空虚を撫でる
しくった。
顔の右半分を焼かれた痛みに歯を食いしばりながら、私は舌打ちをした。
修復後の特異点に、調査のためレイシフトした。そこで問題がありサーヴァントとはぐれたわたしは、魔物に襲われ、成すすべもなくステーキにされてしまったというわけだ。
食われる寸前サーヴァントが助けてくれて事なきを得たけれど、痛いものは痛い。
息ができないし、指先も動かせない。
この分じゃカルデアに強制帰還だろう。やだなあ、と思う。
強制帰還はいやだ。
なぜって、そう、――幻滅されるにちがいない、から。
***
鋼鉄の看護師、ナイチンゲールは激怒していた。
それはレイシフトの不手際を起こした職員でも、マスターとはぐれたサーヴァントにでもない。
己自身に怒っていた。
ナイチンゲールは冷静に衝動的に行動する。
やけどを負い医務室に担ぎ込まれたマスターの火傷を手当てし、かぎ裂きに引き裂かれた皮膚を縫合する。ダヴィンチと共に処置に当たり、瀕死の重体だったマスターの魂を現世に留まらせる。
手術が終わり、病棟でマスターが目を覚ますのを待つ段階になる。
そこで、ナイチンゲールはダヴィンチがいったん病室の外に出たすきに、扉の鍵を壊した。
固めた拳でドアノブを殴りつけ、鉄製のとびらを思い切りへこませる。
衝撃でカルデアの警備システムが作動し、警報が鳴ったが気にしない。外から聞こえるロマニの声は無視する。
「ちょ、ちょっとナイチンゲール!? なにがあったんだい!? 扉を開けてくれ!」
「黙りなさい。私は患者の命を救う義務があります。そう、たとえ患者の命を奪ってでも」
ナイチンゲールはダヴィンチにそう言い捨てる。
己の宝具を展開し、周囲を癒しの力で満たし、殺菌した。
それが効果があったのかがわからないが、マスターがううん、と身じろぎした。
「! マスター」
「んん……ナイチンゲール?」
マスターははっとすると、慌てて身体を起こそうとする。その肩を押して、ベッドに沈める。
「まだ麻酔が抜けきっていません。動かないで」
「私、へましちゃったんだね。あはは、情けないね」
「自殺に失敗することが、情けないと?」
ああ、腹立たしい。腹立たしい。
マスターは目覚めたばかりだというのに、すでにはっきりとした意識を持っている。毒も麻酔も薬も、すべてが抜けやすい体質なのだ。
それなのにへらりと笑って、ナイチンゲールの言葉を聞かなかったふりをしている。
「世界を救うための特異点調査でしょ」
「いいえ、これは消極的な自殺です。貴方は死に急いでいるのです」
「言ってる意味がわからないなぁ~」
「では言葉を変えましょう。貴方は病気です。即刻治療が必要な患者です」
言いながら、拘束ベルトを手に取った。手早くマスターの手首を拘束する。
「ちょっ! ちょっと待って!? なに!?」
「貴方の両足と右手を切断します。死ぬほど痛いですが、死にはしません。安心なさい」
「ちょっとちょっと!? なんで!!」
「この足があるから貴方は特異点の調査に向かいます。右手の令呪があるから、貴方は戦います。武器を失えば貴方は戦えない」
腹立たしい。
対症療法しかできない自分が腹立たしい。
このマスターは病気だ。人類の為に、という使命感に浮かされて、己を使いつぶそうとしている。世界を救うなどと言う偉業を平凡な少女に課した運命という病理が、彼女をむしばんでいるのだ。
「――去年、貴方は世界を救い、平穏な2017年を迎えた。もう貴方を戦いに駆り立てるものはないというのに、なにが不満なのですか」
修復済みの特異点に異常があった。数値上の不手際。単なる誤差のライン。それを捨て置けず調査に向かい、結果レイシフトの誤作動で死にかける。
