凛として前に
尾頭ヒロミはつまらない女だ、というのはうちの部署の通説である。
仕事をしているときも、昼休みに黙々と弁当を食べているときも、どんなときだって仏頂面。
飲み会に無理やり連れてこられたときは目線だけで人を殺せそうなぐらいの嫌な顔をする。
上司との付き合いとか、今後のため、とか。そういう雑音に目を細め、「お言葉ですが業務時間は午後五時に終了しています。飲み会に出席する理由が見当たりません」と早口に言い捨てて職場を出ていく。
そういう姿を見て、同僚も先輩も後輩も「あのひとってほんとつまんねぇ女だよな」とため息を吐く。
ボソボソして聞き取りづらい早口を「尾頭しゃべり」などと揶揄して笑い者にする。俺はげらげら笑って盛り上がる同僚に愛想笑いで同調し、そんな自分にイヤになる。
ここで空気の読めないことを言って人間関係に亀裂を入れるのは得策じゃない。
俺は、そういう打算でしか動けない。一人だけではしゃんと立ち続けることもできない、愚か者だ。
そして、彼女はどんなときでもしゃんと立ち続ける、そういう人だった。
屋上の扉を開けると、びゅっと風が入り込んできた。むわっとする夏の匂いに顔をしかめ、外に出る。
打ち鳴らしのコンクリートの上、ベンチに座るあのひとが見えた。
「尾頭さん、こんなところにいたんですか」
「さん。どうかしましたか」
尾頭さんの元に歩み寄って声を掛けると、いつも通りの早口が返ってきた。
膝の上に置いた弁当が女子っぽい。こういうところで性別を判断するのは、差別的だろうか。
業務でなにかあったのか、と言外に尋ねる目線に首を振る。
「たまには屋上でご飯食べようとしたら、あなたが居らっしゃったので」
「邪魔でしたら退きますが」
弁当を持った尾頭さんが、仏頂面のまますっと立ち上がった。慌てて押しとどめる。
仮にも課長補佐だぞ、尾頭さんは。平の俺が退けって言える相手じゃない。退いてくれと言う気もない。
「いえいえいえいえ、どうぞお座りください! お邪魔する気はないんです!」
「そうですか、では隣をどうぞ」
「え?」
「ここで食べる気だったんでしょう」
それは――そうだが。
ベンチの真ん中からずれ、端に座り直す尾頭さんに戸惑う。
どうぞ、と顎で隣を示された。断るのも失礼だから、礼を言ってベンチの端に座った。
尾頭さんとの間に空いた二人分のスペースが、なんとも気まずい。
弁当の包みを開いて膝の上に乗せながら、ちらりと尾頭さんを盗み見る。
尾頭さんはいつもとおんなじように、仏頂面のままで前を見据えている。黒ごまの振られたおにぎりをもぐもぐと食べながら。
俺も前を見た。そして、息を詰める。
高いビルの屋上は見晴らしがいい。空の青が澄み渡って居るのもよく見えるし、数十キロ先にある<黒い氷像>も、よく見える。見えてしまう。
<それ>を形容する言葉はたくさんある。
神の化身。悪魔。水爆の落とし子。怒りそのもの。進化を示す福音。あるいは警鐘。
二つ名はどれも大仰で、どれもおどろおどろしい。
どれも正しいように思えるし、どれもが間違っているようにも思える。
都市を壊滅に追いやり、何十万もの人間を踏みつぶし、燃やし――死に追いやった存在。
無力した現在もなお東京に鎮座し、俺たちを睨みつける異形の化け物。
あれから数か月が経つが、未だに<それ>を見る度俺の鼓動は早くなる。
ゴジラのいる生活になじむことなどできなかった。
ヤシオリ作戦によって凍結し無力化したとは言え、いつまた動き出すかわからない。
そう。いつまたあの歯の密集した口を開き、咆哮を上げ、熱線を吹き出すか。ゴジラは足元にいる俺を睨み、踏みつぶそうと足を持ち上げるのだ――。
「ゴジラが気になりますか」
横から聞こえてきた声が、思考に割って入る。
はっと現実に引き戻される。
目の前にゴジラの足はなくて、ゴジラは凍ったままだった。
耳元で鳴るのはゴジラの咆哮ではなくて、夏の湿った風だった。
「あ……」
横を向くと尾頭さんと目が合う。俺を見透かすような目を見て、呼吸を忘れていたことを思い出した。
瞬間、喉が動く。うまく酸素を取り込めなくて、咳き込んでしまう。
「お茶を……」
「だっ、だいじょう、ですっ」
差し出されたお茶を手の甲で断る。俯いて息を整えた。
冷静になると急に恥を感じてきた。このご時世、ゴジラにおびえることを恥とは思わないが、この人の前だとどうにもだめだ。
