陽だまりの中でもう一度



 ──鬼の哄笑が聞こえる。
 刀を持つ手を切り落とした鬼が、勝ち誇って嘲笑っている。それが不快だったので、もう片方の手で鬼の胸倉を掴んだ。
 共襟を?き開いて、露出した肩に喰らい付いた。
 筋肉と軟骨ごと砕くと、甲高い汚らしい絶叫が響いた。
 ああうるせぇ。耳元で叫ぶんじゃねぇよ。
 大体お前、さっき何人も喰ってたよな? うまそうによぉ。だったら喰われても文句言うんじゃねぇよ。不味いんだよ。
 うろたえる鬼に喰らい付いたまま、刀を拾い上げて首を切り落とした。ぶしゃりと血飛沫が体にかかって、臭くて気持ち悪い。

「……っ、ひっ、ぅあ……っ」

 鬼の声が聞こえなくなると、歯がカチカチ打ち鳴らされる音が強く聞こえた。
 部屋の隅で小さくなって震えている、女の子のものだ。
 怯えて鼻水を垂らして、かわいそうに。俺は口から溢れる鬼の血を拭いながら、女の子を安心させるために笑いかけた。

「もう大丈──」
「ひいっ!」

 歩み寄ろうとした瞬間、女の子が大袈裟なまでにビクついた。
 ──もう大丈夫。悪い鬼は兄ちゃんが殺してやったから。
 その言葉が喉の奥に突っ掛かって、出てこなくなる。
 縮こまって震え、泣き、鼻水を垂らしながらも、女の子が俺を睨みつけていることに気が付いたからだ。

「……化け物……」

 女の子は確かにそう言った。
 よくもお姉ちゃんを喰ったな。お父ちゃんを殺したな。よくも。

「うわあああん! 絶対許さない! ぜったいゆるさないから!」

 その言葉でようやっと、俺が今首を落とした鬼は女の子の親で、女の子は鬼が食い散らかした死体を全部俺がやったと勘違いしているのだと気が付いた。

「お父ちゃん返して! 返してよぉ!!」

 この鬼を倒す為に、随分と頑張った。利き腕は切り落とされたし、あちこち爪で裂かれて切り傷だらけだ。肺には穴が空いてると思う。
 命を張って鬼を倒して、唯一守れた子供からは『化け物』。
 ひどい子だ、とは思えなかった。
 ただ俺は、兄貴のことを考えた。
 赤の他人になじられただけの俺がこれだけ傷つくのだから、唯一の弟になじられた兄貴は、どれだけ辛かったんだろうかと。──そう思った。


   ***


 鬼の気配が絶たれたことを確認し、後処理のため屋敷に踏み込んだ隠・は、後にこう語っている。
 鬼の返り血を浴びたまま、ゆらりと立ち尽くす不死川玄弥は、まるで鬼そのもののようだった。隊士が鬼化したのではないかと慌て、そして警戒した──と。
 はすぐにその警戒は誤りだと気が付いた。生き残った子供になじられ、立ち尽くす様子に全てを察し、部屋へと踏み込んだ。

「後は私たちが処理します。きみはゆっくり休んで」
「……あぁ」

 間近に見た玄弥の目は赤く血走り、犬歯が鋭すぎて鬼の牙のように見える。その異様な様相に内心は気圧されながら、彼の肩を軽く撫でた。
 その畏怖の目と同情の手をどう思ったか知らないが、玄弥は力なく彼女の手を振り払った。

「あとは頼む」

 畳に落ちた己の手を拾い上げ、のそのそと部屋から出て行った。
 その覇気のない背中を見送って、少女に向き直る。
 たった今鬼と化した親に家族を殺され、そして、その親を鬼殺隊に殺された少女に視線を合わせ、頭を撫でる。

「もう大丈夫だよ。悪い鬼は、お兄さんが切ってくれたから」
「あ、あたし……」
「ひとまず、ゆっくり休んで」

 ギュッと抱きしめた。隠であるの隊服には鬼除けとして藤の花の香が焚かれている。甘く優しい香りは、少女の気持ちを和らげるはずだ。
 香りが効いたのか、人肌の体温に安心したのか。少女は気絶するように目を閉じた。

