この胸のなかには何もない



 彼には他者から与えられた憎悪以外、なにもなかった。

 アヴェンジャー、アントニオ・サリエリは無辜の怪物だ。犯してもいない殺人を疑われ、噂を立てられ、『モーツァルト殺し』の汚名を着せられた結果生まれた偶像だ。
 モーツァルトの才能に敬意を表し、友として慕っていたサリエリが、モーツァルトを殺すわけがない。それでも──『殺したに違いない』という人々の認識はサリエリという人間の概念を歪ませ、英霊の座まで押し上げた。
 だから事実ではない『モーツァルト殺し』の逸話を纏うサーヴァントとしてのサリエリは、生前のサリエリとは違う。同一であるわけがない。

 だからアヴェンジャー、サリエリには、他者から押し付けられた憎悪以外なにもない。
 サーヴァントとしてのサリエリ自身、そのことを理解しているから、時折己の足場がぐらついて、ひどい恐怖に駆られてしまう。

 永久凍土と化したロシアでの縁を紐解いて、カルデアのマスターはサリエリを召喚した。複数のサーヴァントが仲間として身を寄せ合うことは初めてで、サリエリにとって新鮮だった。
 ある日シャドウボーダーの内部を散策していると──その少女と出くわした。周囲に光の粒子をまとうような、輝くような笑顔の少女に。

「あぁ……貴女の兄には世話になった。いや……違う。私は……我は……なんなのだ……?」

 マリー・アントワネットを見たとき、彼は恭しく挨拶をしようとし、顔を押さえてよろけた。

「どうしたの?」

 小首を傾げて顔を覗き込もうとするマリーのあどけない表情を見ることができず、逃げるように踵を返して手近な部屋へと駆け込んだ。
 マリーの兄、ヨーゼフ二世には生前、音楽の才能を認められ、多大な寵愛を受けた。サリエリの胸にはヨーゼフ二世への感謝があり、それに連なってマリーに対する敬意も湧き上がっている。
 だが生前のサリエリと今のサリエリが『違う』以上、今のサリエリが抱く感情は結局偽物に他ならない。
 サリエリの足場が揺らいでいく。混乱に満ち、なにをすればいいのかわからなくなる。
 サリエリが抱く全てが偽物だ。偽物の逸話に偽物の憎悪。あらゆるものがサリエリにとって無意味で、無価値だ──神に愛された音楽家を認めなかったこの世界など。

「あれ、どうしたの、サリエリ先生」

 部屋の奥から、マスターがひょこりと顔を出した。それでやっと、サリエリは自分が逃げ込んだ部屋がマスターの自室だったのだと気がついた。

「ノックぐらいしてよね、びっくりするからさ。それとも私が気づかなかっただけ?」
「……いや……」

 仮にも年頃の少女の部屋に無断で踏み入ったことに、にわかに罪悪感が湧き上がる。
 サリエリは混沌悪の反英雄だが、生来は穏やかで敬虔な神の子である。サーヴァントになっても、多少の人間的な感性は持ち合わせていた。
 どうやらマスターは、マイルーム内でシャワーを浴びていたらしい。髪の毛はかすかに濡れ光り、頬は血色よく赤い。
 そうであるなら、なおさらマスターの部屋に居るのははばかられる。サリエリはマスターから顔を背けながら片手をあげた。

「すまない。また今度出直そう」

 さもマスターに用事があった風を装いながら踵を返す。扉を開けるボタンを押そうとすると、慌てたマスターがサリエリに近寄ってきた。

「別にいいよ。わざわざ来てくれたんでしょう。誰かと話したいと思ってたの」

 マスターの小さな手がサリエリの腕を掴む。その手は意外なほど強く、こちらを見上げる瞳は有無を言わせない。
 ──そんなことを言われても、話したいことなどなにもない。
 どうやって誤魔化そうかと思いを巡らせたのはほんの一瞬で、気が付けばマスターの髪に片手を滑り込ませていた。
 わずかに濡れた髪のひとふさが、マスターの瞳を遮っている。それを耳にかけてやり、撫でつけながら、サリエリはきゅっと目を細めた。

「……サリエリ先生?」

 マスターはされるがままになりながら、サリエリの言葉を待っている。頬を持ち上げて笑いながらまばたきをしているのは、受容を示す彼女なりのサインだろう。
 反英雄のサリエリに髪を撫でられても抵抗しない。頬に触れる親指の位置をほんの少しずらして指を曲げれば、彼女の目玉は簡単に抉れると言うのに。
 彼女にとって、サリエリはどのように見えているのだろう。

「マスター……我はなんだ?我は何者だ? マスターにとっては──どう見えているのだ」
「え?」

 サーヴァントに裏切られるとは思ってもいない様子に、素朴な疑問が口をつく。
 マスターはサリエリの言葉をどのように解釈したのか、驚いたように目を瞬かせた。

「サリエリ先生は、サリエリ先生だよ」
「違う。我は我だ──生前のサリエリとは違う」
「うん、そうなんだろうね、そうなんだと思う」

 サリエリの腕を掴むマスターの指から、力が抜ける。すり抜けるようにして手を離し、マスターは自分のベッドに座り込んだ。

「立ち話もなんだし座って話そうよ。ほら、ここ、座って」
「いや……それは……」
「いいからいいから」

 自分の隣を叩きながら、マスターがサリエリを手招きする。
 湯上りの少女のベッドに座るなど、生前の価値観でもっても、聖杯に与えられた現代的な価値観であっても容易に受け入れられることではない。
 マスターの無警戒さは、サーヴァントを信頼しているからか、異性への純真さの現れか。
 結局は根負けをしてベッドに歩み寄った。
 しかしベッドサイドに腰掛けることはせず、マスターの前の床にひざまづいた。

