fixed mind


 私が思うに、食事と睡眠は特別なものだ。
 生きる上で必要不可欠な、避けては通れないものだから。
 だから、食事と睡眠を大切にすることは、それは人間性を尊重することだと思っている。──くだらない持論だが。
 飢えていては、食事の味に気を払う余裕もない。飢えを満たすためにむさぼる行為は獣同然だ。
 では、いま私の周囲で、げらげらとバカ笑いして騒いでいる連中はどうだろう。
 ジュースのグラスを鳴らしあって、肩を組んで大人のマネをしている連中は。
 毎度のことだが、よくもまあこんなに騒げるものだ。
 はあ、とため息を吐いた時、向かい側の男がふと口を開いた。

「調査兵団の団長が変わるってうわさ知ってるか? 次の団長はエルヴィン分隊長だってよ。やだなあ、シャーディス団長辞めないでほしいよ」

 大きな身体をすこしだけ丸め、私に顔を近づけて言う。
 私は水を飲む手を止め、グラスをテーブルへと戻した。

「じゃあ、入団辞めるのか。フレデリック」

 笑いながらからかうと、同期──フレデリックはいいや、と首を振る。

「もう決めたんだ。人類のため、壁の外に出るってな。今更辞めたりなんかしないさ」
「そう」
「でも、組織のトップが若いってのはちょっと不安だろ」
「まだ決まったわけじゃない。それに壁外調査に出るたびに団長交代のうわさは流れるだろう。いつ団長が死んで代変わりするかなんてわからないよ、今更だ。それに、エルヴィン分隊長が次期団長と言われるのは──」

 私は言葉を区切って、水を喉の中に流し込む。

「──エルヴィン分隊長の分隊だけ、死亡率が極端に低いからだ。それを評価されての采配だろう」
「それは知ってるけど」フレデリックが困ったように言葉につまる。
「でもエルヴィンより年上の実力者はたくさんいるだろ。それに分隊の死亡率が極端に低いってことは、それだけエルヴィンが臆病だったってことじゃないか?」

 入団する予定の組織に、口が悪いことだ。仮にも上官を呼び捨てなんかして。

「そんなんで巨人への反撃の手立てなんて見つけられるのか?」
「さあな」
「あ~あ、果敢に巨人に向かってくシャーディス団長に憧れたのになあ」

 フレデリックは椅子の背もたれにどっかと寄り掛かり、大きく伸びをする。使い古された椅子がぎしりと音を立てた。

「つーかよぉ」

 そこに、隣に座っていた同期が、薄いハムにフォークを突きさしながら会話に割って入ってきた。

「このご時世に調査兵団入るなんて本気かよ。正気を疑うぜ。なんでわざわざ巨人に会いに行くんだよ」
「ジャイルの言う通りだ」

 正論だ。私も頷く。フレデリックはむっとしてくちびるを尖らせた。

「でも、いつまでも壁の中に居てどうなるっていうんだ。人類の活動領域を広げるためにも、俺は調査兵団に入って外に出るんだ!」
「そーれーがー信じらんねえんだろ。活動領域なんて今だけで十分だろ。憲兵団行ったほうが絶対いいって……わざわざ自殺するこたぁねえよ」

 彼はとうとうと語りだした。饒舌な男だ。彼は成績が足りず憲兵団に入ることができないので、十番内に入りながら調査兵団を選択するフレデリックが信じられないのだろう。

「お前はもちろん憲兵団入るだろ?」

 問いかけられ、私はこくりと頷く。

「もう喰いっぱぐれるのはごめんだからね」

 貧民街出身の自分にとって、明日の寝食、命が保障された生活というのはなによりも大切なものだ。
 兵士はいい。生まれも生い立ちも関係がない。成績が良ければ内地に行ける。内地に行ければ、人に笑われない身分が手に入り、生活が保障される。
 その時、食堂中央のテーブルでわっと大きな笑い声が湧き上がった。

 最後の夜だ。騒がしいのも大目に見てやるべきか。

 私たちは今日訓練兵を終えた。明日にはそれぞれ所属する兵団を確定させ、そちらの宿舎で寝食することになるのだ。
 騒がしい送別会は教官がやってくるまで続くだろう。
 まったく騒がしいことだが、ああやって笑うことも、余裕がなければできない。
 私はひとり、彼らの喧噪を楽しもうとした。
 しかしすぐにさえぎられた。