情けなくなってしまう。
ゴジラの上陸当時――破壊意思を持たないそれは、もはや敵意ある襲撃ですらない――尾頭さんは都心にとどまり、巨災対の一員としてゴジラ打開の策を練り続けた。
ヤシオリ作戦という方法でゴジラの喉元に牙を突き立てた、英雄のひとりだ。
俺は――俺は、なにもできなかった。ただ慌てふためいていただけだ。
思えばこの人生、いつだってそうだ。俺は他人の顔色を窺い、なにもせずに生きてきた……。それはゴジラの脅威が去り、職場に復帰した今だっておなじだ。
「さん」
「……なんですか」
際限なく落ち込んでいきそうになったところを、またもや尾頭さんの声が引き止める。
つらいなら戻ったほうが、などと言われる気がして、慌ててうつむいていた顔を上げる。
笑いかけると、すこし心配そうだった表情の、眉間のしわが濃くなった。
「お昼が終わる前に食べたほうがいいのでは」
「あ、そうですね」
興味なさげに言って、尾頭さんはまた前を向く。
ゴジラを見ながらの食事って美味いんだろうか。聞いてみたくはあったが、はっきり言って尾頭さんとは親しくない。
俺が特別距離を置いてるわけでもなくて、尾頭さんは職場の誰にだってそっけない。
いつだって孤高で、ひとりを愛していて、他人に踏み込まれるのを嫌っているように思える。
「尾頭さんは……」
親しくないってことも、尾頭さんは無駄話が嫌いってことも理解してるくせに、言葉が滑り落ちていく。
「ゴジラを見るとどんな気分ですか」
そう尋ねると、尾頭さんはゴジラを見つめたまましずかに目を開いた。
俺たちの隙間を抜けていく風が、尾頭さんの髪の毛を揺らす。後ろ髪にちょっと寝癖がある。
ゆっくりと胸を上下させ、深呼吸をする尾頭さんは何を考えているのだろう。仏頂面のその奥にある心が見えなくて、俺はぎゅっと目を細めた。
「怖くなります」
「え?」
意外な答えだった。てっきりヤシオリ作戦が成功してよかったとか、ざまあみろとか、そういう言葉が出てくると思っていたのだ。
思わず聞き返す俺に、尾頭さんは眉根を寄せた。
「ゴジラは未知の生命体であり、無限の可能性を秘めた存在です。いつ体内で凝固剤を無効化して動き出すかわかったものではありません」
「や、それはそうですけど……でも……」
それを、巨災対メンバーのあなたが言うのか。言っちゃうんですか。
とはさすがに言えなかった。
「怖くて当たり前です。ゴジラに比べれば我々一人の力などちっぽけですから」
「じゃあ……なんで、こんなとこでご飯食べてるんですか」
「それは――」
尾頭さんが口を開こうとしたとき、ガチャリと屋上のドアが開いた。
ビルの中から出てきたのは、若い男性だ。白いワイシャツを着崩して、風に目を細めながらこちらを見やる。
その姿を見て反射的に身体が強張った。飛び跳ねるようにして立ち上がる。
「尾頭くんじゃないか」
「矢口さん」
立ち上がって頭を下げる俺とは対照的に、尾頭さんは涼しい顔だ。通常運転。
矢口さんはヤシオリ作戦の主導者であり、つまるところ英雄だ。その矢口さんに対する態度とは思えない。
はっきり言ってドがつく失礼だが、尾頭さんの態度にも矢口さんは不快になる様子もない。
巨災対のなかでは、役職や立場を抜きにして意見が交わされていたという。その延長なのだろうが、矢口さんはなんて寛大なんだろうか。
矢口さんは俺と尾頭さんを見やると、ちょっと気まずそうな顔をした。
「休憩にコーヒーを飲みに来たんだが、邪魔してしまったかな」
「いえ、とんでもありません」
「たまたま同じ場所で昼食をとっていただけですので、よけいな気遣いは無用です」
尾頭さんはぴしゃりと言い放つ。冷たい言い方に男としてどうこう思うより先にひやひやする。
なるほど、と矢口さんは納得したような顔で頷いた。
それきり三人で黙り込んでしまって、すこし気まずい。
矢口さんは尾頭さんの視線をたどってゴジラを見つめ、目を細める。
何を見つめているんだろう。物理的な意味ではない。この人の目はなにを見ているんだろう。
俺にはわかる由もない。将来は日本をしょって立つ方だ。俺なんかには想像もできない先まで見通していて、憂いて、対策を練っているのだろう。
「ゴジラを見ながら飲むコーヒーってのも、慣れないよなぁ……」
