きみのためのコーヒー
テーブルに、糸くずが落ちていた。
あの爆発のなか私が生き残ったのは、ただそれだけの、くだらない理由だった・
ロード・カルデアスを用いた初のレイシフト。
優秀な魔術師を揃えたAチームは平静だったけれども、Bチーム、Cチームの魔術師たちはバイタルに乱れがあった。
緊張は無理もない。サポート役である我々職員だって、緊張しているし焦ってもいる。
予定時間は差し迫っているけれど、この分ではレイシフトはすこし遅れるだろう。
そう判断した私はモニターから視線を外し、糸くずをゴミ箱に捨てるべく立ち上がった。
その瞬間、閃光が私の目を焼いた。
運命だったわけでも、なにかに選ばれたわけでもない。ただただ、奇跡的に幸運だっただけ。
それを喜ばしいとは……思えなかった。私よりも生きているべき人は、あの場に何人もいた。新米の職員が一人生きのびたところで、足手まといになるだけだ。
しかし状況は刻薄していた。
くだらない弱音など、吐けるはずがなかった。
一番重圧がかかっているはずの人類最後のマスターが、黙ってトレーニングをしている。
一番ストレスがかかっているはずの臨時責任者が、寝ずにモニターに向かっている。
だから私も、それ以上の弱音を吐けなかった。
オルガマリー所長は亡くなり、自動的にドクターロマ二が若くして臨時の責任者になってしまった。
本来飄々とした優男で、責任なんてとてもじゃないけれど負えそうにない、よく空き部屋で仕事をサボっていたドクターロマ二が、生き残りの職員を統率しなければならなくなった。
その彼が弱音も吐かず、あの一般人の女の子が弱音を飲み込み、懸命にやるべきことをやっている。
ならば私も、下っ端職員として、諦めずにやるべきことをやるべきだと思った。
その思いは、人理を修復し終え世界が救われたあと、より強い決意となった。
***
モニターに文字列が浮かぶ。人理修復の可能性。特異点の捜索。存在力の維持。レイシフトの確立。
キーボードに次々打ち込んで、打ち込んで、打ち込んで──。
力が抜けて、顔に衝撃。
ハッと顔を上げてから、一瞬寝落ちてしまったと気付いた。
「休憩したらどうかね?」
「うわっ」
突然背後からかかった声に大きな声が出る。振り返るとライオンの顔と目が合って、尚更驚いた。
ライオンの顔をした英霊──サーヴァント、トーマス・エジソン氏は、ワッハッハと肩を揺らして笑う。
「失礼、驚かせてしまったかな」
「こちらこそすみません。ちょっと寝ぼけていたみたいです」
この方の顔には、毎度驚いてしまう。
ジロジロ見るのも失礼だろうかと気を使うのだけど、本人は自分の顔がライオンになっていることなど気にもとめていないようだ。
時計に目をやると、午前の三時を示していた。管制室の明かりはすでにほとんどが落ちている。薄暗い室内に、エジソン氏の背中に搭載された電球がピコンと光った。
部屋を明るくしようという気遣いかもしれないが、顔が逆光になって迫力が出るだけだ。私は苦笑をこらえる。
「今日はもう寝たほうがいいんじゃないかね」
「ご心配ありがとうございます。ですが、まだ仕事が残ってるので」
「急を要しているわけではないだろう? 先ほどから見ていたが、うつらうつらしていてろくに進んでいないじゃないか」
「見てらっしゃったんですか」
うむ、とエジソン氏が頷いた。
大きく腕を組んだ堂々たるしぐさで肯定され、すこしと言わず、かなり恥ずかしい。
「私の生前だって、きみほどの無茶はしていなかったぞ。もう何日寝ていないんだ?」
「トーマス・エジソンにワーカホリックを心配されるのも貴重ですね?」
「笑いごとではない! いいかね、徹夜と言うのは納期前にやることなのだ。普段は三時間ほどは寝てよいのだ」
エジソン氏の目が細くなり、キュッと厳しくなる。猛獣らしい厳めしさに怖がるよりも先に、そのネコ科な表情のうごきに感心してしまう。
私があまりこたえていないからか、エジソンさんは眉間に指を当ててこれ見よがしに首を振った。あからさまなため息。この仕草は人間的で、なによりアメリカ人的だ。
「まったく……わかった。寝ろとは言わないが、休憩はしたまえ。少し待っていなさい」
「……?」
「私が戻ってくるまで、パソコンは触らないこと! めっ!」
「はいっ!」
キーボードに触れようとすると、叱咤が飛んできた。慌てて手を離してから、まるで子供のようだと苦笑した。
