触れ合う情動

 馬陽が趙軍に攻め入られ、城を落とされた。民は陵辱の限りを尽くされ、軍はそのまま秦を蹂躙すべく進軍を続ける。
 その防衛線の総大将に、王騎様が呼ばれた。
 当然だ。
 今すぐ秦にいる人間に、防衛に長けた人間はいない。王騎様に要請がかかるのは道理だろう。
 今まで出撃要請を拒み隠居したと嘯いていた王騎様も、今回は受け入れるだろう。馬陽を復帰戦に選ぶに違いないと、確信があった。
 でも、城に来た伝者から要請を聞いた時、王騎様は即答しなかった。

「少し時間をください」

 と。
 戸惑う伝者を一度下がらせて待機させ、私を呼び出して。
 要請の内容を伝え、私の反応を待つ。

「なぜ、すぐにご準備なさらないのです? 今回は出撃されるのでしょう?」

 私は疑問をぶつける。秦に恨みを持つ趙国軍が、民を生かしておくはずがない。一刻も早く止めに行かねばならない。
 王騎様は逸る私に目を細め、ゆったりと頷いた。

「ええ。貴方の言う通り、出撃はするつもりですよ」
「ならばなぜ……。事態は一刻を争います、早く出立すべきです」
「その前に、貴方と話をしておくべきだと思ったのです」

 その言葉に、息が詰まった。
 実に七年ぶりの出撃。馬陽への出撃。その直前に、私と話をしておくべきこと──。その、意味。

「……きょうのことですね。わかっております」

 言葉を絞り出すのが精一杯で、私は俯く他なかった。
 摎は馬陽の攻略中に死んだ。公的には勝ち戦の帰りの病死だけど、怒りに猛る王騎様を見れば戦死だと容易に察せられる。
 王騎様は摎が死んだ地を守りに行くのだ。

「はい。……私はこの馬陽の戦いで、今までの自分に決別をしようと思います」

 ──とうとうこの時が来た。
 目をぎゅっとつむり、気づかれないように拳を握りこんだ。

 七年間お前と共にいたが、やはりお前は愛せない。妻として力不足。きっと、そう言いたいのだろう。
 武将として生きる王騎様の心に、私は食い込めない。摎のように並び立つことが叶わないなら、後ろに控え帰る場所を守ろうとしてみたけれど、甲斐はなかった。
 わかっていた事実だから、傷つきはしない。
 むしろ、昭王という止まり木を失い、摎を失い、くすぶり続けていた王騎様が再び戦場に舞い戻るのだ。喜ばしいことじゃないか。
 私は、王騎様の言葉に傷つかない準備を固める。じっと黙り込んで私の気持ちの整理がつくのを待ってくれる王騎様がありがたい。
 呼吸を整えて、目を開く。

「馬陽から帰ってきたら、私を支えてくれた貴方にきちんと向き合いたいと思っているんですよ」
「今までありがとうございました。荷物をまとめて、早めに出て行きま──え?」

 俯いていた顔を上げながらまくし立てた言葉が、王騎様の声と重なった。ほとんど同時に喋ってしまったけど、王騎様の言葉の意味……は。
 目を瞬かせる私に、王騎様はフウと息を吐いた。

「……貴方ならそう言うと思ったんですよねェ。予想を裏切らないと言うか、なんというか」
「そ、それは……」

 王騎様は吐息混じりに笑う。
 持ち上がった唇は王騎様の通常だ。だけど瞳の色が、いやに優しくて、真剣で──。

「私を、待っていてくれますか?」
「王騎様、それは……っ!」
「貴方には随分と甘えてしまいました。善き夫とは到底言えない私ですが、これからはそう在れるよう努力していきたい」

 これは──これは。
 戦場に戻る為、私と決別するのではなくて。
 摎との過去を決別し、私を愛してくださる、愛そうとしてくださる、と言うことで言うんでしょうか。

「今後は、貴方にはもう少し自惚れてもらいたいものですからね」

 視界が歪む。涙が溢れて、嗚咽がもれそうになる。
 泣くのは嫌だ。情けない。王騎様にはそんなところみせたくない。
 だから歯をくいしばって、拳を叩いて背筋を伸ばした。

「──ご武運を、王騎様」

 私の答えに、王騎様は笑った。目を閉じて、言葉を体に染み込ませるように。

「……ココココ。まぁ貴方が待っていようがいまいが、この城は私の城なのでここに帰ってくるんですけどねェ」

 口元に手の甲を当てての笑み。王騎様のいつもの笑みだ。

「さて。では馬陽の地を荒らす者たちをささっと追い払ってきますか」
「はい。こうも待たされては、伝者も気が気でないでしょう」
「いいんですよ。どうせ出撃自体は明日になるでしょうから、遅刻しても」

 そこまで計算に入れていたのか、王騎様は。
 ゆっくり戦支度をして、揚々と城を後にする背中は大きい。
 あの背中が戦場で戦い、敵を屠る。そして私のためにこの城に戻ってきてくれる。
 それはどんなにか嬉しいことだろう。
 私に向き合いたいと言ってくれただけで十分だと言うのに。
 王騎様。私の好きな人。手の届かない人。美しい人。強い人。愛している人。
 私に背を向け続け、眩しいものを見続けていたあの人が、私に目を向けてくださる。
 その言葉だけで充分だった。