「隣に座りなよ」
「……それはダメだ」
「真面目だなぁ、もう。まぁいいけどさ」

 一瞬だけ頬を膨らませたマスターはすぐに気を取り直す。ベッドから立ち上がると、目の前のサリエリの肩に手を伸ばし──そのまま抱き締めた。
 マスターの腹に顔を押し付けられる形だ。サリエリが慌てて声を出すより早く、柔らかい掌が頭を撫でる。

「サリエリせんせが生前とは違くても、今のサリエリせんせはいまのサリエリせんせでしょ。あんまり悩まなくたっていいんだから。仕方ないと思うけど」
「ま、マスター」

 子供をあやすように頭を撫でられ、背中を優しく叩かれる。ボディソープの香りが湯上りの湿気に混じってサリエリの鼻先を温かくくすぐり、不安定な心を動揺に引きずり込む。

「アマデウスが好きなあなたも、アマデウスをどうしようもなく憎いあなたも、それが人から与えられた偽物でも、あなたはあなたで本物だし……って、他人事だから言えるのかもしれないけど。でも……えぇと……」

 規則的に背中を叩く手のリズムが崩れ、言葉と共に動きが止まる。かける言葉を悩んでいるのだ。

「私はいまのサリエリ先生も好きだからさー。あんまり悩まないでほしいな。カルデア生活、エンジョイしてほしいよ」

 ──今の我を好き、だと?
 いったいなにを言い出すのかと、マスターの表情が気になった。しかしサリエリが首をひねって彼女を見あげようとすると、背中に回した腕をぎゅっときつくして抱き締めてくる。
 あまりにも無防備だ。目の前のサーヴァントが『男』を見せて、襲うとは考えもしていない。

 サリエリは、馳走のように並べられたその身体が、自分のものではないと知っている。誘われているわけではないことも。
 だがそれは誘惑に等しかった。
 マスターの言葉だけを見れば、身体ごと差し出す愛の告白だったのだから。
 サリエリはマスターの柔らかい腹に顔を押し付けられながら、目を瞑って眉根を寄せた。呼吸を小さくし、精神を統一して乱されないように努める。
 サリエリとて生前は色事の経験だってあるし、妻もいれば子供もいた。未成年の少女に惑わされるほどもうろくした人間ではない──だが。
 サーヴァントとしてのサリエリは違う。
 アマデウス殺害の風評被害に、後世の創作で付与された『音楽の為、神に純潔を誓った』という後付けされた要素がある。そう信じる人々がいる限り、サリエリもそのように感じてしまう。
 女に慣れていないわけではないのに、女慣れしていない少年のように心臓が跳ね上がり、顔に熱が集まるのを自覚する。

 ──我を好き、だと。おかしい。そんなこと、あるわけないだろう。

 必死に否定して冷静になろうとするが、うまくいかない。こんなことで動揺する人間ではないはずだ、と思えば思うほど泥沼にはまる。纏った人々のイメージと事実との齟齬が、余計にサリエリを混乱させるのだ。
 足場が崩れて不安定になる感覚がまたよぎり、転落するようにマスターの腰に腕を絡み付けそうになってしまう。
 持ち上げた腕をマスターの体に回さなかったのは、それより早くに血液が冷え込んだからだ。
 
「確かに、今の我は貴様の敵を殺す者だ」

 頬を釣り上げて自嘲した。サリエリとマスターの関係は、利害関係によって成り立つビジネスライクなものだ。
 ──そうであればこそ、『今のサリエリが好きだ』などと、サリエリではないサリエリアヴェンジャーを指して言えるのだ。それを違えてはならない。
 サリエリは心の中で、己自身にそう強くねじ込んだ。

「そういう意味じゃ、ないよ」

 いいや、なにも違わないのだ。サリエリは静かに思う。
 ピアノを弾くサリエリを見つめる目がどれほど暖かであろうと、無警戒にサリエリの肩にもたれて安らかに眠ろうとも、目が合うと嬉しそうに笑おうとも、マスターとサリエリの関係は無機質だ。
 マスターはサリエリのものには決してならない。
 わかりきった事実を何度も反芻してしまうのだから、サリエリには少なからずマスターへの情がわいているらしい。

 皮肉なものだ。生前のサリエリとは違う我の攻撃性や憎悪を認められてカルデアにいると言うのに、マスターに抱く気持ちは……生前の……美しい音楽に出会った時の感動と高揚そのものだ。
 サリエリはマスターの腹に鼻先を押し付けたまま、脳裏にかの神に愛されたあの男の姿を思い浮かべた。マスターへの憧憬を、黒い殺意で塗り潰す。
 纏う雰囲気が変わったことを察知したのか、マスターが抱擁を解いて後ずさった。

「……サリエリ?」
「我がを殺し、復讐を果たしたら。貴様はどうする?」
「それは……」
「復讐を果たし、我が存在意義を失った時……先ほどの質問にどう答えるのか楽しみだ」

 アマデウスを殺したサリエリを見て、マスターは笑うか、泣くか、失望するか──どんな反応をするだろう。
 復讐者としての能力を買っていたのに、アマデウスを殺して復讐者でなくなったら意味がない、と眉をしかめるだろうか。

 どうかそれでも好きだと言ってくれと、己の願望を認識する為の機構を、無辜の怪物であるアヴェンジャー・サリエリは持ち合わせていなかった。





2018/05/14:久遠晶
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