贋作のホンモノ
音楽の天使と謳われただけあって、ファントムの声は美しい。異形の発声器官と化した声帯から発せられる声はもはや魔性だ。
さらに卓越した技巧のヴァイオリンの音色が絡むと、もう、堪らない。
値をつけられない演奏だ。
これを演奏者の膝枕つきで聴けるのだから、マスター冥利につきるというものだ。
なにかと忙しいカルデア職員の慰問ライブでも行えば、ファントムの『近づきがたい恐ろしい男』の印象も少しは払拭できると思うのだが。
「君が為にならいくらでも歌おう」
と私の頬を撫でるこの男は、私のためにしか歌う気がないらしい。
私には世界の為に歌え、最高の名誉を受けよと言うくせにだ。
愛を謳う魔性の演奏。それは壮大で高らかな愛の歌のはずなのに、ファントムが歌うとどうしようもない悲恋に聴こえてしまう。
私は膝元で天使の歌声を聴きながら、ふと思う。アレンジを聴かせながらのこの歌は、どちらのクリスティーヌに向けられたものかと。 考えるまでもない疑問だ。
ホンモノの方に決まってる。彼が愛を囁くのは──常にホンモノに対してだろう。
至上の歌姫への愛の歌が収束していく。見上げて拍手すると、ファントムは眼鏡越しにニコリと笑った。
「眠れませんでしたか?」
「寝るのがもったいなくて」
「私は歌おう、君が望むならいくらでも」
「ありがとう、私のために歌ってくれて」
表面を撫でるようだ、と自分で思った。感謝は心底しているが、心の隅で『私のためじゃないくせに』と感じている。
まったく無意味な嫉妬だ。
感情の矛先はどうあれファントムは私のサーヴァントで、私を守り慕っている。その事実だけで良しとするべきだ。
これはホンモノに対する嫉妬だ。こんな仄暗い気持ちを抱く時点で、私は比喩表現としての『クリスティーヌ』としても型落ちだ。そこにファントムは気付かない。
それがなんとも哀れで──そこに救われている。
モゾリと起き上がると、ファントムは少しだけ寂しそうな顔を浮かべた。膝枕をするのが好きな男だ。
上体を起こしてファントムと向き合う。こちらを見つめて微笑むファントムが好きだ。どうしようもない。
「キスしたい」
そう言うと、ファントムは目を大きく開いた。困ったように頬を染め、目をそらす。
「クリスティーヌ……それは指導の範疇を……」
「ファントムにキスしてほしい。ダメか?」
ファントムはなおも困った顔をする。視線をさ迷わせて、どうするべきかと逡巡する。
「ファントム」
囁くような、甘えるような声を意識して呼びかける。
甘ったるく男にしなだれかかるような声を出すのは抵抗があるが、ファントムにはこれが一番効果がある。
「仕方ない…君が望むなら」
ファントムが私の頬を撫でる。
指先で耳元をくすぐりながら後頭部に手を滑らし、ぎこちなく抱き寄せる。
私は目をつむって、彼のくちびるを受け入れる。
寸前までためらうのに、触れてからのファントムは獰猛だ。
はっはと息をしながら舌を差し入れ、私を求める。まるで犬みたいだ、とぼんやり思う。
「君の声は美しい……」
合間合間にファントムは言う。
両手で頭を挟んで動けなくして、耳を塞いだうえでそう言う。くぐもって聞き取りづらいけれどしっかり聴こえることに、精神汚染を受ける彼は気づかないのだ。
どうか私のためだけに歌ってくれ、と。聴こえないところで言っているつもりなのだ。
「抱いてほしい。クリスティーヌを抱くみたいに」
「ああ、きみが、きみこそがクリスティーヌなのだ」
その言葉にはいつも笑ってしまう。笑わなければやってられない。
ファントムが愛したホンモノは、彼にこんなことを求めるはずがない。彼女はファントムではなく、他の男の愛を選んだのだから。
まるで夢のようだ、とファントムはうわごとのように愛を囁く。
どうかいなくならないでくれと私に言う。
これは互いにとっての刹那の夢だ。
クリスティーヌはファントムに愛を求めない。求めるはずがない。
でも逆に言えば、彼の愛を受け止めたのは私だけ、と言うことになる。
クリスティーヌと呼ばれ、混同されても、贋作の歌姫でも、彼の愛を受け止めている私の愛はホンモノだ。……そのはずだ。
ファントムとていつかは座に帰る。そんなことは知っている。共に人生を歩んではくれない人だ。 歩みたくても歩む資格がないと、彼自身が選択している。
座に帰ればファントムから私の記憶は抜けるのだろう。新たなマスターをクリスティーヌと呼び慕うのかもしれない。
考えると酷く虚しくなる。
今この瞬間に、何の意味があるのだろう。
「……クリスティーヌ」
「…………なに……?」
「きみを──きみを愛している。我が愛、我が命、我が全て……」
私もだよ、と言うと、心底安心したようにファントムは笑った。
「どうか、私だけを見ていてくれ」
一瞬、思考が止まった。
よそ見などしていない。私の悩みは彼そのものだ。
暗い思考に耽る私が、ファントムには「よそ見をしている」風に見えたのだろうか。
「今、私はここに居る。今ここに居る私が私なのだ。だからどうか……クリスティーヌ」
「うん……ごめん、ファントム」
座に帰ったあとのことを想像するなど、確かに無粋だ。 私はただ、光栄に思えばいい。
今ここに、現代にいるはずのない存在がいる。私の呼び声に応えてくれた英霊がいる。
私を抱き、私に愛を囁き、微笑んでくれる男がいる。
他の誰もが、ホンモノのクリスティーヌすら見なかったであろう、見ようとしなかったであろう表情を、私に晒している。
大事なのはそれだけのはずだった。
今彼が私に見せる表情は、きっと私だけのもののはずだ。
そして──今私が浮かべる表情を知るのは、ファントムだけだ。
その事実は私の矜持をほんの少し満たし、胸の内を暖めていた。
迷う必要など、どこにもないのだ。
2017/04/09:久遠晶