 食堂の扉を突き破るようにして、教官が食堂に入ってきたからだ。
 汗だくで息も絶え絶えで、明らかに様子がおかしい。
 教官は床に垂れ落ちる汗もぬぐわず、つばを飛ばして叫んだ。

「超大型巨人によってシガンシナ区の壁が破られた! ウォール・マリアもだ!!」
「……は?」

 私たちは言葉の意味がわからない。ざわめきが広がる。

「な、なんすか……教官。突発の防災訓練っすか? 真の卒業試験的な」
「バカモン!! こんな冗談誰がするか──とにかく食事は中止!! お前たちには避難誘導をしてもらう! これは訓練ではない! 繰り返す、これは訓練ではない!! 実戦だ!!」

 教官の鬼気迫る表情に、もう誰も軽口を言えなくなった。
 背中に、冷たい不安がひたりひたりと歩み寄ってくる。それは個人にではなく人類全体に課せられた試練なのだと、脳のどこかが警報を鳴らしていた。


  ***


 いつかの訓練で、『集中力が足りない』と教官によく怒られたっけ。
 身体能力も現場を見る力もあるのに、集中が続かないせいで点数を逃す。そんなんでは実戦の時に生き残れない。それどころか仲間に迷惑をかける──と。
 こんな時に、なんでこんなことを思い出すのだろう。

 巨人の大きな目が私を捉える。7メートル級が私のマントをつまみ上げ、顔の高さまで持ち上げている。地面が遠い。
 こんな時に教官の説教を思い出すなんて、確かに集中力に欠けている。
 それでも──だからこそかもしれないが──半ば無意識のうちに体が動く。巨人の指に掴まれているマントを脱ぎ、空中へと逃げ出す。
 空中で体を丸め、体勢を変える。立体起動のアンカーを射出。巨人の腕に突き刺し、振り子のように揺れる。
 巨人の腕に着地、アンカーを仕舞いつつ、私は走る。巨人が動くより先に肩まで走り抜け、私は片刃のブレードを巨人のうなじに振り下ろした。
 勢いで空中に投げされた私は、視界の端に映った民家にアンカーを射出した。アンカーを巻き取り民家の外壁に着地する。

「おい、大丈夫か!」

 外壁からアンカーを外し、地面に降りる。足元がふらついて尻もちをついてしまう。
 駆け寄ってきたジャイルが助け起こしてくれた。

「ありがとう。おまえのおかげで助かった」

 ──ありがとう?
 ──なにが?

 周囲を見渡すと、倒した巨人は既に煙となって消え失せていくところだった。
 後ろで悲鳴が上がる。巨人の手の中で、逃げ遅れた避難民が泣きわめいている。
 そう思うのに体が動かない。

「あれはもうだめだ! おれ達だけでも早く避難しよう!」

 ジャイルが私の腕を引っ張った。よろけた足が、なにかにぶつかる。
 腕だ。
 私の足元に、巨人に喰い千切られた腕が転がっている。

 ──フレデリック。

 うっ、と腹からなにかがこみあがってきた。
 腕から視線を引きはがして顔を上げると、巨人の足元にいる避難民と目が合った。
 少年だ。
 尻もちをついたまま、近づいてくる巨人から逃げようともしない。ただ放心して私を見ている──少年だ。

「くそっ……!」

 舌打ちをして、私の腕を引っ張るジャイルの手を振りほどいた。

「先に行ってろ! 私もあとから行く!」
「おいっ!? お前……!」

 背後からの声に応えず、地面を蹴り上げる。足首が痛い。外壁から落ちた時にひねったらしい。
 気にしてられるか。
 叫びながら全速力で走る。
 少年に巨人の手が伸びている。
 巨人の指と少年の間を縫うように、アンカーを放つ。
 巻き取る。
 地面の上を滑空するようにして、少年と巨人の間に滑り込む。少年を片腕に抱え、そのまま立体起動で逃げる。
 アンカーを巻き取りきって体勢を立て直す。