「その子、怪我はないか?」

 同僚──隠のひとりがに声をかけた。は頷いた。

「無傷です。ただ……精神的には……」
「……そうだよな。家族を殺されたんだから……」

 目から下を布で隠していても、同僚の苦々しい表情は容易に察せられた。も同じ気持ちだからだ。

「悔しいな。俺たちにできることは、隊士の補佐だけだ……守ってあげられない」
「後処理だって立派な仕事です。私たちにできることをしましょう」

 が布越しに精一杯笑いかけると、同僚も笑い返してくれる。細めた目で、それがわかった。

 同僚の気持ちは痛いほどわかる。
 鬼を斬るのは鬼殺隊の仕事で、後処理はたち隠の仕事だ。
 鬼殺隊が鬼を斬ることだけに集中出来るよう務め、鬼が傷つけた人々の手当は口止め、事件のもみ消しなどを行う。鬼に襲われ、生き残った者が新しい人生を送れるように取り計らいもする。
 もちろん、戦いの最中負傷した隊士がいれば手当てをし、保護をするのも隠の勤めだ。

 緊張の糸が切れ、気絶するように眠ってしまった少女をひとまず別室へ寝かせた。
 犠牲者の亡骸を抱え、庭に埋める。同僚は血の臭いが家に染み付く前に換気をし、出来る限り血を拭いとる。
 その間に、もうひとりが玄弥の負傷を手当てしているはず──だったのだが。

「いいから怪我見せろよ! マジで死んじまうぞ!」
「いいから問題ねえって言ってんだろうが!」

 軒下で言い争う声が聞こえる。

「ちょっと! あの子が起きちゃうでしょう、寝かせてあげてくださいよ!!」

 が慌ててシイッと人差し指を唇に当てると、同僚がやべっと身をこわばらせ、玄弥は唇を引き結んだ。

「聞いてくれ、こいつ、手当てさせてくれないんだよ」
「だから怪我してねぇって言ってんだろうが」
「怪我してない? そんなわけないでしょう、貴方腕を斬られて──」

 言葉の途中で、玄弥の手がの眼前に突き出された。

「誰の腕が斬られたって?」
「え、ええ?」

 これ見よがしに指先をひらめかせながら、玄弥が言う。思わずその手を取り、まじまじと見つめた。
 隊服の袖部分は真っ二つに裂けているが、その奥の腕には傷がない。真新しい傷跡が腕をぐるりと囲っているが、それだけだ。

「腕がくっついたってこと? いやいやいや、まさかそんな」
「だから平気なんだって。お前らの見間違えだろ」
「いやいや……」

 玄弥はの手を振り払うと、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
 月明かりに照らされた玄弥の顔は、人相こそ悪いものの、先程のような鬼めいた恐ろしさはなくなっている。赤黒く染まっていた眼球も元の状態に戻り、白目と黒目がはっきりして見える。

「視界、ちゃんと両眼とも見えてますか? 本当に?」
「問題ねぇって言ってんだろ、このやりとり何回させる気だよ」
「ですが」
「面倒クセェな」

 の肩に肩をわざとぶつけながら、玄弥は軒下から庭へと降りた。
 その時闇夜に溶けていた烏が、玄弥の肩の周りを飛び立った。鬼殺隊の連絡手段、鎹烏だ。

「西ィイイーー……西ニ鬼ノキザシアリ、西ニ向カエェーー……西ィイイ……」
「うっせーな、一回言やぁわかんだよっ!!」
「カアァッ!」

 近くを飛び回る鎹烏にガンを付け怒鳴り、烏が不満げに鳴いた。
 玄弥は無言で歩き出す。隠たちには目もくれずに。
 その背中がひどく寂しく見え、は何か声をかけようとして……やめた。
 少女が玄弥に掛けた言葉を、は知っている。
 本心ではないとか、落ち着けば誤解は解けるだとか、そう言った言葉が浮かんでは消え、適切な言葉が思い浮かばず口をつぐむほかなかった。

「なんだ、横暴なやつだな……あいつ、新人のくせに……」
「まぁ、どうせ今回限りだろ。ああいう、隠に横暴なやつってのは往々にしてさっさと死ぬからな」

 姿が見えなくなった後、同僚がフンと鼻を鳴らした。口々に言い合うぼやきは、概ね事実ではあったが、先程の隊士には当て嵌まらないような気がした。
 ぶつけられた肩をさすりながら、「きっと、余裕がないだけですよ」と、根拠のないかばい立てをしたのだった。


