恋に落ちる四歩前



 バレンタイン。
 実家にいる頃は単なる日で、無意味だった。
 魔術師としての格式を重んじる両親は俗世の浮ついた行事を忌み嫌っていたから、私はこの日にチョコを作ったり貰ったことがない。
 ──今年は違う。
 両親から離れ、単身カルデアにいる、いまは。

 人理を修復する道のりは、本当に過酷だった。上下巻の自伝が出せるだろう。
 果たしてどういうめぐり合わせからわからないが、48人のマスター候補生の内、生き残ったのは私と一般人枠で採用された彼女だけだったのだ。
 マスター適正がある人間は全世界に私と彼女だけになってしまった――それを知ったときは様々な感情が湧き上がった。爆発に巻き込まれた私が職員の献身的な手当てによって目を覚ました時、彼女はマシュと共に冬木の聖杯を回収していたのだ。
 その後はオルレアン、セプテム、オケアノスと、共に特異点の修復に向かったが、私の力など、微々たるものだった。
 一般人にもかからわずマスターとしての才能を開花させ、マシュたちサーヴァントと強い絆を結ぶ彼女に――嫉妬がないとは言い切れない。
 当初はひどく邪険にしてしまった。申し訳ない。
 しかし互いのわだかまりを昇華させ、共に手を取り合い、とうとう魔術王に対峙したのだ。
 相変わらず、私に出来たことなどほとんどなかった。
 人理修復はほとんどすべて、彼女の功績だ。
 しかし彼女は『みんながいてくれたからだよ』と言う。それならばそうなのだろうと納得することにして、嫉妬するより先に研鑽を積もうと決意した。

 さてはて、そのような経緯を得て魔術王を倒し、2017年を迎え一か月が経った。
 世界は守られたが、今度は魔術教会へのごまかしが大変だった。
 この一か月、世界修復の余韻や功績を味わうこともなく、バタバタと証拠隠滅に駆けずり回っていたのだ。

 二月に入り、やっとカルデアが落ち着き、バレンタイン一色の浮かれたムードになっている。
 平和になったとはいえ、油断は出来ない。なにがあるかわからない。
 だから本当は、バレンタインなどというイベントに浮ついていてはいけないのだろう。
 しかし休息は重要だ。
 カルデアの職員たちは本当に頑張ってくれていた。泣き言も弱音も吐かず、耐え忍び、人理修復を終えてもカルデアに残りサポートをしてくれている。
 若輩者のマスターふたりを信じて。

 だから、たまにこんなイベントがあったっていいはずなのだ。

「チョコを作るのって難しいですね。温度調節が……テンパリング……?」
「まずは上等なものを作ろうと思わずに、初心者向けのものから作らないか?」
「それもそうですね……。私もさんも、お菓子作りなんてはじめてですもんね」

 マシュがレシピ本とにらめっこしながら唸っている。
 積み上げられた試作品を味見しながら苦笑する。試作品だけでチョコに飽きてしまいそうだ。

 カルデアで育ったマシュも私と一緒で、行事に縁がなかった。意気投合して、張り切ってチョコ作りをしているわけだ。
 現代っ子の一般人であるマシュのマスターは、バレンタインにはとりたてて興味がないらしくこの場にはいない。渡す相手もいないし、とバレンタインイベントはノータッチを決め込んでいた。
 マシュがチョコを渡したい相手は彼女だから、マスターがチョコ作りに不参加なのはかえってよかったのだろう。
 中々うまくはいかないが、楽しい。焦げて固まったチョコを笑いながら食べるのも、悪くはない。

「ちゃんとしたのを渡したいんです。日々の感謝の気持ちですから」

 マシュが微笑みながら言う。日々の感謝なんて、彼女こそマシュに感じていることだろうに。
 喜んでくれるだろうかと微笑むマシュはかわいらしい。
 うまく渡せるといい。結構、ライバルが多そうなんだよな。清姫とか……。求心力の強いマスターも困りものだ。

