ミステリアスな形兆
私の上に、男がのしかかっている。
あっあっという媚びた声が自分のものだというのが不思議だ。
薄いグレーの瞳はなにを見ているのだろう。男の小鼻から垂れ落ちた汗が私のほほに落ちる。
行為は荒々しく、情熱的だというのに、彼の目はただただ冷めていた。
燃え上がっているのは、いつも私だけだ。
※※※
「なにやってんだろ」
ベッドのシーツに頬を押し付けて、ため息を吐く。
情事のあとの気だるさは嫌いじゃないけれど、それは気だるい空気を共に楽しんでくれる相手がいるからだ。
シャワーの音を聞きながらぼうっとするこの時間は、あまり好きじゃない。
やることやったらハイ終わり。私がいま関係を持っている男は、そういう人間だった。
ああ――『関係を持っている』なんて言い方しかできないのが嫌だ。恋人でもなく、恐らくは友人ですらない。嫌になる。
「上がったぞ」
風呂場から出てきた虹村形兆は、いつもきっちり整えている髪の毛を下ろしている。
顔にかかる長い髪の毛を煩わしそうにかきあげて後ろに流した。髪の毛がふわりと揺れる。
「お前も風呂はいれよ」
「明日の朝入るわ」
「汗くせぇだろ」
ベッドの隣にもぐり込みながらの文句は遠慮がない。
私を抱き締めて足を絡めてくれればかわいげだってあるものの、この少年はついぞそんなことをしてくれないのだった。
身を擦り寄せるのはいつも私からだ。
虹村形兆とは、もう半年ほどの付き合いになる。
半年前、不良に絡まれていた私を助けてくれたのが彼だった。
いや、彼にとっては『助けた』という感覚などではなかったのかもしれない。降りかかった火の粉を払うだけの行為が、結果として私に降るはずだった火の粉をも吹き飛ばしてくれた。それだけのことだったのだろう。
当時の私は、それに気づかなかった。
助けてくれたお礼にと食事に誘い、気がつけば一夜のうちに一線を越えていた。次の日、彼が未成年だと知ったときには頭を抱えたものだ。
連絡先も知らず、名前しか知らない。それだけの縁がいまも続いている。奇跡に近い。
ただ私は虹村形兆をはじめて見たとき、なんとなく『この人を一人にしてはいけない』と思い、その直感はいまも続いている。
その直感を、私はいまだに信じているのだ。
形兆の吐いたため息で、過去から現実に引き戻された。
天井を睨む形兆はなにを考えているのだろう。
私が抱きついても、形兆はそれに応えない。煩わしそうに私を見下ろし、仰向けで頭の下に両手を当てた姿勢のまま、されるがままになるだけだ。
それはそれで彼の優しさなのかもしれないが、私の求める甘さとは違う。
こう言うときは甘ったるく足を絡めるものなのよ。年上ぶってそう言ってやった時もあったけれど、冷たい言葉で一蹴されて終わったっけ。
なんとなくむなしくなって、身を起こしてベッドから出た。
冷蔵庫からヨーグルトを二個取り出して、スプーンを持ってベッドへ帰る。
「食べる?」
「いらねぇ」
「じゃ私が食べよ」
「ベッドのうえで食うなよ」
虹村形兆が嫌そうに眉をしかめた。まったく躾のよくできた男だ。両親から愛されているのだろう……かどうかはわからない。
家族の話題はタブーだ。家族だけでなく彼が通う学校のことも、交遊関係のことも、進路のことも。
虹村形兆は自らの個人情報の一切を語らない。漏らさない。
アメリカ映画のマフィアか殺し屋みたいな雰囲気があって、私は虹村形兆のことがわからない。同時に神秘性にひどく引き付けられるのも確かだ。
いつもしかめっつらをしてばかりの彼が、少年らしく年相応に笑うのはどんなときだろう。どんなときに泣くのだろう――。
冷えたヨーグルトが口のなかに広がる。虹村形兆が「おい」と口に出した。
嫌そうなため息。彼は几帳面な男らしく、決まりやマナーを破ることには口うるさい。
それだけだ。それぐらいしか知らない。
「ヨーグルトにはちみつって入れたことある?」
「飲み込んでから喋れよ。……俺はやったことねぇが、弟が好きだったな」
「弟くんいるんだ」
新しい情報が入ってきた。私が眉をあげると、虹村形兆は一瞬だけ、『しまった』と言いたげな苦々しい顔をする。
