二度目の生

 そっちの手を、と東方仗助が言った。学生服の裾を掴み、転落をどうにか押しとどめながら。
 蓮見琢馬は震える指で学生服のボタンを一つ一つ外していった。
 なぜそうしたのかはわからない。だが、このままでいてはもろとも転落してしまう。そこに待ち受けるのは確実な死だ。
 結局のところ、琢馬は復讐のためにどれだけ狡猾になれても、死の瞬間に道連れを求めるほど、残忍な性格ではなかったということだ。
 最後のボタンが外れ、琢馬は空中に投げ出される。
 【茨の館】の屋根から地面に墜落する、そのわずかな瞬間。東方仗助の背後に、黄金に輝く【the book】のページが風に舞っていくのが見える。
 きっと、今【the book】を見ても、恥は何一つとして書かれていない。情けないことなどなにもない。
 琢馬は胸を張って、雪の積もる地上へと墜落し──そこですべて終わった。


  

 ざーざーという音がする。
 ちょうどテレビの砂嵐のような音に似ているし、激しい雨粒の音にも思えた。
 母のようだ、と思った。まだ胎児だった頃、母の腹のなかで聞いた音だ。ビルの隙間に閉じ込められ、そこで半年ほども過ごした母。
 その憧憬に引っ張り上げられるように、目を覚ました。
 目の前が白い。視界がぼやけてわからないが、どうやらどこかの部屋の天井のようだ。しばしぼーっとしていると、視界と思考がはっきりしてきた。
 ここはどこだろう。
 起き上がろうと身体を動かすとひどく痛んだ。

 意識が覚醒する。千帆のことや、虹村億泰、東方仗助との対決が脳裏をよぎる。
 ここはどこだ。
 痛みで身体が動かない。琢馬はうめき、指一本動かすことすらできない状況に、己の身体がどれほどボロボロになっているかを理解した。

 自分は生き残ったのだろうか。
 だとすると、おそらくここは杜王町の病院だ。
 仗助の仲間──おそらく広瀬康一──が転落した自分に気づき、救急車で搬送したのだろうか。いや違う。
 ここは病院ではない。
 病院であれば、必ず点滴かなにかに自分はつながっているはずだ。しかし自分の腕はなににもつながっておらず、また身体に包帯を巻かれている感触もしない。
 起き上がることも出来ないので、痛む首をひねって部屋を見渡す。
 アンティーク調の部屋に、少女趣味のぬいぐるみがいくつも置かれていた。

 何日寝ていたのだろう。
 冷静を保つために深呼吸した。静かに【the book】を呼び出す。喉がへばりつき声が出ないが、【the book】は琢馬の念に応じて掛け布団の中の右手に現れた。
 指先で【the book】の表面をなぞる。人の肌のようにすべらかな感触がするはずだったが、【the book】の表紙はバサバサで、とても荒れていた。琢馬の状態を反映しているのだろう。
 左肩は骨折し、あばらを何本か折っている。つま先を動かそうとするとすねの骨に痛みが走った。両足共だ。屋根から転落した時足から落ちて骨折したのかもしれない。
 どうやら無事なのは右腕だけらしい。
 つまり全く歩けないということだが、痛むことは逆にいい兆候であるとも言える。神経に甚大な損傷はないことのあらわれだ。
 舌打ちがこぼれた。
 こんな有様を千帆が見たら、彼女はどう思うだろう。いや、今彼女は生きているのだろうか。
 胸によぎった心配を、ため息で押し流す。
 今の自分にとって、彼女の生死は無関係なものだった。もう二度と会うわけにはいかない相手。それだけだ。

 感傷的で絶望的な考えがよぎる。
 生き延びてしまったからには、自分はすべてを完遂させねばならない。すなわち、杜王町からの逃亡である。
 先ほどは急に痛みが走ったので力を抜いてしまったが、痛みが来るとわかっていれば平気なはずだ。深呼吸をして痛みに備え、ぐっと身体に力を入れ、起き上がる。唯一無事な右腕で掛け布団をめくると、包帯一つ巻かれていない身体が目に入った。破れたはずの学生服は綺麗に直っており、見た目だけ見れば全く普通の学生だ。しかし痛みは確かにある。

「動かないほうがいい。私の【ファンデーション】は見た目は元どおりにできるけど、【クレイジー・ダイヤモンド】のように負傷を治せるわけじゃない。表面をカバーしているだけだからね。あなたは普通に、全治三ヶ月の大怪我人さ」

 不意に声がした。聞き慣れない声だ。
 顔を横に傾けると、扉の前に女がいる。学生服を着た少女だ。
 琢馬は脳内で検索を開始する。すぐにわかった。千帆の同級生だ。

「不思議だよな。人間ってのはよっぽど視覚に依存しているらしくて、そうやって私のスタンドで見た目を覆ってごまかすと、そいで傷が治ってるもんだと脳が錯覚するらしい。結果として痛みは感じないし、傷の治りは早いと。面白いよね」
「き……みは、千帆の」
「無理しないでいいよ。水、飲める?」