「そう言えば……ありがとうございます。さんも」
「うん?」
「意外でした。あなたがチョコ作りに付き合ってくれるなんて。くだらないって言うと思ってたので」
「あのときのことは忘れてくれ」

 笑うマシュに、私は肩を竦めて苦笑した。
 生き残ったマスター候補としての重圧と一般人の彼女が才能を開花していくことへの焦りでいっぱいいっぱいだったあの時は、正直思い出したくない。なんと醜かったことか。
 マシュがくすくす笑っている。反応を面白がられているのだ。

「昔の私ならバレンタインなんて! と言ってただろうな。けど、せっかくなんだから楽しまないと損だろ?」
「そうですね! 私もそう思います。でも……さんは誰にあげるんですか? 本命チョコ……!」
「マシュも意外とガールズトークが好きだなぁ」

 思わず苦笑する。
 マシュの目は星空のようにキラキラしている。
 この目をしているということは、なにがなんでも聞きだす気ということだ。マリー・アントワネットの影響を感じる。
 私は困って「あーっと」と呻いた。目をそらすこともできず、根負けする。

「ファントム」
「我が声と魂はここに」

 空中に声をかけると、ファントムが控えめに厨房に姿を現した。
 ……別に呼んだわけではないんだが。というか、私が名前を発音し終える前に出てこなかったか。
 本当に私を常に『見守って』いるらしい。ストーカーで検挙できそうな奴だ。
 だがまあ、着替え現場とトイレは覗いていないそうだから、別に構わないのだが。
 マシュは私とファントムを見やった後、「誰にも言いませんよ、もちろん」と困った顔をした。この分では、二人きりでなくなれば質問攻めは止むだろうと、判断してファントムを呼んだと勘違いしたらしい。
 やれやれ。確かに精神汚染持ちの男に本命チョコをやるとは想像もできないか。わざわざ人に言うことでもないから、勘違いしたならそれで構わないのだが。
 さて、せっかくファントムを呼んだのだからなにか命じてやらねばならないのだが――あ。

「ファントム、チョコレートは好きか? 味見して欲しいんだが」
「……私がですか?」
「嫌なら構わんが」
「いえ……別に……」

 ファントムが眉根を寄せて、しぶしぶ頷いた。嫌そうな顔だが、ファントムは身をかがめて口を近づけてきた。
 そのくちびるに試作品を放り込む。くちびるのなかに消えていくチョコを見ていると、毎度のことながら恋人同士の「はい、あーん」のようだな、と思ってしまう。
 三度の再臨を経て、仮面を外し眼鏡姿になっているから、なおさらそう思う。

 私が食事当番の時は、ファントムに試食をしてもらうのが常だ。
 試食のためにファントムを呼ぶと、彼はいつも手袋を外しているので、自然と私が食べさせてやる形になっていた。
 異形の手を晒していた今までと違い、いまは手袋の中に爪を収納しているから、普通に食べれるはずなんだがな。
 味見の時には私の手から食べたがる。
 多分、ファントムなりの甘えなんだろう。

「どうだ?」
「美味しいです」

 その答えにすこしほっとした。
 しかし、ファントムならどんなに失敗していても美味いと言いそうだ。
 案外気を使う男なのである。
 特に、以前は常に猫背で宙に浮いていて幽鬼のようであったが、現在はしゃんと背筋を伸ばして、執事然としている。
 文字通り、地に足ついた・・・・・・男になった、というわけだ。
 精神汚染の影響は相変わらずで意思疎通はうまくいかないが、見違える変化の意味に気づかぬほど鈍感なマスターではない。
 歌姫を指導し、隣に並び立つ者として相応しく居よう──という心意気を、私は結構評価している。
 困ることも多いが。
 慰安がてら本命チョコぐらい、いくらでも差し出せるというわけだ。