「大丈夫か!? 私が来たから、頼むから暴れないでくれよ」

 腕の中の少年ははっはと息をしたまましゃべらない。脳の許容量を超えているのだ。
 そのままじっとしてくれていたほうが助かる。

「今から空飛ぶけど怯えないで、私につかまってて。きっと助けるから」

 安心させる言葉が震えていたら意味がない。しっかりしろと自分に言い聞かせる。
 息を吐いて、吸って。呼吸を整える。
 さっきはやれたんだ。だったら次もできるはずだ。
 眼前に迫る巨人は三体。私の後ろには民家の外壁。
 宙を舞うと視界外からの巨人につかまる恐れがある。何より私は命を背負っている。慎重にならねばならない。
 現状を把握すると落ち着いた。

「よし! 行くぞ!」

 狙いを定めてアンカーを射出しようし──出なかった。
 立体起動はプスプスと気の抜けた音を立て、活動不能を伝える。

「は? ガス切れ? おいっこんな時に……!」

 どう操作してもぷすぷすと言うばかりで動かない。
 さっき少年を助けるときに、ガスを使いすぎたんだ。そして私には武器もない。
 巨人はゆっくりと、しかし確実に近づいてきている。
 少年を抱えて徒歩で逃げる? 無理だ。さっきひねった足で、三体の巨人を相手に逃げ切れるはずがない。ジャイルの助けも期待できない。

「……くっそ、終わりがこれとは締まりがない」

 なんなんだ私の人生は!
 泣きわめきたくなった。人がいなければ無様な命乞いや恨み言を言っていたはずだ。
 絶望を押しとどめたのは、少年の存在だった。
 抱き上げていた少年をおろして、肩を掴む。

「ここは私がなんとかするから、君も隙をついて逃げてくれ」

 我ながらひどい言葉だ。安心させておいて絶望させる。最低だ。自己嫌悪がすさまじいが、いまはやるべきことがある。
 巨人に正対し、叫ぶ。
「貴様らに屈服してなるものか! 最後まで戦ってやる!!」
 私の戦いは、いかに恨み言をいわずに死んでやるかだ。
 巨人の手が私に伸びる。私は目をぎゅっとつむり、最後の時を覚悟した。

 だが──。
 大きな音が響いた。大きな何かが倒壊する音が三回。ついで、蒸気がぶわりと押し寄せてきた。まるでさっき巨人を倒したときのような。
 恐る恐る目を開けると、私を取り囲んでいた三体の巨人が倒れ、霧散していくところだった。
 その蒸気のなか、巨人を踏みしめて誰かが立っている。
 大きな身体、金髪。立体起動。つまり兵士。

「訓練兵か」

 巨人を倒した?
 支援がきた?
 まさか。
 私を助けたその人は、音もなく巨人の頭から地面へ降りる。

 雲間から太陽が差し込んで、その人自身が淡く発光しているようだった。
 丁寧に整えられた髪、すっと通った鼻先。
 透き通る湖のような、青い瞳。

「怪我はないか?」

 低く、腹の底に染みわたるような声だった。
 私はしばし見とれるようにぼうっとしたあと、はっとして拳で心臓を叩き、敬礼の構えを取る。

「少年に怪我はありません!」

 震える声で状況を報告する。
 そのあとのことはよく覚えていない。

 覚えているのは、少年と私の無事を確認したあと部下に指示を送るあのひとの背中だけだ。
 迷いのない瞳の輝きと、自由の翼を背負う、雄々しい背中だけだ。
 会話をすることは初めてだったが、その姿は知っていた。
 調査兵団団長、エルヴィン・スミス。当時の階級は調査兵団第一分隊長。

 これが私とエルヴィン団長の、出会いだった。
 遠くから巨人の足音や人々の悲鳴がいくつも聞こえ、友人が無残に喰われていく残酷な世界の中で──エルヴィン団長は、暗雲の隙間から差し込む陽光のように輝いていた。
 振り上げたブレードを暗闇へ向け、私たちを導いてくれる。
 この人についていけばいいのだと、心から思える。
 この地獄のような世界で、それでもこの人のそばなら息ができる。恐怖が消える。
 そんな暖かな感情を、エルヴィン団長は私にもたらしてくれたのだ。