 だからあの人の骸が戻ってきた時、輝かしい未来が待っていたのに、といった絶望的な気持ちにはならなかった。
 この気持ちはきっとかつて日王騎様も味わったものだと思えば、皆の前で泣き崩れることもしないでいられた。

「五体満足の状態で返してくれてありがとう。貴方たちは王騎様の誇りでしょう」

 笑う余裕さえあった。
 大丈夫。
 私は立てる。
 一人でも大丈夫。
 だって私は、王騎様が認めてくれた……王騎様の妻なのだから。



   ***


「……っ」

 体が揺り動かされる感触で意識が浮上する。かすんだ目を開けると、王騎様が心配そうに私を覗き込んでいる。

「王騎様……」
「随分とうなされてましたが」

 その言葉で、先ほどまでのことが夢だったのだと気づく。それでも信じ難く、王騎様の手を掴んだ。
 分厚い手のひらは暖かい。生きていることを教えてくれる。

「……よかった。実は、馬陽で王騎様が死ぬ夢を見て……」
「ああ……」

 王騎様は私の頭を撫でた。恐怖をなだめるように、私の背をさする。

「王騎はここにいますよ。ま、確かに馬陽では洒落でなく死にかけましたが……こうして生きています」

 力強い身体が私を抱きしめる。その体温にホッとする。
 馬陽から王騎様が半死半生で帰還した時は血の気が引いたけど、王騎様はこうして生きている。それを実感する。
 当初は包帯でぐるぐる巻きだったけれど、今は包帯も取れ、全快に向かっているのだ。

「飛信隊の信には、感謝してもしたりませんね」
「ココココ。あの少年は本当によくやってくれました。調子に乗りやすいのがたまにキズですが」

 王騎様が命からがら生き延びたのは、飛信隊の信の尽力によるものだと言う。
 とんでもない爆発力と粘り強さを見せ、瀕死の王騎様を支えて撤退したと聞いた。彼がいなければ、王騎様を守り抜くことはできなかったかもしれない、と、王騎軍の者が口をそろえるほどに。
 命の恩人とも言える少年の顔を思い出しているのか、王騎様は頬を吊り上げた。その目は優しく、楽しそうでもある。彼の今後の活躍に期待すると同時に、どうしごいてやろうかとわくわくしているのだろう。

「……ですが、寝台で他の男の名前を出すのは関心しませんねぇ」
「えっ?」

 寝台に押し倒されて、覆い被さられる。サラサラの髪が頬のそばに落ちてきて、くすぐったい。
 今まで、寝物語に武功のお話を聞かせていただいたことは何度かある。その流れで他の武将を話題に出したことだってあるけれど。なぜ今回に限って。
 困惑する私が楽しいのか、王騎様は嬉しそうだ。

「……傷だらけで、馬陽の後遺症もある私よりも、若い少年のほうがいいですか?」
「えっ!? あっ、そ、そういうことですか!?」
「ココココ、今更気づきますか」

 暗に嫉妬したと言っていることに気づき、頬がかっと熱くなる。
 王騎様は鳥のさえずりのような笑い声を響かせているので、私をからかう口実にしているのだろう。

「も、もう。意地悪言わないでください。私、王騎様一筋なんですから」
「──ええ、知っています。……私は果報者ですね」

 王騎様の大きな手が、わたしの顎を持ち上げる。

「口付けても?」

 身を寄せられ、そう問われる。私は目をつむって、自ら王騎様のくちびるに触れた。
 ほんの少し触って、すぐ離すと、王騎様のくちびるが追いかけてくる。
 何度も何度も押し付けては離して、押し付けての繰り返し。それは徐々に濃厚になっていって、舌を絡ませ合うものになった。

 胸元を隠す私の手を取ると、王騎様は寝台に縫い付けた。手つきはあくまで優しく、無理強いをするものではないけれど、有無を言わせない力強さがある。

「あ……」

 気恥ずかしさがこみ上げてくる。
 王騎様の顔が見れなくて、顔をそらした。
 寝台の上で縮こまるなんて、生娘のようだ。
 いや、実際に私は生娘なのだけど。
 結婚適齢期で結婚し、七年夫婦をやっているけれど、そういったことは一切、してこなかった。
 子を成せない妻への風当たりに気を使った王騎様が、何度か私を抱こうとしてくれたことはあった。だけど私が拒んで──なにも起きていない。

 だから、ためらってしまう。

「……馬陽で、区切りはつけられましたか?」

 意を決して、逆に問いかける。
 馬陽から帰還されてからというもの、王騎様は明らかに変わった。
 怪我の後遺症のせいで二度と戦場には出られないだろうことに動じず、「残念なことは確かですが、貴方との時間が増えると思えば、悪くはありません」と軽口を叩いてみせる。以前よりもずっと、私によく話しかけ、気にかけてくれる。慈しまれている、と言ってもいい。恐縮してしまい、戸惑うほどに。