 ひるがえって、いまファントムは本気でチョコを美味いと思っているのだろうか。
 なかなか怪しい。
 私が目を細めると、気づいたファントムは口元を釣り上げた。
 笑うと美形が増す。眼鏡になってから、破壊力は増した。これは自らのサーヴァントをひいき目に見ているわけではなく、単純な事実だ。
 無間の歯車やらなにやらを組み合わせて作ったらしい銀縁眼鏡の幻術で顔を覆い、異形の右顔を隠しているようだが──ファントムは仮面で異形を隠していた段階で美しかった。左右対称になればなおさらだ。
 異形を隠して見せようとしないことに関しては思うところがあるのだが。

「これなら相手も喜ぶだろう。きみの愛を受け取る者が羨ましい」

 どうやら気遣いではなく、本気でそう思っているらしい。一安心。

「ならいい。ついでにもう一個食べるか? 試作品は山ほどあるからな」
「是非。……だが、クリスティーヌ。これを渡す相手はもちろん女性──」
「いや、男だが」
「は?」
「え?」
「へ?」

 ファントムとマシュの間抜けな声が重なって、思わず私も聞き返した。

「だ、男性に…渡すのですか?」
「バレンタインデーってそう言うもんだろ」
「ちょっと、夢主さん」

 マシュが私とファントムの間に割って入った。
 顔を近づけて、声をひそめて話す。

「そんなこと言っていいんですか?」
「なんで?」
「なんでって、相手はあのオペラ座の怪人ですよ! 男性に渡すなんて言ったらどうなるか!」
「えぇ?」

 思わず笑ってしまった。マシュは真剣そのものだ。
 このチョコは男に渡すものだ。だからファントムに味見を頼んだ。そこになんの矛盾もないし、問題もない。
 マシュの肩越しにファントムを見る。私はさらに笑ってしまった。
 ファントムのやつ、なんて顔をしてるんだ。魂が抜けてる。ブツブツと聞こえるつぶやきは呪詛か。
 なんだかたまらなくなる。なんて可愛い男だろうか。
 種明かしをしてもよかったが、それはバレンタイン当日にとっておくべきだろう。

「マシュ、大丈夫だ。問題ないよ」
「でも」
「いいんだよ」

 笑いながらそう言ってウインクしてみせる。マシュはまだ心配そうだったが、あなたが言うなら、としぶしぶ引き下がった。
 マシュにぐらい、本当のことを言ってもよかっただろうか。いや、ファントムは耳がいいから、多分聞こえてしまう。伏せたのは正解だ。
 バレンタイン当日、チョコを渡したらファントムはどんな反応をするだろう。
 少なくとも今この場で死にかけている顔より面白くて可愛いものが見れるに違いない。


   ***


 このチョコを渡したらファントムはどんな顔をするだろうか。
 いたずらを企む少年のような気分だった私の心は、当日、ぐちゃぐちゃにかき乱された。
 チョコを渡した間ではよかった。
 ファントムに味見を頼んだあとも試作を重ねた逸品は自分でもよくできたと思うし、ファントムも驚いて、たいそう喜んでくれた。
 だが──そう、その喜び方だ。問題は。

「ああ、捧げるものは歌だけでいい。きみが愛おしい。おお、捧げるものは声だけでいい。きみを奪いたい」

 ファントムは朗々と謳った。両手を広げ、情熱的で高らかな物言いが彼の喜びを表している。
 頑張って作った甲斐があった。こちらまで嬉しくなる。
 問題はそのあとだ。
 普段精神汚染のせいで明瞭な意思疎通が出来ないファントムが、珍しくまともな口調になった。

 ──たとえば、清姫。彼女のように私も振る舞えればいいのですが。
 ──精神汚染と言ったか。我が狂気は、マスターとの意思疎通すら困難にしてしまう。

 すまなそうに紡がれた言葉。
 呆気に取られている間に、彼は私に紙袋を差し出してきた。
 今の私にできる全てを込めました、と言って。
 彼も私と同じように、贈り物を用意していたということだ。彼の手製らしい蝋で作られたマスクは私の顔の形にぴったりと合い、様々な情念がこもっていることが容易に見て取れた。


