寝に入る少女に幸せなひとときを
人類初の車輪。
親父はそれに変型した。そして、与えられた依頼を忘れたかのようにふるまった。
ただの、ぶりきのおもちゃのように――だが、それでも人間どもにとっては偉大なおもちゃだ――ふるまった。
「どうしてだ、親父」
その時の俺は、今のような姿をしていなかった。当時、この泥の惑星では、空を飛ぶ機械は発明されていなかった。擬態できるものがなかった。
くだらない機械に擬態し、世界にまぎれ、エネルゴンの源を探していた。
しかし親父はそれをしなかった。だから尋ねた。何度も、何度もだ! だが俺が納得する答えは決してよこさなかった。
「お前にもわかる時が来る」
親父はそれだけ繰り返した。まるで心までもが虫けらの作ったぶりきのおもちゃになってしまったように、それしか言わない。
意味がわからなかった。母親がこの親父の姿を見たら、ヒステリックにわめいていたところだろう。だがあいにく母親は地球に来ていなかった。
ディセプティコンらしい好戦的な性格が見る影もなくなった親父だったが、言葉の貫禄さだけは失っていなかった。それが不思議だった。
俺は、親父を放りエネルゴン探索へと精を出していた。
その最中だ。自動車に擬態した俺だと気付かずに、俺を買った、あの家族に出会ったのは。
***
『一目ぼれした相手にその場で求愛する』多くの人類は、それを子供のたわごとだと笑うだろう。
では、その相手が機械であればどうだろう? 少女は父親の付き合いで来たショップでその車を見た瞬間、わけのわからない衝動に襲われた。これだ、と思った。
衝動のまま父親にその車の購入を懇願し、車は一家のものとなった。
少女の名前はと言った。
はその車が一家にやってきたことをたいそう喜び、洗車の役目はのものとなった。
名前をつけ、話しかけ、かわいがる。
無機物にも人格を見出す子供特有のほほえましさは彼女が成長するにつれ自然となくなっていったが、それでも洗車の時、うっとりと車体を愛でる手つきは変わらなかった。
その車はトランスフォーマーだった。エネルゴンを探索する為に地球に秘密裏に舞い降りた、血なまぐさい傭兵だった。
彼にとって、地球での隠密生活はひどくつまらないものだった。敵を憎み、咆哮をあげ、生きるか死ぬかの境界線を行き来する――硝煙のけぶる場所こそが安らかに寝れる場所だと信じて疑わなかった。
だが――。
「今日も行ってくるね、鋼鉄の運び屋さん」
「ただいま、鋼鉄の運び屋さん」
毎日家を出る度に投げかけられるその微笑みに、洗車の際によごれや傷がないか真剣に点検するその視線に、走行を終えた後のねぎらいの手つきに、全身の回路が静まるのを彼は感じていた。
だから、少女の両親が秘密裏に車の買い替えの準備を進めていると知った時、彼は困惑した。一家にとって不要な古い車と判断されたことでも、一家に居られなくなることにでもない。
ガレージにいるのが自分ではなく他の車だった時――学校から帰ってきた少女は泣くのだろうかと考えた自分に困惑したのだ。
少女の涙は何度も見たことがある。クラスの男子にいじめられた時、親に叱られた時、少女はいつだって彼の身体のなかで泣く。
擬態している彼は少女なりの悩みになんの返答もしなかったが、エンジンを起動させない程度に、車の中を適温に調節してやったものだ。
実際のところ、少女はいなくなった彼を思って泣いて、両親を責めた。両親が彼を中古屋へ売り払い新しい車を買ったその日、中古屋に居座る気など毛頭なかった彼は少女の家を通ったのだ。
家から聞こえる少女の泣き声に、すこしだけ安堵している自分がいた。
(なにをやっている、ジェットファイア! くだらん種族のことなど忘れて、任務に集中しろ!)