  ***


 所属兵団決定のためのレクリエーションは、予定通り行われるそうだ。
 ほんの数日前に巨人の襲撃があったというのに、休むひまもない。──いや、巨人の襲撃があったからこそだ。

 巨人襲撃による問題は山積みだ。ウォール・マリアからの大量の避難民の扱いや失った国土の穴埋め。国民の不安が高鳴る分、兵士への期待も大きくなる。

 私はため息をついて、空を見上げた。

 あんなことがあっても、空は高く澄み渡っている。

 思い思いの時間を過ごす同期たちを見やった。思い思い、と言っても、立っているか座っているかの違い程度で、大きな差はない。みな陰鬱な表情で、誰とも視線を合わせず会話もしない。
 避難誘導に駆り出されたとき、私のように巨人に出くわしてしまったやつもいれば、運よく遭遇せずに済んだ者もいる。しかし胸中は皆同じだ。

 ――絶望。黒い感情に塗りつぶされている。

 目の前で食い殺されたフレデリックを思うと心が痛む。吐き気がして手が震える。
 人類はただただ巨人に食い殺される日を待つばかり、という終末的な考えがよぎる。
 壁によりかかっていたジャイルは、私と目が合うと気まずそうに顔をそらした。私を置いて逃げた形になっているからか、彼は私に負い目があるのだろうか。気にする必要はないと言うのに。
 生き残ってこの場にいること、それだけで多大な幸運の証だ。

「訓練兵整列! 壇上正面に倣え!」

 招集がかかった。座っていた同期たちが、重だるそうに立ち上がった。私も遅れて立ち上がる。
 形式的な説明のあと、団長が呼ばれた。
 壇上の舞台袖から出てきた男が、しっかりとした足取りで中央へと歩いてくる。
 太い足、大きな身体。まっすぐに前を見すえる、澄んだ瞳。
 胸がどくんと脈打つのが分かった。

 調査兵団団長──エルヴィン・スミス。

 次期団長とは聞いていたが、巨人襲撃の一件で早まったのだろうか。あるいはシャーディス団長が戦死したのか。
 困惑が広がるのがわかった。若い男を団長に据えざるを得ないほど、調査兵団は人材不足なのか……という空気が、同期の間で広がっていく。
 落胆にも近い。
 もともと調査兵団は蔑まれがちだ。壁が破られ、重要度も期待度も増すだろうが、団長がこれでは調査兵団の能力などたかが知れている。──と、以前の私ならそう思っただろう。
 訓練兵からの視線が集中する中、エルヴィン団長は壇上の中央に立った。すっと肩幅に足を開いて、手を後ろに回して、私たち訓練兵のほうに顔を向ける。さすがにこの瞬間には訓練兵の間に緊張が帯びる。

 だがエルヴィン団長は、なにもしゃべらなかった。

 私たちの間に動揺が、さざめきのように広がっていく。
 セリフを忘れたのか、団長としてはじめての演説で緊張でもしたのか。言葉にはしないものの、周囲がそう思っているのがわかった。
 エルヴィン団長は、私たち訓練兵の顔を順々に見ていくことで沈黙を引き延ばした。
 場の緊張を痛いほど感じる。舞台袖に控える調査兵団も動揺しているようだ。
 不意に、エルヴィン団長はふっと息を吸い込んだ。
 無音のなかで、それがいやに響いて聞こえた。

「私は調査兵団団長、エルヴィン・スミス。私がここに立ったことについて、戸惑った者もいるかもしれない。私は先の巨人襲撃の直前、シャーディス元団長から調査兵団の活動方針を託された。書類上の引き継ぎはまだ途中だが、今後調査兵団は私が率いていく」

 壇上から、エルヴィン団長の声が届く。
 前置きが終わると、一拍おいてエルヴィン団長は訓練兵をひとりひとり眺めていった。

「さて、本日私が話すことは、やはり調査兵団の勧誘に他ならない。諸君らの中にも、先日巨人を目撃し、交戦した者もいるだろう。避難誘導の際、民をかばい犠牲になった訓練兵もいると聞く」

 息がつまった。心臓がどくどくと脈打ちはじめる。

「いま、人類に大きな試練が課せられている。ウォール・ローゼまでの撤退を余儀なくされたことにより、全人類の約二割が難民と化している。この問題を解決するためにも、ウォール・マリアの壁をふさぐことが調査兵団の急務となる。だが」