 普段であれば、ファントムらしいなと思いつつ受け流すところだ。プレゼントの内容に軽く引きつつ受け流し、込められた気持ちの半分程度をありがたく頂戴するにとどめていたはずだ──普段なら。
 これは別に、私が薄情だからではない。ファントムがマスターである私に付き従い、あれこれを世話をしたがるのは、私がクリスティーヌだからだ。
 私そのものに向けられた好意などたかが知れているのだ。彼の気持ちはかの歌姫に向いており、その愛を私に投影しているだけなのだから。
 だから愛を囁かれても本気に取る必要などないし、適当に受け流して、クリスティーヌらしく振舞ってファントムをうまいこと操縦すること考えたほうがいい。──そう思っていたのに。

 あろうことかファントムは、私の顔にあつらえたデスマスクを渡してきた。
 生前のクリスティーヌ由来のなにか、ではなく、私のために用意された、私に対してだけのプレゼント。
 精神汚染によって意思疎通が出来てないことを自覚していたファントム。
 清姫のようにふるまえればいいと言ったファントム。
 精神汚染に侵されながら、いまの自分に出来るすべてを込めて──作った仮面。
 それに心揺さぶられない人間など、居るはずがない。
 だってそうだろう。
 ファントムは私がはじめて召喚したサーヴァントだ。

 人理修復のためにすこしでも戦力が必要で、しかし自分たちに世界を救える力があるとは到底思えなかった時だ。
 犠牲者の死体を処理したばかりで、職員たちも私も気を張り詰めていて、いっぱいいっぱいだった。
 そんなときファントムは召喚に応じてくれた、唯一のサーヴァントだった。

 召喚に応じてくれたのが会話の通じないオペラ座の怪人であることには正直頭を抱えたが、それでも、心強かった。
 夜ごと恐怖で眠れない。目をつむれば犠牲者の死体が思い出される。ベストな状態で特異点に向かうためにも、休息をとらねばならないのに、だ。
 そんな時、ファントムはただ静かに子守唄を歌ってくれた。魔力により魅了効果を付与された魅惑の歌声は、すんなりと私を安眠の世界へと誘ってくれた。
『きみの為にこそ私は歌おう。今を生きるクリスティーヌよ』
 私は彼の望む歌姫になどなれるはずもない人間だが、私を慈しむ彼の目が──疲弊していた心に、しみた。
 ファントムはずっと私に付き従い、道を切り開いてくれた。もうだめだ、と思った局面はいくつもある。しかし私たちは苦境を乗り越えてきた。
 どんな時でも、ファントムが居れば大丈夫だ、と強い信頼が生まれた。
 変わったのは私の心で、彼が変わることはなかった。
 つまり──一方通行の信頼だと思っていたのだ。

 それが──それが。
 私のために作られた仮面の意味が、はっきり私の心を握りこんできた。
 なにも言えない私をよそに、平時に戻ったらしいファントムは両手を広げくるくると踊り、歌っている。

「クリスティーヌ、おお、クリスティーヌ……! 歌ってくれ、それこそが我が望み! 歌を! 歌を!」

 いつもだったら熱の入った歌もハイハイと受け流せた。
 しかし何度も言うように今は普通ではなかった。お互いにだ。
 つま先を見つめる視界がぼやき、私の目からは大粒の涙が洪水のようにあふれ出した。

