毒牙とけだもの



 年頃の淑女と言うのは、逞しい男の胸板に憧れるものらしい。
 もちろん口に出すのははしたないことだけれど、強く雄々しい殿方に見初められるのが淑女の名誉であることは間違いないだろう。
 強い男。家柄と気品を併せ持ち、妻となる女に自由を約束する男の元に嫁ぎ、家と家とつなぐ。それが華族の女に与えられた使命であり、名誉なのだ。
 だから、それを嫌がるのは子供のわがままだ。
 そして、百合子は――明らかな子供だった。

「あんな人と結婚なんてしたくない」

 親友はそう言って唇を噛む。専属の執事が淹れた紅茶に口をつけることもせず、こぶしを握って震わせる。
 よほど、金を積まれての結婚が屈辱なのだろう。
 わがままを言ってる場合なのか、と、周囲に視線を巡らせた私は思った。
 百合子の自室は以前と変わらず華やかだが、そこ以外は知れたものだ。この屋敷で優雅さを保っているのは百合子の自室と客間だけだろう。
 門をくぐり、玄関から客間に通され、百合子の自室に案内された。そのわずかな道筋をたどるだけで、野宮家の窮状はうかがい知れるというものだ。
 以前あった場所に家具がない。窓辺に飾る花瓶と花はなく、廊下の窓をさえぎるカーテンは安っぽい生地の薄いものに変わっている。
 その隙間から見下ろした庭には、目立たない範囲ではあるが野菜が植えられている。
 使用人と執事はひとりしかおらず、財政難に苦慮しているのが見て取れた。
 百合子に気取られないように金策を立てているのだろう。百合子の誕生日とご両親の事件から、まだ幾ばくも経っていない。心労をかけたくない気持ちは当然だ。
 ――そういう気遣いを知っているなら、さっさと結婚して家を維持するのが女の務めと思うがね。
 ため息を飲み込んで紅茶に口をつけた。美味い。

「斯波は成金だが、財力はある。成り上りの下賤な身分を除けば悪くはない」
「どうしてそんな意地悪を言うの、

 百合子の細い眉がキュッと寄せられて、柔らかそうなくちびるが突き出される。

「あんな下品な人、絶対にイヤ」

 先の外食でなにかあったのだろうか。
 どうせ、隙だらけな顔をしていたんだろう。自業自得だ。
 私はあえて、そこに切り込んだ。

「この前、手篭めにでもされたのかい? なら、なおさら傷ものにした責任をとらせるべきだな」
「どうしてそんなことばかり言うの! 百合子のことが嫌いになった?」

 百合子は語気を荒げて怒る。はしたなく両腕を振って抗議すると、さらさらの髪の毛が揺れて乱れる。
 こういうしぐさは、私だけが見るものだ。親友だから。気ごころの知れた幼馴染だから。
 ホッとする。よかった。斯波が彼女を汚していたら、殺していたところだ。
 安堵を顔に出さないようにしながら、私は頬を持ち上げて笑った。

「侮辱したことを謝るよ。女は不便だよな。望まぬ結婚を押し付けられて」
「いっそ殿方に生まれたかったわ」

 テェブルに肘をついて、百合子は憂鬱げに窓の外を見やる。
 その言葉を聞いて笑ってしまう。
 百合子が殿方だったら、どうだろうか。
 男として生まれた百合子を想像しようとするが、うまくいかない。
 頬に添えられた繊細な指先も、瞳を縁取るまつげの長さも、肌の白さも男のものでは断じてないからだ。

「……確かに私も、男に生まれたかったよ」

 いつもいつも夢想する。 私が男だったら。雄々しく力強い腕を持っていたら。
 この親友を娶ることができただろうかと。

 幼い頃の話だ。
 殿方の腕に抱きとめられる自分を夢想するより先に、私はこの美しい親友を抱きとめる自分を夢想した。
 恋愛小説で殿方に守られる淑女に感情移入するより、知恵と勇気で悪を倒す冒険活劇に憧れた。
 私の視線を引くのはいつだって白く美しい肌を持つ女性で、男へ抱く羨望は自分にない身体への嫉妬だ。