 エルヴィン団長は淡々と語っている。先ほどの沈黙などなかったかのように。

「調査兵団に入った者は、遠からずほとんど死ぬだろう」

 圧倒的シンプルさだった。
 たった一言で、単刀直入に、エルヴィン団長は断言した。

 腹の底に響く低い声を張り上げ、淡々と調査兵団の死亡率を語る。
 新兵が壁の外で死ぬ確率は八割。その次に死ぬ確率は六割、その次は四割。そうやって回を重ね、一人の精鋭が生まれるまでに百人単位の人間が死に至る。
 今後はエルヴィン団長が自ら考案した長距離索敵陣形を用いて、巨人を避ける戦法をとる。しかし交戦すれば損害は避けられない。
 それでも我々は巨人と戦わねばならない、人類のために──とエルヴィン団長は語った。

 慢性的な人手不足を告白するエルヴィン団長は、決して美しいことは言わない。逆に、彼の口から出てくるのは脅し文句の数々だ。
 本来なら、訓練兵を鼓舞し、使命感を煽り、一人でも入団希望者を増やす場面のはずだ。
 エルヴィン団長は逆に、一人でも入団希望者を減らしたいように思える。
 この演説で尻込みするようでは、すぐ巨人に喰われるのが関の山だと考えているのだろうし、真剣に命を大事にしてほしいとも思っているのだろう。と、感じた。
 私は自然とうつむいていた。
 巨人と会ったばかりの今、こんな言葉で入団する好き物なんているわけがない。

「調査兵団は──言わば人類の矛だ。壁にこもり、震えているだけでは解決にならない。
 調査兵団の死亡率、惨状を知ったうえで、人類のため、愛する者のために──そして、死んでいった者のためにも命を賭けられる者の入団を望む」

 気が付けば顔をあげていた。
 私に家族はいない。人類のために献身できるほど、よくできた人間では断じてない。

 だが──だからこそ。
 背筋を伸ばし、震える手で心臓を叩いて前を向く。

「調査兵団は君たちを歓迎する。君たちを心から尊敬する」

 その声を聞いて、心がずっしり重くなった。
 どうして生きているんだろう。どうして、調査兵団なんて。
 半端者を振り落としたかった演説で、入団を決めてどうするんだ。
 憲兵になったほうが確実に楽だ。十番内の成績に入った私は、それが出来る立場にあると言うのに。
 だが、少なくともエルヴィン団長は誠実な人だ。演説からそれがわかる。
 そして、私はエルヴィン団長に命を救われたのだ。
 憲兵になって、いつ巨人が来るかとおびえて過ごすくらいなら、一思いに巨人に会いに行ってやる。
 巨人に食い殺されるのなんてまっぴらだ。しかし、誰かがやらねばならない。先陣を切って戦う人間が必要なのだ。
 調査兵団で私を待ち受けているのは、少なくとも退屈はしない日々だろう。


   ***


 立体起動で宙を舞う。空中で重心を操作し、巨人のうなじめがけて刃を振り下ろし、一瞬のうちにそぎ落とす。言葉にすればただそれだけだが、実際に巨人に相対するとなるとそううまくはいかない。
 巨人は動くし、一度捕まればそれで終わりだ。ガス切れの問題もある。
 だから私が──こうも何度も生き延びているのは、実力じゃない。単に運だ。民衆の出迎えを受ける度に、そう思う。

 三回目の壁外調査が終わった。帰還した時、共に調査兵団に入った同期は、六割が居なくなっていた。
 五十数人が入団して、壁外調査を三回生き延びたのは八人あまり。
 犠牲者があまりに多いように思えるが、この数字はとんでもない快挙なのだと言う。入団時の演説が正しいとすれば、一度目での新兵死亡率は八割だ。長距離索敵陣形は、想定以上の効果を上げたらしい。
 私は喜べない。
 無残に食い散らかされて死んだ彼らを思えば、呑気に喜ぶことも、食事だってできるはずがない。
 調査中は麻痺していた恐怖が、震えが、壁の中に戻った瞬間から津波のように押し寄せてきた。数時間経っても引いてくれない。
 胸の奥の異物感が強くなる。
 喉の奥からせり上がってくる不快感をこらえきれず、私は石畳に胃の中身をブチまけた。

