ウィルスが漏れ出る前のこと
人としての体温を感じさせない肌の色。
埋没した瞳は白くにごり、なにを見ているのかすらわからない。
むき出しになった歯茎がぬらぬらと蛍光灯の光を反射している。
実験体の血液で部屋中汚れた試験室の中央でNE-α――通称ネメシスを寄生させたタイラントが悠然とたたずんでいた。
血でうっすらと赤くなった強化ガラスの向こう側、少女が感嘆のため息を吐きだした。
「芸術っていうのは、こういうことを言うんですよね?」
心からの賞賛だった。
ネメシスへの戦闘能力。
それもある。
だがなにより、あの巨大かつ異様な体躯と顔立ちを、少女は美しいと賛辞した。
「ネメシスさん、さっきはテストお疲れさまですっ」
少女は研究室の作業台に横たわらせたネメシスに、そう笑顔で声をかける。
話しかけられたネメシスは無言で天井を睨んでいる――とはいえ、そもそも彼に表情と呼べるものは存在しないのだが。
「今までのテストの記録を大幅に更新したそうですよ。パワー、スピード、強度、どれをとってもあなたは素晴らしい」
語りかけながら少女はネメシスの身体に電極のパッドを張り付けていく。ネメシスは微動だにせずされるがままだ。ゆっくりと上下に動く胸がなければ、異形の怪物の精巧な等身大フィギュアのようにも思えてしまう。
傍らの機械でネメシスの状態を管理しながら、少女はネメシスへと顔を向けた。
ネメシスの凹凸が出来た灰色の頬へと指をのばす。乾いている皮膚は生ぬるい。
「でも、あんまり無理はしないでくださいね」
実用化を目前に控えた実験体の故障を不安がる研究者の瞳というより、恋人や兄の怪我を恐れる瞳をしていた。
少なくとも、モルモットを見る目ではない。
自分の言葉に何の反応も示さないネメシスに少女は首をかしげて、それからあっと声をあげた。
「言い忘れました。もう、楽にしていいですよ」
少女に答えるように、ネメシスがうめいた。低く、地獄の底を這うような吐息。
ネメシスは作業台に横たえていた上半身をゆっくりと起こした。ネメシスが身体にまとわりつくケーブルをひきちぎってしまわないよう、少女もそれをサポートする。
少女はネメシスの上半身を起こすと、自分は近くの椅子を引き寄せその上に膝立ちになった。巨躯のネメシスが相手では、背の低い少女は膝立ちにならなければ視線を合わすことが出来ない。
「やっぱり、ネメシスさんは綺麗です。かわいい。かっこいい」
頬を染めて少女がはにかむ。
ネメシスは頭を真横に倒した。人間にその動作を当てはめるのであれば、「首を傾げる」ということになるだろうか。
「褒めてるんですよ。まだ……わからないかな。きっとそのうちわかりますよー」
真横に倒していた頭を戻して、ネメシスは今度は前へ頭を倒した。頷きのつもり、であるらしい。
少女はだらりと垂れ下がっているネメシスの丸太のような腕を引き寄せ抱きしめた。ネメシスの肩に頬をすり寄せる。
防弾のコートはネメシスの体温を少女に伝えないし、逆に少女の体温をネメシスに伝えもしない。
ネメシスは抵抗せずそのままだ。
任務時には機械的に管理されるものの、今のネメシスに機械の力は及んでいない。彼が抵抗しないのは、彼自身の意思によるものということになる。
とはいえ、ネメシス自身が彼女に好意を持っているわけではないだろう。ネメシスはアンブレラ職員に攻撃できないように常に制御されており、また少女は武器を持っていない。
自らに害を成さないのであればたいていのことは容認するということだが、そもそもネメシスに人間的な感情があるかどうかは疑問が残る。
「相変わらず、きみはそんなことをやっているのだな」
「あ、博士!」
研究室の扉が開き、少女は慌ててネメシスへの抱擁を解いた。
「研究者として実験体が愛しいという気持ちもわからなくはないが――きみのそれはいささか常軌を逸しているな」
「うーん、そうですか? だってこんなにかわいいじゃないですか。ねえ?」
少女はネメシスに同意を求めながら首を傾げる。もちろんのこと、ネメシスは反応を示さない。
「それに、論理的にこうした語りかけというものは非常に有意義です。赤ん坊は大人とのコミュニケーションを通して知能を発達させていく。NE-α、通称ネメシスの知能発達の為には、こうした語りかけも効果的と考えています」
「とはいえ……きみのその語りかけは『人間的』すぎる。情を移すのも考えものだぞ、アリスとのバトルでネメシスが負ける可能性も大いにあるのだからな」
「アリス……T-ウィルスに適合した女性ですね。T-ウィルスを投与してなお感情記憶理性、そして美貌を失わなかった彼女は、極めて素晴らしい研究対象と私も考えています」
「あぁ。彼女は極めて優れた芸術作品であり、『私の』研究材料だ」
ふん、と博士は笑った。T-ウィルスに適合できず理性を失い異形化したネメシスと、それを作りだした少女をあざ笑っている。
少女はなにか言い返そうとして――言葉を飲み込んだ。
「仮にネメシスがアリスに負けたとして、アリスはアンブレラ社への協力を受け入れるでしょうか?」
「受け入れさせるさ。そうでなければ」
博士は二コリと笑って、続けた。
「『廃棄』するだけだ。そうだろう?」
わかりきった答えと歪んだ表情に、少女に目を伏せた。顔に影が落ち、表情は博士には見えない。
研究はやはり笑って、少女の頭に掌を押し付けた。
「彼女は死体だけでも重要なサンプルになる。そう気を落とす必要はないさ」
「なんの為に……サンプルをとって、研究して、バイオ兵器を産み出すん……でしたっけ?」
「おいおい。アンブレラ社の発展と未来の為だろ。根を詰めすぎて頭がいかれたかい? 聞かなかったことにしておいてあげよう」
「……ありがとうございます」
言葉のうわべだけを撫でるように、少女が呟いた。
去っていく博士の背中を見ながら、ため息を吐き出す。
「私って……アンブレラ社の為に研究を始めたんだっけ? わかんなくなってきました」
入社当初は、もっと別の志を持っていた気がする。だけれどT-ウィルスの実験のさなか、とうに忘れてしまった。
決して昔の話ではないのに。
ふいに、少女は頭に重みを感じた。頭に手をのばすと、ネメシスの手がある。
少女のものよりもずっと大きく、厚みがあり、意外なほど暖かい手。温度があるのは当然だ、ネメシスは生きているのだから。
「どうしたの?」
ネメシスは答えない。その瞳に少女を映しているのかもさだかではない。
先ほどの博士から少女への「頭を撫でる」という行為の模倣。
そこに感情や意味が込められているかどうかは、喋らないネメシスからはわからない。
だが、万物に意志を見出すのが人間でもある。
ネメシスの行為をいいように解釈した少女は、かすかに笑った。
「あなたに慰めてもらえるほどいい人間じゃないと思うんですけどね、私」
ネメシスはやはりなにも言わない。
むき出しの歯の隙間から漏れる低い吐息はネメシスの通常で、感情を反映するものではない。
それでも不思議な優しさを残酷な実験動物に見出した研究員の少女は、きゅっと目を細めた。
涙の意味をネメシスは知らないのに、それでも少女は涙を隠した。
2012/2/14:久遠晶
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