満たせぬ大器
秦の六代将軍がひとり、摎が死んだ。
“馬陽での勝ち戦の帰り道、以前から患っていた病気が悪化してのことだった。”
その噂は軍が帰ってくるよりも早く咸陽に伝わり、民は偉大な将軍の死を嘆き悲しんだ。
皆にとっては苛烈な戦い方で武功をあげた将軍だけど、私にとっては幼い頃からの幼馴染だ。
はっきり言って私は彼女が嫌いだった。王騎様の家の使用人。王騎様に色目を使って、戦にまで付いていった女だ。
早く死んで欲しいと思っていた。
だけどその報を聞いても、ちっとも嬉しくなんてなかった。
私はただ王騎様のことが心配だった。
摎の屍と共に咸陽に帰還した王騎様は、傍目からはいつも通りに思えた。絶望して無気力な表情の摎の配下とは対照的に、背筋を伸ばしていたからだ。
しかし出迎えた私は、その姿に動揺した。
都を発った時と同じようにまっすぐに前を見据える様子が、かえって恐ろしかった。
瞳の奥の強烈な怒りの炎を、抑え込んでいるだけだとわかったから。
私はそんな王騎様に、どうすればいいのかわからなかった。慰めようがなかったのだ。触れてしまえば、抑え込んだ怒りは弾け、嵐となって私に襲いかかるのではないか。何より、王騎様の心の深い部分をどうしようもなく踏み躙るのではないかと思えば……何も言えなかった。
「摎は、初めて私との約束を破りました」
二人きりになったとき、声をかけあぐねる私に対し、王騎様は呟いた。悲しみも嘆きも感じないのに、ただただ、重みだけがある言葉。私はその言葉に、摎の最後が病死なのではないのだと……ただひとり、察したのだった。
病死であれば王騎様もここまでの怒りを抱えることはないだろう。王騎様が不在の最中に討たれたに違いない。
「そうですか」
私はやはり、かける言葉を持たなかった。
「悪い子ですね、摎は」
「ええ……本当に」
正しい返しが思い浮かばなくて、思ったことを言った。
最後の一城だった。
子供の頃の馬鹿げた約束。あの子は王騎様の許嫁である私を差し置いて王騎様に「城を百個落としたら妻にしてください」と求婚し、あろうことか王騎様もそれを受け入れた。
十年近く前のこととは言え、生真面目な摎が忘れるはずがない──摎はその為に戦に出たのだから──そして摎の戦いぶりを間近で見続けた王騎様も、約束を忘れるはずがない。
最後の城を落として、本来であれば葬儀ではなくて大規模な婚姻の儀を行うはずだったのだ。
それを──それを、摎は。
一番幸せになる瞬間を、不意にした。
「大馬鹿者です、摎のやつ。せっかく……せっかく……うぅ、うぐうっ」
王騎様が泣かないのだから、私も泣いてはいけない。そう決意したはずなのに、目の奥から込み上げる熱が抑えられない。
くちびるを噛み、口を塞ぎ、必死に嗚咽を堪える。それでもどうにもならなくて、私は服の裾を握り込んだ。
「あなたが泣くほど摎が好きだったとは驚きですねェ」
何事もなかったように、いつものような軽い声を出す。
嫌いにさせた張本人がよく言うものだと思ったけれど、言い返す余裕もない。
「貴方は我慢しないでください」
大きな手が私の背に触れる。
摎と同じ戦場にいた王騎様は、彼女の死を己の責任と思っているのだろうか。
いよいよ我慢ができなくて、私は目を強くつむった。熱い涙が頬をぼたぼたと垂れ落ちていく。
せっかく王騎様の寵愛を頂いていたくせに、こんな形で王騎様を裏切るなんて最低の女だ。
そう心の中で悪態をついても、困った顔をして笑う摎はもう見れない。
泣きながらしなだれかかり、傷心の男性につけ込むような真似は断じてしたくなかった。だから、肩を抱き寄せる手を拒む。
「泣いてあげてください、貴方に我慢は似合いませんよォ」
私の抵抗などものともせず、王騎様は無理矢理に私を腕の中へと押し込んだ。
初めて王騎様に抱き寄せて頂いたと言うのに、この状況ではまったく喜べない。
「ううっ……ううっ、ふぐう、うあああっ」
我慢しておきたかった嗚咽が溢れ出す。堰を切ったように止まらない。
摎なんて嫌いだった。使用人の子供。家柄なんて私と比べるべくもなく、王騎様とは釣り合わない家の子。だと言うのに周囲から妙に大事にされていて、気に入らなかった。
後継を産む使命のある私と違って──戦場まで王騎様のお供が出来た彼女が羨ましくて仕方なくて──大好きだった。
***
王騎様がはじめて私に掛けた言葉は、忘れられない。
あれは私が七歳になるかならないか、という時だった。
王騎様のお屋敷にて、あの方が未来の旦那様だ、と、お父様が指し示した。
庭で木剣の素振りをする王騎様が、テラスからよく見えた。