   ***


 ……揺られている。人の背に、おぶされている。
 揺らめく意識がゆっくりと浮上していく最中、玄弥はそのことを理解した。
 誰の背だろう。母の背だろうか、と思ってから、小さくか弱い母が自分を背負えるはずがないと思い至る。ならば兄だろうかと思ったが、兄の背はこんなに小さくない。
 目を開けて確かめればいいのだが、それができない。覚醒しても意識はぼんやりしていて、目を開けられなかった。
 鬼を倒したあと、失血で気絶したのだと思い出した。自覚すれば、玄弥を背負う人物が歩くたび、揺れが脇腹に響いて痛む。
 鬼を喰らうことで一時的に鬼となれる玄弥にとって、手足を切り落とされても腹を貫かれても致命傷にはならない。それでも、鬼化しなければ怪我は怪我のままだ。
 鬼の首を斬り落とした後、その身体が崩壊する前に肉を喰らって回復しようとした時──隠の邪魔が入った。早く手当てをしなければ致命傷になると半ば取り押さえられそうになり、抵抗している間に気絶したのだ。
 だとすると、今自分を背負っているのは名前も知らぬ隠の誰かだろう。
 ご苦労様なことだと思う。
 同時に、あの時鬼の肉を喰らっていれば自分は背負われるようなこともなく、この隠も重たい玄弥を背負う必要もなかったのに、と苛立つ気持ちもある。

「──思い出した、不死川玄弥だよ。風柱と名字が一緒だからさ、印象に残ってんだよ」

 不意に名前を呼ばれた。兄のことが話題に出され、ぎくりとする。喋りだす間を見失っている間に、会話は進む。

「じゃあ、弟さんなのか?」
「いや、違うと思う。風柱の身内なら継子になるだろうし」
「そういえばこいつ、呼吸使えないって聞いたぞ」
「それ本当か? 呼吸も使えないでよくしぶとく生き残ってるよなぁ」

 隠たちは玄弥がまだ気絶していると思って、左右で言いたい放題話している。
 事実ではあったが、腹が立つ。
 ──お前には呼吸の才能がない。呼吸が使えないと、鬼は倒せない。鬼殺隊は諦めろ、玄弥。
 玄弥の育手はそう言って首を振った。それに納得できず無断で最終選別に参加し、戦いの最中に鬼喰いで鬼の体質になれることを知り──鬼殺隊になった。
 全ては鬼を屠る為、何より、風柱である兄に会う為に……。

「……呼吸も使えず、それでも隊士に?」

 玄弥を背負う隠が、口を開いた。
 ──そうだ、それの何が悪い。何がなんでも、何をしたって俺は鬼を殺してやるし、柱になってやる──。玄弥はそう言おうとして、口を開いた。
 だがそれよりも、隠の方が早かった。

「それはご立派なことですね」

 居住まいを正すように、隠が身体を揺らし、玄弥を背負い直す。

「いや、確かに立派だけどさ……危ないだろ。すぐ死んじまうよ」
「呼吸が使えても、最終選別を突破できない方のほうが多いですよ。呼吸もなしに選別を突破して、隊士として今も鬼を倒してらっしゃる。きっと並大抵ではない努力があったはずです」

 玄弥を背負う隠は、そう断言した。
 呼吸が使えない玄弥を馬鹿にするのではなく、呼吸が使えないのに鬼と戦う道を選んだことを称賛する。

「それに、呼吸が使えても隊士を続けられない者もいます。……すごいことです、本当に。私たちも負けてられませんね!」

 明るい言葉に、他の隠が「そうだな」と返す。それで会話が終わったようで、沈黙した。複数人の足音だけが聞こえる。
 喋るタイミングを失った玄弥は息を吐き、自然と強張っていた肩から力を抜いた。隠の背に身を任せる。
 血が足りておらず貧血気味なことは確かだったし、脇腹の怪我もそのままだ。無理に動くことは得策ではないと判断した。
 ──兄貴にちゃんと謝って、また前みたいに戻れたら……兄貴は俺のこと、立派だって言ってくれるかな……。
 それは、玄弥にとって都合の良い夢だった。それを望むべくもない立場と思っていながら夢想し、また玄弥は眠りに落ちていった。


