後ろ髪を引くもの
恋ってのは呪いみてぇなもんだ。口に出すもんじゃねぇ。
壁外調査の休息中。夜空を眺めながら囁く分隊長の言葉が、いやに耳に残った。
壁の外で過ごす夜は過酷だ。遠くで活動を休止している巨人の息吹さえ聞き取れそうなほど神経を張りつめ、その上で肉体を休まねばならない。
その些細な休息の最中に交わした、くだらない会話だった。
酒場のバーテンがかっこいいとか、彼も私に気があるだろうとか。お前は好きなやつはいないのか――などと、同僚たちが言いあって談笑していた。
そこに、人の輪から外れ黙り込んでいた分隊長が、独り言のようにつぶやいたのだ。気づいたのは私だけだった。
分隊長にすこし身を寄せ、首を傾げて息をひそめる。
「意味がわかりませんね。なぜ呪いです? 人間だけに許された、素晴らしい感情ではないですか」
独り言に話しかけると、分隊長は苦笑した。
「恥ずかしげもなくそれが言えるってことは、お前はまだなんもしらねぇ甘ちゃんってことだ」
「ちょ……どういうことですかそれは」
私はムッとして眉根を寄せた。
その頃の私は七度目の壁外調査を迎え、新米兵士から中堅どころへとさしかかってきた頃合いだった。分隊長の言葉は、私のささやかな自負にさわった。
そんなところが甘ちゃんなんだよ、と分隊長が言う。表情のない瞳は分隊長の通常だから、私も傷ついたりはしない。
「お前にもいつかわかる時がくるだろうさ。生きていたらな」
私が反論しようとした時、音もなく招集が掛かる。
休息を終え、夜間のうちに一帯を通過するのだ。
私は気を引き締め直し、装備を整える。
壁の中に帰ったら、真意を聞こうと思いながら。
しかし残念ながら、その時は訪れなかった。
よくあることだ。
調査兵団の一員になった時から覚悟はしていたし、そんな場面はいつも見てきた。
目の前で分隊長が食われた。助けることは叶わず、巨人からは分隊長の足しか取り返せなかった。
よくあることだ。いや違う。
足を取り戻せたのは稀な幸運だ。だから本当は不幸中の幸いを喜ぶべきなのかもしれない。
結局、分隊長の真意はわからない。
五年が経ち、今となっては私が分隊長だ。そこまでの地位についても、あの人の言葉が理解できる兆しはついぞない。
***
「」
不意に名を呼ばれ、私の意識は現実へと帰還した。
目の前にいる訓練兵時代の同期は、不安げに私を見つめている。
なぜ──あんな昔のことを思い出すのだろう。思い出させたのだ。目の前の男が。
「お前が好きなんだ。結婚してほしい」
そう言って差し出すのは、王都の職人がこしらえたであろう銀細工の指輪だ。
見るだけでわかる上等品だ。きっとかなり無理したはずだ、と目算してから、少し違うかな、と思い直した。
彼は憲兵だ。調査兵団とは待遇が違う。給料も違うし、職人へのコネクションまであるのだろう――ああ、やめよう。こんな風に値段を推しはかるなんて、浅ましい。
有り体に言って、私は戸惑っていたのだろう。プロポーズが、自分に向けられたものには到底思えなかった。
ウォールマリア奪還作戦を控えたこの時期に、よりにもよってこの瞬間に、人気を偲んで夜更けに宿舎の裏側に呼び出してまでする話には思えないからだ。
「俺と結婚して……それで、出撃をやめてほしい。俺が守るから」
懇願をするように彼はそう言った。愛しているから戦うなと。俺が守るから、と、ありったけの想いを込めてくれていることがありありと伝わる。
それはきっと、世の女性が願ってやまない言葉だろう。
たくましい胸板に抱きしめられて、何も怖がることはないのだよと睦言をささやかれる。
なんと甘やかで、なんと愛らしい情景だろう。
事実、憲兵団のひとりであるこの男にはそれができる。壁の中で訪れるほとんどの脅威や面倒ごとに家族を寄せ付けない──家族に労働を強いることなく、食糧難で不安にさせることもなく、肉を食わせてやれるし巨人の足音を聞かせることもないのだろう。
憲兵団のなかではまだまだ下の階級だが、その程度の特権を持ち合わせている。そう、私はもう分隊長になったが、憲兵団ではそうはいかない──ふっ。
笑い出しそうになって、私は慌ててうつむいた。口元を押さえて声を飲み込む。
この男は、何をふざけているのだろう。怒りよりも先に呆れと哀れみが湧き上がった。
此の期に及んで、この男は巨人から女を遠ざけることが愛のカタチだと思い込んでいるのだ! 調査兵団の女を! 巨人を狩ることしかしてこなかった女を! 巨人から遠ざけようと!
