我慢のできる男



 夜10時。消灯後に部屋を訪ねた相手に、フェルグスは首を傾げた。

「マスターじゃないか。どうしたんだ、こんな夜更けに」

 モニターフォンの画面越しに見えた姿は、ひどく頼りなく見えた。慌てて開閉ボタンを押して扉を開けると、想像通りの表情と目が合った。

「ご、ごめんね、寝てた?」
「いいや、まだ鍛錬をしていたから」

 サーヴァントに眠るという概念はそもそもない。鍛錬を行う意味もないが、生前染み付いた癖だった。

「とりあえず、中に入ったらどうだ?」

 灯の落ちた廊下は空調の管理も控えめで、肌寒い。モニターフォン横のパネルで暖房をかけながら、フェルグスは手招きをした。
 きっと、嫌な夢でも見たのだろう。夜更けに男の部屋を訪れるとは不用心だが、サーヴァントとして信頼されている証だ。フェルグスはマスターの来訪をそのように理解し、歓迎した。
 だがマスターは扉の前で棒立ちになって動かない。パジャマのすそをぎゅっと握ってうつむく姿は、押さない子供のようにすら見える。

「どうした? マスター」
「…………んと…………」

 マスターはフェルグスの部屋に入るのをためらい、尻込みしているようだった。
 フェルグスは首を傾げてから、ためらう理由に思い至る。

「あぁ、俺は確かに女好きだが、マスターには手を出さんさ。そもそも合意はきちっと取るタイプだからな、俺は。だから安心し」

 マスターの緊張を解こうと笑いかける。喋り終える前に、意を決したマスターが廊下を蹴りだして、フェルグスの胸元に飛び込んできた。

「マスター?」

 抱擁というにはあまりに拙い接触だ。体がを押し当てる、に近い。小さな手はフェルグスのズボンの裾を掴んで、離れないでほしい、ということを控えめに訴えている。
 フェルグスの上裸に、マスターの体温がほんのりと伝わってくる。湯上りなのか湿気とともにシャンプーの香りがやさしく漂う。

 ──これは、どういう意味の抱擁、だ?

 親愛のボディランゲージか、あるいは愛か。怖い夢を見てフェルグスを頼ってきたのか、あるいはロマンスか……。
 フェルグスは行き場のわからない手を右往左往させながら考え、ひとまずマスターの肩にやさしく置いてみた。
 肩に触れた瞬間、マスターはあからさまに体を硬直させた。それでも離れない。

「……その気があって来た、ということかな? マスター」

 身をかがめ、マスターの耳元に届くように囁きかける。
 マスターは数秒の間ののち、こくり、と頷いた。髪の毛が濡れた拍子に露出した耳は、酒に酔っているように赤い。
 これはフェルグスにとって予想もしていなかったことだった。
 マスターはフェルグスの生きた時代に照らし合わせれば十分成人だが、現代社会ではまだまだ子供の年頃だ。将来を楽しみに思うことはあれ、彼女とどうこう……というのは、考えたことがなかった。
 本来なら降って湧いたチャンスを喜ぶべきなのだろうが、その気分にはなれない。
 マスターの態度に、切羽詰まった恐怖がにじんでいたからだ。

「あー、その、マスター。よければ、理由を聞かせてもらえるか? いや、本気で俺を思ってくれているなら嬉しいのだが、そうでないならお前の態度はとても危ういものだ」

 暗に、抱かれる覚悟はあるのかと問う。

「……フェルグスが、欲求不満だ、って言ってたから……」
「んん?」
「戦いの、後に」

 たどたどしく、恐る恐る発せられる答え。
 確かにフェルグスは、敵を倒した際高揚のあまり「女だ! 女を持ってこい!」と声をあげた。すぐにカルデアではそれは叶わないと知り欲求を収めたが……あの言葉をマスターは気にしていたのだろうか。

「職員さんはみんな恋人がいたり結婚してたりだから、私しか、」
「……代わりにお前が、俺の猛りを受け止めてくれる、ということか?」

 こくり、と頷かれる。

「満足してもらえるかわからないけど、私がフェルグスにできることって、これしかないから……」

 蚊の鳴くような声での返答に、どうしたものか。と、フェルグスは少し困った。
 願ってもない申し出だが、マスターはまだ子供だ。差し出されるがまま平らげるのは、罪だろう。これは献身ではなく、己の身体を生贄としているに等しい。そういうものは好かない。男女の睦言は対話であり、もっと暖かなものであるべきだ。
 こんなふうに恐怖を押し殺した女を、どうして気持ちよく抱けるだろう。

