子供の見栄と大人の包容力



「部屋はもうとってあるんだが」

 フェルグスはそう言い、カウンターにさりげなくルームキーを置いた。
 いいや、手つきこそさりげないものの、明らかにこれ見よがしなしぐさだ。どうぞ気付いてくださいと言わんばかりに、ルームキーはカクテルの隣に添えられた。

 は引きつった笑みを浮かべそうになった。
 気づかないふりなど出来ず、フェルグスに向かって微笑みかける。

「もちろん、この後の先約はないよな?」
「そんなこと聞くなんてデリカシーがないわ」
「すまんすまん、なにせホワイトデーだからな」

 が言うと、フェルグスは喉の奥でクックと笑った。バーの薄暗い照明に照らされた表情は、いつもよりも繊細で神秘的に見える。
 なにせホワイトデーだ、とフェルグスがつぶやいた。

「すでに先約が入っていても不思議には思わん。お前は先月大量にチョコを配っていたし……だが、そうか、今宵、お前を独占できるということだな」

 フェルグスの大きな掌が持ち上がって、の手に添えられた。
 暖かさに、反射的に体がこわばる。身を寄せられると、息が詰まってしまう。

「予定を空けてくれて感謝する」

 フェルグスが耳打ちをした。その吐息と囁き声に、の顔に熱が集まる。ほろ酔いの頭に、彼の声は毒そのものだ。
 肩を抱かれ、はされるがままフェルグスの胸板にしなだれかかった。
 バーテン役に駆り出されているカルデア職員が、とフェルグスを盗み見て微笑んでいる。彼からは愛の成就に見えるのだろう。微笑ましくて当然だ。
 しかしは、背中に脂汗が伝って仕方ない。ドレスに染み込まないかが気がかりだ。

 行こう、とフェルグスが立ち上がる。そのエスコートを受けて、も立ち上がった。
 腰を抱かれて歩くは生きた心地がしない。
 カルデア内の無骨なエレベーターの中に入ると、なおさら息苦しい。

「……ところで、ホテルって?」
「あぁ、無論カルデアにそんな施設はないから、それっぽく内装を変えているだけだがな」

 寄り添っているから、フェルグスの声が近い。
 どうやら空き部屋を借りたらしい。
 冬木へのレイシフト時に起きた爆発事故で、200人あまりの職員が死亡、或いはコールドスリープ処置を施されている。大量に出来た空き部屋のひとつを使うことぐらい、誰も文句を言わない。

「お前がよく行くホテルには及ばんだろうが、そこは勘弁してくれ」

 少し困ったようにフェルグスが言う。本物のホテルを用意できなかったことが、自分でも不満らしい。その態度は少し意外だった。英雄は色を好む、ということわざを体現するかのようなフェルグスのこと、場所や時間などお構いなしだと思っていたからだ。
 部屋の内装を変え、ムードを作るフェルグスは、少しイメージと違う。

「オレだって、気を使う相手には気を使う。特に今回は、ホワイトデーだしな。互いに最高の夜にしなくては」

 フェルグスが笑うので、も平静を装って笑った。

 ──どうしよう。

 心の中でそう考えながら。

 ──もう逃げられない。

 絶望的な感覚がよぎる。
 は上昇して行くエレベーターの数字を見つめながら、死んだ目で過去を振り返った。

 ──先輩、先輩は恋ってしたことありますか?
 ──えっ!? そ、そりゃもちろん……! 日本じゃモテモテだったよ、告白されまくって困ったぐらいで……。
 ──へぇ、すごいです! 恋愛強者、だったんですね!

 マシュのキラキラとした瞳が目に痛かった。
 本当は恋愛強者だなんてお世辞にも言えない身分だった。くだらない見栄を張ってしまったのは、会話の途中でフェルグスが顔を出したからだ。
 フェルグスに、ろくに恋愛経験のないおぼこだと思われたくなかった。ケルトの貞操観念を詳しく知るわけではないが、フェルグスに魅力のない女だと思われたくはなかったのだ。

 ──マスターならば当然経験も豊富だろう。マシュ、それを聞くのはかえって失礼じゃないのか。
 ──えっ。す、すみません、普通はどうなのか気になったもので……って、話に入ってこないでください!