なんと軽く見られたものだ。
大いに見下げられたものだ。
笑えてしまう。
王都でタバコを吸い、机に足を置き、酒を飲みながら過ごしてきたその腕で、私を抱きしめようと言うのか。訓練兵時代よりも脂肪の増えたその腕で。
「泣いているのか? 大丈夫だよ……もう一人じゃないからな」
さらにそんなことまで言うものだから、余計に肩が震えてしまう。
黙っていると、彼は私に一歩踏み込んで、私の手を取った。指輪をはめようとする手を、反射的に拒む。
「悪いけど、私は一人だよ」
「え?」
「すまない。気持ちは嬉しいけど、私は調査兵団だ。だから期待には応えられない……妻としての務めも果たせる気がしないしね」
私は肩をすくめて苦笑した。
気持ちは嬉しい、と言うのは心底の本心だ。
わざわざ声をかけてくれたこと。訓練兵時代の同期でしかない私を頭の隅にとどめておいてくれたことも嬉しい。
俺が守る、と言う言葉も、相手が調査兵団の女でなければ適切に作用したことだろう。
だから私は本当に困ってしまう。
「もっと他にいい人がいるよ。明日の命もしれない兵士じゃなくて、もっとちゃんと……壁の中で、あなたが守るべき人がいるはずだから」
──果たして、これが適切な言葉かもわからないが。
一礼して、宿舎裏から去ろうと踵を返す。彼は止めなかった。
前を向いて、毅然として道を歩く。ここから出れば──角を曲がって彼の前から姿を消せば、いよいよ戻れない。ウォールマリア奪還作戦のために、私の命は消耗される。それでいいと、決めたはずだ。
ぐるりと角を曲がる。そのまま更に歩を進めようとした瞬間、
「いいのか」
「うわぁっ」
真横から声をかけられた。
反射的にその場を飛びのいて確認すると、宿舎の壁にもたれかかるリヴァイ兵長がいた。
相変わらず気配がないことだ。壁の外では頼もしい人だが、壁の内側に戻った途端に心臓に悪い人になる。
あからさまに驚く私に、リヴァイ兵長は眉をしかめると思った。しかしさして気にも止めていないように、リヴァイ兵長はちろりと横を見る。
「玉の輿を棒に振っていいのか? 今から追いかければまだ間に合うかもな」
「デバガメしてたんですか、貴方は。私の恋愛が気になりますか?」
「貴重な戦力だからな」
軽口を叩くと、面白みのかけらもない真面目な返答が返ってきた。
いや、あるいはこれこそがリヴァイ兵長なりの冗談なのかもしれなかった。本人には口が裂けても確認できないが。
それにしても、戦力が減るのを気にしてデバガメまでするなんて。人手が惜しいとはいえ、これはあんまりではないだろうか。
私とて分隊長のはしくれだ。責任というものを知っている。
「私が出撃やめるかも、兵士やめるかもって不安になったんですか?」
「さぁ、どうだろうな」
おや、と思った。このはぐらかし方も奇妙だ。
信頼しているならデバガメの必要などなく、デバガメしているのだから私はその程度の忠誠心しかないと思われている。それならばハッキリそう言えばいい。
眉根を寄せる私を一瞥して、リヴァイ兵長が口を開く。
「なに酷い顔してやがる」
「そうですか」
私を不機嫌にさせたのは、間違いなくリヴァイ兵長なのだが。
つっけんどんな返しに苛立ったのか、リヴァイ兵長は眉根を寄せた。私に一歩踏み込み、胸元に拳を押し当てる。
「お前は兵士だ。ならしゃんとしてろ。なにを言われてもだ」
「……兵長」
「所詮、壁の外に出たことない連中に俺達のことはわからねえよ」
その言葉に、思わずうろたえてしまう。
リヴァイ兵長は、どうやら――私の不機嫌の理由を取り違えたらしい。
つまり、プロポーズの言葉が気に障ったと理解しているようだ。
いや、実際それも正しい。訓練兵時代の同期の言葉は、確実に私のプライドを踏みにじった。人類のため、死んでいった仲間の為に命がけの戦いに出る女を前に、「戦わなくていい」「俺が守る」ときたものだ。その言葉に救われる女もいるのだろうが、少なくとも私には当てはまらなかった。
はっきり言って傷ついた。つまり、今までの努力を無に帰されたような気分になったからだ。
「……手を出せ」
「え?」
「いいから」
有無を言わせない口調に、意味がわからないまま指示に従う。両の手のひらを差し出すと、リヴァイ兵長が私の手を取った。