   ***


 以前、隠に背負われながらそんな会話を聞いた。
 呼吸も使えないのに隊士になってすごい。立派だ、と。
 呼吸を使えても隊士を続けられない者もいる、と。
 鬼と命がけの戦いをしている中、そんなことを思い出した。鬼の腕を斬り落とした隠の姿を見て、不意に頭によぎったのがその言葉だった。


「鬼喰いの人間とは面白い。だが首の骨を砕かれ、引きちぎられても生きていられるのか?」
 新しい玩具を得た赤ん坊のように、鬼は玄弥の喉を掴み上げて持ち上げた。爪先が宙に浮き、息ができない。
 視界の端で、子供を抱き抱えて縮こまる母親が見える。その前には、親子を守るように玄弥の鎹烏が翼を広げて震えている。
 ──深追いするな、応援を待て。
 そう指令を伝えた鎹烏を無視して、玄弥は割って

 絶対絶命と言う時に、玄弥を掴む腕が斬り落とされた。
 応援が来たのか、と思ったのも束の間だった。鬼の腕を斬り落とした相手は隠の制服を着ていた。すなわち非戦闘要員だ。
 非戦闘要員の後処理部隊が日輪刀を持ち玄弥の助太刀に入っている。そのことに混乱しながらも、身体は勝手に動く。
 受け身を取りながら地面を転がり、先ほど己が落とした刀を掴む。即座に体勢を整え、鬼に向かって刀を振りかぶった。
 首が高く飛び、重たい音を立てて地面に転がる。
 鬼の爪を刀で受け止めていた隠が均衡を崩して、鬼の身体に押し倒されるようにして倒れ込んだ。あだっ、と間抜けな悲鳴が上がった。

「あっ……あの、大丈夫ですか? お怪我は」

 鬼の身体から這い出ながら、隠が玄弥を見上げる。布で顔を隠しているので目元しか分からないが、玄弥を酷く心配しているように見える。
 何故そんなに慌てているのだろうと思った時、視界が急に回転した。まるで顔を横に倒したかのように。

 なんだ?
 玄弥は頭に手をやった。自分の首が捻じ曲がり、頭が横に倒れている。喉を潰され、首の骨を砕かれているのだ。理解した瞬間さっと身体から血の気が引き、地面に膝をついた。
 鬼の下から這い出た隠が血相を変えて玄弥に駆け寄る。

「だ、大丈夫ですか!? いま手当てしますから……!!」
「っ、っ、……っ!」

 違う。手当ては不要だ。潰された喉ではうまく喋れず、口に唾液が溢れ咳き込むだけだった。
 両手で頭と顎を持ち、倒れた頭を無理やり戻す。ごぎんと嫌な音が体内から響いて脂汗が出る。
 鬼化の作用はまだ残っている。取り込んだ鬼の細胞が首を修復しようとしているのがわかる。しかしまだ足りない。鬼の肉が欲しい。
 血走った目で鬼の死体に手を伸ばすが、掴み上げる前に鬼の肉体は崩れ切り、宙へと溶けてしまう。

(まじかよ)

 絶望的な気分になる。
 喉が潰れたままで、息もできない。

(こんなところで、死んでる場合じゃ──)

 酸欠で意識が薄れ、玄弥はもがきながら地面に倒れ込んだ。



「稀血は鬼のご馳走、たったひとりで鬼の腹満たす。喰わせちゃならぬ、守らねばならぬ、喰わせば鬼は強くなる」

 歌が聞こえる。調子外れの歌が。
 玄弥の身体は妙にふわふわして、目を開けることができなかった。だからおそらく、これは夢だ。

「──なら、鬼を喰う人間にとってはどうだろう。きみは稀血で強くなるのかな」

 玄弥の口に、酷く不味いものが流し込まれた。えずき、咳き込みたくなるほどなのに、身体は本能的にそれを嚥下した。
 照りつける日差しに脱水症状を起こした時、生きる為には泥水すら啜るように。
 玄弥の身体は流し込まれる水分を求め、舌を伸ばした。脳髄が痺れるような不味さに震えながら。
 こんなもの飲みたくない。もっと欲しい。
 その葛藤の中、玄弥は手を伸ばし──。


