不器用な純情



 ──それは、ほんの気まぐれや単なる返礼と言うには、思い詰めた贈り物だった。

 契約者が近頃あまり寝れていないことを憂慮して誂えた。
 人理を修復し世界を救ってなお、あの魔術師には障害が多い。そもそも、初代ハサン・サッバーハ──ハサンを殺すハサン、グランドアサシン──である彼が契約に応じカルデアに現界したのも、世界を救った『その後』のことを慮ってのことだった。

 そう。
 有り体に言えば彼は、悔いていたのだ。

 契約を結んだことではない。位を落としてまでも手助けし、未来を見据え、あの幼い少女の道を示すと彼は誓っていたのだから。契約を結んだことを悔いるわけがない。
 彼が悔いていたのは、魔術師の精神をみすみすと監獄塔へと送ってしまったことだ。

 監獄塔シャトー・ディフ。恩讐によって練り上げられた概念。魔術王ソロモンの刺客。
 精神を抜き取られた魔術師は、それでも監獄塔での七日間を生き抜き、生還してみせた。しかしそれは結果論に他ならず、彼にとっては己の手落ちだ。
 魔術王ソロモンを倒した直後だ。気を抜いていたつもりはないが、まさか過去から魔術王ソロモンに干渉されるなど。

 現界したばかりで、己が力の半分も発揮できない状態だった──などとは、単なる甘えだろう。少なくとも彼はそう思う。
 肉体だけをカルデアに留めて人形のようになった契約者を見下ろし、久しく感じていなかった怒りがふつふつと湧き上がるのを感じた。それも仕方がない話しだ。
 彼は永い永い年月の中で唯一、我が契約者と定めた人物を──わずか一ヶ月足らずで失うところだったのだから。

 だから、彼が魔術師に渡したその香は、単なる気まぐれでも心配でもなく。
 謝罪と決意の気持ちに、他ならなかった。


   ***


 さてはて。
 当のマスターがその日、真夜中のカルデア内を徘徊していたのは、空腹というしごく単純な理由だ。
 マイルーム用のくまさんスリッパでリノリウムの床をペタペタ鳴らし、非常灯が点々と灯るカルデアの薄暗さに肩を揺らした。
 台所に、なにかつまめるものがあればよいのだが。
 この前、エレナが自作のクッキーを疲れた職員たちに振る舞っていた。その残りがあるだろうか。
 ぐうぅと鳴る腹を押さえた瞬間、背後から青い光を照らされた。

「契約者よ」
「うわぁーーッッ! で──むぐっ」
「怯えるな、契約者よ。汝のサーヴァントである」

 こくこくと頷いた。髑髏の顔に青い光を灯す彼──山の翁が、塞いでいた口をそっと解放する。

「ご、ごめんなさい翁さん。ちょっと、未だになれなくて」
「問題ない」

 肩をすくめて気まずげに笑うと山の翁が淡々として応え、彼女は余計に小さくなった。
 夜中にアサシンクラスのメンツに声をかけられると、つい驚いて飛び上がってしまう。それに、わかっていても山の翁の姿は薄暗い廊下で見ると心臓に悪い。
 以前も夜中に山の翁と遭遇して悲鳴をあげてしまい、カルデアにいるサーヴァントが瞬時に押し寄せて大変な騒ぎになった。年長サーヴァントにしこたま怒られ、しばらく居心地が悪かった。
 先ほど山の翁に、手で口を塞がれたのはそういう理由だ。
 山の翁は決して感情を声に出さず、また身振りで表現することもない。抜き身の大剣を杖のように両手で支えて座するのみである。それも彼女が姿を求めた時のことで、平時は霊体化しており、姿を消している。
 だから──そう、話しかけられるなど、めったにない。
 触られたことなどはじめてだ。
 自然とくちびるに手をやりながら、彼女は首をかしげた。

「どうかしましたか、翁さん。眠れませんか?」
「我は肉の身体を失った身。睡眠も食事ももはや必要なく、遠い日々に忘れた行為だ」
「あ、それもそうか……じゃあ、散歩ですか? 私は小腹が空いたんで台所に」
「同行しよう」
「どーも」

 それで会話が終わり、二人で台所に向かった。
 山の翁と共に歩く時、彼女はいつも不思議な気分になる。威圧感はあるのに、気配はない。圧迫感はあるのに、音がしない。大きな身体にも関わらず質量を感じさせず、現実感がなく、しかし、確実にそばにいることはわかる。
 その、山の翁独特の感覚を、彼女は好んでいた。

 台所について、冷蔵庫をあさる。目当てのクッキーを見つけてほくそ笑む。

「多量を摂取するのは推奨できない。過剰なカロリーは控えるべきだ」
「はぁい」

 空腹を忘れた身だからこそ、の小言だろうか。エミヤも同じことを言っただろうが、きっと一緒に食べて共犯になってくれたことだろう。
 食事を必要としない身体は、想像するとなんだか寂しい。

「じゃあ、私だけいただきますね」
「構わん」

 ぽりぽりとポッキーをついばむ。台所の蛍光灯は切れかかっていて、バチバチと音を立てながら明滅する。その都度陰影を濃くする髑髏が、彼女を見つめている。

「この前……」

 沈黙に気まずくて、口を開いた。

「この前のチョコ。やっぱり迷惑でしたか?」
「いつぞやのか」
「サーヴァントの方は食事しない人も多いので、チョコを渡すべきか、悩んだんですけど……食事が必要ないなら……やっぱり……」
「問題ない」