葛藤が巻き起こったが、彼は結局、幼女の家の新しい車をスキャンし、それになり替わった。
次の日、ふてくされた表情の幼女が新しい車を恨みの視線で見て、次の瞬間驚いた顔をした。「鋼鉄の運び屋さんが戻ってきた」と言った時、一番驚いたのは幼女ではなく彼だった。
それからというもの、両親が新しい車に乗り換える度に彼はその車になり替わり、少女はそのたびに安堵の表情を浮かべた。
ちいさな人間は時が経つにつれて成長し、子供を成す。
少女は女性となり無能だが誠実な男と結婚したが、彼にとってはやはり少女だった。
子供に恵まれたその一家を守り運ぶのは、変わらず彼の役目だった。葛藤がないと言えばうそになるが、たかが彼女が死ぬまでの百年あまり――宇宙全体からみれば微々たる時間だ。そう納得させた。
リーダーのマトリクスを探す任務は、そのあとでもいい。
母親となった彼女は瞬く間に年を重ね祖母となり、杖をついてボケた発言を繰り返すようになった。
そうして、の人生はゆるやかに幕を閉じようとしている。
97歳の大往生だ。見守る人は数多くいたが、深夜に差し掛かる時間帯に、全員が疲れ果て眠ってしまっていた。
数分後彼らが目を覚ました時には、眠るように逝ったの顔があるのだろう。
だがそうはならなかった。
は目を開くと、ゆるゆると立ち上がった。傍らの杖を掴み、椅子に座って眠りこける娘たちの横を音もなく通り過ぎる。
病室を出て、廊下を抜け、病院を出てすぐそばにある丘へと歩く。
草木の絨毯をはだしで踏みしめながら、吹き抜ける風には白く細くなった髪の毛を押さえた。
を待ち構えていたかのように、の眼前には自家用車が停まっていた。
「はじめて会ったときのお顔なのね、鋼鉄の運び屋さん」
の言葉に応えるように、誰も操作していない自動車のライトが明滅する。
奇怪な電子音が響き渡り、自動車は変貌を遂げていく。
これが自分だと見せ付ける、ゆっくりとした変形。は凪いだ海のように穏やかな表情で、彼が彼に戻っていく様子を見つめていた。
「よく――ここにいるとわかったな」
「わかるわ。あなたのことなら、きっと」
が始めて聞いた声は、低く腹にしみわたる重厚さを持っていた。
四つんばいになって身体を伏せ、巨大な金属生命体は懸命にと視線をあわせようとする。もまた、杖を支えにしてひしゃげた背骨を懸命にのばして彼を見上げた。
「いま、あなたがムリして紳士を気取っているのも丸わかりよ」
金属生命体の瞳にあたる、赤いライトがかすかに明滅した。
「かなわないな、お前には」
穏やかな風が流れる。
草木の青臭い匂いがは好きで、それ以上に車のオイルの匂いが好きだった。
視線と視線が交わり、音もなく見詰め合った。
呼吸音と電子音も聞こえないぐらい集中して。
生きてきた年数だけしわを刻み込んだ老婆のその瞳は、いつしか少女の輝きと活力を取り戻していた。
無邪気で向こう見ずの、の瞳。
「90年――90年よ。ずっとあなたに恋をしていた。……なんて言ったら、先に逝ったマイクに怒られるかしら」
「人間のことなど知らんが、あの若造なら苦笑で終わりそうだな」
「若造? マイクは87歳よ。でも、あなたにとってはまだまだ子供なのかしら」
「まだまだ子供だ」
「わたしも、まだまだ子供?」
「ああ」
「そう」
は目を伏せた。
穏やかな顔に諦観と寂しさがにじむ。
「残念ながら大人にはなれそうもないわ。生きる時間が、きっと違うのね」
「……そうだな」
金属生命体の言葉がかすれる。はそれを苦々しさと受け止めて、この受け取り方は金属生命体にとって正しいのだろうか、と考えた。
考えたが、97歳の老婆はすぐに考えを消した。
彼にとっては蝋燭が消える一瞬の瞬きのようにはかなく短い90年でも、人間であるにとっては気の遠くなるほど長い90年だった。
今更ヘンに不安になったり考え込んだりせずとも、彼と接し続けた90年間が明確に答えを出してくれる。
「さわってもいいかしら」
「はじめて会ったときは、なにも言わずにべたべたと触りまくってくれたものだよな」
「一目ぼれだったの」
は苦笑し、彼から差し出された人差し指に手を伸ばした。
硬く冷たい金属に頬をすり寄せ、体温を分け与えるように押し付ける。
金属生命体はもう片方の指を動かすと、をそっと持ち上げる。
「きゃっ」
次の瞬間、細く枯れ木のような身体は金属生命体の手のひらに収まっていた。
このまま握りこまれれば、間違いなくは苦痛のなかで死に至るだろう。の目に恐怖はなく、不安もない。
老い先短いからではない。7歳のときに彼と出会ってから今まで――いつ彼にこうされていたとしても、変わらず笑っていただろう。
「ずっと……こうしてほしかったわ」
金属の冷たさが、の体温を奪っていく。
寿命が底をつこうとしている老体に鞭打つ行為。
かまわず、は冷たいベッドに体を横たわらせ、全身で彼の感触を味わった。
「寝てしまう前に教えて。あなたの名前……」
彼はこの惑星での、自身の名を伝えた。
の瞼はじょじょに下りていったが、残った力でかすかに微笑む。
「ジェットファイア……あなたに会えてよかった……」
頬に触れようと伸ばした手は彼に届くことなくぱたりと落ちた。
取り残された金属生命体の空虚な電子音だけが、風にさらわれて消えていく。
の娘が、失踪した母を誰もいない古びた車の中で発見するのは、これから数時間後のことだ。
それまでは、どうか。
とジェットファイアに、二人だけの時間を。
やがて飛行機の姿で眠りにつくジェットファイアに、穏やかなひと時を。
2013/6/13:久遠晶
なんで公開できなかったかってひとえにジェットファイアがニセモノくさいから……。
過去話だし、ってことで多めに見てください。