悩める愛情



 庭で、王騎様が木刀を一心不乱に振り回していた。
 素振りの度に飛び散る汗がきらめいて、虹を作るほど。
 大事な鍛錬の最中に、王騎様に歩み寄る物知らずの少女が一人。――きょうだ。

「――いつか将軍になって、お城を百個落としたらお嫁にしてください!」
「ふふ、いいですよォ」

 王騎様は話半分なのかできるわけないと思っているのか、迷う様子もなく受け入れた。きょうは赤い頬を緩ませて、拳を握って喜ぶ。紛れもなくこの瞬間、彼女の歩む道が決まったのだ。
 木陰に座って二人の話を聞いていた私は、我慢できなくなって立ち上がる。

「ちょっと王騎様! 私という婚約者がありながらどういうことですか!!」
「あ、いたんですか貴方」
「ひーどーいーっ!」

 地団駄を踏む私を、王騎様は歯牙にも掛けない。私が頬を膨らませて拗ねたふりをすれば、爺やも婆やも血相を変えて言う事を聞くのに、王騎様には全く通用しないのだ。
 ちなみにきょうに対しては効果てきめんで、彼女は右往左往して困っている。
 王騎様は素振りの手を止めて、ふう、とため息を吐いた。

「そもそも婚約の話は断り続けてるんですがね」
「今は、ですよ。十年後にはいくら王騎様でも折れてます。私が折りますから!」
「……」
「だから勝手にきょうと結婚されては困ります。私、第二夫人とか嫌ですから」
「……粘り強いですねぇ、貴方も……」

 よっぽどのびのび育てられてるんですね、と王騎様が苦笑する。
 王騎様はきょうに身振りで下がるように伝える。きょうは一礼してから一歩下がり、踵を返して城の中へと戻っていく。
 口元に手を当てた拍子に、吹き出る汗が垂れ落ちる。地面にいくつもの黒いしみを作った。
 この頃、王騎様は初陣を終え、何度か戦へ出ていた。身体に走る治りたての傷は生々しい。

「戦って、そんなに楽しいんですか? 城で私と紅茶を飲むよりも?」
「えぇ。そんなものよりずっと楽しいですよ。貴方には理解できない楽しさでしょうがねぇ」
「……でも、王騎様の言葉で、あの子は戦に出るでしょう。きょうなら戦の楽しさを理解できる、ってことですか?」
「さぁ、どうでしょう。見込みはありそうですけどね」

 王騎様は目を細めて笑った。視線の先には、屋敷から戻ってくるきょうの笑顔がある。

「お茶を淹れてもらったので、休憩にしてみんなでお菓子を食べませんか」

 紅色の頬をしたまま、私と王騎様に笑いかける。
 王騎様はきょうのお二人で、と断っていたものの、きょうの目に押され、「……少しだけですよ」と言った。


   ***


「……ッ」
「ん……」

 誰かに名を呼ばれ、意識が浮上していく。
 目を開けると、心配そうな顔をした王騎様と目が合った。

「王騎様。演習のはずでは」

 慌てて起き上がろうとするものの、途中で肩を押されて寝台に戻される。
 寝台。そう、寝台だ。私は執務室にいたはずではなかったか。身体に視線をやれば、いつのまにか普段着から寝間着に服が変わっている。

「貴方が倒れたと聞いて、演習を切り上げてきたんですよ」
「え!? んぅ……」

 自分の声に頭がぐらついた。
 そういえば夕食前に頭が痛くなって、少し休もうとソファに座ろうとして……ソファにたどり着く前に、膝が折れた。立ちくらみで立ち上がれなくなり、目の前が黒く染まっていって、動けなくなった。
 そこからの記憶がないので、そのまま倒れた、ということらしい。窓の外は真っ暗闇なので、かなり眠っていたようだ。
 屋根を叩く雨の音が強い。ずきりと肩が痛んだ。

「ご迷惑をおかけして申し訳ありません……」
「私のことはお気になさらず。倒れた時に頭を打ったと聞きましたが、痛くありませんか?」
「……少し痛いけど、大丈夫です」
「よかった」

 言われると、後頭部がズキズキ痛む。手で触れると、うっすら瘤ができていた。
 ぞわぞわとした悪寒が身体中に走っている。風邪の引き始め、というところか。

「食欲はありますか? 食べられるようなら食べた方がいい」
「あ、はい。お粥ぐらいでしたら……」
「作らせましょう」

 王騎様はテーブルの使用人を呼び、粥の支度を命じる。使用人は私を心配そうに見やった後、礼をして下がった。

「王騎様は、ご夕食は……」
「今は私のことより、自分のことでしょう? 風邪はひき始めが肝心なんですから」
「……すみません」
「怒ってはいません。むしろ、貴方の体調に気づかなかったのは私の方ですから」