管制室を出て行くエジソン氏がどこに向かったかはわからない。注意を無視して作業を進めようかと思ったが、バレたら本当に怒られそうだ。それはいけない。
エジソン氏は英霊だ。この瞬間とは違う時を生き、人類史に刻まれた功労者。
敵を打ち倒す勇者や悪逆を成した鬼ではなく、無血で人々の心に名前を刻んだ偉大な発明家だ。
カルデアで働く者として、英霊はみな尊敬している。エジソン氏に関しては、正直思い入れが強い。
──エンジニアとして働こうと思った、きっかけの人だ。
その人になにかを言われれば、できる限り応えたくなってしまう。これは仕方のない人情だ。
そうでなくとも、サーヴァントは怒らせるべきではないのだから。
観念して、椅子の背もたれに身体を預けて目を瞑る。
休息を欲する身体は、ものの数秒で意識が遠のいていく。
「ほら、できたぞ」
「うわっ」
声がかかって身体がビクついた。椅子からずり落ちそうになる私に、エジソン氏が笑った。驚きやすいんだな、と言われ、私はやはり、少し恥ずかしくなってしまう。
芳ばしい香りが鼻先をくすぐった。デスクに、無骨なマグカップが置かれている。コーヒーだ。
「これは、私に?」
「もちろん。きみのためのコーヒーだとも」
「ありがとうございます」
わざわざ淹れてくれたらしい。感激してしまう。
マグカップに口をつけた。美味しくてコクコク飲んでしまう。
「疲れている時にはコーヒーと甘いものが一番だ。このクッキーも食べるがいい」
「ありがとうございます。あら……これ、エジソン氏ですか? かわいい」
「そうだろうそうだろう。特許申請中なので、絵柄を借りるときには一言断るように」
私の反応にエジソン氏は満足げに頷き、隣のデスクから椅子を引っ張り出した。
彼の分のコーヒーもあるので、どうやら一緒に休憩してくれるらしい。
それはとてもありがたい。話し相手がいれば眠気も収まるだろう。
いただいたクッキーは美味しかった。エジソン氏本人の手作りらしく、時折抜け毛と思しき白い毛が混入しているのは欠点だったが……美味しいことには変わりない。猫アレルギーでなくてよかった。
徹夜続きで冷えた身体に、温かいコーヒーがしみる。緊張がほぐれ、私は息をついた。
「それで、最近はどうだね」
「そうですね……使節団はやり過ごせましたが、やはり問題は山積みです。各所に送る報告書の作成も後回しにしていたツケがきていますよ」
私は肩を竦める。根回しや記録の改ざん、報告書の偽造など、やるべきことは多岐に渡る。
並行して特異点の調査や探索にも気が抜けない。それにマシュのバイタル管理もある。
世界を救えばそれで終わり――と思っていたわけじゃないけれど。後処理が予想以上にごたついていて目眩がする。
「あなた方サーヴァントは闘いがなくなって、長い休暇でしょう。我々は当分休暇は取れそうにありません」
「ふむ。仕事がある、と言うのは素晴らしいことなのだがね」
「まったくその通りです。この仕事に関われたことを誇りに思います」
「──だが、これはきみのキャパシティを超えているのではないか?」
はっきり言われて言葉に詰まる。無能と言われた気がしたからだ。
私はにっこり笑って首を振る。
「ご心配はありがたいですが、職員はみんな踏ん張っています。ここで私だけ休むわけにはいきません」
「『彼』が居なくなり、気を張る気持ちはわかる。だが、きみが『彼』の代わりになる必要はあるまい。人間は自分以外の何者にもなれないのだから」
──ロマ二さん。
あの笑顔を思い出し、反射的に泣きそうになった。
「……誰かがやらなきゃいけないんです。今までずっと、細かいことも大きなこともドクターロマニが請け負ってくれた。でもあの人はいないから、代わりに私がやるんです」
「別に責めてるわけではないのだ。根を詰めるな、寝るべき時は寝ろ、と言いたいだけだ。きみまで倒れたら、それこそシャレにならない」
言葉が詰まって、コーヒーに手を伸ばした。甘い。糖分を補給できるようにと、エジソン氏が入れておいてくれたのだ。
一日四時間の睡眠で事足りると生前豪語し、英霊となっても労働を是とするエジソン氏に、ここまで『休め』と言われる。と言うことは私は余程の超過労働者なのだろうか。トーマス・エジソンが心配するほどに。
心配されればされるほど、惨めになるのはなぜだろう。
ドクターロマ二の分まで働く、と言うのは、彼が消えた時自分に課した意地のようなものであった。
意固地になる私に、エジソン氏はこれ見よがしにため息を吐いた。
