困惑のクルーガー


 フレディ・クルーガーは困惑していた。いや、それは怒りに近かった。

 悪夢へといざなった少女がまったく怖がるそぶりを見せない。夢に引きずりこんだ人間を恐怖に染め上げ、殺害することに無上の喜びを得るフレディにとって、これほど屈辱的なことはない。

 新しくエルム街の1498番地に引っ越してきた家族のひとり娘。久しぶりの上物を喜び勇んで悪夢へと招待したというのに、少女は恐怖するどころかその場のモノを手当たり次第に触り始めるという奇妙な行動に出ていた。

 自分の身体に触れ、床に触れ、手すりに触れる少女。フレディの作りだした廃工場のステージがそんなに珍しいのか、喜色の笑みをたたえている。

 おかしな表現ではあるが夢のなかで少女が覚醒してから、少なくとも数分は経っている。せっかく周囲には恐怖演出がふんだんに設置してあるというのに、その場に立ってモノを触っているだけでは無意味だ。
 少女をビビらせようと――気を引こうと、のほうが正しいかもしれない――頭上から死体を降らせたり不快音で周囲を満たしたりしたのだが、どれも効果がない。
 死体にいたっては「わぁ、人間の男性ですね! 寝てるのかな?」などと言いながら物色される始末だ。怖がるどころか明らかに面白がっている。腹をかっさばかれて死んでいるのは明白だというのに、なぜ眠っているという発想が出てくるのか。生死の概念が理解できない類の存在なのか。

 なんだコイツは。

 それが率直なフレディの感想であった。

 少女がいつ振り返ってもいいようフレディは真後ろでポーズを取っているのに、目の前の死体に夢中の少女は気付かない。
 死体や壁をつんつくする少女と、その後ろで鉤爪を構える火傷のセーター野郎――おかしな絵面だ。

「おい」
「すごい……この、口から出てるのはよだれかな? 触ってみたいけどさすがにきたないよねぇ」
「……おい」
「これ、何色なんだろう。おなかからもにょもにょ出てるけど、大丈夫なのかなぁ? こんなの夢みたい……」
「『夢みたい』じゃなくて、ここは、夢なんだよっ!」
「へ?」

 耐えかねたフレディの怒声に少女は目を丸くさせて振り返った。かわいらしい間抜け面――それも自分を見れば恐怖に変わると思っていたフレディは、いつまで経ってもけろりとした少女に、やはり、そう困惑したのだ。

「あなたは……人間、の、男性……ですよね?」
「はァ?」

 このガキは目が腐っているのか。思わず自分の姿を確認するが、誰にも化けていない火傷にただれたいつもの自分だった。
 少女はぶしつけにフレディを下から上までじろじろと見た。確認するような目つきで、フレディのまわりをぐるぐる回り、フレディを360度あらゆる角度から眺め倒した。悪感情はないことがわかるがそれがむしろフレディには不快だった。
 ちったぁ怖がれ。フレディは心のなかで悪態をつく。

「触っていいですか?」
「ちょ、おいッ!」

 なにか言う前に少女はフレディの胸に飛び込み、その身体を抱きしめた。フレディの背中で、少女の手がセーターの生地、その奥にある肉体を確かめるかのように動く。

「この感触……やっぱり男性かな。あと服は毛糸ですね。じゃあセーターですか?」
「おい、服をつねるな生地が伸びるだろ! っていうかいきなり抱きつくんじゃねえ、お前はパパに初対面の男に抱きつくよう教育されたのか!」

 しがみつく腕をひきはがし、フレディは鉤爪を少女の頬に当てた。がやはり少女は恐れもせずその手を掴み鉤爪を眺め始めたので、イライラしながら振り払う。

「すみません」
「わかればいーんだよ……いやよくない」

 少女のペースにのまれそうになりながら、鉤爪のはめた指で手すりを撫でる。鉄の悲鳴と共に手すりに傷が刻まれた。
 このガキ、どうしてくれようか。さっさと殺してしまってもいいのだが、それでは面白くない。
 殺人をひとつの料理に例えるのなら、フレディは面倒な下ごしらえから皿への盛り付けまですべての工程を楽しむ人間である。
 一気に殺したい衝動を我慢し、あの手この手で怖がらせ、ちっぽけな少女の心臓の音を楽しみ、じわじわと追い詰めていくからこそ、心臓を一突きにする瞬間が格別にたまらないのである。その性格は、概念存在となった後の人々の恐怖をエネルギーにする性質と合致していた。

「でも、ここは私の夢でしょう?」

 だったらいきなり抱きついてもいいじゃないですか、と少女は頬を膨らませた。
 しょんぼりとする少女はどう考えても「おじさんに素行を注意されてしまった」という表情で、どこから見ても怖がってはいない。