 目を開けると、目の前に少女の顔があった。

「っぅわぁっ!?」
「あ、起きましたか! よかったです」

 思わず起き上がってから、病室にいるのだと気がついた。

「ここは……」
「蝶屋敷です。三日前に運ばれてきたんですよ。目を覚ましてよかった」

 つぶらな瞳の少女は、ほっとしたように笑った。
 蝶屋敷──蟲柱・胡蝶しのぶの屋敷だ。本人は鬼退治の為屋敷にいることは少ないが、医学薬学に精通する彼女は屋敷に鬼殺隊の負傷者を受け入れ、世話をしている。
 玄弥は深手を負っていたし、藤の家よりも蝶屋敷の方が近かった為にこちらに運び込まれたらしい。

「身体の具合はどうですか?」
「……別に、問題ねぇ」

 どうやら手拭いで身体を清められていたところだったらしい。玄弥は看護人──なほから手拭いを奪い取り、自分で身体の汗を拭った。

「無理しないでください。怪我はしてないですけど、酷い貧血なんですから」
「大丈夫だよ」

 玄弥はぎごちなく答えた。どうも最近、女の子を見ると意識してしまってうまく喋れなくなる。意識することもないと思うのだが、どうにも喋り出すまでに時間がかかる。
 自分の世話をしてくれていた人間に失礼なことだ。しかしなほは、玄弥の無愛想さを起き抜けで体力を消耗しているからだと判断したらしい。

「三日も寝てたんです。無理しなくていいですよ。水差しここに置いておきますからね。なにかあったら呼んでください」

 甲斐甲斐しく世話をしたあと、笑顔で退室していく。なほが近くからいなくなると、やっと玄弥は一息ついた。
 病室には玄弥の他にも三人の負傷者がいた。肘の先がない者が寝台で寝込み、軽傷のものは上体を起こして隣の隊士と雑談している。
 その様子をぼうっと眺めてから、玄弥は自分を助けた隠の存在に思い至った。
 あの隠の顔はわからないが、体格や声からして、この部屋の人間ではない。
 痛む身体を無理やり起こして、玄弥は病室の扉を開けた。
 廊下を歩くなほの背中に声をかける。

「……なっ、なぁ、俺を助けた隠を知らないか」
「えっ?」
「いや、隠か、隊士か知らねぇんだが……日輪刀を持ってた。それで鬼の腕を……」
「ああ、それでしたらさんですね。あそこの角部屋で療養してます」
「怪我してるのか」
「ええ、腕の骨折と貧血で。玄弥さんをおぶったまま気絶してるところを他の隠が発見して、二人とも運ばれてきたんですよ」
「腕の骨折だぁ?」

 玄弥は薄い眉をへし曲げて首を傾げた。
 あの時、玄弥は刀を拾い上げ即座に鬼の首を奪った。その間に骨折するほどの攻撃を受けてしまったのだろうか。奇妙だと感じる。
 奇妙といえば、玄弥が生きていることもだ。
 首の骨を砕かれ、回復できずに玄弥は気絶した。それなのになぜ生きているのか。首の骨は修復され、外傷もほとんど癒えている。
 ひとまず、あの隠には会っておきたい。
 玄弥はなほが指差す病室へと歩き出した。

「あっ、病み上がりなんですから無茶しちゃだめですよ……あうっ」

 進行を止めようとしたなほの肩を腕で突き飛ばしたのは、単純に背丈が低いなほは玄弥の視界に入らなかった為だ。
 無視してそのまま歩くのは、悪いという言葉がうまく出てこなかったからだ。
 不死川玄弥、思春期である。


 部屋の扉はわずかに開いていた。
 寝ているかもしれないと思い、玄弥はかすかに扉の隙間から病室を覗き込んだ。
 寝台で、入院着を着た少年が正座をし、項垂れている。あどけない顔立ちは、玄弥と同世代だろうか。右腕を三角巾で吊っている。
 起きているのならば、と玄弥は扉の取手に手をかけようとし、寸前で止まった。
 なほが玄弥の腕を掴んでいる。

「あのう、今はやめた方がいいですよ。岩柱様がいらっしゃってるので……」
「岩柱?」

 玄弥は角度を変えながら、再度病室を覗き込んだ。寝台の傍らに、筋骨隆々の男が椅子に座っているのが見える。名前だけは知っている。岩柱・悲鳴嶼行冥そのひとである。
 ──あれが、岩柱か。初めて見た……。

