甲斐甲斐しい従者



 思えば今朝から頭痛があった。身体はどこか熱っぽかったし、寒気もしたけれど、単なる風邪の引き始めの諸症状だ。
 だからべつに、大仰に検査する必要なんてない。
 と、いう私の意見は黙殺され、問答無用で医務室に連れ込まれ体温を測られ鼻の粘液を採取されている。

「うん、完全にインフルエンザだね!」

 ドクターロマニの診断は大変に無慈悲であった。
 即刻隔離態勢が敷かれ、マイルームから一歩も出るなと厳重に言い含められてしまったのであった。
 布団に私を押し込んだロマニは、本当に口酸っぱくして繰り返す。

「抜け出しちゃだめだよ。ただの風邪じゃないし、カルデア内でパンデミックが起きたら大変だ。職員の安全のためにも、きみはベッドの上でおとなしくすること!」
「はぁい」
「ファントム、見張りを頼むよ。かわいくお願いされてもきいてあげちゃだめだからね。きみのマスタークリスティーヌの為なんだから」
「承知」

 ロマニの指示にファントムが神妙にうなずいた。
 真っ先に私の異変に気づき医務室まで担ぎ上げたのはファントムだ。今回ばかりはクリスティーヌに絶対服従するつもりがないらしい。
 鼻水がずるずるあふれる。朝はすこしだるい程度だったのに、時間の経過でひどくなってきたようだ。
 抜け出したくても、この分じゃ抜け出せないだろう。
 仕方なく目を閉じて、寝に入った、

   ***


 マイルームを抜け出す元気はなくても、それはそれとして辛い。
 体温が上がる。ぞわぞわと悪寒がする。身体の輪郭が溶け出したかのように曖昧で、思考が糸を結ばない。
 寝られれば楽だけど、こうも頭が熱いと浅い眠りしかできない。自分が寝返りを打つ刺激で起きてしまう。
 私はわずらわしさで掛布団を蹴った。

「クリスティーヌ?」

 誰かが私の額を撫でた。布ごしのひやりとした指先。相手が誰だか理解するのにも、時間がかかる。
 身じろぎすると、手がさっと離れる。逃げる指先を掴んで額に押し付けた。
 ――ああ、そうだ。ファントムだ。
 見張り兼世話役としてロマニに抜擢されていたんだった。甲斐甲斐しいサーヴァントは他にもいるけれど、ファントムが一番だと判断したのだろう。まあ、一番気心知れている相手だ。
 サーヴァントはこういう時ありがたいな、とぼんやり思う。人間じゃないから風邪を移す心配がない。
 ただでさえロマニや他の職員は特異点の座標解析やなにやらで忙しいのだから、病人の世話などしてられないのだ。絶賛・世界焼却中のカルデアは、誰が欠けても困るギリギリの状況で回っているのだ。
 彼らの手を借りないで済むのは本当にありがたい。

 契約外の仕事をやらされるサーヴァントの内心は知らないが。

「世話かけてすまないな、ふがいない」

 声がかすれる。まともに発音するのもおっくうだ。

「おいたわしやクリスティーヌ。さぞお辛いでしょう」
「そうでもないさ」

 やせ我慢すると、ファントムの双眸がキュッと細まった。まったくもう、という表情。嘘を見抜かれている。
 まったくこの男には嘘がつけない。
 ファントム・オブ・ジ・オペラと言うサーヴァントは、自分がクリスティーヌと慕う者の変化に敏感なのだ。
 彼の脳内の八割以上は、かの歌姫への憧憬で占められているのだから。
 だから別に私が特別ってわけじゃない──と、落ち込みかけたところで思考を打ち切った。
 役得だと思うべきだ。この関係を。
 私がマスターとして大成すればするほど、ファントムもマスタークリスティーヌへの愛着を深める。
 利害は一致しているし、私は彼を信頼しておりファントムも私を信頼している。
 至上の歌姫と誤認されていようがなんだろうが、そこに偽りはないはずだ。だから問題もない。
 我ながら面倒な相手に恋をしたものだと思う。

「何かすべき事はありますか?」
「いや、大丈夫」
「本当に?」

 ベッドのすぐそばに膝をついて、ファントムは私に視線を合わせる。首をかしげて念押ししてくる態度に苦笑する。
 ずいぶん心配されているらしい。
 方向が間違っているとはいえファントムは尽くし屋の男だ。世話好きなのかもしれない。

「大丈夫だって。水もまだ残ってるし」

 枕元にロマニが置いていった物資を示すとファントムは納得がいったようにゆっくり頷いた。

「ここにいても退屈だろ。下がっていいよ」
「ここに居ます」

 退室を命じ終えるより先に、ファントムが言う。有無を言わせない口調だ。

「万が一が起きてはいけませんので」
「いや、それは悪いっていうか……寝にくいからさ。人がいると……」
「ここにいます」

 ねじ込むような言葉に、私はうっと黙り込んだ。こういう言い方をする時のファントムは絶対に自分を曲げない。
 令呪を使えば服従させるのは容易かもしれないが、こんなところで使ってもいられない。ない。
 結局折れるのは私だ。

「…わかった。ここにいろ」
「はい。此処に居ます」

 正直、冷たい手の感触が名残惜しかった時だ。

「御自愛下さい、我がマスタークリスティーヌ。貴女の身体は、貴女一人のものではないのだから」
「まるで妊婦のような扱いだな」

 思わず苦笑する。だが事実だ。
 マスターとして動ける人間は、私と、一般人枠でカルデアに来た《あの子》だけ。
 倒れてはいられない立場なのだ。

「……そうだな、よく寝て、早く動けるようになるよ」
「ええ。こうして貴女のそばに居られるのは役得ですが、辛そうな貴女を見るのは痛ましい」
「はいはい」

 直球な言葉だ。
 ぬるくなってきたファントムの手を離すと、ファントムはもう片方の手を差し出した。ナイフの手をしているから、手袋越しでも気持ちいい。
 それを冷却材がわりに赤くなった顔を隠して、私はまた寝に入った。





2017/09/10:久遠晶
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