困った女
かたかた言う音で目を覚ました。
目を開けると、ベッドに彼がいない。
首をまげて耳を澄ますと、彼がデスクに向かっていることがわかる。かたかた言うこの音は、パソコンのホログラムキーボードのキータップ音だ。
彼はわざわざ、目の見えない私のためにキーボードから音を出す設定にしてくれている。
シーツを手でたぐりよせて、身体を隠す。ベッドからおり、音もなく彼に歩み寄った。
彼のちいさな唸り声が聞こえる。きっと、顎に手を当て、難しい顔をしているのだろう。
「まったくシェパードは相変わらずだな」
ぼふっ、と音がした。彼が背もたれに身体を預け、ため息を吐いたのだ。
「どうかしたの?」
「」
私に気づいた彼が、場所を示すようにわたしの腰を抱いた。そのまま膝の上に乗せられる。
「起こしたか?」
「ううん、大丈夫」
「そうか。なに、任務は達成するが、効率的でないやり方をする部下に頭を悩ませている」
「それは困りものね」
抱き寄せられると、彼のスーツに染みた高級なたばこの匂いがうっすら香った。
彼の行う仕事のことは、よく知らない。
人類至上主義のテロリストとは聞いているけれど、具体的な活動に関して私はノータッチだ。
テレビから流れる市民の暴動や、政治家の汚職、官僚の進退――に、関わっているそうだけど、どうでもいい。
目の前のパソコンのディスプレイには、きっと重要な機密が広がっているはずだ。
私はそれを見れない。だから、彼は私を膝の上に乗せながら、平気でパソコンを使えるのだ。
この時代、盲目なんて大したハンデにならない。脳にチップを埋め込めば、失われた視神経の代わりに景色を電気信号にして脳に届けてくれるし、眼球がないならカメラアイだってある。
私は彼にこうして抱きしめてほしいがために盲目を貫いているのだ。
ニュースで流れる深刻な話に彼が関わっていることは知っているけれど、どうだっていい話だ。
なにがどうでも、私の地位ははっきりしている。この人の膝の上に座り、頬に身を摺り寄せる一人の女。
「どういう部下かは知らないけど、文句ばかり言うのはだめよ。ちゃんと労わって褒めてあげなきゃ上司についてんだから」
「手厳しいな。ずいぶん丁重に扱っているつもりなんだが」
「どうかしら」
ふっと笑うと、彼も笑った。抱き寄せあってくちびるを触れ合わせる。
「あなたと同じで、誰かの傀儡になる気がない人なのね、その部下は」
囁くとイルーシブマンは少し驚いた顔をして、すぐ不敵に笑った。
「そうかもしれない。あれは自分を曲げない女だ。だからこそ優秀なんだが」
「あなたをそんなに困らせるなんてすごい人ね」
「困らせるって意味なら、きみには負けるさ」
……そんなに困らせているだろうか。異議はくちびるにふさがれて出てこなかった。
2016/11/18:久遠晶
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