 声が尻すぼみになるマスターに、山の翁がかすかに頷いた。

「慣れない行為であったが、貴殿の心遣いはしかと受け取っている」

 つまり──きちんと食べた、ということだ。
 彼女の顔色がパッと明るくなる。

「本当ですか?」
「味覚は機能していないが、毒は入っていないことはわかった」
「それ、冗談に聞こえませんって」

 彼女が吹き出すと、山の翁が笑った。とはいえ、眼孔の奥の光が細くなったから、目を細めたように思えるだけだ。だが、気遣いは伝わった。
 自然と、クッキーを食べる手が軽くなる。

「深慮していると言えば」

 今度は山の翁がつぶやいた。

「寝れているのか」

 遠回しに、『香は使っているのか』という意味だろうか。彼女は笑って答える。

「もちろん。翁さんからいただいたお香も使ってます。……今日はお腹空いたんで寝れなくて、こんな夜更かししてますけど」
「そうか。──ならば良い」

 翁はそれきり黙り込む。だからこれで会話が終わる。
 もう少し話していたいと思ったが、会話のネタもない。あまり話題を振るとかえって迷惑かと思って、彼女は二人きりの沈黙を楽しむ。
 寝れているかと案じてくれていることは素直に嬉しかった。
 聞いた話では、お香とはアラブの地方ではお守りとしての意味もあるという。香で結界を張り、悪い精から守るのだと──マシュから聞いた。つまりは、安眠祈願以上の意図があの香には込められている。
 普段無口で、グラントアサシンとしての貫禄が他者を寄せ付けない、近寄りがたい山の翁のものだと思えば一層、その意図は彼女の胸を打つ。


   ***


 何枚かのクッキーをぽりぽりとゆっくりと食べ、お茶を一杯飲んでからクッキーを冷蔵庫に戻す。この空間は名残惜しいものであったが、数十枚以上あるクッキーをすべて食べつくすわけにもいかない。

「部屋まで送ろう」 「ありがとうございます。そういえば、山の翁はどうしてこんな夜中に起きてたんですか」
「特に意味はない」

 返ってきた答えはそっけない。翁の答えはいつだって端的だ。自らの意思で語るときは饒舌だが、それとて不要なことは喋らない。
 特に意味はない、と翁は言った。翁とて無意味なことをするのだ、と彼女はすこし感動すら覚えた。
 長い間、ハサンを殺すハサンとして闇に潜り、晩鐘に従って大剣を振るい続けてきた人物が、無意味に廊下を散歩する。それはあまりにもイメージに似合わない行為だ。
 だが、そんなものなのかもしれない。
 長き時を幽谷の淵で過ごした人が、今、カルデアの施設にいる。サーヴァントとして現界している。
 それであれば、すこしぐらい。
 すこしぐらい、自由に過ごしたって許されるはずだ。

 彼女は部屋までの廊下を歩きながら、傍らに控える髑髏の剣士を見てそう思った。
 扉までついて、別れ際。
 なんとなくいたずら心がよぎって、こう言ってみた。

「本当にお香、ありがとうございます。あのお香を使ってると、翁さんがそばにいてくれてるような気になれるんですよ」

 山の翁は、きょとん、とした。少なくとも彼女はそう見えた。
 驚かせられたかなと彼女が笑う。その間の後、山の翁は極めていつもの声音で、応えた。

「当然だ。我は既に汝の剣として縁を繋いでいる。糸が切れるまで、我は汝と共に在る。夢と現の境なく、汝の敵を斬るのみと定めている」
「へっ」
「安らかに眠ることだ。まだまだ星見の戦いは過酷であるのだから」

 ぼっと青い炎が湧き上がったかと思うと、次の瞬間山の翁の姿が掻き消えていた。
 部屋の前に取り残された彼女は、力が抜けて、扉にもたれかかった。

 いま、自分はなんと言われた?
 翁の放った言葉は、あまりに直球な言葉だ。彼女を己がマスターと認める真実の言葉だ。
 キャメロットで、そしてなによりウルクで。山の翁は彼女の声に応じ、手助けをしてくれた。冠位を落としてまで彼女と契約を交わし、人理修復を成し遂げた今もなお共に居てくれる。
 それがどんなに心強いことか。どんなに心を揺らすことかを──彼は分かっているのだろうか。

「ま、マジでチャペル的な鐘鳴っちゃうって……勘弁してくださいよ……!」

 冗談交じりに彼女はそうひとりごちた。頬は熱を孕んで紅潮し、心臓は内側から胸を叩いている。
 山の翁の信頼と覚悟に見合うマスターである自負は、まだない。まだまだ至らぬマスターであると、そう思っている。
 だからこそ、この時間を大切にせねば。今出来ることの最良を。
 見込みハズレだったと思われることのないよう、切磋琢磨を続けねば。
 だと言うのに嬉しくなってしまう。気が抜けてしまう。
 私、結構イケてるかも……などと過信してしまう。だから心臓に悪いことは言わないでほしい。
 いまだどくどく言う心臓をなだめながら、彼女は必死に平静さを取り繕う。油断せず前に進むのだと決意を新たにする。
 ──願わくば、末長く。

 その願いは、彼女とて抱いているのだから。





2017/05/21:久遠晶
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