語り部と怪人



 廊下の先に、黒髪の美男子が見えた。
 ファントム・オブ・ジ・オペラ──彼のことが、不夜城のキャスターは苦手だった。
 キャスターは王という人種に対し潜在的な恐怖を感じる性質であったが、反面英霊としての成り立ち故、王の捌き方も心得ている。
 しかし『王でない暴君』は対応法がわからない。彼女の危機意識を煽る。さらにファントムは重度の精神汚染持ちだ。余計に付き合いづらい。
 何が困るというと、ファントム自身はキャスターを気に入っていることにある。
 彼に気づかれる前に踵を返し、来た道を引き返そうかと思ったが。それより先にファントムと目が合った。薄暗い色の赤い瞳に射られて、息がつまる。

「こんにちは……」

 あまり刺激しないようにぺこりと会釈する。どうかなにごともないように、と願ったが、そうはいかないようだった。

「嗚呼、嗚呼! 語り部の君! 今日も君の声は金糸雀のように軽やかだ! 世紀の歌姫とは言わぬ、クリスティーヌまでとは言わぬ、言わぬが……」

 朗々とした賛辞を言の葉に載せながら、ファントムは胸にやってその場でくるくると踊り出す。

「だが君の声もまた歌姫にふさわしい! 君の紡ぐ唄は真実のように我が胸を、観衆の心を締め付ける!」
「そんな、恐れ多いです。語る事しか出来ぬ私が、歌姫などと……」
「謙遜は嫌味だ。語り部の君。君の声は美しい──クリスティーヌほどとは言わないが」

 芝居かかった動きでファントムがステップを踏む度、血がこびりついた異形の指がひらめいて、照明を反射する。爪のひとつひとつが大型ナイフのようなその腕の殺傷力に気づいていないのか、忘れているのか。
 どうやら、今日のファントムは普段よりもテンションが高いらしい。彼が惚れ込むクリスティーヌに、なにか褒められでもしたのだろうか。

「私は用事がありますのでこれで……」

 ファントムの間合いから広めに距離を取りながら、隣を通り過ぎようとする。

「そう、君の声は──クリスティーヌには、到底かなわない」

 ファントムの手が立ちはだかるように突き出された。 寸前で足を止められたからいいものの、気づかず踏み込んでいれば、彼の爪で喉元がなます切りになっていたところだ。

「ファントム……さん、」

 黒髪とマスクが俯く彼の顔を隠しているので、怪人の表情は見て取れない。しかし殺気は伝わった。
 キャスターの脳裏には様々な選択肢が浮かび上がる。
 一目散に逃げる、大声を出す、土下座──。
 しかしどれを選択したとしても、動いた瞬間ファントムは躊躇わずに切り裂きにかかるだろう。最善手は浮かばず、硬直する。
 するとファントムの指が喉に伸びる。ひたひたと皮膚に触れる異形の手。

「君はクリスティーヌには敵わない。クリスティーヌこそが絶対の歌姫、侵しがたい『本物だ』」
「ぞ、存じて、おります……」
「知っているか、知っているな! ならばお前は──昨夜、クリスティーヌになにをした?」

 長い黒髪の奥で、血だまりのように凝り固まって淀んだ赤い目が、獲物を見つけて爛々と光っている。

「光の下にいるべき歌姫、歓声の中にいるべき歌姫、天上の歌姫に……我がクリスティーヌに、お前はなにをしたのだ?」
「さ、昨夜は……」

 思い出す。クリスマスイブの夜。眠れないとぼやく彼女に、寝物語を語って聞かせた。

「嗚呼、嗚呼、知っているとも。彼女はお前の唄を買っている──私以上に」

 声に、悲壮感が混じる。皮膚に鉤爪が食い込んでいく。

「私も普段は見逃した。だが昨夜は見逃せぬ、昨夜は許されぬ……我は聴いたのだ! あの歌姫の泣き声を!!」

 勢いに気圧されて一歩下がると、下がった分だけ間合いを詰めてくる。やがて壁にぶつかり、逃げ場がなくなった。 大きな手がキャスターの喉元で広げられ、耳の後ろでガツンと音がする。
 ナイフのような鉤爪が、壁に当たったのだろう。手を握り潰したくてたまらないのか、ザリザリと壁が削れる音がする。

