意地悪な形兆
冷えた夜の空気に、むせかえるような血の臭いが混じる。足を引きずる男の吐息と、それを追う男の足音が、まばらにリズムを作った。
時おりパラパラと高く響く破裂音は、BB弾の拳銃おもちゃのように軽い。だが直後に続くコンクリートの壁が崩れる破壊音は本物の質感を伴っている。
廃墟ビルの薄汚れた壁がひとりでに削れ、えぐれ、貫通していく。
「ぐッ……バッド・カンパニー……まさかここまでとは……ッ」
「ほゥら~先程までの威勢のよさはどうした? 我が軍隊を前に腰が引けたか? ククク……戦意喪失しても逃がさんがなァ~ッ!」
後ろを振り返った男が、穴の空いた壁のなかへ逃げるように飛び込んだ。
息を弾ませて暗がりに溶ける背中に、余裕の歩みで追随していた男が勝ち誇った哄笑をあげる。男――いや、それは少年だった。
切れかかった街灯の明滅が、闇に溶け込む男の輪郭をにわかに浮き彫りにする。
逆立てた金髪のみつ編みに、手にもった大きな古ぼけた矢。改造し、装飾を施してはいるものの、詰め襟の学生服に違いなかった。
声も、よくよく聞けば変声期途中の不安定なかすれ声に聞こえる。老成した雰囲気を放つ彫りの深い横顔にはよく見れば幼さがわずかに残る。
逃がさない、と笑っていた少年は、しかしその場にとどまった。なにかを待ち構えるように仁王立ちし、ぴくぴくと眉を動かす。
異質な光景だった。
繁華街から遠く離れた郊外とはいえ、ここは現代社会のはずなのだ。テストの点数のことで親とけんかし家を飛び出して、たどり着いた場所でこんな場面に遭遇するなんて洒落にならない。遠く離れた物陰に隠れ、私は必死に息を潜めていた。
映画のゲリラ撮影かなにかかと、最初は思った。しかし鼻につく火薬の臭いがその予想を裏切る。
やくざの抗争でもない――それよりも異質で異常ななにか。
やがて、少年は獲物をとらえたハイエナのようににたりと笑った。
「進軍しろ、バッド・カンパニー」
舌なめずりをする余裕と、刺すような厳しい警戒が入り交じる。瓦礫を踏みにじりながら、砂埃の収まった壁の穴のなかへと少年は踏み込んだ。
ややあって、先程の銃声と共に男の絶叫が耳をつんざいた。声を聞くだけで断末魔とわかる、痛みと嘆きを凝縮させた悲鳴が脳を割る。
警察――その言葉が浮かんだ。瞬時に打ち消される。警察になんと言えばいいんだ。
私……私は、どうすればいい。手足ががたがたと震え、自分の吐息が耳元でいやに大きく聞こえる。
本当は、なにも見なかったことにして家に逃げればいいのだ。すぐ戻ってきたわねと母にバカにされても、締め出されても泣いて謝って家にいれてもらう。そうするべきだ。わかっているのに足が動かない。
再び、壁の穴から少年が姿を現した。私は体をまるめて気配をひそめる。初夏に踏み込んだばかりだというのに、指先が凍えるようにさむい。
「ネズミが一匹いるな」
ザッ、と、砂利を踏む音が地響きのように背中に触れる。ゆったりとした足音が近づくにつれ、全身を覆う鳥肌が強くなっていく。ばれた。見つかった。殺される――。
「こちらを向け」
低く唸るような声をかけられ、背筋が凍る。
「こちらを向けッ!」
「ひぃっ! い、命だけ、は、」
「たっぷり逃げる時間をくれてやったというのに、逃げもしなければ攻撃もしないか。こりゃあ~仮に目覚めたとしてもろくな能力ではないな……ま! ものは試しだ」
値踏みするような視線は、故意に虫けらを踏みつぶすときのように冷たい。
体はがたがたと震え、涙がぼろぼろと流れて呼吸ができない。
少年の瞳に嫌悪感が混じる。侮蔑、と言ってもいい。
私よりも年下のはずなのに、この底冷えするような雰囲気はなんなのだろう。
少年は手に持った古びた矢を引き、弦をぎりぎりと鳴らしながら私に向けて構える。
よけなきゃ。でも体は動いてくれなかった。
「おねがい……母さんの誕生日なの」
「喜べ、お前に試練をくれてやる」
胸を貫く衝撃が私の思考を染める。
黒く塗りつぶされていく意識のなか、上から降ってきた拍手と言葉はどんな意図があったのだろう。
「生きてたな――おめでとう」
少なくとも私には呪いの言葉にしか感じなかった。
2015/05/31:久遠晶
もしいいね!と思っていただけましたら送っていただけると励みになります!
2016/11/09:後半削除。ここで終わってるほうが座りがいいですね。
でももったいので、メモがてらおまけとして残しておきます。
***
「なにを……考えている?」
頭のなかで、低い声が混じる。余裕ぶった声が、探るように私を呼び起こす。
死に向かう私の意識を呼び戻す。
「あなたとっ、会ったときのことを゛」
言葉に水音が混じって汚くなる。鉄の味と匂いが頭に充満してくらくらする。大砲を撃ち込まれて涼しくなった腹部の痛みを感じる余裕も、私にはない。ぱきぱきと分泌される脳内麻薬が痛みと同時に恐怖を掻き消す。
かすんだ視界のなかに、腕を押さえたあの男がいる。よわっちい私のスタンドも、一矢報いてくれたらしい。ぽたぽた滴るあの男の血が、耳のそばに落ちてうるさい。
「あなたが私をスタンド使いにしたせいで、私が、どんな目に、あったか」
涙がほほを伝う。『聖なる弓と矢』は私の人生を狂わせた。運命的に引き寄せてしまうスタンド使いとの戦い、争い、憎しみあい。
平凡でいたかった。
争いなんてしたくなかった。
だれかを殺したくなんてなかった。
「最後の言葉はそれだけか?」
同情も憐憫もない、冷たい言葉だった。
「死んじまえ、虹村形兆――ッ!!」
「楽にしてやる」
こと切れる寸前に聞こえた言葉。
やっぱり私には、あの男の声がいつだって呪いに聞こえる。
呪詛を振りまきなにを成したいのかも知る前に、私のちっぽけな人生と反逆は終わった。