三千世界の烏を殺し


 始皇帝を召喚した少女は、記憶の中の彼女よりも幾分背が小さく、ひどく頼りなく見えた。
 応じて下さってありがとうございます、と泣く顔も、想像とは違っていた。

 ──私は私の世界を愛してる。世界を絶対守るって、約束もした……だからごめんなさい、戦います。

 震える膝を押さえつけ、彼女は右手の令呪をかざして始皇帝に啖呵を切った。
 己を奮い立たせて、涙をぬぐって歯をくいしばり、そして笑ったのだ。

 だがカルデアの召喚術式を展開し、目の前にへたり込む少女にはその時の面影がない。

「しょ、召喚に応じてくださって……ありがとうございます」

 他人行儀に頭を下げる少女にはあまりに覇気がない。
 どうやら時間軸に多少のずれがあったらしい、と思い至った始皇帝はすこしあっけにとられてから、すぐに気を取り直した。

「サーヴァント、ルーラー。始皇帝だ。今はそれだけ覚えておればよい」

 鷹揚に笑った。


 聞けば人理焼却から命からがら生き延びて、ほうほうの体で戦っていたのだという。
 修羅場をくぐりはじめたばかりで、覚悟も何も出来ていない時だ。通りで記憶の中の印象と違うはずだ。
 目の前の気弱な少女が、生きる力と覚悟に満ち満ちた彼女へと羽化するまでの、その道すがら。
 それを他ならない始皇帝が庇護してやるのも悪くない。
 ──そう思っていたのだが……。


   ***


 始皇帝はソファにどっかと座り込み、目の前の少女を見上げた。
 自身のベッドに正座し、枕を抱きしめる彼女は、所在なさげだ。

「どうした。寝んのか。夜更かしは人の体に毒だぞ」
「いや、そうなんです、けども……」
「許す。朕より高い位置で寝ることを不敬とは言わぬ」

 少女が肩をすくめて、居心地悪そうに眉を下げた。 まくらの端をいじりながら。

「ほんとすみません」
「いい。すぎた謙遜は不敬であるぞ? 其方の身体に配慮しなかった朕の責任だ」

 始皇帝はその強さから瞬く間にカルデアのエースとなった。自然と少女のそばにいる機会が増え、部屋にも居着くようになる。
 そうするとなにが起こるかと言うと、主従の逆転だ――始皇帝にとってそれは自然なことであったので、ソファに座る始皇帝を気遣い少女が床で寝た時も、特に疑問に思わなかった。
 始皇帝を視界に収めて眠る光栄さを思い、ちょっと褒美を出しすぎか?と考えた程度だ。
 だからしばらくして、状況を知ったマシュとロマニから「どうかベッドで寝かせてやってくれ」と嘆願された時は「ええ?」と声に出た。
 ――あの子は人類の希望なんです。代わりは存在しません。だから、あの子の身体をきちんと休ませてあげたいんです。
 気弱なロマニが恐る恐るそう言うので、始皇帝は正直な話すこし困った。

 だがよくよく考えてみれば、人の身体は不完全だ。固い床で寝れば筋肉は休まらず、睡眠不足では日中の活動に支障が出る。
 そんなことも、機械の身体が長かった始皇帝は思い至らなかった。思い至ったとしても、家臣の行為を当然と受け止め、やはり心配はしなかっただろう。
 朕、反省したぞ。と彼が言ったとき、少女は目をぱちぱちさせて、何言ってるんだろうこの人、という顔をした。

「気にするな。便宜上、朕は其方が召喚したサーヴァントだ。それ以上であってそれ以上でもない」
「……気にしますよ?。朕さまにはお世話になってますし」
「そう言うならまずその呼び方を気にしてほしいものだな。なんだ、朕さまって」
「えへへ、なんか定着しちゃって」

 ヘニャリと笑う少女を見るたび、あの日始皇帝に正対した"彼女"もこんな風に笑ったのだろうか、と考える。
 始皇帝が作り上げた世界の中で、彼女がこんな風に力の抜ける笑みを浮かべたことはなかった。
 己を鼓舞するために歯を食いしばって笑うことはあっても、肩の力を抜いて笑う姿を見なかった。

「……ま、其方は床で寝たほうが都合がいいのだろうがな」
「え……」
「朕を見くびるでない。寝れておらんのだろう。例の爆発事故でも思い出しているのかは知らんが。寝不足のクマを、悪夢ではなく床のせいだと思わせたい訳だ」

 少女が焦ったように息を飲む。

「あっ……あはは、朕さまの目はごまかせないなぁ?千里眼スキル持ってましたっけ?」

 笑って茶化す姿が痛々しい。

「強がるなよ、人にして民の者よ。其方は自分が思うより嘘が下手だ。盾の少女らに見透かされるのも時間の問題よ」

 始皇帝はソファから立ち上がり、ベッドに歩み寄った。

「ほれ、布団に入るがいい。正座は足がしびれて寝つきが悪くなる」
「わ、わ、」

 抱きしめる枕を没収して、布団を広げた。
 横たえさせて布団をかけてやり、枕を首の下に敷いてやる。

「なんなら詩でも唄ってやろうか。──ふっ、民に朕自ら詩を聴かせるなど、生前には考えたこともなかったが」

 布団越しに肩を叩いてやりながら、自分で笑う。
 少女はためらっていたようだが、やがて困ったようにはにかんだ。

「ごめんなさい」
「うん?」
「私、寝るのが怖くて。朕さまをだしに床で寝てました。床で寝れば寝不足の言い訳になると思って」
「うむ。素直な謝罪ができるのは偉いぞ。この朕を言い訳に使うのは不敬きわまりないが、な」
「あだっ」

 額にデコピンを食わらせると、少女が顔をしかめて呻いた。

「恐怖を飲み込み、朕に並び立つほど強くなれ。それが其方の責務だ――ならば寝不足になっている暇などないぞ」

 肩を叩きながら、ベッドサイドに腰掛ける。
 電気を消してやると、ややあって、少女がポツリとつぶやいた。

「もし、いやじゃなければ」
「うん?」
「手を握ってもいいですか」
「……まぁ良い。我が玉体に触れることを許す」
「ありがとう、ございます」

 おずおずと指先に触れる手。まだか弱く、頼りない。
 暗闇のなかで天井を見上げた。

 ──我歌えば月徘徊し、我舞えば影繚乱す。

「きれいな詩……」
「うむ。いい詩だ。今は素直にそう思う」

 いつかこの詩を愛する民が聞く。
 シャドウボーダーに乗った少女が始皇帝の世界を踏み越えて、己が世界を取り戻すために歩いていく。
 始皇帝の知るあの結末にこの少女が至るかはわからない。世界を譲り渡せるほどの強さを会得するかもわからない。

 どうであれ、二千二百年の人生の中で、あれほどの驚きがもたらされたことはなかった。
 あの有様をまた、今度は観客の立場で愉しめると言うのはなかなか面白い。
 この頼りない少女は始皇帝を踏み越えていけるだろうか。
 生前は叶わなかった、彼女の行く末を見届けることができるのか。 全ては少女次第だ。
 だから始皇帝は寝息を立て始めた少女の頭を撫で、肩を叩いて微笑んだ。

 いつか始皇帝の作り上げた世界を壊す少女を慈しみ、育む。
 そういう趣向も悪くない。
 そうしてまた、痛みの中に覚悟を背負い、まっすぐに始皇帝を見つめる──煌めくあの瞳を見てみたかった。





2018/12/31:久遠晶
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