「うっ……げぇっ、がほっ」

 咳き込むように吐瀉する。
 食べたばかりの夕食が、ほとんど原型をとどめたまま地面に落ちる。パンの残骸が胃液でぬらぬら光って気持ち悪い。なによりもったいない。
 そう言えば巨人は消化器官を持たないんだったか。腹一杯人間を食べたあとはこうやって吐き出すらしい。
 くそ。私たちの命をなんだと思ってるんだ。

 私も、一歩間違えれば目の前の崩れたパンのように、巨人の胃液でコーティングされていたというわけだ。あまりにも惨めすぎる。
 巨人に生きたまま喰われたあげく、糧にすらされずに吐き出されて腐るだけとは。
 想像するだけでおぞましい。
 身体が震える。
 くそ。巨人のあの目が脳裏に蘇ってくる。黒々とした目は私を確かに捉えていたけれど、何も見てはいなかった。虫みたいな目だ。なんの感情も意思も示さず、ただ人間を襲うだけの化け物…………。
 名前すらないそいつに、私の同期は、共に寝食を共にした友人が、
 喰われ、
 蹂躙され──。

「大丈夫か?」

 うっと嗚咽が漏れそうになった瞬間、背中に声がかかった。
 振り返ると、深い空の色をした瞳が、訝しげに私を見つめていた。

「エル、ヴィンだんちょっ……」

 胃液が喉にひっかかって、軽く咳き込んでしまう。

「も、問題ありません!!」
 慌てて足を揃えて背筋を伸ばす。どんと心臓を叩いて敬礼のポーズをとると、エルヴィン団長は片手を緩く上げて制止した。
「楽にしろ」

 促され、私は足を開いて整列休めの姿勢を取る。楽にしろと言われても、兵団の長に声をかけられ、だらしのない姿勢は見せられない。
 エルヴィン団長は背が高い。私は顎を上げ、半ばのけぞるようにしなければ団長の目を見ることができない。

「気分が優れないか?」
「いえ、特には。座り込んでいたのは……石畳のアリの行進が気になって、つい」

 我ながら苦しい言い訳だ。

「気が滅入って当然だ。みな、慣れるまではそうなる。帰ってきてからの嘔吐で済めばかわいいものだ」
「はっ、激励のお言葉、感謝します」

 リヴァイ兵長やミケ分隊長も、巨人にはじめて遭遇したあと、私と同じように食べ物を全部戻したりしたのだろうか。想像しようとしたがうまくいかなかった。

「きみは確か──前に会ったな。山奥の村で」
「覚えていてくださったんですか。お礼が遅れましたが、その節は……」
「お互い命拾いしたな。顔をあげろ、そんなにかしこまらなくていい」

 私は敬礼のままエルヴィン団長を見据えた。姿勢を崩さない私にあきらめたエルヴィン団長は、そのまま話を続ける。

「今日のこともきいている。十メートル級を討伐したそうだな」
「単なる偶然です。私の実力ではありません」
「その偶然が積み重なって、私たちはここにいる。きみが巨人を倒した事実は変わらない」

 エルヴィン団長は私の目をまっすぐ見て、静かにそう言う。
 その目には『死者は生き返らない』というメッセージが、暗に込められていた。

「きみはよくやった」

 断言する。私の活躍を、短い言葉で称える。
 本当にそう思っているのか? この人は、自分が助けた新兵が入団し、ちいさな成果を上げたことを、素直に喜んでいるのか?
 もちろん、そうでないことはわかっている。しかし卑屈にならずにはいられなかった。
 目線だけを下にやって、自分のブーツを睨みつける。砂埃と、巨人の血と、自分の吐瀉物でおおいに汚れたブーツだ。向かい合うエルヴィン団長のブーツは、埃と血で汚れているのは同じだが、少なくとも吐瀉物はかかっていない。

