陽だまりのなかで抱きしめて




 吹雪が止んだ。
 豪雪で一寸先すら見通せず、自分の声すら聞こえないほどだった異文帯ロシアは死に絶えた。
 雪も風も止み、上を見れば空高くに美しい青空が見える。
 冴え渡るような、美しい空が。

 少女はかすかに息を吐き出した。くちびるから漏れる吐息は変わらず白い。
 白に覆われた大地と青い空に挟まれて、震える彼女の両手は赤黒い。
 足下には薄汚いヤガが倒れている。雪を鮮血で染め、溶けた水と混じりあいながら。
 少女は足を動かし、雪を蹴飛ばして穴を掘ろうとしている。その背に、シェヘラザードは声を掛けた。

「マスター、このロシアは雪に覆われ、地表まではおよそ1メートル以上あります。掘るのは……意味がないかと」

 バーサーカー・ベオウルフがまだ現界していれば、その豪腕でもって地表までの大穴を開けられたかもしれない。
 だがあいにく彼はすでに座へと帰還している。この場に唯一残ったサーヴァントであるシェヘラザードは、大穴を開けるほどの力を持ってはいなかった。
 少女はまだ雪を蹴り、穴を掘ろうとしている。無駄な努力だ。胸が痛くなるほどに。

「マスター、」
「私はあの時キャスターを責めたけど、これで私もキャスターと同じだね、もうキャスターを怒れなくなっちゃったね」

 少女は声を張り上げ、不自然なまでに明るくそう言った。
 まっすぐ立って自らを嘲笑う少女の背中に、シェヘラザードは手を伸ばした。

「お気持ちはわかります。貴方も私も、死にたくなかったのです」

 頼りない肩を引き寄せた。吹雪の中を進軍し続けた身体は凍え切って震えている。
 暖めたくてより強く抱きしめる腕に、抵抗を感じる。誰かに寄りかかることをよしとせず、二本の足で踏ん張る姿が痛々しい。

「死にたくなくて当然です。生きる為に最善を尽くすことは悪ではありません。貴方は正しいことをしました」

 少女の耳に言葉を吹き込みながら、我ながら最低だ、とシェヘラザードは思う。シェヘラザードが亜種特異点で行った凶行と、異分帯ロシアを滅ぼさざる得なかった彼女の身の上は、同列視していいものではない。
 だが、これ以外のなにを言えばいいのかわからなかった。

 物語を語る英霊だというのに、こんな時には何も浮かばない。
 少女の心を楽にする喩えも、寓話も、なにもかもが浮かばない。
 なにを語っても、それが虚構である限り今のマスターの心に染み込んではくれないはずだ。
 彼女に必要なのは、もっと原始的なものだとシェヘラザードは知っている。
 シェヘラザードがあの場所――天空に浮かんだ島の上で、座に還る瞬間に抱いた色めきだ。

 人と人との肌の触れ合い、喜び。心を重ね合わせて、快楽に果てて死に近づくことで生を得る。人間の原初に刻まれた、本能的な愛情。
 それが今のマスターには必要だ。そう感じる。だが……。
 所詮は仮初めの肉体であるシェヘラザードには、その救いを与えてやることができない。
 腕の中に収めて抱き寄せることはできても、心の奥の奥を開かせる安寧を与えてあげられない。
 もう何も心配することはないのだと、安心させてやることができない。

「彼は、望んで貴方の盾になりました。だからきっと、この結末も本望のはずです……」
「……わかってるよ。そんなの。だけど、私は……それでも……」

 肌を少女の身体に押しつけて、すこしでもぬくもりを分けてあげたい。だがシェヘラザードがなにをしたって、きっと少女の心は冷え込んだままだ。

 ――頑張らなくっていい。なにも背負う必要などないのです。だって、貴方は普通の女の子なのですから。
 そう囁いて、世界を守る義務も責務も、すべてを捨てさせて世界の隅まで逃げさせてやりたい。
 だけど彼女はもう、諦めることをしないだろう。己の目的を見誤ることをしないだろう。


 ――だから立て、立って戦え・・・・・ ・・・・・
 ――おまえが笑って生きていられる世界が上等だと、生き残るべきだと傲岸に主張しろ。

 ヤガが血反吐を吐きながら叩き付けた言葉は、少女の心の奥深くに食い込んでいるはずだから。

「明日になればいつもの私になるから。ごめんね」

 水音まじりの震えた声が、痛々しい。彼女はもう、止まれない。今まで以上に、悩むことも許されない。
 その死を悲しんでいいのに。泣いていいのに。
 引きずるのではなく、前を歩いて世界を取り戻すことこそが彼への弔いになるはずだ、と、彼女は既に定義してしまっている。

さま……貴方は……その……パツシィさんを……」
「ばかなこと、言わないで、ともだちに、なりたっ……それだ、け」

 それだけではないはずだ、と、追求することははばかれた。少女の胸に芽生えた恋心を明るみに引きずり出したところで、今となってはなんの意味もないからだ。
 彼女はきっと、失恋と喪失の痛みを一生引きずって生きていく。忘れたふりをして、前を向いたふりをして。
 誰にも癒やせない傷だ。彼女が守る世界にパツシィヤガはいない。誰も代替になれない。


 臭い。血の匂いがする。獣の血の匂いだ。
 ――あぁ、恨めしい。
 死体は嫌いだ。自分が骸になる瞬間を連想してしまって不快になる。だがそれ以上に。
 マスターを救える唯一の存在が息絶えている事実が、シェヘラザードには絶え難かった。





2018/05/16:久遠晶
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