鉄の輪郭
魔力供給の手段に『それ』を選択するにあたっては、紆余曲折があった。
一般の家庭で生まれ一般人として平凡に育った私は、マスター適正はあっても魔術師としての適性が欠けていた。魔術回路は未熟で、魔術礼装の助けがなければろくな魔術も扱えない。
人類最後のマスターとして、世界の命運を私に賭けることになってしまったカルデアのひとの失望と焦りは、きっと計り知れない。
マシュや召喚に応じてくれた英霊の助けを受け、どうにかオルレアン・セプテムの聖杯は回収できたけど、次もうまくいくとは限らない。
オケアノスでのことは思い出したくもない。
サーヴァントへの魔力供給の仕方もわからず、最後はジリ貧の戦いだった。マシュは「先輩の指示あっての勝利です」と励ましてくれたけれど、きちんと魔術師として優れたマスターであれば、もっとスマートに勝てたはずだろう。
魔力供給すらおぼつかない一般人。それなのに人類最後のマスターになってしまった。
その責任の重さもいまいち実感としてわかないにだから、色々とお察しというものだ。
とにもかくにも、魔力供給ができないのは死活問題だ。平時はカルデアの電力を魔力に変換して英霊に供給しているので問題ないけれど、レイシフト時はカルデアからの魔力供給は受けられないのだから。
だから、どうにかして魔力供給の方法を模索する必要があった。
ここで問題だったのは、「誰も私に魔術を教えられる人がいない」ということだった。カルデアの職員はみな魔術師としての知識はあってもマスターとしての適性がない人だ。
キャスターのクーフーリンが指導役を買ってくれてはいるけれど、限界がある。一夕一朝で身に付くものでもない。かと言って私の魔術師としての上達を待っていれば、その間に2016年が終わってしまう。
そこで協議の結果、原始的で、かつ熟達の要らない魔力供給の方法が取られることになった。
つまりは、マスターの体液を提供し、体液に含まれる魔力を与える方法だ。
言葉を選ばず言えば、口づけによる魔力供給だ。
体液であればなににでも魔力は含まれるけれど、その都度体を傷つけていては費用対効果が薄く、感染症にかかる恐れもある。
もっとも手っ取り早いのは性行為だけれど、これはマスターの人権に配慮して却下された。
必然的に――口吻からの唾液の接触による魔力供給が取られることとなった。これはこれで、どうかと思うのだけど。
はっきり言って、現代日本の高校生、それもやや男性に免疫がない自分の価値観で言えば、不特定多数とキスをするのは完全に『なし』だ。
だけれどゴネていたら世界は救えない。
本当に申し訳なさそうな顔をしたロマンに、「すまない、ちゃん」と頭を下げられれば――断れるはずもなかった。
***
マイルームの扉がノックされる。なあにと返事をすると、扉がぴしゅんと音を立てて左右に開く。
「失礼します、マスター。包帯を交換する時間です」
「ナイチンゲール。いつもありがとう」
「礼は要りません。これが私の使命ですから」
赤い制服をきた白衣の天使は、微笑むこともなく事務的にそう言った。私はその冷たい言い方に苦笑する。
ベッドに座ったまま、包帯を巻いた片腕を差し出す。ナイチンゲールは椅子に座り、てきぱきと処置をはじめた。
「あのさ」
「静かにしていてください」
世間話をしようと口を開くとぴしゃりと止められた。
今日のナイチンゲールは機嫌が悪い。
「私は怒っているのですよ」
「……ごめんね」
「謝罪も要りません。貴方がすべきなのは熟慮と内省です」
特異点で負った怪我は、私の指示ミスが原因だった。修復後のオルレアンの調査は頓挫し、強制的に帰還させられた。私はあえなく「怪我が治るまで外出禁止」を言い渡され、ナイチンゲールの看病を受けることとなった。
……一秒も無駄にできないのに。
ナイチンゲールは無言で腕の怪我を観察している。炎に焼かれ、矢に穿たれたその傷は、当初えぐれて骨まで見えていた。腹部に当たっていれば死んでいた、らしい。いまはだいぶ治ってきているとはいえ、直視に耐えがたい。血の気が引いて顔をそらした。
凄惨な怪我や色濃い死。それらを目の当たりにして「うっ」と息を飲んだり視線を逸らすのは、当然の事だと思う。
英霊ではなく、死に対面する訓練も受けていないのだから。
でもナイチンゲールは、人の怪我から目をそらさない。息を詰めることも吐き気を応えることもなくまっすぐ向き合い、黙々と己に出来ることを全うする。
そんなところが好きで――ときおりどうしようもなく寂しくなる。
「処置が終わりました。この経過では、もうすこししたら包帯もとれるでしょう」
「ほんとう? よかった」
「ええ」
安堵して息をもらすと、ナイチンゲールもすこしだけ頬を持ち上げた。表情の変化としては微々たるものだけど、目元が優しくなるのがわかった。
