花は手折らず
ゼンラニウムが横浜の郊外ほど近くまで足を向けたのは、必要に迫られてのことだった。
10月末日──冬の夜、横浜中華街ではハロウィンのイベントが行われ、道には仮装した人間たちが溢れかえる。
吸血鬼に仮装した人間たちが十字架と木の杭を持って往来を闊歩し、料理屋ではにんにくをふんだんに使ったメニューを展開する。吸血鬼に仮装しながらにんにく料理を食べる、というアンバランスさがウケているらしいが、生粋の吸血鬼にはたまらない話だ。ニンニクの匂いは植物系吸血鬼であるゼンラニウムの敵ではなかったが、十字架や木の杭は話が別だ。
何も知らずに吸対センターから散歩に出向き、そこかしこにある十字架の飾り付けから逃げるようにして走り回った結果、郊外の古屋敷まで来てしまった。
──うむ、完全に道に迷ってしまった。どこかの家で電話か地図を借りたいものだが。
ゼンラニウムは顎に手を当て、古屋敷の縁側から漏れる部屋の明かりを見ながら考え込んだ。
日没から久しく、夕飯時も過ぎた頃合いだ。老人であればとっくに寝ている時間帯であるし、起きていたとしても吸血鬼が来訪すれば警戒させるだろう。
民間人を怯えさせるのはゼンラニウムの本意ではない。
しかしこのままでは吸対センターへの帰還すらままならない。ゼンラニウムは困った末、跳躍して古屋敷の塀を飛び越え、古屋敷の庭へと着地した。
「うーん、やっぱりよくわからないなぁ?これは」
すると、庭の隅から声が聞こえて来た。見れば花壇で座り込む女性の背中がひとつ。手元で植木バサミが煌めいているので、どうやら年越しの為の剪定をしているようだ。10月末は時期としてはかなり遅いが。
足元のぼんやり照らすライトを頼りに、薄暗がりでの剪定に苦労していることが見てとれる。
吸血鬼たるゼンラニウムには、彼女が片手に持つ園芸教本も植物の様子も全てが見通せた。
つぼみをつけた白いバラ。冬を前にして枯葉がいくつもついているので、確かに剪定が必要な状態だ。
「でも……思ったよりだいぶ切っていいんだもんね。これ、全部行っちゃっていいのかな?」
試行錯誤をしながら枝をパチパチと切っていく彼女が、バラの幹そのものにハサミを掛けた。
「……待て!」
「えっ!?」
作業が終わるのを待ってから声をかけようとしていたゼンラニウムは、思わず強めの語気で声をかけた。
肩をびくつかせた女性が振り返り、ゼンラニウムを見て表情を引きつらせた。そのことに彼は気づかない。
「木の幹を根本から切ったら、もう枝が生えてこなくなる。殺してしまうことと同じだ。それだけは避ねば」
「えっ! えっ!」
突然の侵入者に慌てふためいた彼女が、反射的に植木バサミに力を込める。鋭い刃が幹に食い込みゼンラニウムは悲鳴をあげた。
「だからっ! 切るなと!」
力づくで止めさせなければ、とゼンラニウムは大股でズカズカと歩み寄った。歩幅はちょうど足元に点在するライトの間隔と重なり、花咲く股間をライトアップさせながら、己の筋骨隆々さをも見せて迫る形だ。
「いやああああ警察ぅううう!!!!」
「っ! いかん!こうなったら!」
本を振り回しながらこっちへ来ないでと威圧する彼女。もう片方の手が揺れ、ハサミがバラの幹にギチギチと食い込んでいく。己の股間を根本から刈りこまれるような錯覚を覚えたゼンラニウムは、股間の本体から蔓の触手を伸ばした。
彼女の両手首を拘束し、ハサミを持つ側の方は指先までもぎちぎちに捉える。
「優しく力を抜くんだ。ゆっくりとだ。そうだ……悪いようにはしない。だから我に委ねてくれないか」
そのバラを預けてくれれば、適切な形で剪定してみせよう──ゼンラニウムの真摯な気持ちが通じたのか、彼女はゆっくりと植木バサミから力を抜いた。
己の行いが何をもたらすことだったのかを自覚したのか、表情は青ざめて人間とは思えない顔色になっている。
植木バサミがぽとりとバラの植え込みに落ちる。幹に傷がついてしまっているが、致命傷ではない。適切な処置をすれば、枯れずに済むはずだ。ゼンラニウムは安堵の息をはいた。
「ふう……実力行使で済まなかった。私はゼンラニウム、吸対の協力被験者──ぬっ!?」
「う、う?ん全裸吸血鬼……ぶくぶく……」
