歌姫と騎士に喝采を



 歌が聴こえる。
 人を死へと誘う、暗黒の歌だ。
 風が吹く。風が歌を運び、規律正しい操り人形が進軍していく。
 偽りの喝采を浴びる歌姫よ、その眷属よ。
 お前たちの、なんと哀れなことか。

「どうか、命令を」

 主は応えない。
 寄り添い合う歌姫たちを見つめ、傍らに佇む私に返事をしない。
 何を考えているのだろう。
 歌姫を気の毒に思っているのだろうか。人形に貶められた歌姫とその眷属者を、或いは醜悪なものと嫌悪しているのだろうか。
 マントを翻し、その中へと主を隠した。
 きっと、主はアレらを蔑むことはしないだろう。しないからこそ、私への指示を迷っているのだ。だがそれでも──私はあの、哀れな自分を見せたくはなかった。
 同時に、狂い堕ちた自分に、この美しく清らかな人を見せたくもなかった。
 マントの中に隠した主を抱き締め、耳元で言い聞かせる。

「迷う必要はありません、クリスティーヌ。我が半身は既にバーサーカーへと堕ちている……幕を引いてやりたいのです。二人をこの、悪夢の舞台から」

 命令を懇願する。
 偽りの舞台で歌い踊る“オペラ座の怪人”と、いま主を抱き締めている私は違う。霊基が違う。心が違う。意識が違う。
 成り立ちが同じでも──私は、彼にないものがある。
 抱き締める力を強くしても、主はなにも言わなかった。

「愛しい我がマスタークリスティーヌ。貴方の為にこそ私は歌おう。ですから──命令を」
「……いいんだな」
「ええ」

 ならば、と、主がゆっくりと腕を上げた。人差し指を歌姫たちに突きつけて。

「死の歌を唄ってやれ。そして哀れな二人に、幕引きを──!!」
「承知……。歌え歌え、高らかに!」

 跳躍し、歌姫へ距離を詰める。
 邪魔をする人形は歯車に。
 真の歌姫に気付かぬ愚か者には死を。
 淀んだ歌には終焉を。
 喝采を浴びるべき者には脚光を。
 嗚呼、これはかつて私が行っていたことの繰り返しだ。だが、確実に違う。

 今宵、私は歌姫の立つ舞台へあがる。影の暗躍者ではなく、スポットライトを当てられた役者として。
 偽りの舞台だとしても、歌姫クリスティーヌにとって悪役だとしても、それはなんと心躍ることだろう。

「おお、おお……! 我が半身、我が欠片よ! なぜお前は其処にいる!? その顔はなんだ!? 何故仮面をつけていない!?」
「知れたこと。私とお前は、違うからだ!!」

 大爪での攻撃をいなして無力化し、空いた脇腹に己が爪を突き刺した。
 目の前に居るのは“オペラ座の怪人我が半身”。であれば、考えていることなど手に取るようにわかる。鏡映しなのだから。

エリックエリックエリックエリックどうしてどうしてどうしてどうして

 人形の中に押し込まれた歌姫が私を嘆く。どうしてそちらにいるのかと。どうして我々を攻撃するのかと非難する。
 私は──私はその瞳を、美しいと思った。
 初めて見たときから、声を聞いたときから、その美しさは褪せることがない。
 永遠の美しさの根源。天使の声。狂おしくも愛おしい──我らが歌姫。

 歌姫以外の役者は、みな歌姫を引き立てるために存在する。
 今の私は、歌姫クリスティーヌを切り裂く悪役だ。
 今も昔も、悪役なのは変わらない。人々はオペラ座の怪人を憐れみ、悲しみ、慈しむ。しかしそれだけだ。
 私を愛す者はいない。醜き顔のせいで親からも捨てられ、オペラ座の地下で生き延びた怪人を、私だけを愛する者など──居るはずがない。だからこそ、醜き私をこそ私は憎むのだ。

 ──なんだ、意外にいい面構えじゃないか。
 ――綺麗な顔してると思うけどな、私は。

 不意にその声が脳裏に蘇った。

「ファントム! 足止めしろ! ヤツにお前の歌を聴かせてやれ!」

 闘いの最中、主の指示が聞こえる。一年間行動を共にし、今となってはどんな歌よりも私の心をとらえる愛しい声が。
 私を見ていた。
 我がマスタークリスティーヌが見ていたのは、彼方まで届く歌声を響かせる歌姫でも、オペラ座の怪人歌姫を守るナイトでもない。
 私を見ていた。憐れに思われ、蔑まれる役割でしかない、私を。
 何故、そんな風に私を見据えるのだろう。
 主はこくりと頷いた。はじめて舞台に立つ新人女優を励ますように、しっかりと私を見据えて。