 そう言った目に見えての変化があるからこそ、私は王騎様の口から、馬陽を経た今の心境を聞きたかった。
 王騎様は行為を中断されたことを怒らなかった。それが当然だと言うように微笑んで、私に覆い被さるのをやめて隣に寝転んだ。
 私に首の下に腕を通し、腕枕をしながら、語りはじめる。

「馬陽で生死の境を彷徨った時──摎が夢に出てきました」
「摎が?」
「ええ、なにも喋りはしませんでしたが、私を見て微笑んでいました。……幽霊か、はたまた幻覚かはわかりませんがね」
「そう、ですか」

 摎は己が死んだ地を守ろうとする王騎様を、どのような思いで見つめたのだろう。

「摎は……綺麗でしたか?」
「ええ。記憶の中の彼女と同じ、美しいままでした。そんな摎を見て、ああ、彼女は本当に死んだのだ、と、当たり前のことを考えました」

 目を細め、憧憬の色を讃える。摎のことを思い出すこの目を見ると、いつも私は切なくなる。王騎様の心は私には掴めないのだ、と、暗い気分になってしまう。
 だが王騎様は、すぐに感傷に耽るのをやめ、微笑んだ。

「私は、これからの時間を貴方と共に歩んでいきたい。過去を向いてばかりではなく。……そう思いました。だから、過去の自分とは決別できたと思いますよ」

 私の頬を愛おしそうに撫でて、そう言った。
 私と共に歩んでいきたい、と。
 その意味に気づくと、顔がぼっと熱くなった。私はうろたえて、王騎様から視線を逃してしまう。
 緩みそうになる頬を隠したくて、口元を手で隠した。

「い、いいんですか、本当に。こっ、こんな私なんかで」
「おや、この王騎の人を見る目を疑うと言うんですか? 中々大きく出ますねェ」
「……でも、でも私、こんなに老けちゃって。おばちゃんになっちゃいました」
「そんなの、私もです。お互い様ですよ」
「でも、私」


 王騎様が私の名を呼ぶ。
 口元を隠す手を掴んで、外させて。
 寝台に横向きに寝転びながら、大きな唇を私の唇に押し付けた。その熱量と感触に、涙が出そうになる。
 ゆっくり王騎様の唇が離れていく。ひどく優しそうな顔の王騎様が、私の額に額を押し当てる。

「……コココココ。七年夫婦生活やってする会話じゃあありませんねェ」
「ご、ごめん、なさい」
「謝らないで。私のせいなのですから」

 王騎様が再び口づけする。押しては離れ、鳥が啄ばむように私の唇を食む。

「お、王騎さ──ん、ふぅっ」

 口を開けると、王騎様の舌が入り込んできた。歯列を辿り、舌を絡め、上顎をくすぐる舌は別の生き物みたいで、私は思わず硬直してしまう。

「んっ、ふっ……っ、~~~~っ」
「……息できてます?」

 酸欠で意識がかすんできた頃、ずるりと舌が引き抜かれた。
 心配そうに王騎様が私の顔を覗き込む。私ははっはっと息を整えながら、「大丈夫です」と頷いた。

「も、申し訳ありません。房中術の知識はあるのですが、その、口づけのやり方とかは……実践する機会がなかったので」
「構いませんよ。私もそう経験があるわけじゃありませんし……」
「そう、なんですか?」
「英雄色を好むと言いますが、私は女を抱くより戦をしている方が楽しかったので」
「あぁ~……」
「色事からは離れてましたね。特に身近に摎がいましたし……そういうの、教育に悪いでしょう?」
「ふふ、なるほど」

 思わず吹き出してしまった。
 子供の頃「百個城を落としたらお嫁にしてください」と摎に求婚された王騎様は、二つ返事で受け入れた。約束を現実にするため日夜戦う摎を見続けていれば、結婚前とはいえ女を抱こうとは思えなかったのかもしれない。
 つまりはずっと相思相愛だったわけで……。摎にとっての宝物の約束は、王騎様にとっても同様だったはずだ。
 私はそれを、横からさらう立場。
 薄暗い感情がよぎる私の頬を、王騎様の指がつまんだ。現実に引き戻される。

「こら。まぁた変なこと考えてますね」
「いたたたた。も、申し訳ありません」
「そんな貴方だからこそ、こうして結婚してもいいと思えたんですが。ま、寝台の上で他の女性の名を出した私が悪いですね」

 王騎様が目を細めて微笑んだ。
 摎のことを話題に出したのは私なのに……。
 胸を締め付ける切なさは変わらないし、摎に申し訳ない気持ちは消えない。
 けれど、王騎様がこうして私の方を向いてくれる。それならば、王騎様に向き合わないのは失礼だ。
 私は色々な気持ちを飲み込んで、王騎様に口づけた。
 そうすると本当に優しく慈しむように王騎様が笑うので、私も頬を持ち上げた。
 やっぱり私は、この方が好きだ。
 心の底からそう思って、目を閉じた。





2019/10/06:久遠晶
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