 マシュとフェルグスの会話は微笑ましいものだったが、愛想笑いしながら冷や汗が伝ったのだった。

 バレンタインチョコの礼としてバーに誘うあたり、フェルグスは経験豊富な女性としてを扱ってくれている。腰を抱いてホテルに誘っているのだから、部屋で待っているのは当然『そう言うこと』だろう。
 彼女はそれが恐ろしかった。
 フェルグスと一夜を共にすることが、ではない。
 ベッドのうえで自分の浅ましい嘘が露見したら……。
 ──軽蔑される。
 それは容易く想像できる未来であった。
 思い出される過去。かつて「処女は重い」と言ってうざったそうに舌打ちをした男の顔が、脳裏によぎる。
 フェルグスにあんな表情をされたら立ち直れない。
 万が一他のサーヴァントに言いふらされでもしたら明日からの任務を全うできるかも怪しい。
 エレベーターが上昇するにつれて、緊張の糸も張り詰める。

「私、やっぱり夜は用事が……」
「何を言ってる? ……困らせるのがうまいな、お前は。安心しろ、取って食ったりはせん」

 腰を抱く手から逃れようとすると、より強く抱き寄せられた。心臓がはねる。
 軽く身を寄せているだけで緊張すると言うのに、床を共にできるものか。
 だがしかし、今更逃げることなどできない。
 直前で怖気付いたとならば、今までの強がりが全て大ボラであったとバレてしまう。それはダメだ。嘘はつき通さねばならない。

 据え膳食わぬは男の恥。 毒を食わねば皿まで。
 そんな言葉がよぎる。
 騙し通すしかないのだ。
 ごくり、とは唾液を飲み込んだ。

 ──もういい、前向きに行こう……。これで処女卒業! ケルトの英雄にお相手してもらったなんてハクがつくんじゃない?
 必死に前向きに考えてテンションを上げる。
 なにがなんでも誤魔化し切って、手慣れた女として振る舞い切るのだ。
 不安しかないがやるしかない!
 行け!
 がんばれ私!

 などと自己暗示していたらいつのまにか扉の前にいた。
 フェルグスが扉を開け、に、入室を促す。
 失礼します、と脳内で呟いて部屋に入ると、扉が閉まるより先に後ろから抱き締められた。
 思わず「ヒィ」と声が出た。まったく淑女とは程遠い声だ。

「ん? どうした?」
「いえ、飢えてるのかと思うぐらい情熱的だと思って。先にシャワー浴びない?」

 なんとかごまかしながら太くたくましい腕をすり抜ける。しかしすぐに肩を掴まれ引き戻される。

「このままでいいだろう。匂いが落ちる」

 うなじに鼻をこすりつけられた。
 匂いを嗅がれている、と気づいた瞬間羞恥に叫び出しそうになった。どうにか悲鳴をこらえたのは奇跡だ。

「日本じゃシャワーのあとにベッドに入るのよ。私の身体を自由にしたいならいい子にすることね」

 緊張のあまりちゃんとしゃべれているかもわからない。だがフェルグスの腕が外れたので、納得してくれたらしい。

「かなわんな、まったく」
「あなたのそう言うところ好きよ」

 なに言ってんの自分。は自分でそう突っ込んだ。我に返ったら負けだ。突っ走るしかない。
 フェルグスが内装を変えた部屋は、元がカルデア職員の部屋とは思えない状態になっている。
 窓がないので壁に夜景のポスターを貼り付け、観葉植物の位置に気を配り。カーテンにも高級感のある色をチョイス。
 こんな細やかな気を回すことができたなんて。
 は内心で舌を巻く思いだった。
 しかし会話の流れ的に内装に言及することができず、は部屋の中にズカズカと無遠慮に踏み込んだ。
 カバンを後ろに向かって放り投げる。
 床に落ちた音がしないので、フェルグスが受け取ったのだろう。