「──まさか、あの司令官代理がそうしろと命じたのか」

 はっと思い至り、自然と低い声が出る。

「えっ?! ち、ちがう、ロマンは何も言ってない!」
「む、本当か」

 反射的に部屋を出てロマニの部屋に殴り込みそうになるのを、慌てて止められる。

「私の独断」
「……そうか。だがマスター、褒められたことではないぞ。軽々しく自分の身体を差し出すなどと」
「か、軽々しくじゃないよ。フェルグスにはお世話になってるし……」

 ──フェルグスは、優しくしてくれそうだし……。フェルグスなら、いいと思ったの。

 恥じらいながらの言葉に、思わずフェルグスも照れてしまう。つまり、マスターが本心で好いていることがわかったからだ。
 そこまでの信頼を向けられているとは思わなかった。無論、深い絆があることは疑っていなかったが、ここまで思ってくれているとは。
 自己犠牲故ではなく愛から出た行動ならば、フェルグスも断る理由はない。――本来は。
 フェルグスは片膝をついて、マスターと視線を合わせた。

「そこまで思ってくれていたとは思わなかったぞ、マスター。うむ、素直に嬉しいことだ。だが、やはりお前は子供だからな」
「や、やっぱり……『そそら』ない?」
「そんなことはないさ。しかし、お前に手を出したら、他の連中に袋だたきにされるしな――いや、理由を他人に押しつけるのはよくないな」

 言いながら訂正する。

「お前はもっと世界を見るべきだ。多くの人間を見て、それから恋をするべきだ」
「見てきてるよ、特異点で――」
「そうではない。お前の世界の人間を、という意味だ」

 カルデアという閉鎖空間で。様々な異なる時代に作られた特異点の人間ではなくて、マスターの生きる世界に息づく者たちを見てほしい。
 選択肢が失われた状態で、自分が選んだと錯覚したまま身を捧げてはほしくない。

「お前がきちんと大人になって、それでも俺がいいと思ったなら、その時はきちんと相手をしてもらうさ」
「……フェルグス、わかって言ってるでしょう」
「安心しろ。俺は我慢のできる男だからな」

 不満げなマスターに笑いかけ、わざと彼女の意図とはずれた返事をする。
 マスターが成人するとき、その時フェルグスはすでに座に還っているだろう。そのはずだし、そうであるべきだ。

「言いたいこと、わかるな?」
「……まあ、フェルグスが欲求不満じゃないなら、いいんだけど」

 困った顔で、しかしすこし安心したようにマスターが笑う。
 恐怖を押し込み、乗り越え、彼女と結ばれるのは、彼女のそばにずっと居てやれる男がふさわしい。
 フェルグスはけなげなマスターの頭を撫でてやった。


  ***


 フェルグスに、上記の記憶はない。
 ノウム・カルデアにて再召喚されたサーヴァントは、ダ・ヴィンチが丁寧に刻みつけ保存していた霊基データによってカルデアでの記憶のほとんどを保有していたが、すべてではない。ダ・ヴィンチが知らぬ記憶は保存のしようがなく、深夜のやりとりはマスターと『その』フェルグスだけの記憶となった。

「前の俺と、そんなことがあったとはな」
「やっぱり覚えてない? 結構勇気出して部屋にいったのに、あっさり断られて、ショックだったんだけど」
「すまん」

 記憶はないが、自分ならばそういう態度に出るだろうという予測はできる。
 夜中、フェルグスをマイルームに呼びつけて、語られるのは彼の知らない昔話だ。
 その意図を察せられぬほど、フェルグスは愚鈍な男ではない。

「マスターはいいのか? このような、記憶が抜け落ちている俺でも」
「あらま。お前はまだこの世界をちゃんと見てないだろう、って断られると思ったけど」
「……前の俺ならそう言ったかもしれないが」

 フェルグスが座に還った間に、マスターはとうに成人していた。
 三つの世界を滅ぼして、自分の世界を取り戻そうとしている。

「もう、世界滅んでるしなあ」
「あっはっは、確かに。それをあの時言えばよかったな!」
「以前はどうあれ、立派な戦士からの求愛を、今の俺が断る道理はない」
「フェルグスにそう言ってもらえると、救われるよ」

 前の自分が必死に守った若い芽は、強く成長して大輪を咲かせようとしている。
 それを摘み取るのは罪だろうか。前の自分の意思をくみ取るならば、やはり諭すべきなのだろうが。

「ううむ、やはり俺は思っていたより我慢ができんらしい」

 ベッドのふちに座るマスターを押し倒すと、彼女は嬉しそうに笑った。

「いいんじゃない。我慢のしすぎはよくないよ」

 ――お互いにな。
 そう言おうとし、言葉を飲み込む。無粋だとおもったからだ。
 震える肩は、フェルグスへの恐れではなく、これからの未来に対しての震えだろう。フェルグスはなにも言わず、静かにキスをした。





2019/05/28:久遠晶
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