 ああそうだ、この美しい人は、はじめて会った時からそうだった。
 はじめて会った時から、私をまっすぐ見据えてくれる人だった。


   ***


 初めて姿を見たのは、オルレアンでのことだった。
 あの時私が偽りの聖女の召喚に応じたのは場所がかの国・フランスだったからだ。他の者は聖杯の力で半ば無理やり召喚されたようだが、私は望んで偽りの聖女の配下となった。
 あの美しい人クリスティーヌを一目見れるかもしれないと思ったからだ。
 もう一度だけでいいから、あの美しい人クリスティーヌを見たかった。かつてより幼くとも、老婆になっていても構わない。
 声を聴かせて欲しかった。
 しかしあの美しい人クリスティーヌなどどこにもいなかった。だから街を焼き、人を殺して支配した。
 この時殺した中に、あの美しい人クリスティーヌの先祖か子孫か家族かがいたかもしれない。
 どうでもよかった。
 狂化を施されていたからではなく、心底どうでもよかったのだ。
 クリスティーヌのこと以外など。クリスティーヌがいない世界など。

 そんな時現れたのが、あの少女だった。

 聖女の影に隠れるようにしてこちらを見据える影ふたつ。人類最後のマスターとなったふたり。片方は主人公然としていたが、片方はまるで町娘のようだった。
 片方はまだ舞台に立つ資格がある。カリスマと才能を秘めた瞳をしていた。しかし、嗚呼、傍らの町娘のなんとも冴えないこと!
 見た目の美醜の問題ではない。魂の問題だ。
 その娘は、舞台にはふさわしくなかった。穢れ、傷つき、汚れた歌など誰が聴きたいと思うだろう。誰が惚れ込むものだろう。
 この場で、燃える都市の舞台に相応しいのは聖女の歌声のみ。しかしそれすらクリスティーヌには及ばず、今宵の舞台邪竜百年戦争は悲劇で終わる。──はずだった。

 町娘は存外に厄介だった。
 打ち立てる戦術は適切で、煩わしいものだった。だから私は聖女の喉から狙いを外し、まず町娘を殺そうとしたのだ。

 一足飛びに跳躍し、町娘の喉元目掛けて大爪を振り下ろす。前線に出ていた聖女たちは私を止められない。
 人間である町娘は私の爪から逃れること敵わず、あわや肉を引き裂かれる……予定だった。
 とっさに喉をかばった右腕を切り裂き、勢いをそのままに地面に押し倒す。
 町娘は寸前で防御陣を展開してその身を守る。防御陣を削り取るように連撃。従者たるサーヴァントが此方に辿り着く数秒までに、町娘の命は刈り取れるはずだった。

 町娘は反撃した。いや、それは反撃とすら言えない無謀な一撃だ。
 左手のそばに転がっていた石を掴み、私の頭に殴りつけたのだ。
 防御陣を削ることに集中していた私は、見えていたその動きを無視した。
 所詮ただの人間に何が出来るのだと、たかをくくっていたのだ。
 ごつりと石が私の側頭部を叩く。砕けたのは石のほうで、私にダメージは一切ない。
 しかし――仮面は違った・・・・・・
 衝撃で仮面が揺れる。金具が砕けてずり落ちる。
 反射的に防御陣を削り取る手が、止まってしまう。その間に、町娘は仮面に指を引っ掛け、放り投げてしまった。

 町娘は私の顔を見た。醜悪なものを、唾棄すべきものを。我が汚点を。
 ウッと顔を強張らせた町娘が震えるのがわかった。
 くちびるがわななき、しかし視線は私の瞳に固定したまま、戸惑いに眉がぴくぴくと揺れる。

 私は当然、町娘が発するのは悲鳴だと思った。
 その悲鳴が醜ければむごたらしく殺し、美しければ楽に殺してやろうと決意した。

 しかし違ったのだ。

「なんだ。意外にいい顔してるじゃないか」

 彼女は強張る頬を無理やり持ち上げ、笑った。
 笑ったのだ。
 この醜き素顔を目にして。彼女は。気丈に。
 不出来な微笑みを浮かべてそう言った。
 確実に、それは単なるはったりだ。太陽を背に受けていたから、逆光で素顔をはっきり視認したわけではないのかもしれない。

