我が愛しき善き王よ
不夜城のキャスターと出会ったことを、少女は『運命だ』と笑った。
頭から血を流し、頬を腫らし、腕を火傷し、足の骨を折りながら、それでも生きている幸運に感謝をしながら。
キャスターの手を取り、汚れていない方の自分の頬に触れさせて、星を見上げるように目を細めた。
「召喚に答えてくれてありがとう、キャスター」
心の底から少女は言い、祈りを捧げるようにこうべを垂れる。
森の中は静けさに満ちている。木の葉のさざめきと焚き火の火花の音以外聞こえない。激痛の中にいるであろう彼女は呻き声ひとつ上げず、真名すら明かさないサーヴァントを一つの拠り所にして心で立っているのだ──。
この時、なんと言えばいいのかわからなかった。
亜米利加大陸の横断のさなか、敵性サーヴァントに襲われ、マシュや他のサーヴァントとはぐれて二人きりになった。ドクターロマ二の手引きにより、あと二時間もすればこの霊脈にマシュたちがやってくるだろう。
本当は、責められるべき立場だ。マスターを守れなかった不出来なサーヴァントとして。
キャスターのサーヴァントとしての特性は王への攻撃、防御に特化しすぎている。王への特攻能力以外は三流以下のサーヴァントで、戦闘能力など皆無に等しい。死なない程度に立ち回れる、と言うだけのもの。
おかげでマスターに怪我を負わせた。
だからマスターはキャスターを責める道理があり、権利がある。
考えによっては、役に立たないサーヴァントなど契約を打ち切ることだって、視野に入るはずだ。
──だと言うのに、マスターは笑うのだ。
召喚に応じてくれてありがとう、と。
「キミがいなきゃ、私はここで呑気に焚き火なんかしてられない。とっくに死んでた。うぅん、そうじゃない、もっと早く……オルレアンの時に、とっくに殺されてたんだよ。だからありがとう、キャスター」
頭を止血し、包帯を巻いて鎮痛剤を飲ませた。潤んだ瞳は、抗生物質が効いている証拠なのか、反対に怪我から細菌が入ったのか、はたまた違う理由なのか。
わからない。
王の機嫌を損ねないように立ち回り続けた生前を持つ不夜城のキャスターは、この小さな王がなにを考えているのか、なぜこんなにも優しいのか、さっぱりわからない。
だからだろうか。胸が痛くなるのは。
「人理のために、これからも助けてほしい、キャスター。お互い死なないように」
怪我だらけの身体で、自分ではなく眼前のサーヴァントを気遣っている。
純真な目を見ていられなくて、夜空を見上げた。
──本当は、私は……。人理修復になど興味がないのです。
キャスターがそう言うと、少女は目を丸くして、それから少し困惑して眉を下げた。
「……ロマ二が言ってたよ。カルデアの召喚システムは通常の召喚システムと違うって。触媒のない召喚になるから、サーヴァントに応える意思がないと現界できないんだってさ」
「私の場合は当てはまりません。私は本当に、人理に興味などないのです」
無垢な信頼が胸にチクチクと刺さる。
この小さな王とはじめてまみえた時から、棘は心に刺さったまま決して抜けない。
自分を召喚した少女の顔を見た瞬間、不夜城のキャスターは全てを理解した。
わかってしまった。悟ってしまった。
ここではないどこか。自分ではない別の自分が、遠くない未来に引き起こす物語を──彼女は読んでしまった。
未来、その特異点でマスターと出会う。たったそれだけの細い縁を繋いで、カルデアに現界してしまったのだと、気づいた。
手を強く握り込まれる。その感触で、意識は過去から現在に引き戻された。
「もしかして照れてるの? 素直じゃないよね、キャスターは……」
マスターは不安げな顔になる。人理修復の為、人類のためにサーヴァントが力を貸しているわけではないのなら、なにが目的なのだろうかと困惑している。
これは恐怖ではなく、『人類を救うこと、それ以外でキャスターにどんなお礼ができるのだろう』と考え込んでの不安なのだと、キャスターは知っている。
それぐらい……マスターから信頼を寄せられていることを、知っている。
不夜城のキャスターは努めて柔らかく微笑んだ。王が安堵する声色、抑揚を意識し、マスターの頭を撫でる。
「私は死にたくありませんから」
おどけて見せると、マスターは目をパチパチと瞬きしたあと、フッと笑った。
「聞き飽きたってぐらい聞いたよ、それ!」
遠くない未来、自分ではない自分がこの王に刃を向ける。死にたくない一心で紡いだ物語で世界ごと自殺せんとする。
その時、目の前に居るこの王は……キャスターをなんと言って非難するだろう。
人理修復に随伴するこの旅は、ほんの少しの罪滅ぼしに──なるのだろうか。
***
──怒っていないのですか?