今回マスターが瀕死の重傷を負ったのは、単純にレイシフトの段階での異常があったからだ。普段であれば大丈夫だった、などというのは言い訳でしかない。
しかしマスターはそうやって、自分の怪我を「たまたま」で片づけようとしている。
――なにがへまだと言うの。情けないと言うの。
ナイチンゲールは歯がみした。
意地でもついていけばよかった。私ならマスターを手放すようなことしない。レイシフトの不具合ではぐれてしまったとしても、即刻守りに行った。怪我もその場で治療した。周囲の雑菌は完全に消毒してみせる。マスターの身体に、おぞましい細菌など寄せ付けない。
心底ナイチンゲールは思う。しかしマスターは、ナイチンゲールをパーティに入れようとはしないのだ。
どうかカルデアで待っていて、と。
「この足を切り落として、手首も切断して。この目に看護婦しか映らないようにすれば、貴方も自分がいかに愚かだったかを悟るでしょう」
彼女の膝頭を撫でながら、ナイチンゲールは思う。
それで彼女は立ち止まるだろうか、と。
四肢が腐り落ちても、這ってでも戦いの場に赴こうとするかもしれない。それはだめだ。そうなったら、殺してでも彼女を休ませなければならない。
「心配させたんだね、ナイチンゲール。ふがいなくてごめん」
「貴方は! まだそんなことを」
「私、強くなりたいんだ。みんなみたいに強く。ナイチンゲールたちが、このマスターと契約してよかったなと思えるぐらいに強く。でも、うまくいかなくて。当然だよね。魔術回路もだめだめな一般人だもん……」
やはり病気だ。
一般人程度の資質しかないことをわかっているのに、それでも彼女は英霊と張り合おうとしている。
人類史に残る英雄を前にしてなお、彼女は並び立とうとしている。
人間の職員よりもサーヴァントのほうが多い現状だ。彼女の常識のラインが変質するのは自然なことだが、迎合出来ない。
「そんなことを考えなくていいのよ、マスター。貴方は人間なのだから」
膝から手を離して、彼女の頭を抱きしめた。
以前の彼女はよく、ナイチンゲールの胸にうずまって泣きたがったから。
彼女がそれをしなくなったのはいつのことだろう。戦いでナイチンゲールを重宝していたマスターは、やがてナイチンゲールを避けるように近寄らなくなり、戦力にも加えなくなった。
まるで病気を自覚しているのに、医者にかかりたくないと逃げる子供のように。
腹立たしい。すべての患者を救う者と己を定義づけたナイチンゲールは、しかしこの小さな子供になにもしてやれない。
これからも発生するであろう特異点。逃げおおせた魔神柱の残党狩り。人理を修復して尚世界はこの小さな子供に戦わせようとしている。
「貴方が泣いていると、私は悲しい。貴方が怪我をすると、私は悲しい。両足を切り落とされたくないなら、もっと自分を大事になさい」
「うん、ごめんね」
以前はこうして、胸に顔をうずめてやれば、彼女はすぐにすがるように泣き出した。しかし今はどうだ。
ナイチンゲールに引き寄せられるまま胸に顔を預けているけれど、その実重みは一切かけていない。
涙も流さない。
謝罪の言葉は平坦で、無感情。
――どうすればいいの。私はこの子に、何が出来るの。
――考えなさいナイチンゲール。諦めないと、歩みを止めないと誓ったのだから。
戦場にいる魂を救うため、ナイチンゲールは今のバーサーカーになった。
引き止めるナイチンゲールを振りほどき、マスターが死地に向かうというのなら。傍らに寄り添い、銃弾の雨を鉄の白衣でかいくぐり、マスターを守りたい。
だから、どうか。
「あまり無理をしないで、マスター」
一人で背負いこまないで、共に戦わせてほしい。
万感の思いを込めた言葉はマスターの心を打ってはくれない。それがもどかしく、また、腹立たしかった。
2017/09/14:久遠晶