 敵性サーヴァントに押し倒され、あと数秒で殺される。死に直面した時彼女は命乞いではなく、気高く、気丈に在ろうとする人間だった。それだけの話だ。
 言葉そのものには意味はない。
 それでも――見た者を恐怖に陥らせる我が素顔を目の当たりにして、彼女はプライドを貫いたのだ。


 つまり、私の審美眼など当てにならなかったというわけだ。長く座という場所に居て、私の目は曇っていたのかもしれない。
 彼女は町娘などではなく、少なくとも歌姫を彩る端役として舞台にのぼることは許される。その程度の人間ではあった――と、この時ですら思い違いをしていたのだから。


   *** 


 結局、その隙が元で私は聖女に討伐された。
 霊基が崩れていくなか、聖女へ舞台からの逃亡を囁く私はなんと滑稽だったのか。逃げられないとわかっていながら、悪役でありながら歌姫の愛を望む私そのものだ。
 オルレアンにおいては、私こそが端役であるというのにだ。
 悪役の務めすら全うできぬ私に、コールがかかることなどあるはずない。

 そう思っていたから、二度目のチャンスが来た時は驚いた。
 誰かが座を手繰り、召喚に応じる者を探している感覚があった。人理が焼却された世界において、英霊召喚を試みる者はカルデアのマスターふたりしかいない。
 オルレアンで出来た因縁の為か。
 私は召喚に応じ、カルデアにて現界した。

「我が顔を知る者は、恐怖を知ることになるだろう――お前も」

 カルデアのサーヴァントたちは、私を見て反射的に警戒した。特に盾を使うデミサーヴァントの警戒はすさまじく、反射的に盾の中に町娘をかばうほどだった。
 あわや殺す寸前、ということまで言ったのだから、当然だろう。
 町娘とて私を見て恐怖に顔を強張らせていた。

「もう知ってるよ、ファントム。――召喚に応じてくれたことに感謝する」

 気丈に笑う姿を見るのは二度目だ。

「ところでさ、はじめて召喚させたサーヴァントがこれって……私、なんか実は性格悪いのか? 落ち込むぞ」

 町娘はそう言って肩を竦め、周囲の苦笑を買った。
 私はその会話すらどうでもよかった。
 ただ、クリスティーヌを探すのなら人理修復に協力するのが手っ取り早いと、私はそう思っただけだ。
 そう思っただけだったのだ。
 本当に。
 あがき続けるマスターに感服した訳ではない。ただただクリスティーヌに会いたい一心だった。

 この時までは。

 私が見る町娘は、はっきり言えば凡庸な魔術師だった。
 高貴な出ではあるが高慢で不遜。魔術師としての能力は高いが、マスター適正はそこそこ。口が悪く、周囲に敵を作りやすい性質。
 半面オルレアンで『主人公』と感じた少女は生まれこそ平凡なものの、類い稀なるマスター適正を持っていた。人理修復までの道のりをひとつの舞台に例えるなら、間違いなく彼女が喝采を浴びるべき主人公であり歌姫だ。
 頭角を現していく彼女と違い、町娘は主人公としてもヒロインとしても格落ちで、だからこそ私のような人間しか召喚に応じなかった――そういう人間だった。

 しかしそんな町娘にも変化が起きた。おお、おお、それはまさに奇跡のような美しい変化だ。
 人理修復の激動と、すぐ横に立つダイヤの原石。その奇跡的な体験は村娘を少しずつ研磨していった。
 いつしか私は、単なる端役としか感じなかったその町娘をクリスティーヌだと信じるようになった。
 クリスティーヌはここに居た。
 生まれ変わりではないし、血縁上の関係も何もないけれど。磨かれたその魂のきらめきは、まさにクリスティーヌのそれだった。

 だから私は――かの歌姫クリスティーヌ・ダーエと再び会いまみえるためではなく、我がマスタークリスティーヌの為にこそ歌い、敵を切り裂き、屠ろうと誓ったのだ。
 仮面を外し、薄汚れたマントを外し。幽鬼のように浮遊するのではなく、地面に足をつき、背筋を伸ばしてしゃんとする。
 今を生きるクリスティーヌにふさわしいよう、彼女の歌を彩る端役として舞台に立とうと――思ったのだ。