 恋心はいつだって私の心に寄り添っていたけれど、この大正の時代は、女が女に懸想することは異常な──そんな酷い時代だ。
 聖書にだって許されないと書いてある。
 でも違う。
 神様は、私の魂を間違って女児の身体に入れてしまった。だから私が悪いわけじゃない。私が異常なわけじゃない。
 この身体が、この女の身体と立場がおかしいだけで、私自身はなにもおかしくない。
 なんて──そんなこと誰にも言えないが。
 秘密はなしよと囁き合った百合子にだって言えない。この人にだけは、言ってはならない。
 だから百合子は無自覚のうちに、私の心の柔らかい部分を、無垢な瞳で踏み潰す。

「あなたが男だったらよかったのに。きっと女心のわかる、素敵な殿方になったわ。今でも充分素敵なんですもの」

 心を踏み潰されてズタズタにされる。この感覚はいまだに慣れない。
 百合子じゃなくても、誰にだって言われる。もうすこし女らしくしたらどうだと。そう言われる度傷つく。私の体自身に傷つけられる。
 私はいかに投げかけられた言葉を素通りして、肩をすくめて、聞いていないふりをする。

「それは『女らしくない』って嫌味かい?」
「褒めてるのよ。嫌味っぽいのはあなたのほうだわ……嬉しいのよ。あなたって他の人には猫をかぶっているでしょう」

 そりゃあ、両親の前で男口調などするわけにはいかない。百合子は幼い頃からの友達だからこの口調が許されてるだけだろう。
 相変わらず百合子は残酷だ。
 むせかえるような百合の花の匂いを漂わせて男を魅了する。男が忘我のうちに手を伸ばせば、たちまち踊るように掻き消える天真爛漫な蝶。
 鱗粉だけを指に残された男は、百合子に惑わされたまま思いを秘めるしかない。
 私はそれが、心底羨ましい。
 百合子との未来を妄想しても許される身分。可能性。
『男だったらよかったのに』なんて、『女のお前ではダメだ』という死刑宣告と同義だ。

 百合子は幼い頃からの親友に、女友達に、性的な目で見られているなんて思いもよらない。
 私が何度空想で百合子に触れようとしたのか、百合子は知らないのだ。いっそ押し倒して、秘め事を犯してしまえば百合子も思い知るだろうか。
 時折、どうしようもなく暴力的な気分になる。百合子に思い知らせたくなる。

「……百合子が思ってるほどいい男にはなれないよ。私は。まぁ、それはともかく、うまいこといい縁談が来るといいな。相手を尊敬して、思いやれる結婚が女の本懐だ。愛せる男であればなおいい」
「少なくとも斯波さんじゃあなさそうね」

 斯波という男はよほど嫌われたらしい。あんまりな言い方に苦笑する。

「百合子にぴったりな男がきっと見つかるよ」

 うまいこと笑ってそう言ってみる。
 百合子はこうやって、背中を押してほしいのだ。だから私は、親友としての務めを果たすように百合子の望む言葉を口にする。
 惨めなセリフだが、本心でもある。
 私が男だったとしても太刀打ちできないぐらいの男と幸せになって欲しい。強く結びついて、入り込めないぐらいの絆を結んで欲しい。
 どうせ惨めになるなら、それぐらい完膚なきまで打ちのめされたい。
 そうやって、心底死にたい気分にさせてほしい。

   ***


 そんな会話から数ヶ月。

 百合子が屋敷から姿を消した。
 当初、執事は花嫁修行のために鏡子夫人の元で寝泊まりしていると言った。
 嘘だ、と直感する。
 鏡子夫人は界隈では有名な方だ。うさんくさい噂も多く、百合子が夫人を気に入るとは思えない。花嫁修業などもってのほかだ。万が一それが真実だとしても、泊まり込む必要などどこにもない。
 私が睨むと、執事はそういうことですので、と念を押すように言った。

「突然訪問したので百合子が出払ってらっしゃるかもとは思いましたが、まさか花嫁修業だなんて」
「大変申し訳ありません」

 紋切型の謝罪だ。頑なさだけがある。
 百合子の執事――藤田は真面目な男であると知っているが、こんな男だったろうか。
 やはりなにかがおかしい。
 きっと百合子に何かがあったのだ。そうでなければ、過保護な執事とお兄様が一時的でも百合子を手放すわけがない。

「……では、鏡子夫人のほうにご連絡差し上げればよろしいですね。百合子さんにお話ししたいことがありますので。斯波さんとご婚約されないなら、紹介したい方がおりますの」
「いえ、それはっ」
「それは?」
「いえ……。それは、まだ……」