 は逃げ場を探して、脱衣所へと入った。内装は違えど間取りはマイルームと同じなので、迷いはしない。
 脱衣所の扉を後ろ手に閉め、そのまま寄りかかった。
 一呼吸して心臓を落ち着かせる。
 のろのろと服を脱いでシャワー室に入った。
 頭から熱いお湯を浴びると、すこしだけ気分が落ち着いた。
 やっぱり隠し通すなんて無茶だったのだろうか、と弱気が顔を出しそうになるのを、慌てて押し込む。

 逃げ出すことはできない。
 それに、逃げ出さないと決めた。──フェルグスが好きだから。
 共に戦い、共に歩み、人類を救うと約束してくれた英雄。気前よく懐深い彼に心惹かれぬ女など、そうはいない。そのはずだ。

 だから今夜は――そう。役得なのだ。
 は貞操観念のかたい女であったが、今夜が一度だけの恋でも構わない、と本気で思っている。
 惚れた男と、ケルトの英雄と一夜を共に出来るのだ。それも魔力供給などという事務的なやり取りではなく、双方の合意の上で。それはどんなに素晴らしいことだろう。
 愛し合う男女ではない。フェルグスにとっては、数多く抱いた女のひとりになるだけだ。
 ──それでも。
 の記憶には一生残る。
 神様に与えられた夢のようなひとときだ。最高のホワイトデーだ。

 だから、失敗なんて許されない。大人の女性として洗練されたふるまいを演じ切るしかないのだ。

 シャワー室の壁に手をついて、必死に今後をイメージトレーニングする。脱衣所を出て、フェルグスとキスをして……ああっ、もうダメ。死んじゃう。
 イメージは中々先へ進まない。狭いシャワー室の中をウロウロするははっきり言って滑稽だろう。
 頭を抱えて呻いていたは、外で聞こえた物音にハッと口をつぐんだ。
 脱衣所でゴソゴソと音がする。

「フェルグス? ……なにしてるの?」
「なにって、決まっているだろう。ほら入るぞ」
「えっ!?」

 シャワー室の扉が開いた。慌てて両手で押して抵抗する。

「ちょ、ちょっと! なにナチュラルに入ってこようとしてんのよ!?」
「お前もそのつもりで鍵を開けてたんだろう」

 単に閉め忘れただけだ。まさかシャワー室に乱入してくるとは思っていなかったのだ。

「ま、まだ身体洗ってないから! 五分や十分ぐらい待ちなさいって!」
「日本には共に湯浴みをする文化はないのか? 俺が身体を洗ってやろう」

 余計にダメだわそんなもん! と叫ぶのを堪える。
 必死に押さえていたものの、サーヴァントの筋力にはかなわない。容易く扉はこじ開けられ、目の前にフェルグスの厚い胸板が登場する。
 フェルグスの上裸など見飽きているが、こんな場面では話は別だ。

「観念しろ。今宵ばかりは、お前の命令に従ってばかり、というわけにもいくまい?」

 夜伽とはそう言うものだろう、と笑いながら、フェルグスがシャワー室に押し入ってきた。
 身体を隠して、慌てて背を向ける。
 決して狭くはないシャワー室なのに、フェルグスが入ってくるととたんに狭くなる。圧迫感で息苦しい。
 落ち着きつつあった心臓が再び暴れまわる。

「悪いけど私、こういうのは趣味じゃないわ。もう出るから一人で入って」
「そう言うな。お前のそんなところは嫌いではないがな」

 隣をすり抜けようとすると、壁に手をついたフェルグスに阻まれる。は頬を引きつらせた。
 フェルグスは『じゃじゃ馬な女を往なして組み敷く』のモードに入っているらしい。
 つまりなにをしても彼のテンションを上げるだけだ。抵抗すればするほど、燃え上がらせてしまう。
 
 はシャワー室の隅で縮こまって座り込みたい気分だった。男とキスをしたこともないのに、二人でシャワーとは。段階を飛ばしすぎている。
 彼女の貞操観念は、ケルト時代の英雄であるフェルグスは理解してくれない。そもそも男遊びをしてきた大人の女で通っているのだから当然だ。