自己紹介のため彼女に向き直ると、彼女は泡を吹いて倒れていた。
ゼンラニウムは飛び上がって驚いて、ひとまず彼女を落ち着かせるため、抱き上げ、縁側から屋敷に上がったのであった──。
***
「うむ……うむ……そうだ。よろしく頼む」
吸対センターへの連絡を終え、ゼンラニウムは受話器を戻した。ガチャンと昔ながらのいい音がして、通話が切れる。
廊下を振り返ると、彼女が心配そうな顔をして部屋から顔を出していた。
「迎えが来ることになった。怖がらせてしまってすまないな」
「いえ……私こそ、顔を見るなり気絶してしまい、すみませんでした。失礼な真似を……」
「なにを言う。呼び鈴を鳴らしもせずに侵入したのは我の方だ。むしろ、快く電話を貸してくれ、なんと礼を言ったらいいか」
「にんにくとか十字架とかって、私にはわかりませんけど、辛いものだと思うから」
「感謝する」
ゼンラニウムは紳士的に会釈した。頭を下げられた少女は「そんな、」と慌てて、視線を逸らしたまま手を振った。
指先に貼られた絆創膏が気にかかる。
以前植木ばさみで誤って切ってしまったのだという怪我が、先ほどゼンラニウムが蔓で指先を締め上げた為開いてしまったのだ。赤黒い血が絆創膏に染み込んでいる。
ゼンラニウムのすまなさそうな視線に気づいた彼女が、慌てて指先を隠した。
「気にしないでください」
「血は止まったのか? すまなかった……」
「いえいえ。そうだ、お茶でも淹れましょうか。吸対の方が来るまで、時間かかりますよね」
「む、流石にそこまで世話になるわけには……」
「そんなこと言わないで。せっかくなので」
「そこまで言われたら断れぬ。せれ頂こう」
有無を言わせない口調に、断るのはかえって失礼だと判断したゼンラニウムは頷いた。
電話のある廊下から茶室に場所を移し、彼女が湯呑みに茶を注ぐ。
「……そういえば……視線を合わせるのが苦手なのか?」
「え?」
「我の方を見ないから」
なんの気もなく問いかけると、彼女は戸惑ったように視線を彷徨わせた。
「だって、全裸だから」
「うむ。我が名はゼンラニウムだ」
「服を着てくれれば……」
「な、なんだと!? 服を着ろだなんて破廉恥なっ!」
「え、えぇっ!?」
頬を染めて声を荒げるゼンラニウムに、彼女は驚いて肩を震わせた。その拍子に湯呑みから茶がこぼれそうになり、ゼンラニウムは慌てて手を伸ばした。
急須の角度を調整し、事無きを得る。
「す、すみません」
「よいのだ。……だが、婦女子があまりそういうことを大きな声で言うものではない……」
「はぁ……」
彼女は少し困った顔をして、「文化圏が違うのかなぁ」とつぶやいた。真意は、ゼンラニウムにはわからない。
ゼンラニウムは開け放された障子から庭の様子を見やった。先ほども感じたが、所狭しと鉢植えが置かれている。本来は観る人間の印象も考えて配置されていだはずだが、位置が所々ずれて、ちぐはぐになっているような印象を受ける。
「死んだ祖父の趣味だったんです、園芸。私が受け継いだはいいものの、管理がわからなくて。手探りで……」
「なるほど」
通りで園芸の規模と彼女の知識レベルがそぐっていないはずだ。突然大規模な庭園を管理をすることになり、途方にくれているらしかった。
「祖父の形見だから大切に育てたいんですが、このままじゃみんな枯らしてしまいそうで」
「そんなことはない。正しい知識さえ身につければ、いい園芸家になれるはずだ。保証しよう」
「本当ですか?」
「あぁ。植物と真摯に向き合えるのは才能だ。園芸に必要なのは植物の体調や容態に気づく細やかさだからな」
冬も厳しくなってきた10月末。冷え込む夜に外に出て、寒さに震えながらも植物のために何かしたいと思う。それだって立派なことだ。
「……ありがとうございます。優しいんですね、ええと、ゼンラニウムさんは」
「これでも植物系吸血鬼だからな。……よければ、剪定の方法を教えようか?」
「本当ですか!」
彼女が瞳を輝かせ、茶托に身を乗り出した。その喜びように一瞬気圧されたゼンラニウムは、教え甲斐がある、とすぐに気を取り直した。