「違うな。ここは、俺の悪夢だ」
「はぁ……?」

 怪訝そうに少女が目を細めた。ナニ言っちゃってんのこの人、という表情にフレディの頬がびきりと引きつる。楽しみの待っている面倒ごとを苦には思わないが、彼自身は懐が広いわけではない。

 ――軽く一発殺して、その間抜け面を恐怖に染めてやる。
 怒りのままに鉤爪を振り上げ、目の前の少女に向けて降り下ろした。


   ***


 目覚まし時計の音でぱちり、と私は目を開けた。
 今まで通りの世界。何色……の世界かは、比較対象がわからないので、わからない。
 鳴り続ける目覚まし時計を止めて、文字通り目の前で手をぱたぱたと振ってみる。
 目の見える人なら、視界を横切る手が知覚できるのだろう。私にとって、それは未知の感覚だ。
 ――今日、夢を見るまでは。
 身体を起こして手を軽く握る。まだ、『あの人』の感触が手に残っている。夢にしてはひどくリアルな感触。
 あんな夢を見たのは初めてだった。そもそも生まれつき目の見えない私は夢を見ることはない。夢は触覚や音で「感じる」ものだからだ。
 その私が、夢を「見」た。

「私ね、すごいリアルで素敵な夢を見たの」
「私ね、すごくリアルで怖い夢を見たのよ」

 玄関の扉を開けながらの私の声とケーシーの声はほぼ同時だった。気まずい沈黙だ。
 学校に行くときはかならず幼馴染のケーシーが家まで迎えにきてくれる。引っ越しをしてケーシーの家から離れたのに、それでも迎えに来てくれるケーシーはすごくいい奴だと思う。

「で、どういう夢見たの? ケーシーからでいいよ」
「それがね……なんか気付いたら廃工場みたいなところにいて、手に鉤爪をはめた顔の焼けただれた男が追っかけてくんの!」

 本当に怖かったー!と叫ぶケーシーと並んで学校への道を歩く。引っ越したばかりの家から学校への道はまだあまり覚えていないので、付き添ってくれるのはやはりありがたい。

「でねでね、しかも、叫ぶと『あぁその声が聞きたいんだ俺は』ってなんか癒されたみたいな表情するし! マジキモイし怖かった……!」
「なんか大変な夢見たんだねぇ」
「んで、は?」

 私は、今日見た夢の話をした。 

「なんかすごいね。でも目見えなくても視覚のある夢? っていうの? を見れるのかなぁ」
「わかんない。見れたんだから、そうなんじゃないのかな。そのせいかわかんないけど目がちょっと痛いよ……疲れたのかな? 今日も見れるといいなー」
「私はあんな夢こりごり。いやだわ、たしかフレディ・クルーガー。怖かった…」
「お疲れさまぁ」

 そう言って私は鼻をすんすんと鳴らした。
 ちょっとしめっぽい空気が、今日の天気がくもりだと教えてくれている。


   ***


 フレディ・クルーガーはやっぱり困惑していた。疲れていたとも言える。
 昨日はあとすこしといったところでが目を覚ましてしまったので、フレディは別の少女――ケーシーの夢に出現したのだった。
 殺さずいたぶり、ケーシーに自らの恐ろしさを刷り込ませた。そうすれば自ずとも夢の中の人物がこのフレディ・クルーガーだったのだと自覚し、恐怖するだろう。
 喜び勇んでの夢に出現したフレディを待っていたのは――やはり、喜色をたたえただったのだ。

「わぁ! また会えましたね。こんばんはっ」

 語尾に音符マークをつけん勢いで少女がはしゃぐ。昨日と同じようにフレディの周りを飛び跳ねるように回り、フレディをまじまじと見つめた。

「お前……俺が怖くないのか」
「え? どうしてですか?」

 震えを押し殺した声での呟きに、少女はフレディのアイデンティティを崩壊させかねない一言をけろりと返した。

「……っどうしてじゃねえよこのクソガキ! お前な、まずこの場所見ろ、どう考えてもおかしいだろ! たいていの人間はびくびくしながら周囲をうかがうもんなんだよ! それと、火傷まみれの俺のこの顔! 夜中に出てきたら怖いだろ、ちったぁちびれ! しかも鉤爪持ってんだぞ、突き付けてくんだぞ、明らかヤバイ人種だろ!! これで怖がらないとか頭おかしいぞ、お前!!」

 大音量でまくしたてるフレディに、少女は身体をすくませて耳を押さえた。
 それからおどおどとフレディを見直す。先ほどよりはフレディ好みの表情だ。
 だがその表情もすぐに消える。

「私、生まれつき目が見えないんです。比較対象がないものですから、景色のことはまるでわからないです。あなたが何色の服を着ているかもわかりません。色の違いはわかりますけど」