「はっきり言って不気味ですね」
「二度と動き出さないという保証があれば酒の肴にもなるかもしれんが。そうもいかない」
悩ましい、といった風にため息を吐く矢口さんに驚いた。ゴジラを怖がるような言い方だったからだ。
「さん」
「っはい!」
急に尾頭さんに声を掛けられ、上擦った返事になってしまう。
「昼休み終了の15分前になったので私は行きます」
「あ、はい。俺はもうすこしここに居ます」
「そうですか。それでは」
尾頭さんがすっくと立ち上がる。
この人は、まっすぐしゃんと立つ人だ、と、感じる。実際は猫背ぎみなのだが、そういう意味ではない。
心根の部分だ。
職場の鼻つまみ者になっても、自分を曲げない。愛想笑いをしない。孤立というより、それは孤高だ。
矢口さんに軽く挨拶をして、まっすぐ屋上の扉に向かった尾頭さんはそこで立ち止まる。
「そうそう、先ほどの件ですが」
「はい?」
「おそらくあなたと同じ理由と思われます」
尾頭さんは短く早口で言い捨てて、ビルのなかへと入っていく。
何の話ですか、と声を掛ける暇もない。声を掛けたところで、戻ってきてはくれなかったと思うが。
さきほど……さきほどの件。
矢口さんが来る前に話していたのは、『ゴジラが怖いなら、なんでゴジラを見ながら食事しようと思ったんですか』だ。
それは、おそらくは俺と同じ理由だという。
そういえば、なんで俺は屋上に来たんだろう。
ゴジラなんて見たくないのに。
見たくないなら、そもそもこんなところでの仕事なんかやめて西日本に引っ越せばいい。引っ越さなかったのは、日本にいる以上どこにいても一緒だと思ったからで、海外に逃げなかったのはこの国を、日本と言う国を好きだったからだ。
瀕死のこの国を見捨てたくなかった。
ゴジラという災厄を乗り越えて、日本人として生き、日本人として死にたかった。
尾頭さんも、そうだと言うのだろうか。ゴジラを乗り越えたくて、この屋上でひとり、ゴジラを睨んで、立ち向かっていたんだろうか。
「ぁ……」
そう思い至ると、急に自分が恥ずかしくなった。
俺はどこか、尾頭さんを含めた巨災対の方々を自分とは違う存在としてとらえていたのかもしれない。
自分のような一般人とは違う英雄。だからゴジラに立ち向かえるし、だから恐怖もないのだと。
そんなふうに思うことで、俺は自分をごまかしていたんだ。
愛想笑いを浮かべて、なにも気づかないふりをして。
尾頭さんへの陰口に愛想笑いを浮かべ、同意はせずとも同調して自分を守っていたように。
英雄たちとは心のつくりからして違うと思い込むことで、自分がゴジラを恐れるのはしょうがないと。
首を振って、ため息を吐く。
俺は本当に情けなくて、大馬鹿ものだ。
怖いに決まっているじゃないか。
二度も都心を襲い、壊滅状態にまで追い込んだ死の災厄。
恐怖しないわけがない。
ただこのひとたちは、それでも歯を食いしばって立ち向かったんだ――。
「人間だもんな、当然だもんな……」
ぎゅっと目を閉じて深呼吸。それから目を開けた。
澄み渡る空、その奥に、氷漬けになったゴジラがいる。
災厄を封じ込めた氷像は今にも動き出しそうな存在感を持ってこの地に鎮座している。
まがまがしいその姿を見ると、心臓が早鐘のように鳴って、呼吸が浅くなる。
だけれど、くちびるを噛んで恐怖を押さえこむ。
尾頭さんだって矢口さんだって人間だ。俺と同じ人間だ。それでもゴジラに立ち向かい、今も自分にできることをただこなして、もしものときに備えて復興のために奔走している。
――それなら、俺だって。
俺にだってできるはずだ。
俺にしかできないこと。そんなことはないのかもしれない。有象無象の国民の、そのたったひとりでしかないのかもしれない。
だけれど、二度のゴジラの襲撃を生き抜いた、有象無象の一人だ。
そう思うと、闘志のようなものがわいてくる。
傷つけられたこの国の誇り、命。そういうものを背負っているのだと、自覚がわいてきた。
俺も泣き言は言ってられなかった。
もうそろそろ昼休みも終わる。俺は矢口さんに挨拶をして、屋上を後にした。
きっと、明日も明後日も、屋上には足を運び続けるだろう。
ゴジラを乗り越え、復興し、国が完全に立ち直るその時まで。
尾頭さんみたいに、ひとりでもしゃんと立ち続けていようと誓った。
2016/11/18:久遠晶