 布団をぽふぽふ叩いて、気にしないで寝ててください、と王騎様は言う。けれど、気にするなというのは無理な話だ。私が恐縮していると、王騎様は笑った。

「貴方、本当に変わりましたよね。子供の頃はかなり図々しかったのに」
「うっ……! 忘れてください……」

 王騎様の言葉には容赦がない。事実なので弁明できないけど。

「あの頃は何も知らない、何も考えてない、生意気な子供でした。ご迷惑おかけして……本当に……」
「いいえ。貴方は今も昔も、よく周りに目を向けています。昔はいささか短絡的でしたがね」
「うう」
「ええ、まさか戦場に出てくるとは思わなかったです」
「だから忘れてくださいよぉ……!」

 肩の古傷が、雨のせいか風邪のせいか痛む。王騎様は恥ずかしがる私の肩を撫でて、一生酒の肴にしますよ、と笑った。


   ***


 王騎は憂いていた。眼前に広がる秦国と敵国の領土争いが難航しているからではない。
 今まさに己の傍らに控え待機している、きょうのことだった。
 王騎に憧れ、戦場にまで着いてきたきょうは、初陣の時から目覚ましい活躍を見せた。瞬く間に頭角を現し、簡単に百人将になった。おそらくこのままトントン拍子で千人将、三千人将へと上り詰めていくだろう。
 それは、王騎にとっては喜ぶことと同時に、憂えることであった。

 きょうが簡単に倒れる器ではないことは王騎自身わかっているが、戦では何があるかわからない。
 武の才能はあれどきょうはまだ年若い女であり、何より昭王の実の娘である。貴い方の血筋を絶やしてはならない。……それに、彼女は王騎を慕って戦場にまで着いてきたのだ。できれば無事でいてほしい、と思って当然だ。

「王騎様、このまま我々は後衛で待機するのですか? 恐れながら、苦戦を強いられている中央と合流し、援護したほうが良いのでは」
 眼前で繰り広げられる小競り合いを見やり、きょうが耐えかねたと言った風に進言する。
 王騎は緩やかに笑った。

「いいんですよ。中央にいる麃公ひょうこうさんはこれぐらいで倒れるほどヤワじゃありません。麃公ひょうこうさんが敵をこちらまで押しやって挟み討ちにする手はずです、信じてこのまま、相手が援軍に行かないように押さえておきましょう。見てください、多分そろそろですよォ」

 王騎は大きく手のひらで戦場に向けた。中央では、王騎の言うように麃公ひょうこう率いる部隊が敵軍を王騎隊のところにまで押し込み始めていた。
 その様子にきょうは目を見開いて驚いて、王騎に頭を下げた。

「なるほど……。大変申し訳ありませんでした」
「目の前だけが戦場ではありません。中央に気を払えるのはよいですが、仲間の力を適切に計算することが肝要ですよォ」
「さすが王騎様」

 敬意に満ちた瞳が、真っ直ぐに王騎を見つめる。
 こうやってきょうを手元に置けるのも今のうちだ。
 現在はまだ王騎隊に所属しているが、このまま武功を挙げていけばやがて王騎の部隊から独立するだろう──彼女もそれを望むに違いない。王騎の手元からきょうが離れるのは、時間の問題だった。
 ならばそれまではせめて、彼女に様々な戦術を教えてやりたい。独り立ちの際、彼女がどんな敵をも打ち果たせるように。
 例えこの思いが、彼女を過小評価したくだらない庇護欲であるとしても。
 そんなときだった。合戦に参加していない伝者が王騎の元へやってきたのは。

「王騎様!」

 馬で駆け抜けてきた伝者は、王騎までたどり着くと馬から下り、頭を下げて手のひらに拳をつけて一礼した。
 いや、その者は伝者ではなかった。鎧をつけていないのだ。彼はいぶかしむ王騎に己の名を伝え、所属を言った。
 自分は様の召使いだ、と。
 王騎の許嫁を自称する少女の名前を引き合いにだす。

「なんですか、貴方たちは……がどうかしましたか」
「その……大変申し上げにくいのですが、様が家出しまして」
「は?」
「ええっ。大丈夫なんですか、それは」

 聞き返す王騎の横で、きょうが驚いて声を上げた。

「それで、どうして私に?」
様は先日、王騎様の戦場に出る、とおっしゃっていたもので……顔を見てはいないでしょうか?」

 召使いの顔は真っ青だ。自分の言葉が正気の沙汰ではないことをよくわかっており、しかし万が一戦場にが出ていたら、と心配している。
 王騎は眉根をひそめた。確かに以前、戦場は楽しいと教えたのは王騎であるが、本気にして戦場に出てくるとは考えにくい。

