静かな恋
「貴方が好きなの」
特製の炒飯をカウンターに置いたのと、その女性の言葉は同時だった。
店主ネロは「えっ?」と聞き返してしまい、そのことに内心で舌打ちをする。聞こえなかったふりでやり過ごしてしまいたかった。
閉店間際の店内には誰もいない。ネロとその女性だけでがらんとしているのに、ネロは慣れ親しんだ己の店に圧迫感を覚えた。
「……この街じゃ、店内での告白やプロポーズは法律違反だぜ。知らないのか、あんた」
冗談めかして肩を竦める。彼女はその返答を見越していたように笑った。
「ネロさんは、通報するの?」
「さぁ、どうしようかな」
ネロも頬を持ち上げたが、苦笑だった。
彼女のことは嫌いではない。
時たまふらりと食事をし、ネロと軽く会話をして去っていく客のひとり。毎日顔を合わせるほど店に通い詰めるほどではないが、季節の節目には必ず来店してくれる常連だった。
彼女とのささやかな会話は、ネロにとって楽しみのひとつでもあった。 ただし、人間だ。
「俺はあんたが思ってるようなやつじゃないよ」
この街の人間は得てして魔法使いを怖がる。
身分を隠して出店している法律違反はともかくとして、自分を受け入れてもらえることはネロは思わなかった。
彼女は目を伏せたが、取り乱すことはなかった。
「貴方ならそう言うと思った」
微笑みながらのこと場に、ネロの返答は全て見透かされているのだと悟った。
静かに食事を進める態度に息が詰まる。
取り乱されて縋られても困るだけだと言うのに、冷静な態度に傷ついたのだ。そんな自分にネロ自身が驚いた。
「貴方と話していると心地がいいわ。だけど貴方は決して自分というものを出さない。だから知りたいの、貴方を」
それはネロに染み付いた処世術であり、生来の生き方でもあった。だから彼女の感覚は半分は正しく、半分は間違っている。
ネロは魔法使いであることを隠しているが、人間として振る舞う自分全てが偽りと言うわけではない。
「貴方のことをもっと知りたいと思うのは、ダメなことかしら?」
「…………軽蔑するよ、俺のことを知ったら」
真っ直ぐな目に向き合えず、視線を逸らした。
「……貴方は若いけど、きっと私などには想像もつかない苦労をしてきたんでしょうね。時折貴方が、自分よりずっと年上に思える時があるもの」
聡い。ネロは思った。
この察しの良さは彼女の長所だろうが、同時に彼女自身を傷つけたこともあっただろう。
「貴方を何も知らない状態で、無責任に『私は軽蔑しない』とは言えないわね」
彼女は呟いて、炒飯の山を崩し始めた。息を吹きかけ冷ましながら食べはじめる。
「貴方の料理好きよ」
「ありがとさん」
「料理、できた後に告白してよかったわ」
そこからは無言だった。スプーンと皿がこすれる音と、彼女の吐息だけが響く。
ぎこちなく店じまいの支度をはじめたネロの前で、彼女は黙々と炒飯を口にして運んでいる。
彼女の食べる仕草や表情が好きだ。
今日は二人でじっくり会話を楽しめると思っていたが、もう、会話など出来そうもない。きっと、もう二度と店には来ないだろう。
「……ごちそうさま」
完食し、彼女は静かに立ち上がった。紙幣をテーブルに置く。
「おい、多すぎるよ、これじゃ」
「お釣りはいいわ。法律違反の口止め料も兼ねてるから」
有無を言わさない態度に、ネロは押し黙った。こういう時の対応は、いつもはかりあぐねる。
去り際、彼女は扉をくぐる前にネロを振り返った。
「私、無責任に『軽蔑しない』なんて言えないって言ったけど」
「……あぁ」
「本当の貴方も、受け止めたいと思っているのよ。それは本心。分かっておいてね」
貴方が極悪人だったとしても、そんな素の貴方と話してみたいわ。と、そう言った。
彼女はネロの返事を待たずに背を向け、扉から外に出る。
「また来るわ」
その言葉だけが店内に残った。
ネロは渡された言葉と想いの数々を抱え、どうすることもできずに立ち尽くす。
あの時店から出て、立ち去る彼女の手をとったら何か変わったろうかと思うことが、たまにある。
結局彼女がまた店に来ることはなかった。その前にネロに印が現れ、店仕舞いをして魔法舎に移り住んだから。
「──たまに東の国に行くこともあるけどよ、自分の店には行けねぇな。鉢合わせした時の顔、見たくねぇもん」
「貴方にもそんな恋があったんですね、ネロ」「よせやい、恋なんかじゃねぇよ」
シャイロックが微笑みながら次のカクテルを差し出した。ネロはそれを黙って受け取る。
だいぶ酔いが回っている気がする。あまり量を飲んでいるわけではないはずだから、ベネットの酒場の落ち着いた雰囲気によるものだろう。空気に酔っているのだ。
どうしてこう、ほろ酔いというのは浅瀬をたゆたうように心地良いのだろう。
「恋でなくとも、恋になりそうだったんでしょう?」
シャイロックは訳知り顔で微笑んだ。
彼には隠し事はできそうにないと苦笑した。とはいえシャイロックは、真実ネロが隠しておきたいことであれば暴かずにそっとしておくだろう。そういう男であると、まだ短い付き合いだがよく知っている。
だからシャイロックがこうして相槌をしているのは、ネロがそれを望んでいるからだ。
「……人間と魔法使いの恋なんて、ろくなもんじゃねぇよ」
「おや。それ、ルチルたちの前でも言えますか?」
「まぁ、例外はどこにだってあるよな」
笑いながらカクテルに口をつけた。
爽やかだがほろ苦い味は、今のネロの気分によくあっている。
「まぁ、同意見ですよ。人間は嘘つきですからね」
――そんなところも含めて愛しているんだろ、あんたは。
そう言いたくなって、面映くなり、ネロは口には出さなかった。
彼女は何をしているだろう。ネロが魔法使いだったという噂は、きっと彼女の耳にも入っているだろう。驚いたろうか。受け止められないと感じたのか。あるいは言ってくれればよかったのに、と思うだろうか。 そんなふうに色々思い出す時点で、恋でないにせよ特別なのだ。
ネロははぁっとカウンターに突っ伏した。飲み終えた空のグラスを持ち上げる。
「マスター、酔いてぇ。度が強いの頼む」
「おやおや、いけない子ですね。酔うために飲む酒はつまらないですよ」
「じゃ、とびきり美味くて気が付いたら酔ってるやつ頼む」
「かしこまりました」
シャイロックのくすくすと笑う声が遠くに聞こえる。
ネロはもう自分の店に戻らなかったから、『閉店しました』の札が吊り下がったネロの店に立ち寄る女性がいることを知らない。今はまだ。
2020/03/22:久遠晶