 ――やはり異常だ。
 どうしてこの会話の流れで、そう口ごもるのか。花嫁修業中だからお見合いはできない? 訳の分からない理論だ。だいたい、家の状況的にはすぐにでも結婚したいはずだろう。
 百合子の身に、なにがあった?
 問い詰めたいが、私は問い詰める理由を持たない。親友だから教えろ、で教えてくれるとも思えない。

「ではご紹介の件は抜きにして、連絡してみますわ。あまり会えないと私もさみしいもの。わかるでしょう?」
「はい……ですが……」

 藤田は頑ななくせに煮え切らない。どうか追及してくれるなと言いたげにくちびるを引き結ぶ。
 ――なんでそんな罪悪感にいっぱい、って顔をするんだ。

 結局門前払いに近い形で屋敷をあとにするはめになった。
 大きな屋敷も、管理する者が少なくなって、庭の荒れが目立っている。百合子が居ないと考えるだけで、色あせて見える。
 親友として百合子に寄り添うことすら許されない。恋人であれば変わっただろうか。
 自分の無力が辛い。


   ***


 今まで何度も死にたくなったけれど、今回のようなのは初めてだ。
 数か月ぶりに百合子から連絡があった。会いたいと言われ、私は有頂天になった。死んでるんじゃないのかと半ば疑っていた時だ、嬉しくないはずがない。
 しかし――。
 鏡子夫人の屋敷で百合子を見たとき、違う、と思った。

「今まで殿方に憧れていた自分がバカみたいなの」

 ゆるりと笑って私を見つめる百合子は、どこかが違う。
 挑発的で艶かしい。まるで脱皮したての蝶のようだ。

「何を、百合子」
「あなただって言ってたでしょう。男なんて好きじゃないって、男なんていやだって」

 百合子が、すがるように身を寄せてくる。着物の帯を解いて、素肌をあらわにしながら。
 え? なに?
 何が起きてる?
 わけがわからない。助けを求めるように部屋に視線を巡らせると、扉をさえぎるようにして立つ夫人が、くすくすと笑っていた。
 その笑みに反応するより早く、百合子が私の肩に触れた。
 いとも簡単に視界が裏返り、事態の把握もおぼつかないままに押し倒される。

「あなたが好きなの」

 百合子が視界いっぱいに広がり、くちびるにあたたかなものが触れる。
 何度この瞬間を思い描いたことだろう。
 柔らかな肩を抱き寄せ、くちびるに触れる権利をずっと焦がれてきた。
 それが許されたというのに、私の頭は冷えていく。
 視界のはじで、夫人が嬉しそうに笑っている。百合子も笑顔だ。
 異常だ。おかしい。この空間は。違う。こうじゃない。

 私のくちびるに触れながら、百合子は屋敷で男に乱暴されたと語った。すべてが符号する。一番考えたくない事態で、痛ましい事件だった。
 男だらけの屋敷には居られない。やがて、同い年の私ではなく、年上の夫人を頼った。そういうことだ。
 しかし痛ましい事件のあとで、こうして女に触れられるものだろうか。妖艶な蝶のようにふるまえるものだろうか。
 男に乱暴されたそのせいで歪んでしまったんだろうか。
 男は嫌いだ、だけど逸物だけは快楽を与えてくれる。だから男は利用するだけ利用して、逸物だけを愛せばいい。そして──。

「心はあなたのものよ、

 私にそう言うのだ。無邪気で、だからこそ色っぽい瞳で。
 そして、私は、二度目の失恋を味わった。
 息が出来なくなって、瞬く間に私の瞳からは涙があふれていく。

「私……私の、こころは、男だよ。百合子の望む、女性じゃない」
「えぇ……?」

 百合子が怪訝な顔で眉をひそめる。
 何を馬鹿なことを言っているの。そう言いたげな表情に、私は素直に傷ついた。
 私は単なる俗物だ。女の身体を持って生まれただけの獣。睾丸と逸物を母の腹に忘れたという理由で、百合子からの軽蔑を免れているに過ぎない。
 愛する女性からの軽蔑を免れ寵愛を受けられるのなら、いびつな私にも救いが与えられるというものだけど。
 でも……この身体は百合子に快楽を与えてあげられない。癒すことも、きっと無理だ。
 それがたまらなく悲しい。

