開けた瞬間、ファントムの背後でドアが無理やり開かれる音。
ドヤドヤとマシュやロマ二が押しいってきた。
私がハッと我に返る頃には、ファントムは立ち上がってベッドから距離を取っていた。主人に控える従者然とした状態に戻っている。
「ちゃん、大丈夫かい!? 連絡しても応答がなかったからこじ開けたよ。ファントムとは話ができたかい?」
「おかげさまで。ねぇ、クリスティーヌ」
「え、あ……うん」
「では私は」
ファントムはさっとマントを翻し、宙にその姿を溶かして消え去った。アサシンの持つ高度な隠遁能力だ。
影も形もない。
壊れたインターフォンを見やって、ロマ二がウゲェと声を上げた。
「どうしたのこれ。単なる故障じゃなさそうだけど」
「あー、ちょっと、ファントムが……。でも、もうこんなことしないと思います」
「うーん……あの手のサーヴァントは怒ってもあまり効果がないからなぁ。そういえば、二人きりでなんの話をしてたんだい、ファントムと」
「ファントムにフラれました。あいつは歌姫とその指導者として健全な付き合いをしたいらしく」
「ふーん……えっ!?」
「いやぁ、あいつは本当に面白いやつですね。あーいうとこ好きだなぁ」
「え、えっ!? ちゃん本気で言ってる!?」
慌てふためくロマ二を無視して、今後のファントムとの付き合い方に苦慮した。
最後に呟かれた言葉。
──引きずり込みたくなるだろう、我が地獄へ──。
その恐ろしげな言葉にも、頭を撫でた手にも、手の甲にキスするくちびるにも、大して不快にならなかったなんて。
我ながら頭が煮えている。
でもまぁ、ファントムとの付き合い方など考えるだけ無駄だろう。
私がなにを思おうと、彼の中で私とファントムは歌姫と指導者だ。あまりに歪な関係だが、マスターとサーヴァントとして在る分にはあまり問題がない。
私を稀代の歌姫と混同して慕うオペラ座の怪人。もちろん歌姫になる気など私には毛頭ないのだから、全く彼は哀れだ。
しかし、だからこそ愛おしい。少しぐらい、ヤツの勘違いに付き合ってやってもいい、という気になる。
「ああでも、監禁は人理修復のあとじゃないと困るな」
「ちゃん、ひとりで納得してるけどわけわからないよっ!?」
すかさずつっこむロマ二に笑った。
経緯を説明しても良かったのだけど、まさか知らぬところで殺される寸前だったとは知りたくないだろう。私は笑ってごまかして、インターフォンを修理を頼んだのだった。
2017/01/31:久遠晶