   ***


 ある日クリスティーヌ、と呼んでみた。それまで自分から彼女に話しかけることをしなかったから、きっと驚いたのだろう。
 彼女は目をまん丸にして、へっ、と顔を歪めて笑った。自分を呼ばれたと気づいていないのだ。
 どうしたんだ、と私の顔を覗き込んで、首を傾げた。
 熱でもあるのかと言いながら額に伸ばす手を、掴んで止める。

 我が顔を見てはならない。と、私は言った。醜き者を私は嫌う、故に私をこそ私は嫌う、と。
 かつてのように逆光で陰った状態で見られる素顔でもなく、光のもとではっきりと素顔を見られたら。
 この醜き顔を見られたらクリスティーヌに拒絶されたら。耐えられない。と思ったからだ。

「そうか? きれいな顔してると思うけどな、私は。眼鏡にしてから、表情柔らかくなったよなぁ」

 我がマスタークリスティーヌは微笑んだ。

 嗚呼、我がマスタークリスティーヌ我が愛クリスティーヌ我が愛しい人クリスティーヌ
 きみに、きみにこそ、私は歌おう。
 きみの言葉に大した意味などなくとも。愛などこもっていなくとも。
 今まで――そう言ってくれた者は誰もいないのだから。
 我が心を蝕む狂気は、我がマスタークリスティーヌとの意思疎通すら難しくさせる。それでも彼女は私を信じ、頼り、笑いかけてくれる。
 これが愛しい人クリスティーヌでなくてなんだと言うのだろうか。
 彼女こそ今を生きる愛しい人クリスティーヌなのだ。


   ***


「お前は間違っている……何故! 何故! 何故――そちらがわ・・・・・にいる!?」

 オペラ座の怪人我が半身が叫ぶ。かの歌姫クリスティーヌが嘆きを歌う。

何故歌うの切るの裂くの笑むの泣くの切るの殺すのどうしてどうしてどうしてどうしてどうして

 壊れた人形のようだ、と思った。
 かの歌姫クリスティーヌは変わらず美しい。声も、魂も、色褪せるはずがない。
 私が恋い焦がれ、愛した人。美しさの象徴。愛の形。
 だけど違うのだ。
 オペラ座の怪人我が半身の欲望が生み出し、壊してしまった愛しい幻影。
 オペラ座の怪人我が半身は共に壊れ、共に歌い、堕ちていこうと手を取り合った。
 しかしそう。此方側のアーチャーの言うように、それは憐れではた迷惑な心中でしかない。つまらない末路だ。
 ならば私は、オペラ座の怪人我が半身の贖罪を引き受ける義務がある。

 オペラ座の怪人我が半身は、私の敵対を理解出来ぬと首を振る。
 そして奥に控える我がマスタークリスティーヌを視界の端で捉えた。

「ああ、ああ、オペラ座の怪人わたしよ! カルデアに現界せし我が半身よ!! きみはあの女に縛られているのだね!!」

 私の刃を押し返し、オペラ座の怪人我が半身が高らかに笑う。仲間たちの隙間を縫うように、一足飛び我がマスタークリスティーヌの元へ。
 前線に出ていたサーヴァントは誰もが、彼の動きに追いつけない。
 唯一、彼の動きを読んでいた私以外は。

「――そう。オペラ座の怪人我が半身ならばそうするのだ」

 膝を曲げて、全身のばねを使って地面を蹴る。
 彼の大爪が我がマスタークリスティーヌを貫く寸前に。隙間に割り込み斬撃を引き受ける。

「ぐっ……!」
「何故! その女をかばう必要がどこにある!?」
「無論愛しい人クリスティーヌだからだ! お前にはわからぬだろうが――」
「ファントム!」

 我がマスタークリスティーヌが叫ぶ。私を呼ぶ声だ。
 魔力が満ち、傷ついた身体に力が戻る。
 命じられずとも、成すべきことはわかっていた。
 宝具を展開し、魔力を流しこんで演奏による魔力ダメージを振りまく。