 その瞬間すべてが腑に落ちた。
 恐怖や笑いは、通常との異化によって発生する。前提となる「通常の景色」というものが存在しない少女がこの世界に驚かないのも無理はない。
 少女がずっと周囲のものを触りまくっていたりフレディに抱きついたりというのも、すべては突然目が見えるようになったからだ。覚えている感触と目の前の景色を照らし合わせ「これは何々だ」と確認していたのだ。

「でも、私、どうして夢を『見れて』るんでしょうかね? 目見えない人が夢を『見る』なんてことあるのかなぁ」
「俺の夢……だからか」

 少女の目は見えない。それが今景色が見えているのは、それはひとえにフレディが作った夢の中だからだろう。
 精神が直接見ている夢であり、目の見えるフレディがイメージした世界だからこそ少女は世界を『見る』ことができるということだ。

「? よくわからないけど、でもせっかく夢の中なら目が見れるんだから、それを楽しまないとですよねっ。フレディさん、よかったらご一緒に散歩しませんかっ」
「いいや、これは夢じゃないさ」
「さっき俺の夢だとか言ってませんでした?」
「いいか、俺は人の夢のなかに入り込んで悪さが出来るんだ。お前にもわかるように証明してやる」

 鉤爪を少女の頬に滑らせると、一筋の血がナイフを伝う。
 鋭い痛みに、少女が頬に触れると、べったりと血が手のひらに付着した。

「朝起きたら確認してみな。夢じゃないってわかるはずだ。痛みも本物だろう?」
「……友達が言ってたフレディさんて、あなたのことですか?」
「お~そうさ、ようやっと気付いたか。だがもう遅いぞ」

 鉤爪を振り下ろすが、少女はその場から飛びのいていた。壁に鉤爪が当たり、金属質の悲鳴を辺りに響かせる。

「昨日は惜しかったな。もうすこし目が覚めるのがおそけりゃ、お前はオダブツしてたぞ」

 避けた拍子に転んでしまった少女に歩み寄りながらにやりと笑う。
 少女がゴクリとつばを飲んだ。
 ようやっとフレディに風向きが向いてきた。あとはいつもどおり寝かせず、追い回し、そして――。

「これは、フレディさんが作った、夢の中、ってこと……?」
「そうさ。だからお前に逃げ場はない。お前は俺のものになるしかないのさ……」
「……すごい」
「は」

 フレディは頬を引きつらせた。
 なにやら、すごく不穏な言葉を聞かせた気がする。
 そしてその予感は的中していた。

「すっごいです、それ! 私、死ぬ前に一度だけ景色ってものを見てみたかったんです。フレディさんはそれを叶えてくれた。感謝しか浮かびません!」
「お、おう……?」

 急に立ち上がると少女はフレディに飛びつかん勢いで彼の両手を掴み、ぐっと顔を近づけた。
 その表情は輝いている。

「きっとフレディさんは生前の罪を清める為に色んないい事をしていて、タマタマ私の元に来てくれたんですね! ありがとうございます……!」

 心からの願望だったのだろう。呆気にとられるフレディに気付かず、少女は何度も礼を言った。

 フレディは心底呆気にとられた。というか、呆れた。開いた口がふさがらない。
 このクソ生意気なガキには、人を疑うという心が微塵もないらしい。借金の連帯保証人になってしまうタイプだとフレディは思った。

 力づくで傷つければ、すこしはこのガキもどうにもならない現実というものを知るだろうか。
 そう思ったものの、現時点のフレディにはそこまでの力はない。恐怖を力にする特性上、対象が恐怖しない限りフレディは力を発揮できない。
 薄皮一枚を切り裂くことしかできない以上、物理的に少女を怖がらせることはできないだろう。
 どうしたものかとフレディは思った。
 他の人間を怖がらせ力を得ても、少女自身がフレディを恐怖しなければ意味がない。

 いっそのこと、少女の思うように振る舞ってみるか。
 やさしい人間を演じ、少女の心に入り込んだところで裏切る。その時の失望は恐怖に変わり少女の心を支配するだろう。
 とはいえ……。

「うん、本当、私いつもいい子でいたもんねっ。だからフレディさんが来てくれたんですね。うれしいなぁ……!」

 こんな頭のゆるいガキに話を合わせるなど、想像するだけで頭が痛くなってくる。
 フレディは頭を抱え、いつか勝ち取ってみせる少女の恐怖の表情を想像して溜飲を下げたのだった。
 一筋縄ではいかないだろうが、狙った獲物を逃さないという殺人鬼としての矜持がある。
 凶悪な笑みをたたえたフレディは、無邪気な少女をいたぶって殺すことを今――心に決めたのだった。





2013/6/13:久遠晶
いかに殺人鬼であるフレディさんと生きた女の子をキャッキャウフフさせるか考えていたらこんな話になりました。
 試験中。もしいいね! となりましたら送っていただけると励みになります!
萌えたよ このキャラの夢もっと読みたい! 誤字あったよ 続編希望!