「きみの歌が届くためならば、私は──クリスティーヌ?」

 異変に気付いたファントムが歌をとめ、いぶかしむのが分かった。
 顔を覗きこもうとするファントムが私の肩に触れる。その手を振り払う。

「クリスティーヌ?」
「あっあり、ありが、」
「蟻?」
「……こんなもん! 受け止めきれるわけないだろっ! 馬鹿野郎ーっ!!」

 気が付けばそう叫んでいた。
 居ても立ってもいられない。
 私は泣きながら床を蹴り上げ、全力でファントムから逃げていた。

 やっちまった……と思ったのは百メートルほどカルデアの廊下を駆け抜けた時で、頭を抱える余裕すらなかった。
 マスクの入った紙袋を突き返さなかっただけでも自分を褒めたい。
 重いんだよ、あいつ!
 いつもいつも、クリスティーヌクリスティーヌとうるさくて、盲目的で。
 戦闘命令には従うけど「付いてくるな」と言っても付いてきて、クリスティーヌ呼びはやめてくれと言ってもやめない。命令には忠実なわりに、都合の悪いことは聞いていないのだ。
 助けられたことも多いが、平時は困らされてきた。
 そんな! そんな男が!
 精神汚染で私をクリスティーヌと間違えていると思っていた男が!
 実際はきっちりマスターと歌姫を区別していて、愛称として私をクリスティーヌと呼んでいたと!
 召喚から丸一年以上経って教えられるこちらの身にもなれ!!

 心臓がドキドキして痛い。
 涙が先ほどから止まってくれない。
 あげくにさっきちらりと見たメッセージカードには『花嫁の白こそがきみには美しい』とか書いてあるし!
 なんなんだよ! プロポーズかよ!!

「こ、心の準備ができないって……!! 丸一年以上かけての爆弾は!! やめてくれよ!!」

 いままでずっと、私の信頼は届いていないと思っていたのだ。だから彼の言葉に必要以上に揺さぶられないようにと務めてきたし、受け流してきた。
 しかし、彼の紡いできた言葉は確実に、私そのものに言われてきた言葉だったのだ――多分。いやどうだろう。半分ぐらいは本当のクリスティーヌに向けた言葉のような気がするが。
 今までの言葉の受け取り方が変わってきてしまう。
 それに少なくとも先ほど紡がれた言葉と仮面は、私に対して、私にだけ向けられた言葉のはずだ。

 ああそういえば、さっき君を奪いたい、とかなんとかも言われた!
 くそ! いままで全然気にしてなかったのに!!
 なにがいやだって、ぜんぜんいやじゃない自分の心だよ!!

 ファントムは私の態度に傷ついただろうか。
 礼を言う前に逃げてしまった。だが、彼にとっては常日頃の愛情表現でも、私にとっては出会いから今日までのすべての言葉を爆弾に変える劇薬だ。
 簡単に受け止めきれないのは許してほしい。

 延々走っていたら落ち着いてきた。
 が、いまファントムに会ったらまた泣きそうだ。決して悪い意味で泣いてるわけじゃないんだ。
 信頼が通じていたことが嬉しくて泣いてるだけなんだ。
 だけど、そう、いままた愛の言葉を囁かれたら恋に落ちてしまいそうだ。それはイヤだ。さすがにそれはイヤだ。
 慌てているし動転しているとはいえ私は理性的な女なので、サーヴァントに恋をしてもロクな結末にならないことをよく知っている。先読みができないほど馬鹿じゃない。あげくに相手がファントムだ。オペラ座の怪人だ。精神汚染Aのサーヴァントだぞ!?
 そんなモンに惚れちまったら不幸が確約されるようなもんじゃないか!
 絶対イヤだ!!