 へばりつく喉をどうにか動かして喋ろうとするのを、彼女は遮った。
 マグカップに入った水を差し出される。しばし考え、琢馬は受け取ることにした。毒が入っている危険はないだろう。毒など使わずとも、今の琢馬なら誰にだって殺せるからだ。

「あなたは三日間ほど眠っていた。千帆の家は全焼、焼けたお父さんは何者かに刺殺されていることがわかり、重要参考人の千帆自身は行方不明。まぁ、杜王町にはいないんじゃないかな」

 刺殺。大神照彦の死を想像し、少しだけ胸がスッとした。
 しかしそれだけだった。
 ――もっと、スッキリすると思っていたのに。
 水を一口飲むとどれだけ自分が乾いていたのかわかった。しかし喉が渇きすぎて、水を飲み込むのも一苦労だ。結局、三口飲んでやめた。胃腸が弱ってるらしい。当然だ。

「さて、蓮見先輩。色々知りたいことあるだろうけど、なにから知りたい?」
「……きみは何者だ。東方仗助の仲間のような口ぶりだな。これから俺をどうするつもりだ」
「畳み掛けないでよ、一つずつ行こう。まず、私の正体? 別になんもないよ。取り立てて普通の、スタンド使いさ」

 人に尋ねておいて、結局自分の話したいように話すつもりらしい。

「仗助とは知り合いだけど、仲間ってわけじゃない。ただ……言うなれば互助会の一員、ってぐらいかな。スタンド使い同士のネットワーク、ってぐらい。仗助のお母さんが病院に運ばれた時、私のとこにも話が来たよ。で、あなたをどうするつもりかと言うと、別にどうもする気は無い」

 彼女はそう言った。無表情だ。
 本心が見えない能面のような表情に眉をひそめてから、ひょっとして自分もこんな印象を他人に与えていたのだろうかと琢馬はすこし落ち込んだ。

「あの時……私、全部見てたよ。先輩と千帆のデートも、先輩が千帆の家に入るところも、千帆のお父さんとなにやら険悪になっているのも、そのあと帰り道で千帆に似合いもしない首飾りをプレゼントしたのも。そのあと【茨の館】に入っていったのも。そのあと億泰が入った。その次は仗助だ。最終的に屋根での決戦になったね。いや、あれは本当にすごかった。戦闘能力のないスタンドで、よくあそこまで戦ったもんだよ。でもあの日だけじゃない。先輩はずっと前からひとりで戦っていたし、そんな先輩をずっと見ていたよ」

 彼女は興奮めいた様子でとうとうと語る。胸の奥に吐き気がこみ上げてくるのがわかった。

「……なんだ、それは。気持ち悪いな。最近ニュースで話題になってた、ストーカーってやつか」
「そう取ってくれて構わない。気持ち悪がられたって、救えるものがあるなら安いものだ」

 女は気分を害した様子もなく言う。それどころか誉ぶって胸を張った。どこか赤らんだ頬で、熱に浮かされたような瞳で。
 それは千帆の瞳と同じだ。自分を見つめる千帆の瞳を、目の前の女もしている。

「千帆を守る為なら、いくら気持ち悪がられたって構わない」
「……お前、まさか、俺じゃなく千帆の方を」
「ああそうさ。千帆が好きなんだ。別に、特別仲のいい友達ってわけじゃなかったけど」

 琢馬は恥じらいなく言った彼女に、すこしおぞましさを覚えた。女同士、というより、彼女の恋愛のあり方に対してだ。

「私が千帆にできるのは、彼女の幸せを見極めることだけだろう。そして見守ることだけだから。
 だからあなたをずっと尾行していたよ。なんかおかしなことがあればすぐ別れさせようと思ってたけど、あなたは恐ろしくなるぐらい平凡だった。記憶力があまりにいいことを除けば」

 ただその時はこんな大事件になるとは思わなかったけどね、と彼女は肩をすくめた。

 だんだん話が見えて来た。
 この女は東方仗助と、連帯していると言う意味での仲間ではないらしい。関連はあるが関係はなく、別口で琢馬を追っていた。琢馬はそれに気づけなかった。警戒を怠っていたわけではなかったが。
 おそらく、それがこの女のスタンド能力なのだろう。【ファンデーション】と女は言っていた。
 琢馬の身体が元どおりになっているのも、スタンド能力によるものだと先ほど言っていた。女の化粧のように、見た目を整えごまかす能力なのだろうと、琢馬は直感した。

「本当はあの時、屋根から落ちたきみを助けるか助けまいか悩んだよ。だって、いくら興味深いと言っても、きみは恋敵だし、友達二人に重体を負わせた相手だしね」
「ではなぜ…………」
「さぁ。どうしてだろう。あんた以前、【感情移入】の話をしていたよな。たぶんそれだ。私はあんたに、あんたを観察して見えた断片的な物語に【感情移入】した。もっとその物語を見たいと、知りたいと思ってしまった。それだけだ。ページが終わるのを見たくなかった。奥付なんて見たくもなかった……それだけだよ」

 死んで欲しくなかった、と彼女は言った。
 なるほど極めて原始的で、根源的で、直球な欲望だ。助けられた琢馬のことなど考えもしていない。利己的かつ説得力のある感情だ。