「歌え……歌え我が天使!<地獄にこそ響け我が愛の歌クリスティーヌ・クリスティーヌ>――!!」
「お前が! それを! 歌うのか!!」
 
 ああ、ああ、そうだ。そうだとも。
 私はオペラ座の怪人ファントム・オブ・ジ・オペラとして、かの歌姫クリスティーヌへの愛を謳いながら、我がマスタークリスティーヌのために歌うのだ。
 この霊基からだの私は、オペラ座の怪人ファントム・オブ・ジ・オペラにしてオペラ座の怪人エリックに非ず。
 だから終わらせよう。憐れなオペラ座の怪人エリックよ。

 クリスティーヌ、クリスティーヌ、クリスティーヌ・ダーエ!
 神ですら魅了させる愛しい歌姫よ。
 今宵、私はきみを殺す。

 きみを守る騎士を屠り、きみをも壊すのだ。
 きみにとっては悪役だろう。
 いつだって、私はきみにとって悪役でしかない。
 だが――オペラ座の怪人エリックは、初めてきみを守る役目を果たすことが出来た。

   ***


 最後の一撃が、彼の霊核を貫いた。
 時を同じくして、新宿のアーチャーの一撃がクリスティーヌを捉えていた。

「お前は歌わない。もう二度と――」
「――ああ、歌が。途切れてしまった」

 がくりと我が半身が膝をついた。私はさらにとどめを刺そうとし、我がマスタークリスティーヌの言葉で制止した。

「もういい。十分だ。よくやってくれた……」

 我がマスタークリスティーヌの声は固い。勝利した安堵よりも、緊張のほうが強い声だ。
 死を先延ばしにされた我が半身は、よろりとおぼつかない足取りで立ち上がる。私に背を向け、かの歌姫クリスティーヌの元へと。

「La……La……La。ああ、もう歌えない。歌えない。やっと歌わなくて済む・・・・・・・・・・。……あれ?」

 壊れた喉で、ひび割れた身体で、クリスティーヌはなおも歌おうとする。その途中でつぶやいて、首を傾げる。

「私は……歌いたかったのかしら。それとも歌いたくなかったのかしら。エリック、教えてくださらないかしら。私は、歌うために召喚されたの?」
「その通りだよ、クリスティーヌ。だが、その役割は終わった。終わったのだ」

 よろよろとかの歌姫クリスティーヌに歩み寄った我が半身は、恭しく彼女に跪く。
 そう。それでいい。
 もう、なにもかも。
 彼らが歌う舞台の幕は、閉じる頃合いだ。

「――心より感謝を。クリスティーヌ。汝は美しい、世界の誰よりも。」
「そう。……………………嘘つきね、エリック」

 霊核を貫かれているかの歌姫クリスティーヌの身体がゆっくりと透けていく。光の泡となり、宙に溶けて消えていく。
 ああ、ああ、人形に押し込まれ、コロラトゥーラになっても、変わらず彼女は――本当に美しい。

「――そうだな。我が愛はとうに落ちていた。穢れ、濁っているのに、知らないふりをしていた」

 我が半身の独白は、私の心にも刺さる。
 まったく何と無様さで、何と惨めで、何と愚かなことか。
 だが、これが私だ。
 オペラ座の怪人ファントム・オブ・ジ・オペラらしい末路だ。


   ***


「――キミは、この新宿まちを救うに値する何かが、あると思うのかい?」

 通信端末のホログラムで、レオナルド・ダ・ヴィンチがそう言った。
 我がマスタークリスティーヌに視線が集中する。
 彼女は顎に手を当て、何やら考え込むそぶりをしてみせた。
 背もたれにどっかと座り込んで足を組む。その男性的なしぐさを見せるとき、彼女の腹は既に決まっている。

「世界に切り離された新宿を救う価値か……そんなもんは知らんがな、ダ・ヴィンチさん」
「うん……だけどキミは、」
「ああ。救ってみせるさ。カルデアそっちにいるグランドマスターなら、そうするだろう?」

 我がマスタークリスティーヌは、そう言って笑った。レオナルド・ダ・ヴィンチと、マシュが目を見開いて驚くのがわかった。

「ここで帰ったら、あいつに叱られるぜ。……最終戦のとき、あんまりいいとこ見せられなかったからな。私とファントムは」

 魔術王の居城に強制転移された際、二百万もの魔神柱が押し寄せてきた。
 縁をたどって顕現した他のサーヴァントと共に、私と我がマスタークリスティーヌはマシュたちを送り出し――カルデアを守って戦った。
 魔術王との最終決戦のとき、共に肩を並べて戦えなかったことを言っているのだろう。
我がマスタークリスティーヌが私を振り返り、首を傾げて笑う。