 なにも言えずに風呂場のタイルを見つめていると、肩に突然なにかが触れた。
 泡立てたスポンジだ。

「フェルグスっ!?」
「言っただろう? 肌を洗ってやると」

 フェルグスはスポンジを泡だて、彼女の背中を撫ぜる。有無を言わせない口調に、彼女はなにも言うことが出来ない。
 泡で撫でて塗り広げるような、優しい触り方だ。時折指先が肌をかすめて、どうしても意識してしまう。
 しかし決していやらしい、快楽を得ようとするような動きではないから、彼女もどうにか落ち着いた。

「お前の肌は美しいな。シミひとつない」
「う、嘘ばっかり。色々忙しくて手入れできてないのわかってる」
「本当だ。俺は世辞は言わん。──ああ、お前、こんなところにほくろがあるのか」
「え?」

 うなじに生温かいものが触れた。
 ざらついたものに舐められる感触とリップ音で、キスされたとわかるまでに時間はかからなかった。
 どうやらうなじにほくろがあるらしい。口を開けば奇声を発してしまいそうで、私はろくなアクションも取れず、口を「い」の状態にしたまま固まるばかりだ。

「ま、前は自分でやるから……」
「おお、そうか」
「あなたの背中も洗ってあげる」
「頼む」

 フェルグスが差し出したスポンジを受け取った。
 案外あっさり引き下がったことに安心してしまう。
 フェルグスの背中に回り込むと、さらに落ち着いた。洗いやすいように座ってくれたこともあり、自分が主導権を取れる、というだけで心に余裕が生まれる。

 背をスポンジでこする。傷だらけの、大きな背中だ。
 この背を、私は一年間見てきた。私を庇い、守り、人理修復を成し遂げさせてくれた──背中。力強い腕。丸太のような足。
 この身体のどこを取っても、フェルグスは英雄だ。
 本来、私のような凡人が触れることすらかなわぬ、人類史に刻まれな英雄なのだ。

「マスターも大変だろう」
「へ?」

 ぼんやりと考え込んでいたから、フェルグスの声にハッとした。

「人理修復のあとでも問題は山積みだものなぁ。最近、寝れているか?」
「え、えぇ……もちろん」
「いつでも添い寝相手は募集中だ。気が向いたら誘うといい、寝かしつけてやるさ」

 冗談めかしたいつもの声音で労られると、不意に涙が出そうになってしまう。
 涙腺がゆるくなっているのは、バーで飲んだカクテルのせいか。それもあるし、やはりこの異常な状況に気分が高揚しているらしい。
 惚れた男と、ケルトの英雄と同じシャワーを使って、これから一夜を共にする。その状況で高揚しない人なんて、いるはずがないのだ。仕方ない。

 一通りフェルグスの身体を洗ってやり、シャワーで泡を流す。

 ややあってシャワー室から出ると、どっと疲れた。
 着慣れないバスローブにワクワクする暇もない。頭が火照って、のぼせてしまったようだ。
 フェルグスが改造してくれたという部屋の内装ももう少しじっくり見たいけれど、じっくり見たら見たで……恥ずかしくて死にそうになりそうだから、あんまりじっくり眺められない。

「さて。焦らしてくれたんだ、責任は取ってくれるな?」

 テーブルに寄りかかって息を吐いていると、後ろから優しく抱きしめられた。耳元にかかる吐息と囁き声にぞくりとする。
 普段では聞けない、腰に響くような甘い声だ。の心臓は高鳴って、同時に『逃げ出したい』という恐怖心を呼び起こす。

「私、喉が渇いたわ。誰かさんのせいで長風呂になったから」
「まったくお前は」

 フェルグスが呆れる。
 マイペースな女だ、と思っているのだろうか。そうであればありがたい。
 面倒な女と思われたら──いや、きっとそれはないだろう。フェルグスはご馳走があるのなら、面倒なことでも喜んでやるタイプだ。
 問題はがご馳走足り得るかどうかだ。そして女としての自分の価値を、は信じることが出来なかった。
 だからこうやって、出し惜しんでしまう。自身も理解していた。