王騎様のご家族が、あの様な姿で申し訳ない、と困った顔をしたのを覚えている。まともな面談であれば相応の出迎えがあってしかるべきだから、恐らく父は唐突に訪れたのだろう。
私は、黙々と素振りを続ける背中に、屈強な筋肉に見惚れた。
一目惚れだ。顔すら見ていないのに、大きな背には視線を吸い込ませる何かがあった。
だと言うのに、とうの王騎様は私のことなど眼中になく素振りをし続けている。それが嫌で、私は王騎様に歩み寄った。
そんな私の服の裾を、使用人の子供が踏んづけた。バランスを崩して転んだ私は顔面から地面に突っ込んでしまい、おでこを擦りむいて怪我をした。
血相を変えた大人たちが駆け寄ってくる。
青ざめて平謝りする使用人。私と同じぐらいの歳で、まだろくに仕事もできそうにない。
本当は気にしないで、と声を掛けたかったのだけど、私の言葉は王の家の者の怒る声でかき消された。
「お嬢様になんてことをするんだ! お前は……!」
「ごっ、ごめんなさいぃ……!」
「お嬢様、大丈夫ですか?」
転んだ私を起こしてくれた付き人が、不安げに私を覗き込む。
そんなにあの子を怒らないであげて。痛くないから大丈夫。
そう言ってあげたかったのに、使用人の──摎の向こうで、騒ぎに気づいた王騎様が振り返った。
太い眉にごつごつした鼻、大きな唇。まだ若いのに精悍な顔つきをした王騎様が、私を見ていた。
そうなると、急に恥ずかしくなった。
もっとちゃんと綺麗に挨拶して、可愛いと思って欲しかった。
大事な出会いを台無しにされたと思ったら、おでこがじくじく痛んだ。子供っぽい怒りが湧き上がったのだ。
大人が摎を怒っていることも含めて、この場は私に主導権があり、「怒ってもいい場なんだ」と子供の私は認識する。
込み上げてきた涙をそのままに、私は思い浮かんだ言葉をそのまま並べ立てた。
あまり覚えてはいないけれど、使用人のくせに、とか、この家は使用人にどう言う教育をしてるんだ、とか、その手合いの言葉だったと思う。
家の人が使用人を叱る時の言葉を、意味もわからず使ったのだ。──その中に、ひどい侮辱があった。
そこに──。
「これぐらいのことで、ぐちぐちみっともないですよ。器も体も小さいんですねェ」
上から声が降ってくる。決して咎めるような言い方ではなかったし、優しささえ感じる声音。しかし、そこには有無を言わせないある威圧感があった。
――これが、王騎様が私に掛けた、はじめての言葉だった。
「わっ若君! しかしですね、お嬢様の玉のようなお肌に傷が……!」
「あ、痕が残ったらコトですよ、コト!」
「その程度のかすり傷、舐めておけば明日には治りますよォ。それに、摎はちゃんと謝ったでしょう?」
「しかし」
「ほら、立ち上がりなさい摎。きちんと非を認められてエライですね」
教育係なのだろう老人が、若君、いくらなんでも、と咎めるのだけど、王騎様はにこやかにそれを聞き流す。摎の腕を持ち上げて立たせてあげて、土下座でついた砂を払ってあげた。
挙げ句の果てに、非を認められてエライ、なんて言いながら摎の頭を撫でるのだ。
そこでやっと、私は自分が侮辱されていることに気がついた。
気がついたけども、怒ればいいのか、弁解すればいいのかわからない。私が困惑している間に、王騎様は周囲の大人たちに眉をひそめた。
「……というか。私、客人が来るなんて聞いてませんよォ。知っていればもうすこしまともな格好でお出迎えしたのですが、こんな格好で失礼致します」
上半身裸で汗だくの状態を指して、王騎様が事態を静観していた父に頭を下げる。
愛娘たる私を傷つけたことではなくて、あくまで自分の出で立ちの非礼をわびて。
父はゆるりと笑って、「よい」と手を上げる。
「旦那様!」
「よいよい。突然訪れた儂の方こそ悪かったな。愛娘の夫となる男の普段を見ておきたかったのだ」
「おや、私、武功を挙げて将軍になるので結婚してる暇はないとはっきりお伝えしたはずですが」
「何をおっしゃる若君! 早く身を固めて後継を作ってくださらないと」
「そういうのは本家の人間にやらせておけとも言ったじゃないですかぁ」
「はっはっは。若い頃は皆結婚よりも戦争に出たがるものだな」
豪快に笑う父に王騎様も笑う。困り果てる互いの使用人たち。
その輪に取り残されて私は、同じく取り残されている摎と目が合った。ぺこりと、すまなそうな表情での会釈。
ふん、と顔をそらして無視をした。
私は王騎様とはなんて酷い人だろうと思ったけど、同時に引きつけられた。
蝶よ花よと育てられた私にあんな言い草をする人はそれまでいなかったし、父と対等に話しているように見える王騎様が、とても大きな人物に見えたのだ。
……おかげさまで、摎のことは嫌いになったけど!