「どんな子なの?」
「大した奴じゃない」
それで会話が終わる。彼の言葉は決して強いものいいではないけれど、これ以上の問答をシャットアウトするニュアンスがあった。
私は興味なさげなふうを装って、大人の女を演じるので忙しい。
ため息がもれたとき、家の電話が鳴った。
「誰よこんな時間に……ちょっとごめんね」
立ち上がって電話機を確認すると、『母』と表示されていた。気分が滅入る。
「もしもし。遅くに電話してこないでよ」
「お母さんだけど、あんた……」
あぁ、また長い話がはじまった。
母の近況報告にはじまり、彼氏はいるのか、いい加減結婚しろ、とお決まりのお説教。
ただでさえうんざりなのに、部屋に男がいる状況で聞きたくない。
「お母さん、いまお客さん来てるから」
「あのねぇ、あんたそんなんじゃ結婚できないわよ! いいからお見合いしなさい、相手探してきたから」
「あーこんど電話するからごめんね。じゃっ」
適当に聞き流して受話器を戻して電話を切る。
ため息をついてから、虹村形兆に苦笑する。
「失礼しました。夜中に非常識よね」
「おふくろさんか」
「ええ。時間気にしない人だから困るのよね……」
「大事にしろよ」
えらく真剣な声音と瞳に、すこしだけ驚いた。
虹村形兆は年下だ。高校生という肩書きはいかつい見た目に似合わないけれど、彼は紛れもなく年下の少年だ。
年下に諭されることを不快には感じなかった。それよりも先に、『こんなことを言うのか』という驚きがわきあがる。
どう返せばいいだろう。
「あなたもね」
ベッドにもぐり込みながらそう言うと、形兆はぴくりと肩を動かした。ふい、とわずかに顔を逸らす。
「無理だ」
「え?」
「もう死んでる」
淡々と事実を告げる、感情のない声に今度こそなにも言えなくなった。
「……ガキの頃の話だ。たいして覚えてねーし、気にすることじゃない」
「ごめんなさい、私……」
「いいんだよ」
気を使った虹村形兆が、彼にしては珍しく私を抱き寄せてきた。ベッドのなかで身を寄せあう。
高校生らしくない、と思うのはこういうときだ。自分よりよほど年上を相手にしているような感覚があって、底無し沼に触れているような感覚に陥る。
「あなたのお母さんなら……」
「ん……?」
「きっと、よくできた方なのね」
「――どうだろうな」
天井を睨みながらの虹村形兆の返事は、どういう意味が込められているのだろう。クッと吐き出された笑みは自嘲だろうか。
それを尋ねる資格も探る資格も、私にはないんだろう。
次の日、肌寒さで目を覚ました。
ごろりと寝返りを打つと、虹村形兆がワイシャツに袖を通しているところだった。
「起こしたか」
「大丈夫」
背中に目でもあるんだろうか。隙がないというか、なんというか。
だるい身体をシーツから引き剥がす。服を着ると朝食も取らずに玄関に向かう虹村形兆を見送る。
――また来て、何て言ったら彼は煩わしがるだろうか。
「いってらっしゃい」
「……あぁ」
玄関の前で、珍しく彼が口ごもった。こちらに背中を向けたまま、なにか言いたげに突っ立っている。
「……また、来る」
「! あの、」
「じゃあな」
驚いた私がなにか言うより先に、彼は足早に歩き出してしまう。
慌てて玄関から出るけど、虹村形兆の姿はもう、マンションの廊下にはなかった。廊下の角を曲がった先の階段を下りる足音がコツコツと聞こえる。
「ま、待ってるから! きみのこと!」
張り上げた声が聞こえたかはわからない。彼の足音は規則正しく、じょじょに遠ざかる。
それでもよかった。
虹村形兆が、はじめて『また来る』と言った。
それなら私は、彼がいつ来てもいいように部屋をきれいにし、冷蔵庫に食材を詰め込んで待つだけだ。
そうして――彼が訪れたら、その時は弟くんについて聞いてみよう。ついでに、自分のことも話してみよう。
そんなふうに思っているのに、いつまで経っても彼は来ない。別れの挨拶がわりに『また来る』と言うなんて、彼は全くひどい男だと、常々思う。
2016/07/09:久遠晶
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