これからいっしょ



 母方の実家に届いたトロからの手紙を見た時、過去が追ってきた、と思った。
 子供の頃の親友。猫の友達。人間になりたいというトロに、じゃあ私が色々教えてあげる、といって、その手を引いた。
 そして、自分の都合でその手を振り払った。あの、心の片隅に追いやって、忘れたままにしておきたかった思い出。

 手紙に同封された招待状は、ある町へのバスの割引チケットだった。
 あくまで割引なので、ほとんどの交通費は自己負担だ。でも多分、トロはそんなこともわかっていないだろう。おバカで間抜けで、憎めなくて、かわいい子だった。
 その子を傷つけて、十何年経っただろう。
 きっと恨んでいるだろうに、手紙の文面はひどく無邪気だ。それがかえって怖かった。
 無視して、手紙なんか来なかったことにしようと思った。
 それなのに会社の休暇をとって、その街を訪れてしまったのは──結局、トロといた日々が、人生で一番楽しかったひとときだからだと思う。
 トロに怒られて、責められたい。そうしてまた、人間になる手伝いができたらいい、と、思ってしまったのだ

 キャリーカートを持ち上げてバスから降りて、伸びをする。爽やかな空気に包まれた田舎が、トロの招待状の場所だった。
 周囲を見れば、街の入り口に佇むトロを、すぐ見つけられた。
 十何年ぶりだけど、トロは変わっていなかった。白い毛並みに、ぴょこんと立った耳。好奇心旺盛に周囲を見渡す、つぶらな瞳。
 トロに声をかけようとして、喉がぎゅっと締め付けられてなにも言えなくなった。
 責められたいと思って来たはずなのに、あの笑顔が歪むのが怖い。 バスの発着場で立ち尽くしていると、トロがこちらに気が付いた。
 目が合う。

!」

 トロは迷わず私の名前を呼んだ。

!久しぶりなのニャ〜!」

 声を弾ませながら私に駆け寄って、そのまま私のお腹にダイブする。

「来てくれて嬉しいニャ〜❤︎」
「わっ」

 ぼすんという衝撃にバランスを崩して、なんとか倒れないように体勢を持ち直す。トロは構わず、私の腰に両手を回してお腹に頬を擦り付けた。

「ひ、ひさしぶ、り」

 え、これは、どうすればいいだろう。
 ワタワタと両手を上げ下げして、うろたえながらの挨拶。
 再会を歓迎するトロは、全身で喜びを伝えている。そのことに戸惑う。

「トロ、私のこと、お、怒ってない、の?」
「怒る? なんで?」
「だって、私……」

 トロはつぶらな瞳で私を見上げている。抱きしめたまま。

「"怒る"は悪いことされた時することニャ」

 昔教えたことを引用して、トロは言う。

「なにもされてないのに、怒るなんて変ニャ」

 その言葉に、泣きそうになる。ぎゅっと、トロは強く私を抱きしめた。また、お腹におでこを擦り付ける。

「会えない間、旅してる間寂しかったけどねっ! だからその分ぎゅーするのニャ〜❤︎」
「きゃっ、ちょっと、苦しいよ」

 さまよっていた手を、おそるおそるトロの肩に置いた。するとトロが腕の力を緩めるので、その場に膝をついて視線を合わせた。

「……わ、私も、寂しかった」
「えへへ、おんなじニャ」

 ぎゅうと抱きしめる。昔そうしたみたいに、頭を撫でて耳の裏をさする。
 ずっと後悔してたんだ。トロに会うのをやめたこと。トロを傷つけたこと。
 でも、トロがそれを怒ってないって言うなら。私は許されようと思っちゃいけないんだろうな。

「えへへ、のナデナデ、久しぶりニャ〜❤︎」

 トロは嬉しそうに息を吐く。変わらないその仕草に目頭が熱くなって、涙をこらえた。

「またこの街でいつでも一緒ニャ! よろしくニャ、❤︎」
「えっ? いや私、休暇でここに来ただけですぐ帰っ……」

 私が言うより早く、何かに気づいたトロが私の手をすり抜けて、走り出す。
 しばらく走って、すっ転んでべちゃりと地面に飛び込んだ。
 めげずに立ち上がって、私に手を振る。

、早く早くー!」

 ブンブン手を振るトロは、変わらない。
 まるであのこどもの日にタイムスリップしたような気分になる。
 私は息を吐いた。滞在は一週間だけだと言うのは、おいおい伝えればいいか。
 キャリーカートを引いて、トロを追いかけた。
 また、トロの隣を歩くために。


   ***


 キャリーカートを部屋の廊下に置かせてもらって、畳に寝転がって溜息を吐いた。

「ふぃぃ~、疲れたぁ」

 今日だけで看板直して、井戸を直して、色々と働きすぎた。この町――天つ空町にはどうやら人間がほとんどいないか、いてもご老人ばかりのようだ。だから施設の修繕が出来ないまま古びていって、観光客が減っていたのだろうと思う。
 ソラくんとのやりとりを思い出すと、胃が重たくなった。
 あれよあれよという間に観光大使に任命されてしまった。
 一週間で帰るから観光大使にはなれない、と言った時の「じゃあその次はいつ頃帰ってくるの?」と首を傾げるトロの目を見たら、断るなんて出来ない。