伝承地底世界からカルデアに帰還したマスターに、キャスターはそう問うた。視線を下に落とし、組んだ指先をこねくり回すキャスターに、マスターがなにを思ったのかはわからない。
だけどマスターは確かに笑って、眩しいものを見るように目を細めた。
そうして不夜城のキャスターはまだここにいる。人理を修復し、一年経ち、それでもカルデアに。
だから……『それ』を渡そうと思った。
カルデアのサーヴァントはチョコの製造に大忙しになり、女性も男性もみな浮き足立って甘い匂いが辺りに漂うようになった。
加えて『バレンタインは日頃の感謝を表す日』などと言われれば、義理にしろなにがしかの贈り物が必要になる……と重い腰を上げるのは当然の話だ。
そうして、この半年間なあなあにしていた問題に、決着をつけるべきだと思い至った。
だが、やはり、渡すには勇気がいった。
使命感で王の妻に名乗り出た、あの時以上の勇気が必要だった。
「これは──賄賂では、ありません。命乞いでも、ありません。これを渡すから戦場へ出さないでくれとか、殺さないでくれとか、そういう要求の対価としてではなく、純粋に、これまでの感謝の気持ちというか……」
どうしてもたどたどしくなってしまう己が恨めしい。これでは想い人へ恋を伝える少女のようだ。
「──私はこれからも。貴女の物語のおそばにいられたら、幸いです──」
顔を隠すショールを外して、息を整えて。必死になってそう言った。
きっと喜んでくれるはずだ、伝わってくれるはずだと心臓を高鳴らせるキャスターの気持ちなど知らず、マスターの反応はとても淡泊なものだった。
「あっどうも……。ありがとうキャスター」
まるで、職場の外で苦手な上司と会ったような会釈の仕方に、取ってつけたようなお礼。
──穴があったら入りたい。
──絶対に外からは開かない地下シェルターに入って、最後の時までそこで過ごしていたい。
あぁ、いやだ。絶対迷惑だと思われた。それどころか、きっと不快に思ったろう。
キャスターはあてがわれて居る部屋のベッドで、まくらに顔を押し付けながら足をばたつかせた。
全霊をかけた言の葉は、きっといつもの『死にたくないアピール』と思われたに違いない。普段の言動が悪いと言われればそれまでだが、本当に緊張していただけにショックだ。
そもそもロールケーキというチョイスもよくなかっただろう。あのマスターは日々チョコを誰かに渡し、贈られている。甘いものは食べ飽きている頃だと、どうして気づかなかったのだろうか。
今頃あのケーキは捨てられているかもしれない。捨ててくださって構いません、と言ったはものの、その場面は想像したくない。
その日からというもの、不夜城のキャスターはマスターを避け始めた。顔が見れず、話しかけられても、カルデアの子供サーヴァントのために読み聞かせをするから、と、それを口実にして逃げ続けた。
避けられているのは、マスターだってわかっているだろう。
しかし、だからこそなのか──。マスターは残酷だ。
キャスターが会いたがっていないのをわかっていて、特異点調査のパーティに入れるのだから!
***
パーティの一人に組み込まれてしまったものは仕方ない。全力で任務にあたり、一刻も早くカルデアに帰還しマスターと距離を取るしかない──と思っていたのに。
よりにもよってこのタイミングでレイシフトへの不具合と通信機器の誤作動が起こるなど、運が悪すぎる。
マスターは通信端末に何度が呼びかけたり操作したりを繰り返したあと、ため息をついて端末をバッグにしまった。
「うーん、やっぱりカルデアと繋がらないや。みんなとも完全にはぐれたみたい」
「憂鬱です……。一刻も早くみなさんと合流しましょう」
「うん。とりあえず霊脈探して拠点を作ろう。キャスター、霊脈は感知できる?」
「はい。あちらの方角に……」
歩きながら、二人は無言だった。レイシフトの不具合や今後の戦闘を危惧しているというより、二人きりというシチュエーションがお互いに気まずいのだ。
龍脈に辿り着けば仲間と合流でき、この気まずい沈黙も終わるはずだ──と前向きに考えたが、楽観的な思考だ。
実際、山奥の洞窟の中にある龍脈に辿り着いても仲間はいなかった。カルデアとの通信も回復せず、物資はマスター手持ちのリュックのみ。
洞窟の中で焚き火を起こした時、外はとっぷりと暗くなっていた。
燃え盛る炎の中で、枯れ枝がパチパチと音を立てている。その様子を見つめながら、マスターが微笑んだ。
「……前にもこうやって、みんなとはぐれたことあったよね」
