この手にはなにもない


 ……。
 これが、夢だと気がついている。
 外の世界は漂白された真っ白な世界が続き、私の歩む人類史全てが崩れ落ちてなかったことにされた世界なのだと、私はよく知っている。

 だからこれは、眠りに落ちる表層意識が見せるただの夢だ。知っている。

 黒板の汚れも、机と椅子の並び具合も、教室後ろのロッカーにぶつかった頭の痛みも、よく覚えている。
 尻餅をつく私をクラスメイトが取り囲んで、蔑みの目線で見下ろしている。
 奥には女の子が顔を両手で覆ってすすり泣いている。
 ──悪夢だ。よく知っている。

 お前が盗んだんだろう、と誰かが言った。
 夢の中の私は違うと必死に弁解する。だけど私の無実を証明するものはおらず、私も立証できない。悪夢の証明だ。やっていないことは証明できない。
 友達の体操着がビリビリに破られた時刻、私は裏庭で池の鯉にエサをやっていた。鯉は喋れないから、私に味方はいない。
 犯行時刻にアリバイがない。
 先日、その子と喧嘩して「大嫌いだ」と言った。
 ただそれだけの理由で、クラスメイトの中で私は犯罪者と断定され、友達の体操着を引き裂いて喜ぶ陰湿なイジメっ子と定義された。
 影響は隣のクラスや教師の対応にも波及し、高校に上がっても、私の地に落ちた評判は回復しなかった。

 気になる男の子ができても、転校生と友達に成りかけても、すかさずクラスメイトは「その子と友達になってもいいことないよ」と悪評を広め、尾ひれをつけ、私は迫害は加速した。

 あの時、私はどうすればよかったんだろう。
 顔を覆ってすすり泣くあの子が、指の隙間から私を見てニヤリと笑ったことを、みんなに教えればよかったんだろうか。
 わからない。世界が漂白された今現在、色んな視線をくぐり抜けて歩みを進める、今、私は、べつにあの子のことなんてどうだっていいけれど。


「──マスター、マスター」

 肩を揺さぶられる感触で、私は目を覚ました。目を開けると、銀髪の美男子が私の顔を覗き込んでいてギョッとする。
 思わずうめいて身構えると、彼──サリエリはバツが悪そうに目を逸らした。
  曲げていた腰を伸ばして、私を見下ろす。

「一応、ノックはしたのだ。……朝食の時間だ」
「あー、うん、ごめん。寝坊しちゃったのか」
「早く来ないとパツシィがお前の分を全て平らげるぞ」

 もぞもぞとベッドから起き上がる。
 極寒の環境に晒され続けたヤガは、多くの食料を必要とする。仕方のないことだけど、シャドウボーダーのエンゲル係数は右肩上がりだ。
 私は朝ごはん抜きでも動けるし、パツシィが食べるなら構わないけども。所長のご飯になるのはやだなぁ。

 上半身を起こしたところで、目元が濡れていることに気づいた。寝ながら泣いていたらしい。
 パジャマの袖でぐしぐしぬぐうと、サリエリが困ったように私の手首を掴んだ。

「そんなに強くこすっては目元がかぶれるだろう」
「ちょっとかゆいの」
「なら、なおさら我慢すべきだ」

 ほんとはかゆくなんかなかったけど、泣いているのを不審に思われたくなくて嘘をついた。

「多分、寝てる時に白目剥いちゃってたのかなぁ。目が乾いちゃったんだね、おかげで涙止まらないや」

 空いている方の手を持ち上げると、すかさずサリエリが止める。両手を掴まれ、私はなすすべもない。

「なにかイヤな夢でも見たのか」

 サリエリが私の顔を覗きこもうとするので、私は俯いて顔を隠した。寝ぼけたフリしてサリエリのお腹に頭をつけると、サリエリは片膝を折った。しゃがみこんでひざまづいてまで表情を確認しようとしている──それがイヤで、私はすかさずサリエリの肩に顔を押し付けた。

「まだ身体動かないの。しばらくこうさせて」
「…………マスター、」

 サリエリは困っているのか迷惑がっているのか判断に迷う声音で私を呼んだ。
 ゆっくり手首をつかむ指を外して、私の肩を押して引き剥がそうとするものだが、そうされるより早くサリエリの首元にしがみついた。
 だめだ。今の私は、すごく気落ちしている。頑張りたくない。何もしたくない。ただただ、ふて寝していたい。

