情と罪悪
それは雨の日だった。
霧のような雨が音もなく降り注ぎ、街を濡らす。
とても静かでいい夜だ、と半兵衛は思った。雨の音が耳に心地いい。
「さぁて。そろそろ寝ようかな……」
あくびをひとつし、宣告するように呟くと半兵衛は静かに目を閉じた。
半兵衛の言葉に官兵衛が返すだけだったので、半兵衛が喋らなくなると辺りは無音になる。
「ゆっくり眠れ」
官兵衛が言う。
「もう、邪魔はせん」
蝋燭の火が消え、辺りは暗闇となった。
それは雨の日だった。
辺りには雫の音が満ちる。
酷く煩い夜だ、と官兵衛は思った。雨垂れの音が耳につく、嫌な夜だった。
その日、官兵衛はの家を訪れた。理由はわからない。
は突然の来訪者に驚きを隠せない様子だったが、官兵衛の髪から垂れる雫を見つけると慌てたように部屋に戻ろうとする。
「すぐに手拭いを……」
背中を見せるの手を掴んで止めた。戸惑ったようにが振り向く。
わけがわからない、と言いたそうに首を傾げる。
「このままでは身体が冷えてしまいますよ?」
は心配そうに官兵衛の顔を覗き込むが、すぐに笑った。
「……それじゃあ、お茶をいれます。あなたの好きな熱いのを」
手首を掴んだままの官兵衛の手に触れて、部屋にいざなう。
無言の官兵衛になにかがあったことを悟ったのか、は訪問の理由を訪ねない。それが今の官兵衛には居心地よかった。
何故自分はを訪れたのか、官兵衛自身説明が出来そうになかった。
頬に触れると、は首を傾げた。そのまま指を滑らせ、抱きしめる。
「……」
か細い声で官兵衛は名前を呼んだ。
しばし目を見開いていたは、官兵衛に答えるように目を閉じた。
が頷く。
抱きしめたの身体が震えている。
それを押し殺すように笑って、切なげな瞳では笑う。
もう一度、は頷いた。
官兵衛は肩を押して、床にを押し倒した。寝間に行くという発想はなかったし、もそれを要求しなかった。
の首筋に口付ける。
帯に手を掛ける。ほんのすこし力を込めると、寝巻きの帯はすんなりとほどけた。
の肌があらわになる。
健康そうな小麦色の肌が、うっすら桃色に色づいている。やせ細ったまま逝った半兵衛も、以前はこの肌のような、健康的な色をしていたのだ。
その肢体をかばうように覆い、は恥ずかしげに横を向いた。髪の毛で表情は見えないが、耳が赤くなっている。
手首を掴んで、身体を隠す手を外す。
首筋に口付けると、その身体が震えた。
「」
官兵衛が言う。
「」
かすれた声だったが、情欲によるものではなかった。
「」
唇での身体を辿り、胸のふくらみに触れた。はじけるように唇に吸い付いてくるみずみずしい身体。
『なにそんな顔してんのさ、官兵衛殿』
そう言って力なくこちらに手を伸ばした半兵衛の指先は枯れ木のようだった。
その声を掻き消すように、官兵衛は眉根を寄せて目を閉じた。
の鼻から、かすかに吐息が漏れた。
「」
細い身体を抱きしめる。
力いっぱい抱きしめると死んでしまいそうな気がして、官兵衛は腕の力を弱めた。
「大丈夫ですよ」
不意にが言った。官兵衛の共襟を掴み、胸に顔を押し付けるようにしながら、は言う。
「大丈夫です」
子供に言い聞かせるような、穏やかで優しい声。
「私はどこにも行きませんから」
掌のあたたかな感触。
赤ん坊を包むようにゆるやかに、しかし強く引き寄せられる。
自然と、力が抜けていく。
酷く安らぐ。まるで母親に抱かれているような……胸がせつなくなる。
の心臓の音が直接肌に伝わる。自分の心臓の音も、に伝わっているのだろう。官兵衛はなにも出来ずに、その感触に目を閉じた。
なにも考えられない。
涙が出そうになる。
「大丈夫ですよ」
規則的に背中を叩かれ、あやすように声を掛けられる。
なんという有様だろう。
自分と一回りも小さい女に抱きすくめられ、不思議と鼓動が落ち着く。
それでも、引き剥がす気にはなれない。
海の中をたゆたっているような感覚が、酷く心地いい。
「私はずっとそばに居ますから」
はそう言った。
「私でよければ、ずっと」
優しい、泣きたくなるような声。
顔を上げるとと目が合う。
笑っていた。
目尻を下げ、頬を持ち上げ、唇で弧を描き、笑っていた。
笑っていたのだ。
他の何者でもない、官兵衛を見つめ、は笑っていたのだ。
の瞳の中に、官兵衛の顔が映っている。
『ねえ、ひとつ約束してよ』
唇をかすかに動かして笑う半兵衛。きたる死を受け入れ、ただその時を待つ半兵衛の瞳は穏やかだった。
布団の中で唯一動く両手をくるくると動かす半兵衛は、いつもとはすこし違う表情で、いつもとはすこし違う軽口を叩く。
『そろそろ、寝ようかな』
そう言って半兵衛は逝った。
もう二度と、その瞳に官兵衛を映すことはない―――。
ふわり、とが官兵衛の頬に触れる。
その瞳に官兵衛を映して。
「」
「はい」
「」
「はい」
「……」
「はい」
腕の中でが笑う。泣きそうな表情で笑う。なめらかな肌に手を滑らして、素肌と素肌をあわして、官兵衛はを抱きしめる。
『官兵衛殿も難儀だねぇ。軍師としての衣を脱いだ時ぐらい、好きな子に好きって言ってあげてもいいのにさ』
半兵衛はそう言った。
下らぬ情だと、そう思う。
しかし迷う。言うべきではない言葉が、喉の奥で氾濫している。
身体中に火がついたように熱い。全身からこみ上げてくるなにかで、ともすれば我を忘れてしまいそうだった。
もどかしくも狂おしい苦しみ。
それを吐き出し、開放する術を知っている。
だが、それはを―――。
「あ……」
わずかに眉根を寄せる官兵衛の頬を、が撫でる。ふわりと、羽が撫でるようにその輪郭に触れ、たどたどしく官兵衛首に手を回す。
笑う。
「いいですから」
首を振って笑う。
じっとりと汗ばんだ身体が密着する。額に髪の毛が張り付いている。
「いいから」
受け入れるように、官兵衛を抱きしめる。
たまらなくなって、官兵衛は自然と、腕に力をこめた。
「ずっとそばに、いますから」
すべてを引き受けるように、はただそれだけを口にした。
官兵衛はただ、名を呼んだ。
そばにいてくれ、と言うことはなかった。
その言葉が罪悪であるかのように。
2013/6/20:久遠晶
これ書いたの五年前という悪夢。あえて完全無修正です恥ずかしい。
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