朧の夢
自分が誰だかわからない──。
アントニオ・サリエリの名で霊基登録された彼は、己の在り方に悩み続ける宿業を負っていた。
アマデウス殺しの汚名を着せられた生前のサリエリは、しかしただの音楽好きの男でしかない。人々の風評被害により無辜の怪物と化し、アマデウスへの憎悪を孕むようになったサーヴァントは、生来のサリエリとは似ても似つかない。
ならば己は誰なのか──アヴェンジャーは時折呻いて、顔を歪ませる。
「あんまり難しいこと考えないでいいんじゃない、アヴェンジャーさん」
彼が暗闇で呻いていると、そんな言葉と共に部屋の電気がついた。
女だ。彼をカルデアに召喚したマスターが、扉の前で苦笑している。
「……貴様か」
「まぁ、私の部屋だしね」
そこまで言われて、逃げ込んだ部屋がマスターの自室だと彼は気ついた。廊下を歩いていた最中、ふと地面が揺らいだような感覚になって、たまたま逃げ込んだのがこの部屋だった。誰の部屋かなど、気にしていなかったのだ。
人の部屋に勝手に侵入してしまった罪悪感はあるが、素直に謝ることは躊躇われた。鍵を開けておくなんて不用心だ、という感想も浮かぶ。
だから彼は、八つ当たりのように言葉を吐き出した。
「鍵が開いていた」
「うん。誰でも入れるようにしてるから。だから怒ってないよ。……ていうか、勝手に入られて怒るなら、きみにカードキーなんて渡さないって」
マスターはヘラヘラ笑ったまま、ベッドに座り込む。仮にも不法侵入した男を前にして、やはり不用心な態度だ。
誰にでもそうだからよりタチが悪い、と彼は思う。カードキーを渡したサーヴァントは彼だけのようだが。
「さっきまで食堂でみんなとお茶してて。多分まだクッキーあるよ。アヴェンジャーも行ってみれば?」
「……いい。甘味を好いていたのは生前のサリエリだ。我ではない」
「そうやって、サリエリさんが好きだったものを無理に遠ざけなくてもいいと思うけどね」
「……」
「ごめん、失言だった」
アヴェンジャーが睨むと、マスターはバツが悪そうに手を挙げた。許してくれのサイン。
「でも、甘いものが好きじゃなくたって、エミヤのクッキーは美味しいからさ。気が向いたら食べてみてね」
さりげないようでいて、細心の注意を払っての言葉であると、伝わる。どこまで話していいのか、どこまで触れていいのかを、慎重に見極めようとしている。
愚鈍で無神経な言動をすることもあるマスターだが、それだってマスターなりの「ここまでは問題ないだろう」というラインがあっての振る舞いだ。
本当に触れられたくない箇所には、そうだと分かれば触らないようにする。
そう。
例えば、マスターが彼のことを名前で呼ばず、生前のサリエリと区別するのも、彼女なりに距離感を測ってのことだ。
かつて──。
──ねえ、サリエリさん。
──違う。我はサリエリではない。そうであるはずがない。
そう言ってマスターの手を振りほどいてから、マスターは決して彼のことを『サリエリ』とは呼ばなくなった。代わりにアヴェンジャー、とクラス名で呼ぶ。
カルデアにはアヴェンジャークラスのサーヴァントも複数人召喚されている。アヴェンジャーと呼ばれて振り返るサーヴァントは多いと言うのに、それでも彼だけをアヴェンジャーと呼ぶ理由など。
己をサリエリではない、とする彼への気遣い以外に、あるはずがない。
そんなマスターのことを、彼は──〈検問削除〉<言語化不能><認識拒否〉──と、思っているのだ。
アヴェンジャー、とマスターが呼ぶ。一定の距離を取り、有事でなければ決して触れない。
アヴェンジャー、とマスターのくちびるが言う。クラス名。彼自身の名ではないことに、彼は座りが悪くなる。かと言って呼んでほしい名前がなかった。
あのくちびるに、なんと呼ばれ、囁かれたいのか──それを、彼はわかっていなかった。言語化もできず、認識もできない。
だから、彼が自覚する欲求は、「手を差し出されたい」というものだった。
今であれば、手を差し出されても、はねのけることなく手を取れる。そうありたい。
あの、華奢な手を──きちんと受け止め、掴みたい、と。
「……アヴェンジャー?」
マスターが顔を覗き込んできた。はっとして顔を上げると、必然的に距離の近さを嫌がったような態度になる。だからマスターは少し傷ついたような顔をして、やってしまった、という顔をする。
「ごめん。清姫とかに影響されちゃって、距離近になっちゃうんだよね」
誤魔化すための苦笑。
近づきすぎた距離を開けようとするマスターに、反射的に腕を掴んでいた。
「……いや、別に、いい」
「そう?」
「ああ」
「でも、近くに寄られるの嫌いでしょ」
「いや」
部屋の隅、ベッドと壁の間に座り込む男女。奇妙な絵面だ。先程マスターが部屋の明かりをつけているから、かろうじて秘め事めいた雰囲気が出ないで済んでいる。
「ここにいろ」
部屋に不法侵入しておいて、ひどい言い草だ。しかし、マスターは特に不快には思わなかったらしい。
キョトンとして、「そう」と言った。
「じゃあここにいる」
ベッドのヘリにもたれかかって。
じっと見つめられると、ここにいろと言ったのは自分のくせに居心地が悪くなる。アヴェンジャーは、小さく咳払いした。
無言。
話す話題も何もないのだから、当然だ。
しばらくして、沈黙に耐えかねたマスターがおずおずと片手を上げた。
「あの、手……」
腕を掴んだままだった手を、指さされる。
「……すまない」