***
摎が死んで、一年ほどが経った。
それまでかたくなに「今は国力拡大の時期故、結婚をしている暇はない」として結婚を拒み先延ばしにしていた(これはあくまで表向きの理由であって、実際は摎との約束が絡んでいる)王騎様は、摎の死後、あっけなく我が家の結婚要請を受け入れた。
同時に出撃することも少なくなり、表舞台から王騎様は完全に姿を消した。
直属の配下との演習は欠かさないけれど、出撃命令には頷かない。利権争いの為の政治色の強い争いには興味がない。蒙驚にでも任せておけばいいんです、と言うのが王騎様の言い分だ。
昭王様と摎。立て続けの死が、王騎様の戦う理由を奪ってしまったのかもしれない。
そうやって私は王騎様の妻となった。
結婚を断られ続け、諦めませんよと言い続け、他の家からの求婚を断り続け、王騎様を追いかけてきた。王騎様と摎が好き合っていることに気付いたうえで。私では並び立てないことを知った上で、―――あの二人においていかれたくなくて。
夢にまで見た婚姻の儀も、ちっとも嬉しくない。居心地が悪い。
王騎様の隣に立つのは摎だったはずなのに、摎の居場所を奪っている。そういう罪悪感が、常に私にまとわりついた。
形式上の夫婦となった私と王騎様ではあったが、夫婦生活が色づく事はなかった。当然だ。
同じ寝台で寝ても、指先が触れ合うこともない。私は王騎様の睡眠の邪魔にならないよう寝台の端で丸まって背を向け続ける。
貴方の熱を必要としていない。無理に抱く必要はないし、求めていない、とアピールする為に。
王騎様は私に優しくしてくださるけれど、私たちの間にあるのはあくまでただの家族愛なのだ。
別に、それで構わない。
王騎様は今でこそ一線を退いているけれど、本来は戦場を己の居場所と定めている方だ。そんな方の隣に並び立てるのは、共に戦場で戦い、死線を共にする人だ。――私ではない。
私はただ、王騎様がもしまた出撃する際、家のことをご不安にならないよう、帰る家を整えるのが仕事だ。
だから――。
「お世継ぎはいつ頃産まれるのかしら」
「気が早いわよ。まだ奥様はご懐妊もされてないじゃない」
「だからよ。以前ならいざ知らず、ご結婚されてからの王騎様はずっと城にいらっしゃるじゃない。それなのに……」
「訓練でお忙しいんでしょう」
「でも、噂だと王騎様には奥様以外に心に決めた人が――」
使用人のそんな噂話も気にしない。ほとんど事実だからだ。
廊下を曲がった先から聞こえてくる噂話には遠慮がない。あそこにまっすぐ突っ込んでいくのは気が引ける。すこし遠回りにはなるけれど、引き返して別の道を行こう。
引き返そうとした瞬間、王騎様の声が聞こえてきた。
「――へえ。誰に心に決めた人がいるんですか?」
「お、王騎様!」
「ンフフ、仕事の手を止めて噂話とは関心しませんねェ。誰も見ていないからと言って手を抜いてはいけませんよ」
「申し訳ありません……」
王騎様の言葉は柔らかだけど、使用人たちにはそれで十分だったらしい。申し訳なさそうに肩を落とす使用人に、王騎様は笑う。
「――それで、。そんなところで突っ立ってどうしたんですか?」
突然名前を呼ばれてぎくりとする。気付いているならそっとしておいてほしかった。
曲がり角から顔を出すと、使用人が青ざめている。
私は気まずさを押し殺して、王騎様に笑いかける。
「珍しいですね、あなた様がここにいらっしゃるなんて。今日の練兵はお休みですか?」
「ええ。休息も訓練のうちですからね」
「ごゆっくりお休みになってください」
私は王騎様に歩み寄りながら、使用人に目を向ける。
「倉庫の整理をしようと思っていたの。もし手が空いているなら、手伝っていただけるかしら」
「は! かしこまりました」
「おや。それなら私が手伝いますよ」