「考えてもみたまえ、きみは、ロマンくんがボロボロになっても働こうとしていたら、どうする」
「……止めますけど、そりゃあ」
「だろう? 人理修復中はいざ知らず、いまのカルデアなら多少は休めるはずだ。いや、休まなくてはならない。倍働き、倍遊ぶ! それがアメリカのあるべき姿なのだから!!」
「私、日本人ですけど……」
ウオォオンと咆哮するエジソン氏に、耳を押さえた。まったく声が大きくテンションの高い人だ。
つっこみは聞こえていないらしく、エジソン氏は自分の言葉にうんうんと頷いている。
エジソン氏の熱弁は正論だと思うけれど、引き下がる気はなかった。尊敬する英霊相手にも引けない時があるのだ。私はコーヒーを飲みながら、キーボードを叩いた。休止していたパソコンが動き出し、モニターに光が灯る。
私の態度に、エジソン氏は当然怒るか呆れるかすると思った。
しかし彼は笑った。苦笑いでもあり、満足そうでもある複雑な笑みで。
「全く仕方ない。日本人の勤勉さには尊敬するよ。……そんなきみに、私が生前やっていたことを教えよう」
「……なんですか?」
エジソン氏が私になにかを手渡した、ベルだ。振ると、カラカラと大きな音がする。
「仮眠するとき、椅子に座ったままこれを持って寝るといい。手からすり抜けて床に落ちると鈴が鳴る。その音で起きれる」
「そんな不健康そうなことしてたんですか?」
「寝落ちしないから便利だぞ。やってみるといい」
「次からそうしてみます、ありがとうございます」
「うむ」
エジソン氏が満足そうに頷いた。自分に自信がある人が、自分を誇る時の笑み。
とても眩しく映る。
目の前に座るライオンの顔をしたアメリカ紳士は、まぎれもなくあのトーマス・エジソンなのだと実感し、そのことに素直に感動する。
英霊を前にしたこの感動は、慣れることがない。いつだって新鮮な驚きと緊張、感嘆を私にもたらす。
「……ありがとうございます、ご心配、痛み入ります」
「なに、構わんさ。実はこの前、マスターから発明禁止を言い渡されてしまってね。ヒマだったのだよ。はっはっは!」
大口を開けて笑うエジソン氏に、私も笑った。
昔の私に、あのエジソンがライオン頭になってて、そんな人と普通に会話してるって聞いたら驚くだろうな。
「ところで、コーヒーはもう飲んだかね?」
「あ、はい。おかげさまで休憩できました」
「それはいい。全部飲まないと効果がないからな」
「効果?」
「ああ、コップは私が洗っておくから気にするな。ヒマなのでな! カルデア内ニートなのだ……」
エジソン氏は最後だけ肩を落とす。笑ってはいるけれど、発明禁止がずいぶんこたえているらしい。
でもまぁ、確かこの人、この前廊下を爆発させてたし。しばらくの謹慎は仕方ない、かな。同情はできない。
クッキーも食べ終え、エジソン氏が空になったマグカップを持って給湯室へと消えていく。その背中を見送って、私はため息をついた。
もう慣れたと思っていたけれど、一対一で英霊と話すのはどきどきしてしまう。
立ち上がって大きく伸びをした。首を回して深呼吸。
そうしていると、不意に頭が痛くなった。貧血の時の症状。急に立ち上がったから、立ち眩みが起きたのか。
倒れる、と思った。
倒れる前になにかに掴まらなければ、と、ブラックアウトする視界の中テーブルを掴んだ。しかし力が入らず、膝が折れてしまう。
ぽすん、となにかに抱きとめられた。
力強い腕。暖かい身体。それに寄りかかって、身体に力が入らない。
「大丈夫かな? レディ」
耳をくすぐるのはエジソン氏の柔らかい声だ。
私はすぐに返事をしようとしたが、声が出ない。頭の中で砂嵐が起こっているようで、意識がすぐに塗りつぶされてしまう。
あ、こりゃ、まずいわ……と思うより先に、私は意識を手放した。
***
もふもふ、ふかふか。あったかい。
至上の毛並みのもふもふが私に頬ずりしている。
お猫さまを抱きしめても、頬をスリスリしても、肉球をぷにぷにしても、お猫さまはされるがままでいてくれる。
なんで至福なんだろう。夢じゃないのかこれは。
──と思ったら夢だった。
目を開けると、自室の天井が目に入った。
目が乾いてシパシパする。頭が痛い。
ぼんやりする脳みそが、仕事中に貧血を起こして倒れたことを思い出した。
ということはエジソン氏が運んでくれたんだろうか。仕事はどうなってるんだろうか。
あぁ、手がもふもふする。
そうか、もふもふを抱いてから猫の夢を見てたんだ──もふもふ?