「それは……誤解です。決して私が、」
「クリスティーヌを失脚などさせるものか。あれこそが至上の歌姫だ!」

 ようやっと怒りの原因に思い至る。彼が至上の歌姫と誤認するマスターに、嫌がらせをしたのだと勘違いされているのだ。
 ファントムの心配はまったく見当違いだ。燃え上がる怒りと嫉妬は、今まさに災厄としてキャスターを襲わんとしている。
 キャスターは狼狽えた。どう説明すればわかってもらえるのか。聞く耳をもってもらえるのか。

「許せぬ、許せぬ、許せぬ!あの陽だまりの彼女を!貴様が涙で曇らせた!」
「泣かせたのは貴方です!!」
「──なに?」

 ファントムの言葉を遮ってキャスターは叫んだ。
 人の語りを遮るのは、語り部としてあってはならないことだと思っている。しかしのっぴきならない事態と言うものがあった。
 わけがわからない、と言った表情で、少し毒気を抜かれて首を傾げるファントムにホッとする。
 言葉が使えるのであればこちらのものだ。ファントムを刺激しないよう、細心の注意を払いながら、唇を舌で濡らした。

「あの時あの方は、貴方が夜、来てくださらないことに泣いていたのですよ」

 それは真実とは言えなかったが、まるきり嘘でもない。
 真夜中、廊下で偶然であったマスターに、寝物語に恋愛譚を所望された。寝室に招かれて、即興で応えるうち、マスターは眠るどころか肩を震わせて泣き出した。

 曰く、名前を呼んでもらえないまま一年が経ってしまう、と。
 曰く、彼と心を通わせられた気がしない、と。
 曰く、彼の望みに答えられない、と。

 マスターは相手の名前を出さなかったが、言う必要もない。
 カルデアの最古参サーヴァント。マスターが最も信頼を寄せる一人──ファントムのことに他ならなかったから。

「せっかくの聖夜。愛しい人と過ごしたいと思うのは当然のことです。それなのに貴方は自室にもおらず、何処にいるのかもわからない…………途方にくれていたマスターに、たまたま出くわしたのが私だったのです」
「おお…………何故だ……何故クリスティーヌは、聖なる夜に私を求める?」

 心底訳がわからない、と言う風に、ファントムは顔を覆った。
 気持ちが伝わっていない、とマスターが感じるのは、こう言うところなのだろう。
 思い込みが激しく、自己肯定感が低い。
 マスターを歌姫に重ねて話を聞かず、マスターからの愛に気づかない。独り善がりで哀れな怪物。
 マスターが泣いていることに気付いても、その場で乗り込むこともできない。
 影でじっと見つめて、後々他人に八つ当たる。

 クリスマスに姿を消したのは、彼なりの気遣いだろう。
 脚光を浴びる歌姫に怪人の影は不要である、という。
 彼はそのような存在として規定されていて、そこから逃れられない。愛を得られない存在だ。

 そう思うと、心から悲しいと思う。
 目の前に愛はあるのに、彼はそれを認識できない。
 輪郭には触れているはずなのに。
 注がれた愛は穴の開いた壺のようにしみ出して、彼の心は受け止められない。

「寂しい人ですね、貴方も、マスターも」

 説明したところで、彼は絶対に理解できない。
 だからキャスターは、思ったことを口にした。

「貴方の恋も、マスターの愛も、成就はしないかもしれない……だけれど、思い合ってはいるはずなんですよ、ファントムさん」
「語り部の君……」
「ええ、だから、今は先の読めない恋愛譚を紡ぎましょう。いつかそれが愛に気づいた怪物と、恋を得た王のお話に帰結するまで」

 二人の話を、物語にして。
 ファントム・オブ・ジ・オペラ。オペラ座の怪人。
 彼を苦手なのは、後世の創作の影響を強く受ける彼に対して、物語の主人公のような成長や変化を求めてしまうからかもしれない。
 主人公に入れ込むように、悲劇的な悪役に感情移入してしまうから。
 愛を得られない寂しい怪物の物語は、キャスターの胸をきゅっと締め付ける。
 しかし、それでも──。
 ファントムが自身に向けられた愛に気づけなくても、物語を通して伝えれば、片鱗ぐらいは感じ取れるかもしれない。
 キャスターはそういう、優しい可能性に期待した。

 たとえそれが、淡い希望であっても。
 物語はそういう、優しさに溢れているべきだと思ったから。





2018/12/31:久遠晶
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