 鬼殺隊に入った兄を探す際、岩柱の話も聞いている。
 せっかくなら兄貴が来ていれば話が早かったのに。と理不尽な不満を抱きつつ、話しかければ兄に取り次いでもらえるだろうかと淡い期待も抱く。
 扉越しの狭い視界の中で、行冥は静かに涙を流した。

「私は悲しい……」
「──申し訳、ありません」

 隠の少年は脂汗を浮かべながら、苦しげに謝罪を吐き出す。
 本来であれば一般の隊士は見かけることすら難しい存在である柱が、何故隠の見舞いに来ているのだろう。直属の配下かなにかなのだろうか?

「きみの行動は軽率に過ぎる。その軽はずみな行いがなにをもたらすのかを考えろ」
「……お言葉ですが、岩柱様、あ、あの時……隊士の方は絶体絶命でした。私が出なければ、住民にも被害が出ていました」
「──それは結果論だ」

 手を合わせ、数珠を鳴らしながら岩柱はピシャリと言い放つ。盗み聞きをしている玄弥すら圧倒されてしまう威厳と貫禄に、隠の少年はびくっと肩を跳ね上げ硬直した。膝に置いた握り拳が震え、親にきつく叱られる子供のような哀れささえある。

「問題は、君が私の言い付けを破ったことだ……君は純粋だが、それ故にいつも嘘をつく」
「──っ、それは、」

 顔を上げ、隠の少年は悲痛な顔で岩柱を見た。言葉が出てこないのか、物言いたげに口を開いては閉じてを繰り返す。
 ゴクリと生唾を飲んで、少年はやっとの思いで口を開いた。

「わ、私は──」
「──用があるなら中に入ったらどうですか、不死川玄弥くん」
「……!?」

 不意に肩を叩かれ、玄弥は咄嗟に扉の前から飛び退いた。
 玄弥の隣をすり抜けて、黒髪の女性が病室の扉を開ける。

「検診と清拭の時間ですよ、さん」
「あっ、む、蟲柱様、お世話になっております……」
「ああ、そんなかしこまらないでください」

 正座から三つ指をついて頭を下げる隠の少年を、黒髪の女性は手を差し出して静止した。
 ゆったりとした仕草にも威厳がある、大和撫子。蟲柱の名を冠する医学に精通した剣士──胡蝶しのぶだ。
 玄弥は開け放された扉の前で、しのぶの気配のなさに驚いた。肩を叩かれるまで、その存在にちらりとも気が付かなかったのだ。
 しのぶは部屋の隅にある丸椅子に座りながら、ちらりと玄弥を見上げた。

「で、きみはまだ盗み聞きですか?」
「あっ、や……盗み聞きのつもりは……」

 しのぶに見つめられ、玄弥はどきりとした。意図はどうあれ実際に盗み聞きしてしまったことは確かだったし、しのぶは目が覚めるほど愛らしい顔立ちをしている。
 玄弥は呻き、しのぶの視線から逃げたくて視線を病室のあちこちに巡らせた。玄弥と違い、隠の少年は個室を与えられているらしい。狭く白い部屋に圧迫感を覚えるのは、二人の柱の視線が己に注がれているからか。

「おや? ああ、あの時の! ご無事だったんですね」

 玄弥に気づいた少年が目を瞬かせる。玄弥は所在なげに頷いた。

「お前だろ、あの時、俺を助けたのは」

 先程の悲鳴嶼との会話があったからか、少年は唇を引き結んだ。沈黙を肯定と受け取って、玄弥は続ける。

「──助かった。俺はあの時、指令を無視して鬼に向かったけど……お前がいなきゃ、倒せなかった。一般人にも被害が出てた」

 玄弥は恥を偲んで、そう言った。
 本当は、「お前の助けがなくても、俺は鬼を倒せていた」と言いたかった。例えそれが自分勝手な強がりだとしても、弱い自分を認めたくはなかった。
 ──だが。
 少年が自分を庇い、怪我をし、その責任を問われているらしいことはわかる。
 玄弥は拳をぎゅっと握った。
 認めたくはなかったが、自分がもたらしてしまった窮地を無視するほど、恩知らずではない。