***
イベント時期の吸対は忙しい。羽目を外した吸血鬼の取り締まりや警備などの治安維持。酒に酔って暴れる人間と吸血鬼を警察官と協力して保護したら、服にゲロを吐かれたこともある。この仕事の多くは地味であり、かつ過酷だ。
やりがいを感じているからこそサギョウは吸対にいるのだが──それと、面倒な仕事に気が進まなくなるのは別の話だろう。
「やんなっちゃうよなぁ?ゴビー?」
新横浜の郊外まで車を走らせながら、助手席に座る相棒に問いかける。独特な鳴き声をあげるゴボウの吸血鬼野菜は、サギョウの憂鬱をわかっているのかいないのか。
「ゼンラニウムを保護してセンターに帰ったらご飯にしような?」
協力被験体が吸対の施設を出て散歩したかと思えば、ハロウィンの飾り付けの十字架に目をやられ、逃げるように街をさまよった末に郊外の民家で保護された。家主からの通報が入り、迎えにサギョウが抜擢されたのだが、はっきり言って気が重い。
──通報したのは女の人だったって言うし。ゼンラニウムだし……ひどい迷惑はかけてないと思うけど、全裸だしなあ……。
歩く猥雑男を放置しておくな、吸対の治安はどうなっているんだ、とクレームを直接を受けると思うと胃がキリキリ痛む。
ゼンラニウムは以前街で暴れたことがあり、その後処理の際そう言ったクレームを何度も受けた。
新横浜ではゼンラニウムの認知度も上がったためクレームは減ったが、郊外となると話は別だろう。
ゼンラニウム自体は紳士的な男であるが、突然全裸の吸血鬼に家に押入られたら婦人の恐怖は察するに余りある。
通報の入った住所に到着し、塀の前に車を停めた。
屋敷を見上げてため息をつく。
年期の入った屋敷は広く、蔵の屋根が塀越しに見て取れる。広い家だ。こう言う屋敷に住まう婦人は、吸血鬼反対派が多い──。
頬を叩いてインターホンを鳴らした。
所属と名前、要件を手短に名乗ると、思っていたより若い声が「どうぞ」と言った。
開け放された門を通って玄関の扉の前で控えると、家の奥からパタパタと人がかける気配がする。
扉が開いた瞬間、頭を下げる。
「吸対のサギョウです。本日はうちの協力被験体がご迷惑を──」
「と、とんでもないです! こんなに早く来ていただいて、ありがとうございます。もしかして急がせてしまったでしょうか。お忙しいのにすみません」
顔を上げてください、と慌てる女性はまだ年若かった。女子大生ぐらい、だろうか。利発そうな顔立ちを、心配そうに歪ませている。
「恐れ入ります。こちら、お詫びになるかわかりませんが──」
「わあああっ、とんでもないです! 受け取れません! むしろ私のほうがお礼をしたいぐらいで!」
「お礼?」
どうにも話が噛み合わない。
ポケットマネーで購入した菓子折りを突き返す彼女は、嫌味ではなくそう思っているようだ。
「薔薇の剪定の仕方を教えてもらったんです。それだけで十分」
「うむ。彼女はとても飲み込みが早かったぞ」
廊下の奥からゼンラニウムが姿を現した。相変わらずマントを羽織っただけの全裸姿で、悠然と腕を組んで歩いてくる。
「なんでお前が一番偉そうなんだよ!? ほら、お前もこの人に謝れって」
「礼は先ほど済ませたが……。すまなかったな、娘よ。謝礼にこれを──」
「あっそういうのはいいから」
「ムウ。ダメか……」
股間に咲き誇る花をまさぐるゼンラニウムにサギョウがぴしゃりと言い放つ。ゼンラニウムがしょぼくれた。
全く油断も隙もない。
協力被験体とは言え、隙あらば同胞を増やして繁殖しようとする本能はサギョウたちを悩ませる。
股間をまさぐる全裸男に家主が不快にならなかったか心配したが、当の彼女はくすくす笑っていた。
「面白い人ですね、ゼンラニウムさんって」
予想外に好意的な反応だ。
とはいえゼンラニウムに視線を合わせようとはしないので、恥じらい自体はあるらしい。
もう一度お詫びと礼を言って、お土産をなんとか押し付けて、ゼンラニウムを回収する。
彼女は丁寧にも家を出て、車の前まで見送ってくれた。
「本当にありがとうございました」
深々頭を下げる姿にサギョウのほうが恐縮してしまう。
「うむ。きっといい園芸家になれるさ。頑張るのだぞ」
──こいつこそもう少し恐縮すべきだ。
サギョウは思ったが、永きを生きる吸血鬼に謙虚さを求めても仕方ないのかもしれない。