「それにすこし興味があった。人生の目的を果たした少年は、次になにをするのかが」
「……次に?」
「そう。これからきみはどうするんだ? 復讐を果たし、あの時仗助の手を拒んで自ら死を選んだきみは、生きのびちまった後あとどうする?」
「……それは」

 そこまで言われ、琢馬は気づいた。
 大神照彦へ復讐したあと、特にやりたいことなどなかったのだ。
 ポストカードに印刷されていたような、どこまでも広がっている緑色の草原を目指して出発するつもりだった。しかしそれだけだ。そこで何かをする気など、考えていなかった。
 いや、気づいた、という言葉は間違いだった。復讐したあと、やりたいことなどなかった。
 意図的に復讐の先のことを考えないようにしていたのだ。

「きみの物語は、あの時完結したはずなんだ。いわばこれはスピンオフか、ボーナストラックか、あるいはロスタイムだと思っておけばいい。私は『死んで楽になる』だの、物語上あそこで死ぬべきキャラ、みたいなものを容認していない。愛する者がいない物語は無味乾燥だ。そんなマネは許さない。そんな気持ちを、千帆には味合わせない」
「じゃ、どうする。俺を千帆の元に突き出すか?」
「そうしたかったんだが、そうもいかない。言ったろ、千帆は行方不明だと」

 彼女の顔が、わずかに陰った。
 ――自殺なんかしていなければいいが。
 そう案じているのだ。
 琢馬は無意識のうちに彼女から視線をそらした。もし千帆が死んだら、彼女は自分に復讐するのだろうか、と思案した。

「まあいいのさ、きみがこの先生きてさえいれば、どこかでばったり千帆と再会することもあるだろう。そういう【優しい可能性】が、私にとっては重要だ」
「お前の言葉は理解できない。だが……そうだな、お前が千帆を好きな理由はわかった気がする」
「警戒心と敵意はといてもらえたかな」

 彼女は肩をすくめた。彼女の癖らしい。

「今日はそろそろ休んだほうがいい。急に頭を使うと大変だろう。まだ動いたり話したりできる状態じゃないんだ」

 細い手が伸び、琢馬のまぶたを覆った。養護施設で保母にされたような仕草だ。琢馬はその仕草をすこし不快に思った。信頼していない相手に顔を触られるのは誰だって嫌なものだ。
 だが不思議とすんなりと琢馬は目を閉じ、すぐに眠りの世界へと落ちていった。
 彼女の言うように、動いたり話したりできる状態ではなかったのだ。


 とにもかくにも、こうして蓮見琢馬は目覚めた。
 再び目を開け、世界を認識した。
 比例して、【the book】にも文字が増えた。それを読むと、自分は人生の目的を見失い、宙ぶらりんの状態だとわかった。
 どこに行けばいいのかわからない、という迷子の少年のようらしかった。自分では実感はわかないが、そう本に書いてあるのだからそういうことなのだ。

 不思議と、自分が生きていることに絶望はなかった。そもそも仗助と戦い、宙に投げ出されたあの瞬間まで、死ぬと言う選択肢は琢馬にはなかったのだ。
 自殺したかったわけではなく、仗助を道連れにすることを良しとしなかっただけだ。
 だがそれでも。死ねば母の元に行けるかもしれない、と淡い期待を抱いた。それは確かだった。
 だが結果として琢馬は生き残った。
 生きていたなら仕方ない。
 それが運命だと言うのなら、きっとどうにか生きていくしかないのだ。
 どう生きていくかの展望は、琢馬にはなにもなかったけれど。

「いっそ顔を変えるって選択肢はあるかもね。ちょっと前まで、スタンド使いのエステティシャンがいてね。もういないけれど……彼女なら力になってくれたかもしれないが」
「顔を変える、ね」

 琢馬は窓に映る自分の顔を見つめた。大神照彦とそっくりだった自分の顔。忌々しい、と思うが、この顔の、大神照彦に似ていない部分はきっと母にもらったものだ。そう思うと整形する気にはならない。

 琢馬は結局、この世界が好きなのだ。
 母を産み、母を忘れ、何事もなく時が流れるこの世界を、憎らしくも愛しているのだ。
 そう思うと非常にあほらしくなって、ばからしくなって、それから――すこしすがすがしい気分になった。
 さわやかな風が窓から入り、琢磨の胸を通り抜ける。生まれてこの方、こんな気持ちになるのははじめてだった。





2017/03/30:久遠晶  夢本で出そうと思っていた話の冒頭なんですが、続きが思い浮かばなかったので供養。
 夢主が謎人物ですが、そういう経緯なのでどうかご容赦を。

 とにかく蓮見くんには生きていてほしくて、彼が笑っている未来がほしかった。
 あの話であの展開ですから、生きているのは問題があるのかもしれないが、それでも、とどうしても思ってしまう。
 そんな時夢小説書きはどうするか?
 生存if夢小説を書くんだよ!!

 なんでか非常にメタメタしくなり、作者の思想が透けてみえる感じですが、夢主の考え=私の考えではありません。


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