タチの悪いファンと宮廷音楽家
ファントム・オブ・ジ・オペラとは壊滅的にリズムが合わない。サリエリはそう思う。
当初こそは同じ音楽関係のサーヴァントということでお互いに興味を持ち、対話を試みた。サリエリが生前書いたオペラに好意的なコメントを贈られ、悪い気はしなかった。
気があうかもしれない、と思ったのはほんの一瞬だけだった。
そもそもの話をすればサリエリはオペラを作曲し劇を作る側であり、ファントムは観賞する側である。
ファントムはその劇を壊すことにためらいがない。
至上の歌姫が上がらない舞台に価値などないとし、歌姫の水に劇薬を仕込みシャンデリアを落とした。
そんな観客と作家が相入れるはずがない。
最上の歌への愛で方も違う。
サリエリはかの音楽家の才能を認めなかった世界をこそ憎んだ──彼がそれを言語化できなくても。
対するファントムは脚光をあびる歌姫を、しかし地の底へ閉じ込めた人間だ。
気が合うわけがない。精神汚染を差し引いても。
会話をすれば10秒で頭が痛くなり、30秒でファントムの言葉が認識できなくなり雑音と化す。
ほんの少し接しただけでも精神を削られる。
だからサリエリは、ファントム相手に対話を試みるマスターに舌を巻く思いだった。
マスターは誰を相手にしてもまずは目を合わせ、声を聞こうとする。
対人関係や性格の一番外側の部分が柔らかいのだ。人当たりがいいといえばそれまでだが、対人スキルに難のあるサーヴァント相手にも怯まず交流しようとするのはある種の才能だ。
勇気を出すでもなく、ごくごく自然にやっているのだから始末に置けない。
「そりゃ、最初の頃は怖かったけど。もう慣れちゃった。みんな話せば意外にいい人たちだよー」
ケロっとした顔で言う彼女は、きっと己の特異性に気づいていない。
こういうところを、ファントムはクリスティーヌと称し愛でているのかもしれない。
マスターの人柄への評価だけは、ファントムと唯一意見が合う。
マスターは……彼女は……とても表情豊かで、見ていて飽きない。
彼女が笑う。喉の奥で子猫のように。
彼女が眉をひそめ、泣きそうな顔をする。
彼女が唇を引き結び、世界の理不尽さに怒って震える。
彼女が発する感情は強烈で純粋で、どうしてか惹かれるものだ。 ずっと見ていたいと思う。
***
「貴様は、歌は歌わないのか」
「へ」
サリエリが話しかけると、マスターは妙な顔で笑った。
抱き枕を抱きしめて寝そべる足が、ゆらゆらと揺れる。
「なに、藪から棒に。ファントムじゃあるまいし」
「そう、その男だ。至上の歌姫、と貴様を呼んでいるだろう、奴は」
「別に、私の歌が歌姫並みだからってんじゃないよ」
謙遜ではなく事実なのだろう。気が引けた笑い方をする。 しかし、歌の魅力は技術だけではないことをサリエリは知っている。
「ファントム相手にはよく歌っているようだが」
「そりゃ、歌ってあげないとすごいいじけ方するんだもん。ずーっとまとわりついてくるし、ブツブツなんか呟くし……。でも、サリエリ先生に聞かせられるんじゃないからね! わかってると思うけど」
「歌の価値を決めるのは歌手ではなく観客だ」
「恐れ多いよ、宮廷音楽家にきかせらんないって~。はずかしいし!」
けたけた笑いながら手を振るマスターに、サリエリはすこしだけむっとした。
ファントムには歌を聴かせて、子供をあやすように寝かしつけてやるのに、サリエリには恐れ多いと言う。
ファントムには聴かせる歌を、サリエリには聴かせない。
「――あの男は、怪人だ。心を開けば、悲劇が待っているだけだ」
忠告のような言葉は、しかし嫌みの意味合いを孕んでいる。
「知ってるよ。でも意外とね、ファントムは私のことをきちんと見てくれてるんだ」
正気のとき限定だけどね、とはにかむマスターに、どうしてこんなに腹が立つのだろう。
惚れ込んだオペラ歌手が、アマデウス・モーツァルトと恋仲になったことを知った生前のサリエリも、あるいはこんな気持ちだったろうか。サリエリではないサリエリにはわからない話だ。
いや違う、とアヴェンジャーは己の想像を打ち消して思い直す。
きっとこれは、懇意にしている相手が悪人に絡め取られていることを知ったときの、ありふれた心配と焦燥だ。
マスターに入れ込んでいることは否定できない。だからきっとそうなのだ、とサリエリは考え、己を納得させる。
この考えが、今のサリエリにとっては一番都合がよかった。
2018/07/13:久遠晶