「なにかお礼がしたいです。可能であればゼンラニウムさんに贈り物でもしようと思いますが、何か欲しいものとかってありますか?」
「いやいやいや、そんなのとんでもないですって! こいつのことなんか気にしないでくださいよ」
「欲しいものか、ふむ……」
「お前も考え込むなって! ゼンラニウム!」
贈り物は受け取れません、手紙でも書いてやればゼンラニウムも所長に怒られないで済むので……とサギョウは早口で続け、車のドアを開けた。ゼンラニウムに早く入るよう促す。
せっかく好意的に終えられそうなのに、ゼンラニウムが何かやらかして無為になったらたまらない。
「ほら、ゼンラニウム」
サギョウがゼンラニウムの肩を掴むより早く、吸血鬼は一歩前に出た。伸ばした手が宙を掻く。
ゼンラニウムは彼女の手を取った。
「礼ならば──」
見れば彼女の指先には絆創膏が貼られている。最近の怪我なのか、赤黒い血が染み込んでいる。
紳士が婦人に挨拶をするようにその指先に持ち上げ、身をかがめてキスをする。
絆創膏の血をペロリと舐めて。
「これだけで良い」
吸血鬼の牙を見せて、ニヤリと笑う。
恭しく口元に唇を寄せる様子は、ダンディな吸血鬼が若い人間を口説いているようにも見える。彼が全裸の不審者でなければ、ティーンエイジャーの好きそうな恋愛小説の一幕になったかもしれない。しかし股間は満開だ。何をどう見ても、そんな美しい場面に思えるはずもない。素足の全裸男だ。
サギョウが悲鳴をあげてゼンラニウムを引っぺがすより前に、ゼンラニウムはみずから身を離した。
紳士的に一礼をした後、素知らぬ仕草で車の後部座席に乗り込む。
「どうした。長居は迷惑になるぞ」
そんな正論まで言ってのける。
サギョウは硬直している彼女にもう一度謝罪をして、慌てて車に乗り込んだ。
逃げるように屋敷を後にする。
正気に戻ってクレームが爆発する前においとましよう、という魂胆だったが、彼女の頬が真っ赤になっているので、逃げる必要はなさそうだったが。
股間満開の全裸男にドンびくではなく顔を赤くして受け入れる女性というのも想像できず……また想像したくもなくて、結局サギョウはアクセルを踏んだのだった。
「……なぁ、ゼンラニウム。彼女の希望もあるから、特に処分とかはないんだけどさ」
「うむ」
「最後のキスはよくなかったよ。指先とはいえさ」
「うむ」
「セクハラだし。それに、指先の血、舐めただろ」
「うむ」
「…………あのさぁ、一滴だけでこんなになるものなの?」
サギョウの首筋を、植物の蔦がうぞうぞと這い回る。ゼンラニウムの股間が暴走したものだ。
屋敷を離れて角を曲がった瞬間、ゼンラニウムの股間がぶわりと咲き誇って、後部座席のみならず運転席にまで侵食しつつある。助手席のゴビーは蔦と葉と花に取り込まれて、足しか見えない有様だ。
「すまない……まさかあそこまで美味いとは思わなくてな……」
「まぁ、お前が野生化しなくてよかったよ。襲ってたら流石に俺も戦わないといけないし」
彼女の前で満開になることは気合で耐えたのだろう。人間の男で言うところの、不意のラッキースケベに盛り上がる情動……のようなものなのだろうか。
男の股間の花が首筋をくすぐっている。想像すると気持ち悪くなってきたので、サギョウは思考を打ち切った。
「センターついたらパートのおばちゃんに剪定してもらわないとなあ」
「パートのおばちゃんたちか……彼女たちは容赦なく刈り込むので苦手なのだが……」
ゼンラニウムは重いため息をついた。
植物にとって必要な枝葉の区別もなく根元から刈り込むのがおばちゃんたちだ。以前ゼンラニウムはアレコレと注文をつけてみたことがあったが、「おばちゃんたちそう言うのよくわからないのよね?」と無慈悲に刈り込まれてしまった。
──剪定といえば。
枝葉の取捨選択の考え方を教えた時の、彼女のキラキラした瞳。
あれはよかった。とても美しいものだった。
人に教えをこうことを恥と思わず、素直に吸収できる目だ。
彼女はきっと、いい園芸家になれる。
……また会う日はくるだろうか。
ちろりと舐めた血の味を思い出しながら、ゼンラニウムは股間の花を脈打たせたのだった。
2019/05/13:久遠晶