と一緒に住めるなんて、ユメみたい。幸せニャ~」

 殺風景な部屋にテレビを置いて、トロが言う。

「昔は、よくトロの家にお届け物してくれたよね。の贈ってくれた食べ物、どれもおいしかったニャ」
「そうだね……」

 畳に転がったまま、静かに応える。
 トロの家で遊ぶ時に合わせて宅配便を指定して、段ボールを開けて驚くトロの顔を見るのが好きだった。
 ありがとう、大好きだニャ! と私を見る笑顔が好きだった。トロの言葉はいつだってストレートで、心が温かくなる。

「懐かしいニャ~。が忙しくなってあんまり遊べなくなって、それで家を出て旅をするって決めたのニャ」
「そうだったんだ……」

 トロが旅をしていたことも、私は知らなかった。あの狭い部屋で、私があげた物に囲まれて暮らしているのだと思っていた。
 私はずっと足踏みしてきた。でもトロは、私の知らないところで立派に歩いていたんだ。そう思うと、ほっとするべきなのか、なんなのか、わからなくなる。

「ごめんね。あの時のこと」

 口をついて謝罪が出た。
 トロが気にしてなくても、私にとっては何十年も引きずり続けた爪痕だった。

 猫とばっかり遊んでるなんておかしい。クラスメイトにそう言われた日の帰り道。トロに会って、嬉しそうに駆け寄るトロに……怖くなった。
 おかしいと言われて、糾弾されて、学校で居場所がなくなるかもしれないと思ったら、反射的にトロの手をはねのけていた。
 あの時のトロの、戸惑った表情。すぐに後悔したけど、言った言葉は取り消せなくて、どうすればいいのかわからなくてその場から逃げた。
 離婚することになったと両親から知らされたのはその日の夜で、私は結局、トロに会うこともないまま、別の土地に引っ越したのだった。

「ずっと謝りたかったの」
は謝るようなこと、なにもしてないニャ」

 トロの声は相変わらず優しい。
 涙を見せたくなくて畳にうつ伏せになる私の背を、トロはゆっくりと撫でる。

は頑張り屋さんだから、きっと色んな事を気にしちゃうのニャ。これからはトロがついてるニャ! なんでもたよってね」

 トロのぽてっとした手が肩を叩く。顔を上げてと促され、私は涙目を晒した。

がすき。だいすきニャ」

 身を起こすと、トロの顔が迫ってきた。避ける間もなく、ふにゃんとした唇が唇に当たる。
 それは、人と猫だけれど……紛れもない、キスだ。

「な、なにを」
「エヘヘ。キスは胸キュン。本当ニャ~心がポカポカするニャ~」

 染み入るように目を瞑ったトロが、嬉しそうに身体を揺らす。
 そういえば子供の頃、キスは大人がする、胸キュンなことらしいよ、なんて教えたことがあった気がする。それを律儀に覚えていて、実践したってことなのか。
 私、なんてこと教えてるんだ! 恋愛がどういうものか、キスの意味もわかってない戯れ言だ。

「ごめんね、キスって……そういうことじゃないの」
「キスって、好きな人同士がすることじゃないの?」
「そ、そうだけど……」
「なら問題ないニャ!」
「ああっ、ちょっ、待っ」

 トロが唇にぐいぐい顔を寄せてくる。ふわふわの毛並みは正直、ぬいぐるみに顔を寄せるように心地いい。
 だけどトロは人間じゃないわけで、これから一緒に暮らす相手なわけで。
 ちゅ、ちゅ、と毛並みが吸い付いては離れる。毛並みの奥の温度と、たまについばむくちびるの奥で舌に触れるのが……その……つまり……。

「こっ、こういうのは人間同士がやることで、誰かれ構わずやることじゃないからっ……」

 トロの肩を押し返しながら言うと、トロはびたりと止まった。

「じゃあ、人間になったらにキスしていいの?」

 ――そういう問題じゃない!
 と叫びたかったけど、ごちそうを我慢させられるような切なげな顔をされると、人間になってもキスはだめ、とは言えなかった。

「……まあ、人間になったら……」
「わかったニャ! 人間になりたい理由がまたひとつ増えたニャ~」

 無邪気に笑うトロは、キスの意味も、恋の意味も、なにひとつ理解してはいないだろう。
 人の気も知らないで。
 顔が熱い。こんな形でファーストキスを体験することになるとは思わなかった。トロが人間になる前に、そういうことも、きちんと教えないといけないな。
 だってこんなことを人間が人間にしたら、大問題だし、誤解を招く。
 ……そう。誤解だ。誤解だから、静まれ、私の胸。

「私もトロのこと、ちゃんと好きだからね」
「知ってるニャ。トロとは両思いなのニャっ」

 胸がどきどき切なくなるのは、在りし日の憧憬故だろう。
 トロの小さな身体を抱き締めた。トロが人間になったらこういうこともきっと出来なくなるから、それまでにいっぱいしておこう、と思った。
 もう二度と、日記にさみしいなんて書かせないと、固く誓って。




2019/10/08:久遠晶
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