「──生き残ったのはきみであり、我々だ」

 私の言葉を途中でさえぎって、団長が突き放すように言った。
 吐瀉物を睨んでくちびるを噛み締めていると、肩になにかが触れた。エルヴィン団長が、顔をあげろと急かしているのだ。
 ひどい顔を見られたくなかった。しぶしぶ私は顔をあげる。
 視界になにかが割り込んできた。
 エルヴィン団長の拳だ。
 エルヴィン団長が、団服越しに私の胸に──心臓に拳をドンと当てたのだ。
 すこしだけ身をかがめ、私に視線を合わせて。

「だから、彼らの魂は我々が持っていくんだ」

 まっすぐな瞳の中に、私がいる。
 本当ならあいつが生き残るべきだった、などと間違っても言うなと、エルヴィン団長は言外に言う。

「我々に出来るのは死者を想い、意味を繋ぐことだけだ」
「いみを、つなぐ……」

 その言葉が胸にズシリときた。胸に押し当てられたエルヴィン団長の拳を押しのけるように、心臓が脈打ち出す。先ほどまでの、恐怖による動悸ではない。体温が上がっていく。
 本当はあいつが生き残るべきだった、なんて言葉は、それこそ死者への侮辱だ。仲間の死を意味あるものにするためにも、我々は生きねばならない。生きて、次世代に繋げなくてはならない──。

「だん、ちょうは……」

 ためらいがちに呼びかけると、エルヴィン団長はあぁと頷いて、先を促してくれる。

「私が死んだら、私の魂も持って行ってくれますか」

 その言葉に、エルヴィン団長は少々面食らったようだった。

「あぁ、もちろんだ」

 数瞬の間に、エルヴィン団長がなにを考えたかはわからない。それでもエルヴィン団長は力強く応えてくれた。
 私が死んだら、私の魂を背負ってくれると。忘れないでいてくれると──こんな一介の、新兵の戯言を真剣に聴いて、頷いてくれたのだ。

「それなら……この命も。エルヴィン団長のために使えるなら意味あるものになりそうです」
「──きみは……」
「あぁっ!? 団長汚れて……!」

 自分で言った言葉が面映くて、視線を下にやる。すると、胸元に押し付けられたままのエルヴィン団長の拳が、すこし汚れていることに気づいた。
 団服の胸元に落ちた吐瀉物に触れてしまったのだ。

「す、すみませんっ! 私っ」
「いや、もう乾いているし、べつに」

 慌ててハンカチを探すものの、ポケットの中にない。ちゃんと入れていたはずなのに。そう思ってから、壁外調査の時に死んだ同期に貸していたのだと思い出す。
 つまり私のハンカチは、私が倒した巨人と共に蒸気となって霧散してしまったということになる。

「私はいいから、それより自分の口元をどうにかしたほうがいい」
「ですが私よりも団長の指が……」
「まず口元を拭いなさい」

 エルヴィン団長が自身の口元を人差し指で示した。
 仕方なしに、隊服の袖に口元を押し付けて無理やりぬぐう。

「逆だ。反対側」
「も、申し訳ありません……っ」

 反対側の頬も同じようにぬぐい取る。ゴワゴワした分厚い生地の感触がすこし痛い。
 くそ。調査兵団のトップを前にしてこれはあまりに情けなさ過ぎる。
 これじゃまるで子供だ。

「ふっ」

 悪い予感は的中したらしい。エルヴィン団長がわずかに口の端を震わせ、ぷっと吹き出したのだから。

「くっ……いや、すまん、なんでもない」

 顔を背け、こちらに手のひらを向ける団長は確実に笑っている。
 ムッとするより先に驚いた。
 エルヴィン団長も、リヴァイ兵長に負けず劣らず笑わない人だと思っていたからだ。

 あぁ──そうか、この人はこんな風に笑うのか。

 困った風に眉根を少しだけ寄せて、はにかむようなほんの少しだけ口の端を持ち上げて、優しい眼をして笑うんだ。
 しばし私から視線を逸らして笑っていたエルヴィン団長は、私の視線に気づくと、やはり困ったように微笑んだ。
 団服の懐に手を差し込み、ハンカチを取り出す。
 私は、ハンカチひとつ持っていない不甲斐ない兵士に落胆したのかと思った。当然、部下の吐瀉物で汚れた指先をぬぐうのだろうと。
 しかし団長は、その白いハンカチを私の方へと差し出した。