「──そのことで怒られてるみたいだけど……。本来、説教されるべきは命令違反をした俺、です」

 玄弥は岩柱を見つめ、そう口にした。
 鬼殺隊は厳粛な階級制度を敷き、組織を保っている。命令違反には厳しい制裁が下る。柱への道が遠ざかるかもしれない。
 だがそれでも。嘘はつけなかった。

 悲鳴嶼の白く濁った瞳が、玄弥を見た。いや、悲鳴嶼は盲目という話だから、視線そのものは絡んではいないはずだ。
 しかし盲目の岩柱は、玄弥の姿を正確に捉えているらしい。恐らくは、声の出所から身長を判断し、瞳の位置に目を向けているのだ。
 その、絡んでいるようで絡んでいない視線がかえって恐ろしい。首筋に刃物を当てられているような威圧感が玄弥を襲った。

「自分が命令を無視した故に、この者は自分を助けに出る羽目になった、と……言いたいのだな」
「……はい」

 別に庇い立てをする気はないが、事実は事実だ。少年は玄弥と悲鳴嶼を交互に見やり、ハラハラと慌てている。

「それは──」
「──あれ? なーんか雰囲気悪くないですかっ?」

 悲鳴嶼の重々しい言葉は、しのぶがぱんと手を鳴らしたことで掻き消された。

「悲鳴嶼さんの気持ちもわからなくはないですけど、一旦落ち着きましょうよ。重たい話は、さんの怪我が癒えてからでも遅くはないのでは?」
「……ム」
「それと、不死川玄弥くんの隊律違反については我々がお説教することではありませんからね。まぁ、後々鎹烏経由で上が怒ってくださるでしょう」
「ムム」
「なにより、たらいのお湯が冷めてしまいますから。私としては早く清拭と検診を済ませたいので……」
「……そうだな、悪かった」

 ゆったりとした口調ながら、しのぶは矢継ぎ早に言葉を繰り出す。それに気圧されたのかは分からないが、悲鳴嶼は息を吐いて腰を上げた。

「既に話は終わっている。南無阿弥陀仏……」

 数珠を鳴らしながら歩き出す。玄弥は慌てて半歩身をずらし、扉の前から退いた。
 入り口に立ち、悲鳴嶼は玄弥を振り返った。

「……?」

 玄弥は間近に見る岩柱の顔に気圧されそうになる。しのぶと少年も玄弥を見つめているので、妙に焦る。

「あのー……玄弥くん、清拭しますので……」

 しのぶが遠慮がちに言う。意図がわからず玄弥が突っ立っていると、悲鳴嶼が玄弥の肩を叩いた。

「出ていけと言われているのだ……。行くぞ」
「えっ? あっ、なるほど……」

 ぐいと引き寄せられる。
 ほぼ初対面とは言え男同士だから、清拭と言われても暗に退室を促されているとは察せられなかった。

「ひっ、悲鳴嶼さん……!」

 苗字を呼ばれ、悲鳴嶼はその場で立ち向かった。筋肉の浮き出た背中に、少年は声を掛ける。

「あの、本当に申し訳ありませんでした。軽率な行動でした……本当に。悲鳴嶼さんにも、ご迷惑を……」
「……もういい」

 悲鳴嶼はそれだけ返すと、玄弥を引っ張り病室を後にした。廊下に出た後で玄弥の肩から手を離す。
 沈黙。
 玄弥は感情の見えない瞳に先程から気圧されっぱなしだ。

「あ……さっきは、盗み聞きしてすみませんでした」
「構わない……。扉の前に誰かがいることはわかっていた」

 ──わかっていたのか。流石に"柱"だな……。
 佇まいからでも、圧倒的な実力差があることが伝わる。玄弥はなにも言われていないのに、弱さを責められている気がする。

「不死川玄弥だな……きみの噂は聞いている」

 悲鳴嶼はそう言いながら歩き出した。

「風柱──不死川は、弟などいないと言っていたが」
「……」

 なにも言えず、玄弥は歯を食いしばった。
 最終選別に生き残って隊士となったあと、兄とは一度だけ蝶屋敷で顔を合わせたことがある。
 兄貴、と駆け寄った玄弥の手を、兄は片手で振り払った。

