水面下の攻防
「おいメイド、腹が減った。なにか夜食を持ってこい」
「……ディオ坊ちゃま、お願いですから、お呼びの際はベルを鳴らしてください」
背後からかかった声に、私はため息をこらえて振り返った。
金髪の美青年は不機嫌そうに眉をひそめる。メイドの無礼な言葉遣いを怒っているのだろう表情には柔和さなどどこにもいない。
ディオ・ブランドーという貧しい出自の青年の、素の顔だ。
「おぼっちゃまをわざわざここまで出向かせたとメイド長に知られたら、おかんむりをくらうのは私なんですからね」
「どうだっていいさ、そんなこと。そのまま辞めてしまえ」
「そしたらおぼっちゃまも巻き添えよ」
にっこり微笑みかけると、不機嫌そうな瞳の色が冷たく刺すようになった。
きっと、この目がこの男の正体なのだろう。
ダニーが死んでから、彼はよくこの目を私に向ける。
ジョースター家の愛犬ダニー。数年前焼却炉で燃やされた、かわいそうな犬。
あの日、私は焼却炉のそばでディオ坊ちゃまを見かけた。
使用人の使う場所だ。わんぱく坊主のジョナサン坊ちゃまならはともかく、ひかえめで礼儀のよくできたディオ坊ちゃまが普段居る場所ではない。
なにをなさっているんだろう。
声をかけようとしたものの、焼却炉を睨むようにねめつける視線にただならないものを感じ、私は話しかけることが出来なかった。
ダニーが焼却炉で燃やされたのは、そのあとのことだ。
後日問いただしたものの、はぐらかされた。
以後、ゆるやかだけど確実にディオ坊ちゃまの対応が変わった。
私にだけにこやかに接し、腰を抱くようなそぶりをし、気を使ってねぎらいの言葉をかける。
『あなたは若くて美しいから、きっと好かれているのよ』と同僚は言う。
それぐらい情熱的な視線を、彼は私に注ぐのだ。
でも私には、その熱い視線の奥に冷たいものが見える。
私を見つめるのは好いているからでは断じてない。
隙あらば私を追い出そうと粗を探している。なにかの罪を着せようとしている。あるいは、私を篭絡して懐柔出来ないか考えている。
その疑惑は、ほとんど確信だ。
根拠などない。ただの本能だ。
私はため息を吐いて、ディオ坊ちゃまを見上げる。
「私、例のことを報告するつもりなどございません。ジョースター卿もジョナサン坊ちゃまも、夫人の命日が近づいてナーバスになっておりますし、いたずらに不安にさせるつもりも、その権限も私にはございません。私はこの職が大事です」
「なんの話だい」
「坊ちゃまを脅す気もございませんよ。証拠もありませんし、身の程もわきまえているつもりです」
ディオ坊ちゃまは眉根をわずかに寄せた。
利用できるかどうか、考えているのだろうか。
逡巡する理由は理解できる。ディオ坊ちゃまの目的は知らないが、自分の汚らしい内面を知る人間を身近に置いておく利点などない。
「私はこの仕事が大事です。そして、私の職務は小間使いです。それ以上のことは致しません」
「……楽な仕事だもんなぁ、メイドなんて」
ディオ坊ちゃまの雰囲気が変わった。今更猫をかぶる必要などないと思ったのだろうか。
「追い出されたら娼婦になるしか生きていけないか」
「はい。そうです」
目を見て言うとディオ坊ちゃまは驚いたように目を開いた。貧民街で暮らしていたディオ坊ちゃまは、最底辺の生活と辛酸をよく味わっている。
娼婦の末路もよく知っているだろうから、彼にとってはそれが女性に対する最大の侮辱なわけだ。
それが――若いなぁと思う。
もっと薄汚く、臭くて、みじめな生活を私は知っている。
腕に押された焼印が、私にそれを忘れさせてくれない。
倫理にそむいても、今の生活にしがみつけと叫ぶ。
ここから一歩でたら、私は奴隷としてのあるべき姿を要求されるから。
「きっと、私はあなたとおなじです、ディオ坊ちゃま。ただ私は高望みはしません。ここに居たいだけです」
「……ぼくは、夜食を頼みにだけだぜ」
背後を見れば、ジョナサン坊ちゃまの姿が見えた。きっとお手洗いに起きてきたんだろう。
ディオ坊ちゃまはにこやかな、いつも通りの薄っぺらい笑顔に戻っている。
変わり身の早いことだ。私は肩をすくめてため息を吐いた。
「かしこまりました」
返事をして、厨房に立つ。メイドの仕事は主を満足させることだ。
その本分を全うすることが、私の地位を守る手立てになる。
不穏分子として排除されないようにと取り繕って美味しい夜食を作りたがる私も、結局は貧民街育ちの薄汚い野良犬だった。
2015/06/21:久遠晶
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