 今の百合子に必要なのはちゃんとした男だ。百合子を傷つけない優しい男からの、深い愛情。
 たくましい胸板に寄り添って安心できる相手に愛されて、恐怖を癒すべきなんだ。
 少なくとも、百合子が求める即物的な快楽などではないはずだ。――それにしたって、その本質は逃避だ。母から抱きしめられたいだけなんだ、百合子は。
 私は女性だからと百合子に選ばれた。だと言うのに男としての愛情も、女としての愛情も百合子に与えることができない。

 、と百合子が私の名前を呼んだ。
 親から押し付けられた名前がいやだった。すべてがいやだった。
 くそ。何が違ったのだろう。ほんのすこしずれていただけなんだ。すべてが正しくあったなら、私の心が正しい女であったなら、こんなにつらい気分にならなかったろうか。
 許されるなら、百合子に求められるまま、彼女の身体をめちゃくちゃに踏み荒らしてしまいたい。暴漢にされたというより激しく犯してしまいたい――だめだ――ちゃんと優しく――紳士みたいに――この私が――百合子――。

「……百合子、百合子は疲れてるんだ。自分を傷つけないでくれ……百合子に必要なのはちゃんとした療養だよ」
「まるで私が休ませなかったみたいな言い方ね」

 鏡子夫人の茶々がうるさい。
 思いを遂げるせっかくの好機だというのに、わざわざ諭してしまう私はなんなんだろう。
 惨めや滑稽を通り越している。
 百合子は困ったように鏡子夫人をうかがった。まるで依存しているように、信頼を置いているらしい。実際依存だろう。現状、鏡子夫人は百合子の最後の砦なのだから。

「恥ずかしがってるだけよ、お姫さん」
「そうね、わかってくれるまで待つわ」

 ニコリと笑う百合子に胸が痛くなる。
 違うんだ。君が好きなのは、本当はちゃんとした男なんだよ。君を癒せるのは私じゃないんだ。
 百合子が好きだからそう言って諭すのに、全く伝わらないのが泣きたくなる。いっそ百合子の求めるただれた関係を受け入れられれば楽になれるだろうか。
 それでも私は蝶がまた羽ばたくことを夢想して、虫かごの扉を閉められずにいる。





2017/05/26:久遠晶
 性的少数派というのは現代社会でもなんやかんやありますが、大正時代ともなれば想像を絶する痛みや抑圧があったと思います。
 トランスジェンダーや性同一性障害という言葉もなく、異常な精神病だと弾圧される世界ですからね……。
 今回ではお話しの題材として、トランスジェンダーの幼馴染と蝶毒のヒロインこと百合子さまで書かせていただきました。
 某人に乱暴された百合子は女性に愛情を求めるようになるが、『身体が女であるだけの男性』である夢主は、百合子の求める『女としての愛情』を返せない。かといって、百合子に真実必要と思われる『男からの愛情』も、身体が女性であるために与えられない。少なくとも夢主はそう思う。という救いがなく話です。
 ジェンダー観上の突込みはもろもろあるかと存じますが、あくまでこのお話しは夢主の一人称。夢主の考えです
 作品のジェンダー観に問題があると感じたら(相当ある)、それは作者ではなく夢主のジェンダー観だと思ってご容赦ください。この夢主がいつか救われるといいなあ。

 大正時代は当然男尊女卑の世界なわけで、現代との感覚のズレはたまに見てて不快になるものですが、蝶毒本編はこのあたりをすごーくうまく処理してましたよね。大正時代の価値観も提示しつつ、鏡子夫人と斯波のやり取りでうまく和らげつつ。


 藤田ルートは派生である鏡子夫人エンドも秘密倶楽部エンドも永遠の下僕エンドもかなりヤバゲな状態ですが、鏡子夫人エンドはひときわ異彩を放っていると思います。ていうかあのあと鏡子夫人の館に呼ばれて押し倒された藤田、相当罪悪感やらなんやらで死にたくなりますよね……というか全体的にみんな死にたくなりますよね……。かといって当の百合子ははっちゃけて楽しそうなのは、救いになるのかならないのか。真島はどう思ってるんだろうなあ。

 気が付けばあとがきがやたらと長い!
萌えたよ このジャンルの夢もっと読みたい! 誤字あったよ 続編希望!