リヴァイの指が、手のひらにできたタコを撫ぜる。
お互いに手がガサついているな、と思う。
ブレードを持ち立体機動を駆使して戦う我々の身体は、あちこち傷だらけで、身体を手入れする暇もないのだから当然だ。
リヴァイ兵長の手はしばしそうやって私の手に触れ、それから興味をなくしたように離れていく。
「兵長?」
「もういい。それより、後悔するなよ」
リヴァイ兵長は歩きはじめた。私はその背中を慌てて追いかける。宿舎への道のりは同じだ。
「後悔って?」
「後悔は後悔だろう。巨人に食われるときに恋愛しときゃよかった、素直に結婚しとけばよかったって喚かれてもうるせぇからな」
一瞬なにを言われたのかわからなかった。リヴァイ兵長の背中を見つめたまま、きょとんとしてしまう。
リヴァイ兵長はもしかして励ましているつもりなのだろうか。そうだとしたら、あまりに不器用な言葉だ。
言葉少なの不愛想、かと思えば饒舌な時もある。己の感情を語るときには過不足なく説明的で、紙面の言葉を述べているような事務的な匂いすらしてしまう。だから誤解されやすい。
そんなところに――どうしようもなく惹かれてしまう。
私は笑って、速足でリヴァイ兵長に追いついた。
「恋愛なんてする気ないですよ。知ってます? 恋は呪いなんですって」
「呪いだと?」
リヴァイ兵長が顔をしかめて歩を緩めた。どうやら、この単語はそこそこに興味を引いたらしい。
「何年か前に、分隊長が言ってました。恋は呪いだそうですよ」
「ふん、じゃお前はさっき呪われたわけだな」
大真面目に言うもんだから笑えてしまう。
求愛されといて失礼な野郎だ、という視線が尚更笑える。確かに失礼だが。
「私は呪われてませんって。リヴァイ兵長はこの言葉の意味、わかりません?」
「べちゃくちゃ喋る必要性を感じねぇ話題だな」
「うふふ」
笑いながら、リヴァイ兵長の背中に手のひらを触れさせた。大きな背中だ。団服越しでもそれがわかる。軽く叩いた。
「リヴァイ兵長は呪われちゃあダメですよ。ただでさえ幽霊に好かれそうな面構えをしてるんですから」
「…………………………」
死にに行く者の後ろ髪を引くのは罪だ。刃を鈍らせる大罪だ。
今ならなんとなく、あの分隊長の言葉がわかる気がする。
我々は男や女である前に、兵士だから。
宿舎にたどり着き、リヴァイ兵長の部屋についた。私の部屋はこの先だ。私は「それじゃあ」と言い、リヴァイ兵長と別れる。
「おい」
「……なんですか?」
背中に呼び掛けられ、振り返る。扉から顔だけ出したリヴァイ兵長が私を睨む。
「お前の手に……指輪は似合わねぇよ。ブレードのほうが似合う」
「へ?」
なんですかそれは、と言うより先に扉が閉じた。
それで一切のアクションを拒否され、私は苦笑する。
本当に不器用な人だな、リヴァイ兵長は。
ブレードというのは、当然調査兵団の武器であるブレードのことだろう。
リヴァイ兵長はリヴァイ兵長なりに、兵士であり続ける選択をとった私を励ましてくれているのだ。正しい選択だ、と言ってくれているのだ。
兵士であることを否定された私のことを、存外気にしてくれているのかもしれない。
女として意識され、好きだ、と求愛されるより、兵士として尊重される方がこんなにも私の心を浮き立たせるなんて。
たまらない。リヴァイ兵長の気遣いがどうしようもなく嬉しい。うっかり惚れそう。
ところで、私は気づいている。
私の手に触れ、ブレードタコの厚みを確認するリヴァイ兵長が──わずかに首筋を強張らせていたことを。
まるで緊張するみたいに息を止めていたことを。
そして私も私で、あのとき呼吸がぎこちなくなったことを、気づいている。
まぁいいだろう。首を振って考えを押し流す。
リヴァイ兵長の身体的変化や、私の胸にほころぶ喜びを追求するのはよそう。
なにがどうあれ、相手を呪う気なんてお互いこれっぽっちもないのだから。
現状考えるべきはウォールマリアの奪還だ。それ以外のことは考えなくていいし、あらゆる感情は生きて帰ってみせるぞ、というモチベーションにつなげておけばいい。
***
……。