「お前はどう思う? ファントム」
我がマスタークリスティーヌ、君が望む場所で、君と共に、私は歌おう。世界新宿が舞台だと言うのなら、世界新宿にきみの歌を響かせよう!」
「だそうだ。ファントムも問題ないって」
「アンタ、よくコイツの言いたいことわかるわね。私が召喚した時だって苦労してたのに」

 偽りの聖女が呆れたように私を睨んだ。
 首を傾げて笑いかけるとため息をつく。

「コイツは、反転もしてなければ善の部分だけ分かれてるってわけでもないんでしょう。いいの? 新宿のバーサーカーの後釜になるかもよ。アンタをクリスティーヌ二号にしてさ」
「二号には結構されてるよ。別に構わん。ファントムのそういうところをいちいち悩んでいたら胃に穴が開くさ」

 我がマスタークリスティーヌがからからと笑う。鈴を転がすようにとはいかないが、美しい声だ。
 彼女の声を聴いていると私まで嬉しくなる。
 霊基からだから湧き上がる気持ちを即興で歌にすると全員から止められた。

「――さて。キミがそう決意したのならば、私も話さないわけにはいかないな!」

 名探偵がそう言った。
 彼らは私を抜きにして作戦会議を続ける。参加人数として数えられていないのは多少不服であるが、我がマスタークリスティーヌに『喋るな』と言われたからには黙っていよう。
 もとより私は、あらゆる苦難を薙ぎ払う刃でしかない。
 我がマスタークリスティーヌに眷属し、望みのままに動く亡者でしかない。
 それで満足しておかねば悲劇を生むと、私はよく知っているのだ。
 ――ああ、そう。我が欲望を抑えつける枷がなければ、きっと私とてああ・・なっていたのだ。
 何故なら、私もまたオペラ座の怪人わたしだから。
 我がマスタークリスティーヌと出会わなかった私。新宿に呼ばれた私。憐れで無様で愚かな私。
 私、私は……。
 ――それでも、ああ・・はならない。


   ***


「ちょっと夜風に当たってくる」

 どれほど時間が経ったのか。我がマスタークリスティーヌがそう言って腰を上げた。
 我がマスタークリスティーヌの役目も終わり、あとは探偵役の作戦会議が終わるのも待つだけなのだろう。

「待て、一人で行くつもりか。先ほどあんなことがあったばかりだろう。私が行こう」
「軽く外の空気を吸いたいだけだ。深呼吸したらすぐ戻るよ」
「共に参りましょう」

 私も立ち上がった。反転した王はすこし不服そうな顔をする。

「貴様は貴様で不安だが……まあいいだろう。早めに帰って来い」
「ありがとう、王様」

 我がマスタークリスティーヌが歯を見せて笑う。
 その笑みがどこか疲れているのを、私は見過ごさなかった。

 外に出ると、冷たい風が頬を叩いた。我がマスタークリスティーヌが肩を竦める。マントのなかにクリスティーヌを誘った。
 しかし、クリスティーヌは私の腕をすり抜けて歩いて行ってしまう。
 いつもと様子がおかしい。

「寒いのでは?」
「大丈夫だよ。お前が居るならすこし遠出してもいいよな。散歩しようぜ」
「承知」

 我がマスタークリスティーヌの言葉は早口で、言い終わる前にすたすたと歩みを進めてしまう。
 大股に歩いて隣に立つと、我がマスタークリスティーヌの歩みが早くなった。
 追いついて隣に並ぶと、また早くなる。また我がマスタークリスティーヌの歩が早くなる。
 何度もそれを繰り返していると、とうとう我がマスタークリスティーヌが全力疾走になった。

 数百メートル走ったところで走りを止め、我がマスタークリスティーヌはぜいぜいと息をする。

「なんで! お前は! 隣に立つんだよ!? 空気読んで後ろにいろよ!」
我がマスタークリスティーヌ、水を汲んできましょうか?」
「……。いいよ。そこに落ちてるし」

 我がマスタークリスティーヌは、壊れた自動販売機の周囲に落ちているペットボトルを手に取った。
 キャップを開けてごくごく煽る。白い喉が上下する。その様子に見とれる。
 ああ、その声帯の形を見てみたい。開いて、洗って、血を抜いて、飾って――。