 悶えながら走っていると、前方にマーリンが見えた。
 マーリンにこんな顔見せたらなんて言われるか。素通りして行こうと床を蹴り上げる力を強める。が、私は忘れていた。
 花の魔術師の足元には花が咲くことに。
 靴とカルデアの金属製の床に挟まれた草花が、無残な形に潰れてしまう。
 あっ、と思ったころには時遅し。
 植物の水気ですべった私は、盛大に転んでいた。

「うわあ、大丈夫かいくん。5メートルほど顔面ですべったけれど」
「あ、あほなことしちまった……」

 マーリンの魔力による花だとわかっていても踏みつぶした罪悪感が残る。なにより顔面が痛い。おかげさまで涙は引いてくれたが。
 情けなさで起き上がれないでいると、見かねたマーリンが私を助け起こしてくれた。
 涙でぐちゃぐちゃに顔面を見られたくはない。私は服の袖で慌てて顔を拭いた。

「うわっ。泣くほど痛かったのかい。悪いねえ。これは自分じゃコントロール出来なくてね」
「いえ……自業自得ですから」
「でも、珍しいね。きみは廊下を走る人を注意するタイプだろうに……おや」

 マーリンが眉をあげて私を見る。
 気を抜くと涙がぶりかえしそうなので、私は精一杯平静を装う。

「粘性があってしつこい。かといっていやなわけではなくて、いつまでも味わって居たい感じだ。うん、これを『甘酸っぱい』と言うのかな」
「なんの話ですか、マーリン」
「いや、きみの喜びの話さ。ほら、私は感情を食べる夢魔だろう? ああっ、そんな逃げなくていいよ! 感情を食べると言っても、その結果きみの心から感情がなくなるわけじゃないんだから!」
「うるさい! それでも近くにいるだけで読み取れるってことだろ!」
「自分だけのものだと取っておきたい気持ちもわかるけど! ちょっとぐらい味見させてくれてもいいだろう!?」

 手を掴むマーリンにあきれる。あまりにデリカシーがない。
 秘匿したいものだと理解してるならせめて何も言わずにそっとしておいてくれと言う話だ。
 手を振って離せとアピールする私に、マーリンが慌てて声を掛ける。

「そういえばファントムがえらく落胆していたけど、きみが理由かいっ?」
「えっ」
「チベットスナギツネのような目をしていたよ。いや、浮かれまくっているきみとは別件かな。逆に、きみが浮かれているからかもしれないね。きみは意中の相手にチョコを渡せたってことだろう? きみの反応からすると」
「あー……」
「うんうん、本命チョコではなくとも、彼にはあげておいたほうがいいかもしれないよ。あと僕にもね」

 最後の言葉は無視する。
 冷静になって、ファントムへの罪悪感が湧き上がってきた。
 心が爆発しそうだったからと言って、やはり礼も言わずに逃げるのはよくなかった。ファントムが傷つくとわかっていたのに自制できなかった。

「……私のせいです、それ。あいつからもらったお返しが、本当にうれしかったんですけど、ちょっと、逃げてきちゃって」
「おや、そんなことがあったのかい。それはよくないね。うん、でもお兄さんに任せるといい」
「え、いや、私」
「うんうん、そうと決まったら作戦会議だ。長い話になりそうだし、まずきみの部屋に行こうか。ちょうど目の前だし。結界を張ればアサシンにだって盗み聞きはできなくなるから安心するといい」
「いやあの」
「大丈夫大丈夫、こう見えて恋愛相談は得意だからね、私は!」

 問答無用で自室に引きずりこまれる。
 感情を食べる夢魔でなくとも、マーリンの気持ちはよく伝わってきた。
 た、楽しんでやがる……! この男……!
 抗議を唱える暇もない。
 面白がっているグランドキャスターにそそのかされ、私はファントムについてのあれそれをすべて白状するはめとなった。
 これが吉と出るか凶と出るかはわからないが。
 ええい、私も胸にため込んでおけない気持ちにちぎれそうになっていたところだ。
 せいぜいこの、人の感情を食い物にする夢魔を利用させてもらうとしよう。そうならお互いWIN-WINだ。

 目指すところはファントムに謝って、改めて感謝の気持ちを伝えることなのだが。
 そうするためには、まだ時間がかかるだろう。
 そう。
 ファントムに謝るのは、いわゆるひとつの、『それはまた別のお話』というやつなのだった。





2017/02/19:久遠晶
2017/10/01:加筆修正
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