「……俺は、兄貴の弟だ」

 ──お前みてぇな愚図、弟じゃねぇよ。
 例え、そう拒絶されたとしても。
 あの時の底冷えする瞳を思い出すと、背筋につららを入れられたように心臓がひゅっとする。
 表情を歪める玄弥に、悲鳴嶼が何を感じたかは分からない。彼は沈黙し、ゆっくりと廊下を歩き出した。
 隊士や隠の前線基地としての側面もある蝶屋敷には人が多い。戦いの準備に駆け回っている隠達は、悲鳴嶼の姿に気づくとぎょっとして背筋を伸ばし、端に寄って頭を下げる。
 人を割るように進む悲鳴嶼を追いかけながら、玄弥は悲鳴嶼の背中に兄を重ねた。
 兄も、悲鳴嶼と同じように隊士や隠から畏敬の念を向けられているはずだ。──その背は、あまりに遠い。

「隊士になったのは、不死川に会う為か」

 悲鳴嶼がそう問うたのは、縁側から庭先に出た時だった。陽射しを浴びながら、廊下にいる玄弥を振り返る。
 玄弥は逡巡してから頷いた。嘘をつく理由もない。

「柱にならなければ、柱には会えない。……だから、俺は……」
「呼吸を使わずに、柱になると?」

 遠すぎる目標なのはわかっている。

「──それでも俺は、兄貴に会いたい」

 兄貴に会いたい。会って謝りたい。許されなくても、すがり付いてでも、もう一度兄と呼びたかった。もう一度弟と呼んでほしかった。

「その為に……鬼を喰らってまで戦うか……」
「なっ! どうしてそれを」
「……。はるか昔、呼吸を使えず鬼を喰らって戦っていた剣士の話を聞いたことがある。まさかとは思ったが……本当にそうなのか」

 つまり、カマを掛けられた、ということだろうか。
 玄弥が呻くと、悲鳴嶼はその白く濁った瞳から涙を流した。

「南無阿弥陀仏……鬼を喰らうなどただ事ではない。君の覚悟は理解するが、身体にどのような影響が出るか分からぬのだぞ」
「──わかってるよ、そんなことは……」

 身体にどんな影響があろうが関係ない。呼吸の適性がなく、身体能力も低い玄弥が隊士として鬼と張り合う為には、鬼喰いしか手段がないのだから。
 悲鳴嶼は大きな掌をすり合わせ、数珠を鳴らした。
 像を結ぶことのない瞳に、それでも玄弥の心の奥底を見透かされるような気がして、息が詰まる。目を逸らしたい衝動に耐え、悲鳴嶼を真っ直ぐに見据えた。

「……君の行いは看過できない」
「……っ、それでも、俺は」
「だから……君には監督する誰かが必要だな」
「え?」
「呼吸は使えずとも、反復動作なら習得が可能か。私の屋敷に来るといい。私の弟子として、修行の場を提供しよう」
「それは」
「稽古が不要ということであれば、それもまたやむなしだが……」
「い、いや、そんなことは」

 思ってもみなかった言葉に面食らう。
 呼吸を使えない玄弥を弟子にする? なんのために。そんなことをしても、悲鳴嶼に利はないはずだ。
 困惑を察知してか、悲鳴嶼は僅かに目を細めた。

「……君には強い後悔が見える。なにがあったのかは知らないが、己の過ちを悔い、許される為にもがいている。そうであれば、正しき道へ導くのも年長者の務めだろう」

 数珠を鳴らし続けながら、悲鳴嶼は言う。落ち着いていて、静かで、まさしく大きな岩のような安定感。
 不思議と心が落ち着く声音だ。
 ――お前みてェな愚図、弟じゃねえよ。
 脳裏に響く声に、悲鳴嶼の言葉が重なる。

「強くなれ、不死川玄弥」

 まるで、暗雲に光が差したようだった。
 玄弥はあやうく泣きそうになり、それをごまかすために目を瞑った。「よろしくお願いします」と頭を下げる。
 悲鳴嶼はかすかに表情を緩め、玄弥の肩を叩いた。その気さくな仕草を、不快には思わなかった。

 いつか兄と和解し、傷だらけの兄の背を守る。
 。もう一度、兄と共に陽だまりを歩き、笑い合う。その未来に至る為の第一歩を踏み出せた。気がした。





2020/02/20:久遠晶
▼ クリックでコメント展開