もっと、劇的な最後を想像していた。巨人に身体を握りしめられても誇り高く、歯を食いしばり、泣き言も言わずに食い殺されていけると思っていた。
いやだ。しにたくない。
こんなさいごなんていやだ。
くちびるはひゅうひゅうと震えた息を吐くだけで、喚くことすらままならない。
く、はは。
所詮は私も単なる人間だったということだ。
当たり前だ。私はリヴァイ兵長とは違う。
人類最強には程遠く、たまたま今まで生き延びただけだ。
繰り上がりで分隊長になっただけの、運のいい人間でしかない。
地面にはいつくばって、このまま終わるのだろうか。
指先に力を籠めようとしてみた。動かない。ああ、ああ――くそ、私の右手が、見当たらない。
脇腹は直撃した岩石に削り取られ、馬から転げ落ち、私の身体は後続の兵士の馬に散々踏みつぶされた。いま意識があるだけ奇跡だろう。運がいいとは思えなかったが。
頭が、いやに冴えている。どくどくと血液が流れる音が耳の奥で鳴っている。
このまま緩やかに死に絶えるというのか。
震える左手を動かし、立ち上がろうと試みた。すぐそばにも兵士の死体があった。しっかりつかまれた兵士の指からブレードを奪い、杖のように支えて、身体を持ち上げる。しかしうまくいかない。私の身体は再び倒れこむ。
すぐ身体を動かそうとして、空が目に入った。
晴天。
雲はなく、青く広がる空はどこまでも冴えわたっている。
真下で行われる戦いはあまりにむごく、惨めなものだと言うのに。
力が抜けて、地面に大の字に寝っ転がった。
もはや痛みすら感じないありさまだ。ここまで、ということらしい。
――こんなことなら、あのひとに好きと言えばよかったかもしれない。
ぐちゃぐちゃになった腹の奥から、そんな感情が湧き上がった。 生きる者を呪えるのは、死者の特権だから。
あなたが好きだと。生きて戻ってきて……などとは言わないから、共に戦い、死にたかったと言えばよかった。
遠くから斬撃の音が響いてくる。顔を動かして確認することもできないが、あのひとはしぶとく生き延びているらしい。
それならこのくそったれな世界でも、壁のなかは安泰だろう。
この安堵も、期待も、よろしく頼むという言葉も、好きだという告白も、今となっては同様に、生者への無価値な重荷だろうか。
死にたくないなあ。死にたくないなあ。
こんな私を発見させることになって申し訳ない。普通に巨人に食い殺されておけば、死体回収の手間もなく問題なかったろうに。などと思ってから、死体がないのはないので辛いんだよなあとしみじみ思う。
生き抜く誰かに呪いを託すひまがなかったのは、きっと双方にとって喜ばしいことだ。
私の死はきっと無駄ではない。どうか勇気ある団員のひとりとして――実態は大きく異なるけれど――私の死は扱われるはずだ。
死んでいった仲間のひとりとして、リヴァイ兵長にカウントしてもらえるなら。それならば、まだ。私は報われる。
そうやって私は、多くの団員たちと同じように、変わり映えのない最後を迎えた。
2017/05/26:久遠晶
2017/06/03:一部修正
まぁた完全に雰囲気だけで書いている話です。
あの時代、生きるか死ぬかの瀬戸際で生きる者にとって、「貴方が好き」「生きて帰ってきて」と言う言葉は生き抜く活力と同時に『呪い』でもあるのではないか。
いつ死ぬかわからないからこそ情熱的に愛し合う人もいれば、「自分はいつ死ぬ身かもわからないから」と愛すことを避ける人もいる。
この話においてはモブの同期くんは前者で、リヴァイや夢主は後者として書きました。死の寸前夢主はリヴァイに思いを告げなかったことを(死者の心残りとして)悔いますが、生きていくリヴァイの事を考えれば「これで正解だった」と思い直す。ひとりの兵士として自分の死を背負ってもらえるなら、それでよしとしておこうと考えた。
……という話であります。
これ解説がないとワケわかんなさそう……。わけわかんなかったらごめんなさい。
萌え話といたしましては、リヴァイはリヴァイで夢主のプロポーズが気になってしまった。夢主の手のひらが戦士のものであると確認して一安心。的な感じですね。不器用なリヴァイ兵長、萌えます!
試験的にチェックボックス設置中。ぽちぽとしてくださると大変励みになります!