「マスター」

 私はサリエリの声を無視した。美青年に抱きついても許されるのは、単純に私がマスターだからだ。つまりこれはわかりやすいパワーハラスメントかもしれない。

「……パワハラになってたら言ってね」
「………………そう思うのなら、やめろ」
「…………ごめんなさい」

 いやなことを強要はしたくないので、仕方なしに腕の力を緩める。顔を見せないようにしながら、制服に着替えるから出ていって、などと言おうとすると、それより早くにサリエリの腕が私の背中に回った。
 ギュッ、と抱きしめられる。

「サリエリ?」
「まさか、セクハラとは言うなよ。仕返しだ」

 まさかの反撃に私もなかなか戸惑った。でも、サリエリの声音に照れが見えたことに気づいて、気遣いなのだとわかった。
 頭を撫でられ、背中を叩かれる。

「悪かったな」

 それは、起こしてしまったことについてだろうか。私としては悪夢から浮上できて大変助かったのだけど。

「……サリエリさー」
「なんだ」

 私はなんてことなさを装って、あることを訪ねようとして──やめた。
 流石にこれは、あまりにひどすぎる質問だ。
 ──アマデウス殺しの汚名を着せられた時、どんな気分だった?
 聞けるはずがない。サリエリの心を深く傷つけるはずだし、聞いた次の瞬間に私の頭が首とくっついているかどうかもわからない。
 そもそも答えなんてわかりきっている。辛かったはずだ。私がいじめっ子の汚名を着せられた時よりも、ずっと、ずっと。
 アマデウス殺しの汚名を着せられ、ただそれだけで、その風評被害によって、サリエリは英霊の座へと押し上げられた。無辜の怪物ここに極まれり、と言うやつだ。それを武器にして戦うサリエリの、なんと痛々しいことか。
 サリエリの心中を思うと泣きたくなる。彼の痛みは、私なんかでは推し量れないほど強いのだ……。

「なにか言いかけて止めるのはやめろ、気になるだろう」
「あはは、ごめん」

 長考していると、憮然とした言葉が聞こえた。耳元で聞こえる声は低くて渋くてかっこいい。
 サリエリが私の言葉を待っているのが、気配で伝わる。なんでもないよ、と言ってサリエリを引き剥がそうとするも、「言いたいことがあるんだろう」と言われ、またサリエリの首元に逆戻りだ。
 どうやら私がなにか言うまで、離してくれる気はないらしい。
 おかげさまで、私は無難かつサリエリが納得して離してくれそうな話題を考えないといけなくなった。でも思いつかない。

「…………弱音、吐きたくないからさー。離してくれるとありがたいんだけど」
「さきほど我に抱き着いてきたのはどこの誰だ」

 サリエリのこれが明確な優しさなのだと、私は知っている。
 根負けして、私は少しだけ自分の気持ちを吐き出すことにした。

「……サリエリ先生はさ、ぜんぶ、投げ出したくなったりしない?」

 自分を英霊に押し上げた風評被害。復讐者に仕立て上げた人々の決めつけと思い込み。
 人理が漂白された今、サリエリを縛るものは何もないはずだ──本来は。
 私たちに協力して没人類史を取り戻すことは、サリエリにとっては己を苛む風評被害を元通りにする、という意味でもある。

「――すべて投げ出せたら、楽であっただろうな。だがサリエリはそうはしなかった。音楽を心から愛していたのだ――音楽の神は、さどサリエリを愛しはしなかったが」

 生前のことを話すとき、サリエリはいつも遠い目をして、星に語るように他人事になる。

「投げ出さないことと投げ出せないことは、大きく違う。今の我は、投げだしたくても投げ出せぬ。それが英霊と言うものだ」

 だから投げ出さなかった生前サリエリとは違うのだ、と言外に語る。

「貴様は投げ出すな。我のような、憐れな復讐者にはなりたくあるまい?」

 その言葉には、痛みを通り越して笑えてきた。吹き出してしまって、私は肩を揺らす。

「……それ、励ましてるの? 自虐なの? 突っ込み待ちなの?」
「……ム」

 この復讐者は、私がすべてを投げ出してなにもかもを壊そうとしたら、きっと止めてくれるのだろう。
 巌窟王やジャンヌ・オルタは、きっと私に芽生えた復讐心を祝福して、心から付き従ってくれるけれど。
 サリエリだけは、きっと止めてくれる。
 それが今の私には、どんなにか心強いことか。
 でもだからこそ、この人は私の手を取って共に歩んではくれない。そのことが、たまらなく悔しかった。





2018/07/13:久遠晶
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