離し損ねていた手を引き剥がす。そんなに長い間掴んでいたわけではないのに、空いた手には少し違和感がある。
人によってはそれをさみしいと形容したかもしれないが、彼はそういった己の感情と向き合うことができない。そういったことを考えようとすると、アマデウスへの憎しみに塗り潰されて、ついで、己の存在基盤が揺らいで、何もかもがわからなくなってしまうから。
「いいんだよ。でも、ほら、あんまり強く握ると……指が」
「痛かったか」
「そうじゃなくて、その……大事な指でしょ」
「うん?」
「音楽をする指だ」
言いにくそうに、境界を探るように紡がれた言葉。
マスターが言い澱むのは、彼が以前「サリエリではない」と言ったからだろう。彼というサーヴァントを音楽家と見なすことがサリエリと見なすことに繋がるかもしれないと思い、彼が気分を害さないかを気にしている。
「──そう、だな。音楽家たるもの、指を痛めてはいけないな」
「うん、大事にしないと」
「もっとも、我はサーヴァント。指を痛める、と言ったことはないがな」
「心持ちの問題だよ。新宿のアーチャーだって、よく腰痛めてるし」
「アレは、本人の悪ノリだろう」
「え、そうなの。本気で痛いのかと」
「怪我をした状態で英霊化していれば別だが。彼を見ていると、どうも振りのように思えるな」
「あ、それは思う。基本的に信用できない悪役って感じだもんね。信頼はしてるけどさ」
マスターがケタケタ笑うので、彼も片頬を釣り上げて笑った。
くだらない会話をしていると、空っぽの胸に詰め込まれた後ろ暗い感情が溶けて消えていくのを感じる。息苦しさが消え、心地よさすら感じる時がある。
彼が抱く苦悩を否定せずに、ひとつひとつ丁寧に寄り添ってくれるからだ。死神に寄り添おうとするなど、という気持ちもあるが、有り難いことだとも思う。
──あなたが誰かはわからないけど、私にとっての貴方なら説明できるよ。
と、己の存在を悩む彼に、以前マスターは言った。
──あなたは、私の敵を殺すモノ。貴方が私にそう言ったんだよ。
眉を下げ、悲しそうに微笑んで。
マスターの本心ではないだろう。殺しを求めてなどいない。心根の優しい少女なのだから。それでもそう言った。彼の為に。
ふと、疑問がわく。
マスターは彼に、誰の姿を望んでいるのだろう。
ひとまずはマスターを守り、敵を殺す機構に従事する。戦いであればそれだけでいい。
しかしこのカルデアで待機している間、マスターは何を我に期待しているだろう。
鍵を開け放し、いつでも来ていい、とカードキーを渡して。何を求めているのか。
「そういえば、ホームズさんってヴァイオリンできるんだね。この前娯楽室で弾いてるの見かけて、びっくりした」
「ほう。それは興味深いな。……娯楽室に、ピアノはあるのか?」
「うん。電子ピアノだけど」
「そうか。この霊基でピアノを弾いていなかったな……今度弾いてみるとするか……」
「……私も聴きたい!」
キラキラとした目で見つめられ、面食らう。
「……まぁ、いいが。アマデウスのような、大した演奏はできんがな」
「そんなことないよ。アヴェンジャーのピアノ、聴きたい」
「……ならば、気合いを入れねばな」
彼が言うと、マスターが嬉しそうに笑う。花がほころぶように。
この笑顔を見ると、胸の空洞がギュンと締め付けられるのはなぜだろう。無辜の怪物として与えられた、美しいものに対する憎しみだろうか。
美しいものを眺めていたい、という羨望と、ぐちゃぐちゃに壊してやりたいという破壊衝動が同居する。
この苦悩をさらけ出せば、マスターはどうするだろう。きっと、己に向けられた暴力的な欲求すら受け止めて抱え上げる──そう、確信がある。
そうして全てを曝け出して、受け止めて貰えば、彼という存在の輪郭もおぼろげながらわかるかもしれない。
だがそれは──やはり、暴力だろう。
「マスター。マスターにとって、我はなんだ?」
「なんだい」
藪から棒だね、と言うマスターに答えを急かす。やはり敵を殺す者と答えるだろう。そう言ってくれれば、彼のはそのように振る舞える。そう、在り続けることができる。
だが期待した言葉は出てこなかった。
「貴方は私の好きな人」
「フッ、そうか、ならばそのように振る──は?」
「へ?」
「え?」
…………今なんて言った。
マスターは幸せそうに笑った後に、すっくと立ち上がった。
「取り消すつもりはないよ。あ、でも、自分が何者かもわからなくて悩んでる人の弱味につけこむつもりもないから安心して」
「待て、マスター、冗談は」
「冗談はよしこさんなのはそっちだよ。レディの告白、なかったことにしないでよね」
言うだけ言って部屋を出て、追いかける間も無く開閉ボタンを押される。目の前で閉まった扉に阻まれ、ウッと息がもれた。
「……カードキー、まさか、そう言う……」
サイン、だったのか。
彼は顔を覆って、再び床に座り込んだ。自然と大きなため息が漏れる。
マスターは誰を好いているのだろう。彼の中に残るサリエリの残滓か、灰色の男としての残虐性か。
顔が熱い。頬が真っ赤になっているだろうことを自覚し、彼は呻いた。
「我のような死神に、何を考えているのだ……」
苦言のような独り言。向けられる優しさはいつも、はねのけたくなるほどの居た堪れなさを感じさせる。
だが、死神などに、という言葉で跳ね除けるには、あの言葉はあまりに純粋すぎる。かと言って、受け止めるには、彼は──。
彼がマスターの言葉になんらかの答えを出すには、途方のない時間が必要だった。
2019/05/13:久遠晶