「ですが無茶はしないように。私は貴方に怪我をさせるために治療をするのではないのですから」
「う……。はい。肝に銘じます」
「はい。貴方に改善が見られなければ、こちらにも考えがありますので。たとえ貴方を殺してでも、無鉄砲なマネは止める責務があります」
「はい……」
軽口じゃなく本気だから、タチが悪い。
処置は終わりと言ったけれど、ナイチンゲールが部屋を出る様子がない。首を傾げると、じっと顔を見つめられる。
「治療も進んできました。これからすこしずつ手のリハビリをはじめましょう」
「あ、うん。わかりました」
「合わせて『魔力供給』の練習も、再開するべきかと」
「あぁ……」
ずんと胸が重たくなった。表情に出さないように努める。
「いまから?」
「はい。体力を使うものでもありませんから」
ナイチンゲールが身を寄せてきた。ベッドがギシリと音を立てる。
私は静かに深呼吸をして、目をつむって顎をすこし上げた。
「ではマスター。失礼します」
冷たいくちびるが私のくちびるに触れる。ややあってぬるりとした舌が私のくちびるを割り開き、侵入を開始する。
――魔力供給の方法について、性行為の案に一番反対していたのはナイチンゲールだった。不特定多数との性行為は感染症をまねく恐れがある。なによりマスターの人権の侵害だ、と。
口付けによる供給だって、本音ではナイチンゲールは納得していないに違いない。それでも、これ以外に方法がないから、仕方なく私との口付けを了承しているにすぎない。
カルデアのなかでは魔力供給が不要とは言え、いざレイシフト中に照れが起きてためらうことになれば大問題だ――それで怪我をしたこともある――とのことで、こうして定期的に『魔力供給の練習』を行ってるけれど。
やっぱり嫌だろう。
当たり前だ。嫌だと思って当然だし、ナイチンゲールにはそう思う権利がある。サーヴァントとして召喚に応じた以上、拒否する権利がないだけで。
多数のサーヴァントと魔力供給をするようになってから、色々と気づいたことがある。キスの仕方は人それぞれだ。
ナイチンゲールのように事務的に魔力を摂取するだけの者もいれば、役得とばかりに歯列をなぞり、私の頭を撫で、どんどんと深いキスをしたがる者もいる。申し訳なさげな顔をする者もいれば、喜んで応じる者もいる。サーヴァントの人格が現れているのだ。
セックスの相性は重要だ、と学校の同級生が言っていたっけ。
経験がないのでピンと来なかったけど、なるほどキスでも人によってやり方がこれだけ変わるのだから、性行為となればさらに重要なのだろう。などと考えて、自分が大人になったと錯覚する。
実際のところ、この行為に魔力供給以上の意味はない。
「んっ……ふぅ……」
「鼻で息を吸って。窒息します」
「ん……」
言われるがまま、鼻で呼吸する。どうしても口付けの瞬間が慣れず、吐息はぎこちなくなる。心拍数が上がっていく。
ナイチンゲールの舌は温かい。魔力供給を手早く終わらせるための舌を刺激して唾液の分泌を促しているだけだとわかっていても、どうしても高ぶる心は抑えられない。
飲み下せなかった唾液が顎を伝って落ちていく。肩を掴んで求めてみても、応じるものはなにもないけれど、それでも。
ナイチンゲールの、
ざらついた舌が、
わたしの舌に絡んで、
溶け合って、
不意に引き抜かれた。とろんとまどろみかけていた私は、はっとして意識を取り戻した。
もう充分な魔力を得たらしい。口の中から異物感がなくなり、急に寂しくなる。
「魔力供給、お疲れ様でした。このような行為が必要ないよう、鍛錬に励みたいところでしょうが……今は休んでください」
腕の怪我に視線を落とし、ナイチンゲールは言う。
ほころんだ頭の中が、まだふわふわする。んぅ……と、うめいていると、口元から垂れたよだれをナイチンゲールが人差し指でぬぐった。白い手袋によだれがしみこんで、うっすらとしみをつける。
「私は、ナイチンゲールとキスできるの嬉しいけどね」
「ご冗談を。消毒してください」
テーブルに口内用の洗浄液が置かれた。歯磨きのときに使うものだ。徹底した衛生意識に苦笑する。
「ねぇ、ナイチンゲール」
身を離したナイチンゲールを引き止めるように、私は彼女の腕を掴んだ。鼻先を触れ合わせると、ナイチンゲールが息を詰めるのがわかった。
もう魔力供給なんて終わっている。だからこれは、ここからは、私の一方的な役得だ。
「胸……触っていい?」
子供が母におかしをねだるようにたずねると、ナイチンゲールはかすかに眉根を寄せて、むっとくちびるを引きむすんだ。
「なにを言っているの、貴方は。馬鹿なことを」
「いいでしょ。私よりよっぽど大きいし……羨ましくて」
制服越しでもわかる豊満な胸に、そっと手を置いてみる。
揉んだら殴られそうなので控えめに。
「同性愛の志向はないでしょうに……」