「ええ。亜米利加大陸横断の時ですね。あの時、貴女に大怪我を負わせてしまって……」
「いいんだよ。私が前に出すぎたせいだしね。あの時、ちょっと楽しかったし」
「楽しかった?」
「自分が死にかけた時以外で血の気が引いてるキャスターを見たの、初めてだったから」
「それは、笑えません。マスター」
カラカラ笑うマスターに、キャスターは思わず苦笑する。
一度喋り出してしまえば、ぎこちないながらも少しずつ会話が進んでいく。
「そう言えば、マスター。お腹は大丈夫ですか? カルデアとの通信が回復しないことには、物資の補給も出来ません。野うさぎでも捕まえてみますか?」
「そう簡単に食べれる動物が見つかればいいけど。この辺りで野生動物を探すのは骨が折れそう……みんな瘴気にやられて、逃げ出していそうだ」
確かにそうだ。偶発的に発生した特異点は魔力の瘴気に覆われていて、常人や普通の動物はまず生きていけないだろう。
つまりマスターは、村で食料を買い込むことも、野生動物を仕留めてキャンプすることもできない状況ということになる。
「でも、大丈夫だよ。確かにみんなからもらったチョコやお菓子があるは──ず──……」
「……どうかしましたか?」
マスターは一度リュックの中から取り出しかけたラッピングされた小箱を、気まずげにリュックの中に戻した。
その態度があまりに不自然で、私は思わずマスターの手を覗き込む。
「な、なんでもない……。ちょっと食べれないやつしか持ってなかっただけ……。まぁ1日ぐらい食べなくてもなんとかなるよ。水筒はあるし」
「それはいけません。餓死や栄養失調で死んでしまったらどうするのです。失礼ですが、先程のものはチョコレートの包みかとお見受けします。私に見せたくないのかもしれませんが、どうぞお気になさらずお食べください」
「いや……うぅーん」
渋るマスターに、キャスターは少しムッとした。
怒りというより、悲しかった。
他人に見せたくない宝物のチョコレートは、誰からもらったものなのだろう。
誰がこの人の寵愛を受けているのだろう──。そう思うと、胸がざわついた。
気がつくとリュックのジッパーを閉めようとする手をつかみ、押しとどめていた。
「見せてください。想い人からの贈り物を見せたくない気持ちもわかりますが、今は仮にも戦場です」
「お、想い人!? そ、そういうんじゃないけどさぁ……」
「ならば尚更、食して問題ないはず。なぜ隠すのですか」
「え、ええと……」
マスターか視線をあちらこちらに移動させる。困り果てた時のサインだ。これが出たということは、押すよりは引いたほうがいい。
「……わかりました。マスターがそこまでおっしゃるのなら……。差し出がましいことを言って申し訳ありませんでした」
「あ、いや、そうじゃなくってね。うぅん……。わ、笑わないでよね、」
「もちろん、笑いませんとも」
「このチョコ、私のじゃないんだ。でも背に腹は変えられないよね」
「では、どなたかにお渡しする予定の……?」
「うん。はい、どうぞ」
綺麗にラッピングされたチョコが目の前に差し出された。意図がわからず首をかしげると、マスターはじれったそうにチョコを上下に振って催促した。
「受け取ってよ。ひとまず受け取ってもはわないと、ちょっと悲しい」
「え? では、これは……」
「この前のケーキのお礼。あれがなくても、渡す予定だったけど!」
目元を赤く染めて、ヤケクソのようにマスターが言う。風邪をひいたように、紅潮はどんどんと強くなった。
「バカみたいって思うでしょ。最近キャスターがどこにいるのかわからないから、これを渡したくて今回の特異点調査に呼び出したの。迷惑かもしれないけど……」
「そんなこと! とても嬉しいです。大事に食べ──あ、ですが……」
「……でも、キャスターに食べて欲しくて作ったの」
空腹のマスターを横目に味わうことなどできない。しかしマスターはむうっとくちびるをひき結んでキャスターを見上げた。
この様子では、全て貴女がお食べください、と言ったら拗ねて口を聞いてくれなくなるかもしれない。
「一緒に食べましょう。今なら邪魔も入りませんから」
「……うん、そうしよう。たくさんチョコあるからさ!」
眩しいものを見つめるように目を細めるマスターの表情が、不夜城のキャスターはたまらなく好きだ。
胸が満たされ、ひどく幸せな気持ちになる。
舞い上がってしまうのだ。
***
マスターはキャスターの肩に頭を預けながら、ぼんやりと炎を見ている。
キャスターの手はマスターの手に重なり、お互い思い出したようにチョコを口に運んだ。