「王騎様はお休みになってください。お手をわずらわせるわけには」
「構いませんよ。私にとっては力仕事にもなりませんから。ね?」
王騎様は有無を言わせない。物腰柔らかなだけど、話しは聞かない方なのだ。
きっと、王騎様なりに私に気を遣ったんだろう。それなりに仲良く夫婦をしてますよ、という表明をしてくれているのだ。
表向きは再三の求婚に王騎様がとうとう折れてしぶしぶ結婚した、ということになっている。いや、実際のところ事実なので、否定のしようがないのだけど。
私はすべてわかった上で、摎の死後改めて求婚し、王騎様はそれを受け入れた。
王騎様の御子を産みたい女も、分家とはいえ王の家と繋がりを持ちたい一族も多い。数ある候補の中から、私を選んでくれた。
それだけで十分特別だと思うし、多くは望まない。
私自身は気にしていないけれど、王騎様としては使用人たちの会話に思うところあったのだろうか。
その夜、いつものように王騎様の傍らで背を向けて目を瞑っていると、
「、寝てますか?」
そう、声を掛けられた。
眠りに入る寸前だったので、夢で話しかけられたのか、現実でのことなのか、一瞬判断に迷う。
返事が遅れると、王騎様の大きな手が私の肩に触れる。優しく肩を押され、仰向けになりながら薄目を開けると――えらく間近に王騎様がいる。
「お、王騎様っ?」
「起こしましたか」
「いえっ、それは大丈夫ですけど、ど、どうしたんですか?」
「どうしましたかって、」
私に覆い被さる王騎様の手が、肩から腕とさがっていって、骨盤のあたりを撫でる。薄い寝間着越しに王騎様の体温を感じて、息がつまる。
「この状況、することは一つだと思うんですが」
「あ、はは……」
我ながら間抜けな言葉だとは思った。
嫁として、閨房についての知識はある。が、いざそういう事態に直面すると身体が強張ってしまって動かない。
「力を抜いてください。緊張しなくて大丈夫」
「いや、待ってください、王騎様、」
身を寄せようとする王騎様の肩に手を突っ張って止める。しかし王騎様はさして気にした様子もなく私の片手を掴むと、寝台に縫い止めてしまう。
抵抗を封殺して、私の服を乱しにかかる。
腰帯がとかれてしまい、慌てて空いている方の手で前の合わせ目を引っ張って身体を隠した。
「怯えないで、優しくします」
王騎様の声はあくまで優しい。手つきも控えめで、荒々しさとはほど遠い。私の手首を掴む手も、痛くない。
このまま黙ってされるがままに、王騎様の気の済むまま、求めるままに受け入れるのが妻としてのあるべき姿だ。
頭がぐるぐる混乱する。教わった尽くし方が吹っ飛んでいる。でも、そのままでもいいと王騎様は言ってくれている。
それならこれは、私が求めた夫婦のあるべき姿のはずで――。
窓から差し込む月明かりが、王騎様の表情を優しく暴き出す。
我に返る。
沸騰しそうだった脳内が、急速に冷えていく。
ぐっと顔を寄せられる。唇が触れそうになった瞬間、私はすんでのところで隙間に手をねじ込んだ。
手のひらに王騎様の分厚い唇を感じる。柔らかい。その感触に一瞬動揺したけど、私は唇を引き結んで耐える。
枕を掴んで、王騎様の顔に思い切りぶち当てた。
「……あのう。さすがの王騎もこれは傷つくのですが」
困ったように眉をひそめて、王騎様が言う。身体をまさぐる手が止まったことにほっとした。
本当なら激怒されてもおかしくないのに、王騎様はお優しい方だ。
「怖い気持ちはわかりますが……」
「……その申し訳ありません。王騎様の子を身ごもるのが妻である私の義務です。それを拒むつもりはありません。……ですが」
自分の気持ちをなんと言っていいかわからない。王騎様をひどく傷つける気がする。
だけど、ごまかしたままではいられなかった。
ぎゅっと拳を握って覚悟を決める。