 フェルグスが小さな冷蔵庫からミネラルウォーターを出した。あらかじめ用意していたのだろう。
 こういったところで見せるフェルグスの意外な繊細さを、夢主は好んでいた。
 ワイングラスに水が注がれる。受け取ろうとすると、手を避けたフェルグスが飲み干した。喉が上下しない。
 水を口に含んだまま彼は両手を広げる。
『口移ししてやろう』の意味だ。ニヤリとフェルグスの細い目が弧を描く。

 ごくり、とは息を呑んだ。
 は今まで、何度か男とベッドインの機会はあったものの、ことごとくその機会が潰れてきた生粋の『男難の相 D+』持ちである。或いは途中で両親が乱入し、或いは男が処女を嫌い。
 そんな彼女であるので、くちびるにキスをした経験も、なかった。

 フェルグスは小首を傾げてさぁ、とを誘った。あくまでからキスをさせる心算であるらしい。
 静かに息をして、は動揺をしずめる。
 くちびるとくちびるを合わせるなど、手と手を繋ぐようなものだ。単なる皮膚接触だ。恥じらう必要などあるはずもない。

「そう言うことはやめなさい」

 まったく違う言葉が出た。 しかし言った言葉は取り消せない。このまま突っ走るしかない。

「この夜はいい思い出にしたいのよ」

 フェルグスのくちびるをなぞる。

「素敵な夜を、適当な口移しではじめたくないわ」

 もっと言うとファーストキスだけど。
 彼女の言葉に、フェルグスは面食らった顔をした。ややあって口に含んでいた水をゴクリと飲み込み、苦笑する。

「適当な夜にする気は無かったぞ? そこは弁解させてくれ。だが……よかった」
「え?」
「浮ついているのは俺だけだと思っていたからな」

 腰を抱かれる。
 身を寄せられると反射的に仰け反ってしまう。
 社交ダンスの途中のような姿勢になって、フェルグスの胸板を押し返してしまう。

「意外ね、浮ついていたの?チョコが嬉しかった?」
「当たり前だろう。……ベッドに行くか。オトナの包容力を見せてやる」
「え、いや……」

 問答無用だった。足が浮き上がり、あっさりと抱きかかえられる。

 ──た、俵担ぎでもしそうな粗野な見た目なのに! ここでお姫様抱っこ!? やだ!ふざけないでよ!
 そう思って怒ろうとしたのに、

「フェルグス好き」

 口から出た言葉は全開の本音だ。

「ああ、知っているさ。我が愛に応じるとは思ってなかったがな!」

 笑顔が眩しい。好き。たまらない。
 の胸はくぅと高鳴って、やはり泣きそうになってしまう。
 ふかふかのベッドに身体を下ろす手つきも優しい。普段、魔獣を相手に荒々しい戦いを繰り広げる男とは思えない。

「さて。初めてのキスをするのはここで良いかな? お嬢さん」

 身を寄せられ、顎をクイと掴まれる。

「まぁ、許してあげる」

 心臓がせわしない。声が震えそうだった。
 雫は垂れていないが、目が潤んでいるのがわかる。

「なら目を瞑れ」

 促され、慌てて目を瞑る。唇をキュッと引き結び、顎をあげてフェルグスを受け入れようとする。
 心細い指先はぎゅっとシーツを握りしめ、震えを押し殺す。
 精一杯の矜持で、"いや"とか"待って"という情けない言葉を抑え込んだ。
 しかし、いつまで待ってもフェルグスのくちびるは来ない。

 それは数秒かもしれなかったし、数分かもしれなかった。 気付かぬ間に止めていた息を、不審に思われないように少しずつ再開する。
 強張っていた肩から少しずつ力が抜ける。
 何かがおかしい、と気づいて片目を開けようとした瞬間、くちびるになにかが押し付けられた。
 熱く、湿り気があり、柔らかい。
 反射的に頭を引きかけると、後頭部に手を回された。
 すぐにくちびるは離れ、ホッと緊張が和らいだ瞬間また触れられる。
 ついばむようなそれが幾度か繰り返されたあと、やっとフェルグスの身が離れる。