手作りのチョコは美味しかった。高濃度の魔術リソース、と言うこともさることながら、キャスターが自分を思って作ってくれたものだという事実が、キャスターを天に登らせた。
こんな風に……心を砕き、思ってくれる王が現れるなんて、生前は思ってもいなかった。
キャスターを殺さない善き王。愛しい人。
この人のためならなんでもしたい。
この人が喜ぶためなら……。
執着めいた気持ちと、純粋な感謝から、そう思う。
「あの時キャスターが言ってくれたこと、本当にうれしかった」
「あまり、言わないでください。恥ずかしいです……」
恥じらって視線を逸らすと、マスターは肩に預けていた身を起こした。キャスターの手を取って、顔を寄せる。
「でもね、私は、私の物語の中に、キャスターがいてほしいの。語り部の、遠い位置じゃなくて。私のそばで、私の物語にいてほしい……」
「……マスター、いけません。うぬぼれてしまいます……」
「いいよ。自惚れてよ。私だって、あのケーキですっごく自惚れた。同じぐらい自惚れてはしい」
マスターの手が持ち上がり、キャスターの頬を撫でる。髪の毛を掻き分けて耳を滑り、うなじまで触れられると背筋がゾクゾクと震えた。
どうしよう、と不夜城のキャスターは視線をさまよわせる。
気分が高まってたまらない。
赤らむ頬を見られるのが恥ずかしい。ショールで顔を隠すことができれば、どんなにか楽だろう。だがこの状況で、顔を隠してマスターと隔てたいとは思わなかった。
彼女がそうするように、不夜城のキャスターは彼女の髪をかきあげて後頭部に指を滑らせる。
口づけができそうなほど身を寄せても、マスターは拒まなかった。
「マスター、貴女の物語の中に……端役としてではなく。私がいても、よいのですか?」
「もちろん。超重要人物だよ、キャスターは」
くちびるに息を吹きかけると、マスターはまつげを揺らして目を閉じた。
それが合意のサインだった。
マスターの後頭部を引き寄せ、くちびるに触れようと──。
「ワッハッハァ! ようやっと見つけたぞ! マスター、無事かぁっ!?」
すぐそばから聞こえてきた大きな声。
肩を押され、身を引き剥がされた。
「ふぇっフェルグス!?」
洞窟の入り口で巨大なイノシシを担いだフェルグスが、焚き火越しに見える。
彼は洞窟に入りきらないイノシシを外に置いて、洞窟の中へと入ってくる。
「見つかって安心したぞ。その様子だと危険はなかったようだな! ──ん? ……取り込み中の邪魔をしたかね?」
ええ、まったく。本当に。
そんな返事すら忘れて、キャスターはフェルグスをジトッと睨んだ。
マスターは顔を覆ってうなだれている。本当に邪魔だよ……とくぐもった嘆きがわずかに聞こえるが、フェルグスには届いていないらしい。
フェルグスは顎に手を当てて考え込んだ後、パンと手を打った笑い出した。
「ワッハッハ、すまんすまん。そういうことか。いや、まさかお前たちがな。あぁ、オレのことは気にせず続けてくれ──いや、むしろ混ざりたい!!」
「帰ってください」
とうとう本音が口を突いて出た。
キャスターはため息をこらえる。
フェルグスはこういう、間が悪いというか、デリカシーがないところがある。勇敢なケルトの戦士は雄々しく、英雄とあがめられるにたる器の持ち主だが、細やかな気遣いは苦手なのだ。――ケルトでは通じるのかもしれないが。
彼の背後を見れば、他のサーヴァントも続々と集まってきている。安珍さま、という清姫の呼びかけが遠くに聞こえる。
特異点で思いを遂げよう、というのがそもそも間違っているのだ。敵性サーヴァントに不意を突かれなかっただけ幸運だ。
だから不夜城のキャスターは残念な気持ちと怒りを押し込んで、務めて平静を装った。
「……フェルグス様がきてくださって助かりました。清姫様に恨まれては死んでしまいますから……」
微笑みながら、マスターの手をきゅっと掴む。驚いたマスターが顔を上げた。
――ああ、この人は本当にかわいらしい。
なぜ、夜空のようにきらめく瞳に見つめられるだけで、こんなにも嬉しくなるのだろう。
「先ほどの物語の続きは、ぜひ、あなたの寝台で――」
不夜城のキャスターはマスターにしか聞こえない音量で囁くと、洞窟にたどり着いた仲間達を出迎えるべく立ち上がった。
待って、とかすれた声でのつぶやきは聞こえなかったふりをする。
これはいじわるかな、とすこし心の中で迷ったが、結局彼女はマスターを困らせてしまうことにした。
――だって、それをしても、愛しい善き王は彼女を決して殺さないだろうから。
2018/02/07:久遠晶