「使うといい」
「……え? いや、そんなっ……使えません。私よりも団長の指を……」

 しまった、こういう時って『お指』って言ったほうがいいのか? 不安になってきた。こんなとき学のない人間はつらい。
 手をブンブン振って、とんでもない、ご自身でお使いください、と必死に伝える。するとエルヴィン団長はなんと私の手を取った。
 思わず、うっ、と肩に力が入ってしまう。

「使いなさい。気にしなくていいから」
「え、あ、いや……」

 開いた手にハンカチを持たされ、そのまま握り込まされる。
 四辺にレースの付いた、上等そうなハンカチだ。これを汚すのは躊躇われる。しかしこんな風に握り込まされてしまっては、何も言えない、言えるはずがない。
 消え入るような声で「……はい」と言った私の対応は、果たして正しかったのだろうか。
 エルヴィン団長は「ああ」と満足そうに頷いた。もうその口元に笑みはないけれど、瞳は優しい。

「洗濯してお返しします……あっ! ですが私が使う前に、団長が使ってください」

 エルヴィン団長の手が離れていく。その手を取り、指先をぬぐう。
 団長に触れるなんてそれ自体が失礼なことじゃないか? とちらりとよぎったが、そもそも自分の吐瀉物で汚している時点で失礼だ。
 そしてエルヴィン団長は、それを不快に思わない人間らしい。
 胸元が吐瀉物で汚れていても、ためらわずその胸を叩く。激励する。そうして汚れた指を拭うより、まず部下の口元を、落ち込む部下をなんとかしてやりたいと思う──そんな方だったのだ。
 エルヴィン団長の指から手を離し、背筋を伸ばした。ダンッ、と一層強く心臓を叩いて敬礼をする。

「無様な場面をお見せし、改めて謝罪します。申し訳ありませんでした。ですが、もう大丈夫です」
「ああ」
「このあと、私は食事に戻ります」
「ああ。急に食べるとむせるから落ち着いて食べろよ」
「はっ」

 エルヴィン団長はちいさく頷いて、踵を返して背中を向けた。エルヴィン団長が見えなくなってから、私も食堂へ戻る。その途中、振り返った。
 暗い夜道の奥に、エルヴィン団長の背中が月明りに照らされてぼんやりと浮かんで見える。
 人々を守る盾と自由の翼、調査兵団の紋章を背負う大きな背中。

 ──調査兵団の新しい団長ってちょっと頼りないよな。若いし。

 今は亡き同期の言葉を思い出す。
 大丈夫だよ、フレデリック。きみが心配していた方は、とても素晴らしい方だ。
 幾多の部下の魂を背負い、そして団長としてこれからも背負っていく方だ。
 ほんの数回のやり取りでそれを確信できた。
 フレデリックの魂を背負う資格が、私にあるかどうかはわからない。
 だが、エルヴィン団長は私の魂を背負ってくれると約束してくれた。──それなら。

 壁の外で息絶えるその瞬間まで、フレデリックの魂は私が背負おう。
 そのためにも、折れてはいられない。諦めない限り戦いは続く。戦い続けると誓おう。フレデリックの魂に。なにより、エルヴィン団長のあの背中に。
 エルヴィン団長の背中はもう夜闇に紛れ見えなくなっている。

 それでも私はもう一度エルヴィン団長に向かい敬礼をし、それから食堂に入った。

 上官と同期が私を見つめる。どうやら心配させていたらしい。
 軽く会釈しながら自分の席へと戻り、冷めきったスープをかっくらう。固いパンをむさぼる。
 一瞬、フレデリックを喰う巨人の顔が思い出されて喉がひくついた。それを押さえつけて、水で流し込む。
 私は調査兵団の一員として生き抜かなきゃいけない。そのためには強くならなきゃいけない。
 喰われるのも、犬死にするのもごめんだ。

 食事と睡眠を大事にすることは人間性を尊重することに他ならない。というのが持論だ。だがいましばらくは、私が気持ちの余裕と平穏を持って食事と睡眠をとることはないだろう。
 今はそれでもいい。
 気のすむまで優雅に食べて、安堵に包まれて眠るのは、巨人がこの世から絶滅したあとで構わない。
 今はただ、この命をエルヴィン団長のために使いたい。





2017/04/01:久遠晶
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