「あの子も馬鹿じゃありません。家出してまで戦場に出るとは考えられませんよ」
「そ、そうですよね。申し訳ありません、王騎様――」
「――いえ。あり得ます」

 安堵して息を吐き出す召使いを遮って、きょうが呟く。
 王騎と召使いを見回して、確信を持って頷いた。

「私が様なら、家出してでも戦場に出ています」

 圧倒的な説得力を持って発せられた言葉に、王騎は頬をつり上げた。
 どうも自分の周りには、苛烈で我の強い女が集まるらしい。それは喜ぶべきかわからなかったが、退屈はしなさそうだ。

「そ、そんな……お嬢様……」
「もし戦場に出るとしたら……城の位置と街の位置からして……配属されるとしたら第三部隊になりますね」
「おそらく。そうなると将軍は……あっ」

 王騎ときょうは、同時に同じ推測へとたどり着いた。
 中央では麃公ひょうこう将軍が、部隊の人員を削りながらも奮戦している。

「……これでもしさんが死んだら麃公ひょうこうさんのせいってことになりますかねえ」
「王騎様っ」

 縁起でもない、と召使いが泣きそうな顔で悲鳴を上げる。
 きょうもこれはまずいかな、と口元に手をやって慌てている。王騎はと言うと、不測の事態にいよいよ笑みを堪えられなくなっていた。



   ***


「懐かしいですねぇ、あの時は本当に驚きましたよ」
「忘れてください後生ですから忘れてください」

 私は枕に顔を押しつけて身じろぎをした。
 顔から火が出るほど、のたうちまわるほど恥ずかしい。私の態度が王騎様を楽しませ、さらに昔話が進んでしまうとしても、平静ではいられなかった。

「まさか家出して男装までして戦場に出るとは。私も軽はずみな発言をすこし後悔しましたよォ」
「すみません本当にすみません……私もあの行動力をなぜ他に活かせなかったのかと……」
「いいじゃないですか。あれがあるから、今私たちはこうして夫婦になっているんですから」
「……それは」

 嫌味ですか、という言葉を飲み込んだ。
 王騎が私と結婚したのは、きょうが死んだからだ。きょうが生きていれば、きょうが王騎様の妻になった。それは間違いない。
 その上できょう亡き後王騎様が私の手を取ったのは──。

 初めて見る戦場。飛び散る血。鉄の匂いに混じって、消化液のすえた臭いが吐き気を催した。
 槍を持って突撃せよと言われた。鎧もなく、策は伝えられず、あったようには思えなかった。使い捨ての道具みたいにされて、私の隣にいた男の目に敵軍の矢が刺さった。進軍する敵。地鳴りのような雄叫び。後退りしてしようとした時、麃公ひょうこう様の檄が耳をつんざいた。
 曰く、後ろには民がいる、と。置いてきた妻や子を殺させたいなら今すぐ逃げよ、そうでない者は槍を握り直せと。
 我に返った私は、雄叫びをあげて地面を蹴った。眼前の侵略者に立ち向かう為に。
 無我夢中で戦った。親に習っていたのは護身術程度の武術でしかない。生き残ったのは運だ。ややあって敵が静かになった頃……王騎様ときょうがやってきた。

 ──おやおや、満身創痍、という感じですかねェ、さん。
 ──いえ。これは勲章と言うのでしょう。それでも気にしてくださるなら、どうぞこの傷の責任をお取りくださいまし。

 槍を支えに、震える足をごまかして、私は馬上の王騎様に威勢よく笑った。王騎様は笑って、考えておきますと言った。

 だから──私との結婚は、ひとえに、簡単な罪滅ぼしだろう。

 王騎様は拳を握る私を見て、ため息を吐いた。

「意地悪を言いたかったわけではないのですが」
「……ええ」
「わかっていませんねェ。誤解されている気がするのですが、私はこう見えて貴方をそれなりに気に入っているんですよ。誰でもいいから貴方を選んだわけじゃありません」
「え?」
「家出してまで戦場に出た貴方は馬鹿、としか言いようがありませんが、何も考えてない馬鹿ではなかったですからね」
「え?」

 なんの話だろう。あの時の私は、本当に何も考えていなかった。王騎様が戦場に見いだすものを知りたくて、家出をして男のふりをしてまで戦に参加した。つまり、何も考えてない馬鹿だ。
 私が聞き返したとき、扉越しに召し使いの声がかかった。粥を運んできたらしい。
 動けない私に代わって王騎様が粥の置いた盆を受け取り、召使いを下がらせる。