「ぷはあっ。……お前さ」
「はい」

 よこしまな感情を気取られたかと思いすこしだけ声が上擦った。
 我がマスタークリスティーヌは縁石にどっかと座り込み、地面に視線を落とす。私はその前に膝をついた。
 俯いているから、彼女のつむじしか見えない。

「――怒ってないのか。私を。謝罪する気はないが、恨み言なら聞いてやる」
我がマスタークリスティーヌ……?」
「そう。あの歌姫クリスティーヌは、お前にとっては最愛の……」
我がマスタークリスティーヌ、ああ、そうだ。きみこそが歌姫。最上で、最高で、最愛の」
「え? ……違う! そうじゃない! 私のことじゃない!」
「……?」
「頼むから、こういうときぐらい会話成立してくれよ」

 顔をあげた我がマスタークリスティーヌが盛大なため息をついた。首を傾げる。
 なにを言われたのかわからなかったが、はたと気づく。
 我がマスタークリスティーヌ は、かの歌姫クリスティーヌのことを言っているのだ。

「怒っていないのか? 憎んでるだろ? ――私は今日で、お前を三度殺したんだ」

 その言葉にはなんと言っていいのか、わからなくなる。
 一度目はフランス・オルレアンで。その次は監獄塔の『裁きの間』にて。
 そして今宵――悪性隔絶魔境・新宿で。
 我がマスタークリスティーヌオペラ座の怪人我が半身を打ち倒した。
 だが、そのいずれも、オペラ座の怪人我が半身我がマスタークリスティーヌを殺す気で攻撃していたはずだ。迎撃は当然だし、その時オペラ座の怪人我が半身 を殺してくれたからこそ、我がマスタークリスティーヌはいま私の前に居てくれる。

「我がマスター。クリスティーヌなりしよ。新宿にて現界した私は、バーサーカーへと堕ちていた。偽りの観客を前に歌い、偽りの享楽をむさぼるだけの愚かな人形だった。貴方が気に病むことはない」
「だが……」

 俯く頬に手を這わせ、優しく上を向かせる。
 眉を下げ、泣きそうな顔で我がマスタークリスティーヌは私を見つめる。
 歌の指導者としてあるまじきことだが、愛おしい、と思った。劣情を掻き立て、引きつける顔だ。
 嫉妬しまう。
 今、我がマスタークリスティーヌの心を占めているのは私であって私ではない。

「確かに、新宿でしか成し遂げられないことがあった。かの歌姫クリスティーヌそのものを召喚することが出来ずとも、オペラ座の怪人エリックは歌姫とのつかの間の再会を果たした。それを邪魔したのは……まあ、万死に値する罪でしょう」
「…………自分のやったことを後悔はしてないけど、本人おまえにそう言われると結構来るもんあるなー……」
「ですが、私も歌姫に会えた。あの声に触れることが出来た」
「……まあ、そうだけど。クリスティーヌにとっちゃ悪役だろう、お前は。……いやどうだろう……」

 我がマスタークリスティーヌは首を振って悩む。

 やっと歌わないで済む・・・・・・・・・・。彼女はそう言っていた。
 それは、おそらく真実だろう。
 かつて、歌い、私を愛するように強要した歌姫だ。新宿では人形に押し込めてまでも歌をせがみ、眷属して命令を求めた。
 醜い人形に押し込めたかの歌姫クリスティーヌのために、人々を壊れた人形コロラトゥーラに貶めてまで。
 まさに趣味だ。そうする必要はどこにもないのにそうせざるを得ない行いだ。
 もっと他に方法があると――アサシンとして現界し、我がマスタークリスティーヌと共に時間を過ごした“私”は思う。

「これでよかったのです。愛しい人クリスティーヌオペラ座の怪人エリックも、解放してやることができた」

 にっこり笑って我がマスタークリスティーヌに言い聞かせる。
 彼女の手をとって、忠誠を誓う。

我がマスタークリスティーヌ我が愛クリスティーヌ我が歌姫クリスティーヌ! 私は、いまここにいる私は・・・・・・・・・、きみをこそ愛している。どうか歌を捧げてほしい。それだけでいい。声だけで構わない。それだけで私は、君の望むままに戦える」
「――そう。それならよかった。今後のことも含めると、わだかまりがあるなら払拭するべきだと思ったんだ。……要らぬ杞憂であったかもしれないが」