「どうした、顔が赤いようだが──いや、意地の悪い真似はするまい。初めてなのだろう、お前」

 単刀直入に斬り込んできた。 緊張と酸欠で半ば宙を漂っていた心を、容赦なく現実に引きずり戻す。
 血の気が引いた。

「えっ、いや…私は……」
「誤魔化さなくていい。恥じることでもない。そうだろう?」

 フェルグスは髪先を撫でながら微笑む。 それが子供をあやす手つきに感じてしまう。

「……いつからわかってたの」
「まぁ、そんな風に肩肘張ってガチガチに警戒されれば、いやでもわかる、本当は応じたくないのかと思ってドキドキしたからな!」

 ワッハッハ、と豪快に笑うフェフグスに、はうぅと言葉に詰まった。のつまらない意地の張り方は、すべて無駄だったらしい。

「なに、初めてで緊張していたと言うなら問題ない」
「……別に、無理しなくていいわよ。面倒でしょう」
「なにを言う。むしろ光栄なことだ」
「……光栄?」
「ああ。お前がどんな男に、どう傷付けられたのかを聞く気はないが……ろくな目にあっていないだろう」

 うっ、と言葉に詰まった。図星なのだ。
 昔の男に言われた心ない一言を忘れられず、ずっと傷つき続けている。

「お前の価値に気づかぬ男など忘れてしまえ。この俺に身を委ねろ、マスター」

 フェルグスの細い目が、まっすぐにを見つめる。力強い瞳の光に、目が離せない。
 フェルグスの無骨な手が肩を撫でる。熱い手のひらが気持ちいいと思った。怖くはない、と。

「フェルグスが好きよ。だから光栄なのは私の方よ」
「ならば有難いなぁ。何せ俺は絶倫すぎて元カノ以外誰も──なんでもない」
「……」
「いや、すまん、この会話の流れでこれは言うべきではなかった。スマン」
「……そもそもベッドの上で他の女の話をするのは無粋じゃない?」
「ぐうの音もでん」

 思わず大きなため息が出た。
 ここぞと言うところで締まらない男というか、なんというか。彼の明るさには助けられては来たが。

「ま、いいわ。それで……続きしてくれない? 身を委ねるからさ」

 同じベッドに惚れた男といる。という状況はただでさえ緊張する。先延ばしにいていればなおさらだ。

「そうだな。はじめるか」

 フェルグスの指が太ももに触れる。
 は身構えて、シーツをぎゅっと握った。手に汗が滲む。涙が出そうになるのは、行きすぎた胸の高鳴りゆえか。

「──と、言いたいが……少し緊張しすぎだな。お前は。パンパンに張り詰めた風船のようだ」
「え?きゃっ」

 グッと肩を押され、優しく押し倒される。
 視界がフェルグスに覆われたと思った瞬間、彼はぼふんと隣に寝転んだ。
 首の下に腕を差し込んで、抱き寄せて。

「フェルグス?」
「今日はもう寝よう。無理に急ぐ必要もない」
「へ?あの…」
「お前が受け入れているのはわかっているが、肉体がまだ俺に慣れておらんようだ。まずは肌に触れる所から始めよう」

 横抱きに抱きしめられ、お腹を撫でられる。

「正直助かる、けど…フェルグスはいいの?」
「お前の身体が第一だ」

 フェルグスの声が耳元で聞こえる。そのことにもびくりと肩を揺らしているのだから、フェルグスが気を使うのも当然かもしれない。

「私は、別に」
「いいから休め、マスター。言っただろう、大人の包容力を見せてやる、と」

 頭をワシワシ撫でながらフェルグスが言う。 なるほど確かに、これは大人の包容力と我慢強さだ。
 彼女はフェルグスの腕の中でもぞもぞと動いた。身体を回転させる。
 胸板に頬を押しつけると、フェルグスが息を飲むのがわかった。

「ありがとう、フェルグス。あなたでよかった」
「だから誘惑するな」

 苦笑が聞こえる。背中をポンポン叩かれていると、すぐに眠りに落ちていった。





2017/03/20:久遠晶
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