王騎様と自分を傷つける覚悟を。
「――ですが、そんな顔で抱かれるのは、嫌です」
王騎様は目を見開いて、驚いた顔をする。どんな表情をしていたのか、自覚がないんだろう。
意を決して王騎様の頬に触れる。戦場でついた切り傷が、よくみるとうすく斜めに走っている。
「唇引き結んで、眉根を寄せて。そんな辛そうな顔で迫られても、どうすればいいのかわかりません」
これは王騎様に弱音を吐くことを禁止するような、酷い言葉になってしまわないか。と、心のどこかで思いながら、慎重に言葉を探る。
「ご無理をなさらず、今は喪に服していてください。周りがどう思っても、私は気にしません。私も摎の喪に服してます」
「……」
「義務で抱いていただくのも結構。摎の代わりが私に務まるかわかりませんが、身代わりも結構。ですが、摎を裏切っている気分になるなら、無理しないでください」
――私も、摎を裏切ってる気分になりますので。
ぼそりと付け加えた。
平静を装っているけれど、摎のことが王騎様のなかで片付けようのないものになっていることはわかる。そんな状態で私に触れるのは、自分で自分の心を傷つけるようなものだと思う。
王騎様はなにも言わない。私も、それ以上のことを言えなかった。
顔を見るのが怖くて、私は俯いて自分の手に視線を落とした。
戦いを知らない手だ。王騎様の手とはまったく違うし、摎の手とも違うだろう。
私の立場を気遣ってくれたと言うのに、やはり失礼だったろうか。王騎様のお心遣いを思えば、されるがままでいたほうがよかったんだろうか。
「」
「はいっ! すみません」
思わず背筋が伸びる。目をぎゅっとつむって、次に来るなにかに備える。殴られてもおかしくないかも、と思ったからだ。
しかし覚悟した痛みは来ず、逆に抱きしめられた。
「ありがとうございます」
私の肩に額を押し当てて、王騎様は言う。
「貴方には我慢をさせます」
「……我慢はしてませんよ。ご心配なく」
ふっと息をついて、王騎様の太い首に腕を回した。
頭を撫でて、筋肉の浮き出る背中を叩く。
王騎様は私の一回りも二回りも体格がいい。鍛え上げられた身体から滲み出る闘気は、大きな身体をさらに大きく見せる。
でも……。
今の王騎様は、すこしだけ小さく感じる。
王騎様がほんのすこし弱くなる瞬間に寄り添うことが出来たなら、この方の気持ちをほんのすこしでも軽く出来たなら、これ以上幸せなことはない。
それが一番、戦場から退いた今のこの方には必要なことだと思うから。
ややあって王騎様の寝息が聞こえてきた。重たくならないようすこし身体を浮かせてくれていたのか、急にずっしりと王騎様が重たくのしかかってきた。
その息苦しさで、妙に冷静になってきた。
つまり……。仮にも好きな男性に抱かれ、冷静ではいられるはずがないのだ。寝間着のうすい布越しにすぐ王騎様の身体がある。密着して伝わる体温。腰紐がほどけたままだから、前は全開なことに気が付いて、恥ずかしさで死にたくなってきた。
今夜、寝られるか怪しい。
肩に顔を埋めてすうすう寝ている王騎様の寝顔をちらりと覗き込むと、すこし邪な気持ちがわいてきた。
頬にかかっている髪の毛を横にのけて、整える。
本来、寝ている王騎様の御髪を整える役目は、摎であるべきだ。でも摎は死んだ。王騎様の心を持って、永遠にとどかないところに行ってしまった。
だからこれは摎に対するほんのすこしの復讐心。
勝手に死ぬから、王騎様の髪の毛にも触れない馬鹿な摎。悔しかったら化けて出ればいい。
でも、きっと彼女は化けて出てはくれない。
私の知らないところで勝手に死んだ馬鹿な摎。大嫌いで大好きだった親友。
王騎様も、私も。彼女のことを忘れられず、これから先を生きていくのだろう。
摎のことが好きだから。
2019/05/28:久遠晶