無意識のうちに触っていた、ぬいぐるみのような感触に視線を落とす。
ライオン顔と目が合った。
「やぁ。お目覚めかなレディ……」
エジソン氏の耳がピコンと動いた。あ、かわいい。
と思うより先に。
なんで、
同じベッドに、
エジソン氏がいて、
押し倒されてるの?!
「一応言っておくが私はなにもしてな──」
「ウワーッ!! ギャーッッ!!」
「シャラップ! ビークワイエット! 誰かが来て誤解されたらどうする!?」
「むむむーっ!」
エジソン氏の手がすかさず私の口をふさいだ。大きい。
人差し指を立てて『静かに!』と言い含めるエジソン氏は必死だ。
「私はなにもしていない! 昨日倒れたきみをここまで運んだら、きみが私の頭を離さないから逃げられなかったんだ!」
「ほ、ほんとうですか? サーヴァントの筋力なら逃げられるでしょ、それでも!」
「ヒゲを掴まれたら太刀打ちできんとも! むしろ被害者は私だ! 見たまえこの引きちぎられたヒゲを! 訴訟モノだとも!」
「……じゃほんとになにも変なことしてないんですね?」
確かに、身体に異常はなさそうだ。変な感覚もない。
「もちろんだ。神に誓って、そして直流に誓って、不埒なことは何ひとつもしていないと主張しよう!」
この人がここまで言うのだから、本当になにもしていないんだろう。
急に恥ずかしくなった。
「そ、そうですか……うろたえてすみません……て言うか、あの、抱き枕にしてしまってごめんなさい……」
「気持ちよさそうに寝ていたよ、きみは」
「ウゥ……」
「おいっ悲鳴が聞こえたが大丈夫かね!?」
「敵襲ですかい!?」
気恥ずかしい雰囲気が流れた瞬間、部屋の扉が左右に開いた。
アーチャークラスの面々──地理的に私の部屋に最も近い人たちだ──が押し入ってくる。
そして、私とエジソン氏を見て面食らう。
「ぼ、凡骨……貴様は淑女になにを…………」
「ぬっ!? ち、ちがうぞこれは!」
ニコラ・テスラ氏の表情がどんどん軽蔑に染まっていく。
とっさに説明しようとするも、電流がほとばしる方が早かった。
「そこになおれ貴様ーッ! 職員に手を出すなど英霊の風上にも置けぬ!!」
「ご、誤解だッ!!」
「あの、まっ」
「お嬢さん、とりあえずこっちに避難しましょうや……制裁はあの人がやってくれるんでひとまずは……」
「いや、ちがくて、ええと」
手を引っ張られ、問答無用で隔離される。このあとエレナ夫人やカルナ氏まで駆けつけて、私の自室は地獄絵図の有様になった。
必死の説明は誰にも聞いてもらえなくて、事態を把握したマスターが令呪を使う始末。
あの……エジソン氏、ひどいことに巻き込んですみません……私のせいで……コーヒーくれたのに……。
とにもかくにも、私はこの一件で「ちゃんと休め」と色んな人から怒られ、強制的に一日休暇をもらう羽目になった。
まぁ、その時の話は、また別件で。
2017/03/30:久遠晶