 我がマスタークリスティーヌが縁石から立ち上がった。私は彼女に跪いたままそばに控える。

「……お前はきっと、私が人を殺せって言ったら喜んで殺すし、喜んで悪を成すんだろうなあ……」
「――だが。貴方はきっとそんなこと命令しないだろう?」

 私が笑うと、我がマスタークリスティーヌは面食らった顔をした。
 この愛が、我がマスタークリスティーヌへの愛が穢れることなどありはしない。彼女が清らかでいる限り。
 視界の悪い仮面を外し、眼鏡に変えたから、彼女の表情がよく見える。
 我がマスタークリスティーヌは眉根を寄せ、すこしだけ泣きそうな顔で笑う。

「立ち上がって」
「はい」
「目の前で……そう、その位置」
「はい」
「それで……私を抱きしめろ」

 命じられるがまま腕を伸ばし、我がマスタークリスティーヌを両腕のなかに捕らえる。
 小さな肩だ。背の私よりよほど低い。私の胸ほどしかない。
 この小さな身体が、もうひとりのマスターをサポートし、人理修復に導いた。その偉業を、ほとんどの人間は知らない。
 この小さな肩はいつだってしゃんとしていて、実際よりも大きく見える。だが時折か細く揺れるのを、誰も知らない。
 私以外は。
 私だけは知っている。なんと心満たされることだろう。

「もっと強く。……愛しい人クリスティーヌを抱くみたいにやってみろ」
「ああ、ああ、我がマスタークリスティーヌ! きみの肩は小さく、息は羽根のようで、感じる心臓の音は歌うようだ……」
「いちいちうるさいよ」

 感じたことをそのまま囁くと、我がマスタークリスティーヌが苦笑した。
 やがて嗚咽が響きはじめ、胸元から水がしみこんでくる。


   ***


 はじめての失恋を経験した少女のように泣き濡らす我がマスタークリスティーヌははじめてだった。いったいなにが彼女をこのような涙を流させるのか、私にはわからない。
 かの歌姫クリスティーヌか、あるいは私を憐れんでくれているのか。
 わからない。

「なにがあろうとも、私はきみを守ろう。道を切り開く刃になろう。我がマスタークリスティーヌ
「お前があの人クリスティーヌを好きなことぐらい、知ってるよ」

 抱きしめる力をどんどん強くしていくと、我がマスタークリスティーヌは私の肩を押して身をよじった。
 どうやら泣き止んだらしい。
 やはり我がマスタークリスティーヌは強い女性だ。
 全力で頼っていい、依存してほしいと願っても、この人はやがて涙を流し終えると、自分で頬を拭って立ち上がるのだ。
 それを喜ぶべきなのか悲しむべきなのかはわからない。

「世話をかけた。……じゃ、お前の望む歌姫クリスティーヌらしくある為にも、世界新宿救ってくるか!」

 我がマスタークリスティーヌの切り替えの早さは美点だろう。軽く目元を染めながらも明るく笑う彼女に私も笑う。



 共に並んで帰り道を歩くと、途中で偽りの聖女が壁に寄り掛かって待っていた。

「おそい! アンタねー、さらわれたって自覚あんの!?」
「あっはっはっは、すまんすまん……それで。二人の作戦会議は終わったかい?」
「アンタを待ってたのよ」

 偽りの聖女は我がマスタークリスティーヌの赤い目に気づきながらも、なにも言わない。
 だから、私だけだ。
 我がマスタークリスティーヌを深くまで知っているのは。
 それが、いまの私の、浅ましい心を満たしていた。


   ***


 現実は幻想へ。幻想は欲望へ。
 我らは現実にして現実に非ず。
 虚構にして虚構に非ず。
 この魔境、新宿は虚構で塗り固められているけれど、輝くような真実がある。

 美姫ヒロイン! 王女ヒロイン! 女帝ヒロイン
 最も美しき者ヒロイン! 最も清き者ヒロイン
 我がマスターヒロイン

 私は――きみと共に舞台に上がれることを光栄に思う。
 ヒロインクリスティーヌを守るべく立ちはだかった“私”のように。
 きみを守るためにきみの前に立てる幸運に感謝する。

 きみはかの歌姫クリスティーヌではないけれど。
 まぎれもなくヒロインクリスティーヌであり、愛しい人クリスティーヌだ。






2017/02/27:久遠晶
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