呆れた声をくちびるでふさいだ。じゃれ付くようなキスが、半年前より上手くなった。
ナイチンゲールも拒否はしない。
でも別にそれだけ。
この英霊が、この行為に熱を入れてくれることはあり得ない。
「……仕方ないですね」
えっほんと、と声が出るより先に、背中に腕を回された。抱きしめられる。くちびるがナイチンゲールのくちびるからずれて、肩にダイブ。
「貴女は疲れているのです。この戦いが終われば、きっと元に戻ります」
あやすように私の背中を撫でて、ナイチンゲールは優しい声で言う。この対応が最良だと、最善だと信じている声音で。
これはバーサーカークラスである彼女に付与された狂化のせいかもしれなかったし、そうではないのかもしれない。
監獄塔で出会った彼女であれば、きっと私の言葉や行為に慌てふためき、動揺してくれたかもしれない。──いや、どうだろう。結局はこうやってあやされたかもしれない。
鋼鉄の白衣をまとう看護婦は、きっとそういうひとだ。
抱きしめられると、ナイチンゲールの胸が私の胸に当たる。制服越しだから固くて感触はよくわからないけれど、質量が圧倒的だ。
生前からこんなに胸が大きかったんだろうか、それとも英霊化に当たって母性が強化されたんだろうか。なんにせよ、バーサーカークラス特有の苛烈さと、曲線的な身体のラインは、とてもアンバランスに見える。
人の命を救う者。決して諦めず、決して病理を許さない戦い続ける不屈の意志。そのように己を定義したナイチンゲール。
「……ナイチンゲールこそ、疲れたりしないの」
「私? 私はすべての患者を救うと誓いましたから。それまで休む暇はありません」
つまり今の私は患者ということか。言葉の綾かもしれないけど、私はそのことが気になった。治療として抱きしめられていると思うと、あぁ、そう簡単には身をゆだねることはできない。
肩を押して身を離そうとすると、ナイチンゲールの腕がより強く私を抱きしめた。必然的に押し付けられる胸が、おっきい。
「ですが無償の献身は犠牲です。誰か一人が身を粉にしたところで、なにが残りましょう。だからね、貴女はきちんと休まなければならないのです。現状、最後のマスターである貴女にその暇がないのが、腹立たしくてなりませんが」
人理修復の最後まで同行します、とナイチンゲールは言う。
マスターとしてこれほどありがたいことはない。
だけど、と、思ってしまう。その先を、それ以上を求めてしまう。
エーテルで形作られた仮初めの身体。英霊。人を傷つけず、ただ人を救ったというその献身で人類史に刻まれた白衣の天使──それに恋をするなんて、それを求めるなんて、それは、天使に泥を塗りような好意ではないのか。不敬で、不謹慎で、不遜な感情だ――と、そう思う。
ナイチンゲールは単なる患者の一人としてしか、私を見ていないのに。
「無理をしないで。泣きたい胸が欲しいなら、私がいつでも貸しましょう」
別に泣かせてくれる人が欲しいわけじゃない。ナイチンゲールは勘違いしている。
だって、ナイチンゲールは決して泣かない。特異点で人々の死に直面しても決して動じず、拳を握り、鉄拳制裁で物理で治療する。
貴方の命を奪ってでも貴方を救う──不屈の意思が固まりすぎて狂気に片足を突っ込んだ瞳でそう言うけれど、決して――殺すことを是とする人ではないのに。それでもナイチンゲールは戦う。
だから私だって泣くわけにはいかない。むしろナイチンゲールこそ辛くはないか、と思ってしまう。
バーサーカーにこんなこと考えたって無駄かもしれないけど。ナイチンゲールは他の英雄とは成り立ちが違うし、私と同じ普通の人だったはずだから──今は違うけれど──どうしても一般人と同じ尺度で考えてしまって、それは失礼だと思って心の中で考え込む。
「間違っていて、失敗をして当然なのよ、司令官。人間なのですから。大事なのは前を向いて歩くことなのです」
「うん」
ナイチンゲールの声は優しい。人理修復を双肩にかけたマスターへのいたわりが、心にしみる。泣きたくなる。
結局わたしはなにがしたいのかもわからなくなって、ナイチンゲールのふかふかのおっぱいにわけわかんない気分になりながら、ナイチンゲールの肩にすがって必死に涙をこらえる事しか出来ない。 今日も今日とて魔力供給は事務的で、子供をあやすようで、私の片思いに進展はない。通行不能の恋愛だ。
まあとりあえず、今のところは人理修復を成し遂げ、胸を張れる立派な人間になることが急務だろう。ナイチンゲールへの思いを前向きにとらえるためには、彼女と同じぐらい強くなって、鉄の輪郭を持ってしゃんと生き抜かねばならないのだから。
ひとまず、私の気持ちに気づいているんだかいないんだからわからないけれど、要治療患者として胸に顔をうずませてくれることに、感謝しておこう。
2017/06/30:久遠晶