「自分で食べれますから……」

 食べさせようとする王騎様から、半ば無理矢理れんげを受け取る。
 おかゆを崩して湯気を立たせ、息で冷まして口の中に突っ込んだ。熱い。

「急がず、ゆっくり食べなさい」
「……はい」

 のんびりした声に、おかゆを飲み込みながら頷いた。
 慌てさせてるのは誰だろう。知っているくせに。
 頭が痛い。身体が火照って、汗が蒸れる。
 背中を撫でる手の大きさにどぎまぎして動揺しているのは、私だけだ。
 私のことをそれなりに気に入っている、か――。喜んでいいのか微妙なところだ。王騎様も意外に、私に向ける感情を持て余してくれていれば嬉しいけれど。

「あの時、何も考えてなかったですよ。私」

 だから恥ずかしい過去なのだ。

「貴方が当時のことを『何も考えていなかった』と思うのなら、それは貴方に染みついたごく自然な考え方なのでしょう」

 俯いてれんげに取ったかゆに息を吹きかけていると、耳にかけていた髪が垂れ、視界を塞いだ。自分で髪を整えるより早く、王騎様の指が頬に触れた。
 髪の毛を直して、私の顔を上げさせて覗き込む。
 王騎様は、とてもきれいな目をしている。夢を追う少年のような目は、きょうや昭王の死によって幾分か曇ってしまったと思っていたけれど――。
 こうして間近に見つめると、瞳の奥に炎のような熱があることがわかる。

「ンフフ。ま、わざわざ懇切丁寧に褒めてあげるほど暇じゃありません。貴方は早くそれを食べて、さっさと寝てくださァい」
「ひ、ひどいですね、それは。恥ずかしい記憶ほじくり返すだけほじくり返して」
「忘れてる貴方が悪いんですよ」

 王騎様が目を細めて楽しそうに笑うので、私はそれきりなにも言えなくなってしまった。
 まったく、罪な人だ。私の心を掴んで離さない戦神様。



   ***


「そういえば、城の方でなにか変わったことは――?」

 しばし黙り込んでいた王騎は、沈黙に耐えかねて口を開いた。
 既に食事を終えていたは、既に丸まって寝息を立てている。その額に手をかざすと、触れるまでもなく熱が伝わってくる。
 ずいぶんと無理をしていたのだ。
 子を成せない妻が、家のなかでどういった目に晒されるかはわかっている。重圧は心労に繋がったことだろう。
 苦労をかけている自覚はある。はいつでも待つと言ってくれるが、王騎自身、きょうの件の整理がつくとは思えなかった。――整理を付けたくない、という奥底の思いを理解するに、甘えてしまっている。

 あの日、世間を知らぬ少女は家を飛び出し、戦に出た。最も苛烈な戦場のど真ん中で、凄惨な戦いを目の当たりにしながら――彼女はそれでも二本の足で立っていた。
 統率する伍長や将を失い、途方に暮れる兵達の首根っこを掴み。己の震える足を叩いて、前を向け、と檄を飛ばしていた。
 頬を裂いた矢傷も、肩を抉った槍傷も、婿捜しには致命的な汚点となる。それをわかっていても、逃げ出さなかった。

 ――どうですか、戦場は。楽しそうですねェ。それとも、後悔してますか?

 王騎が笑いながら声を掛けた時、きっと彼女は怒るだろうと思った。楽しいわけがない、と。
 だが彼女は、震える身体を押し殺して笑って見せた。

 ――夫が戦に出たら、その間領地を守るのはわたしです。前線でこのような戦いをしていると思えば、夫への尊敬の念も深まるというもの。

 わがまま放題で育てられた箱入り娘かと思っていたが、花嫁教育と責任感は叩き込まれていたらしい。
 王騎は彼女のそんなところに好感を持ったし、尊敬の念は夫婦として暮らし始めて、一層強くなった。
 眠りこけるの顔にかかる髪の毛を耳元に寄せてやる。風邪が酷くなっているのか、頬は先ほどよりもかなり紅潮している。すると、誰も気付かないほどだった矢傷がうっすらと浮かび上がる。

「――妻を娶る気などさらさらなかったのに、貴方だから応じたんですがねェ」

 王騎なりの愛情と感謝は、中々伝わりにくいようだ。
 もっとも、伝わっていたところで傷つけてしまうだけかもしれない。それは困る。これ以上、彼女を傷つけたくはない。
 きちんと感謝を伝えるには時間が必要だった。王騎の心が癒える時間が……。

 王騎は彼女の汗ばんだ額に唇を押しつけた。
 明日、体調が悪化しているだろう彼女をどう看病しようかと考えながら。





2019/07/03:久遠晶
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