風邪の看病/弱み掌握


 風邪を引いた。
 頭がぐあんぐあんして、鼻が詰まって熱気がこもる。
 体温計をはかれば38.6℃。立派な高熱だ。リビングで頭を抱える私に、体温計を覗き込んだ兄がうげっと呻く。

大丈夫……じゃないよな。今日、俺帰り遅いんだよなぁ」
「だ、大丈夫だよ……ひとりで寝てるから、気にせずお仕事行ってお兄ちゃん」

 私を心配した弟妹たちも、心配そうに眉を下げた。

「ねーちゃん、病院いったらどうだー?」
「いや、すこし休んだら治るよ。今日はバイトもあるし……」
「おバイトも休んだほうがいいよう」
「そうだな、無理しない方がいいぞ、。ほら、お前らはさっさと支度する! 学校行け学校」
「か、看病~」
「そんなこと言って休みたいだけでしょ! ほら、家出た家出た」

 兄が羊を追い立てるようにして弟妹たちを外に出す。扉ごしの『いってきます』と確認して、私はよろよろと自室まで戻った。
 それだけで体力を消耗する。ぜひぜひと息をしながらベッドに飛び込んだ。
 学校への連絡は、兄が代わりに先生に伝えてくれるだろう。
 兄は無理するなと言ってくれたけど、今日の夜はバイトまでには治したい。全身の力を抜いて、私は眠りに入った。



 甲高いチャイムの音で、私の意識は現実へと浮き上がった。
 痛む頭を抱えながら時計を見ると、時刻はお昼ごろ。
 再びチャイムが鳴る。新聞の勧誘だろうか? まだ身体が重たくて、玄関には行けそうにない。私は居留守を決め込んでお布団にもぐりこむ。
 チャイムが鳴る。何度も何度も、チャイムの音が意識に上書きされていく。

「あーもうっ!」

 どれだけしつこいんだろう。新聞屋さんか?
 いったい誰がなんの用事があってチャイムを連打するかな。根負けして布団を引き剥がした。
 居間を通って玄関に向かう間にも、チャイムは連打されている。

「はいはい……出ますよ……」

 呼びかけてみるも、扉の向こうには届いていないだろう。
 玄関のサンダルを踏むようにしながら扉に顔を近づけえてドアスコープを覗く。向こう側にいた人間に私は息を飲んだ。

 眉間に深く刻まれ、額にまで放射状に伸びたシワ。
 不機嫌そうにゆがめられたくちびる。
 きっちりと着込まれた改造制服。

「おい、小娘? ご両親も居ないのか……」
「ひっ……!!」

 大声をあげそうになって、とっさに両手で口元をふさぐ。
 息ができなくなりながら一歩、二歩下がる。足が震えてその場にへたりこんだ。どすんと音がしなかったのは奇跡だ。

 な、なんで――なんでここにいるの!?

 昨日の帰り、万が一の尾行を撒くためにいろんな道を迂回した。例の男性だけではなく、他にも同じ人間、車、バイクが私と同じ道を使ってはいないか、行く先々に現れてはいないかと注意したはずだ。
 尾行には最低でも一台の車、三台のバイク、七人の人間が必要だと俗に言われる。そこも念頭にいれ、尾行はないと確信して帰路についたはずなのに。
 ドアスコープ越しに見えた世界が信じられなくて、私はわなわなと震える。

 鍵。鍵はちゃんとかけたはずだ。ちゃんとチェーンロックもかけている。大丈夫。うん。
 ま、窓は……やばい、開いている。でもここはアパートの三階だ。侵入はできないだろう。
 それどころか、鍵を閉めようと窓に近づいた瞬間にスナイパーがライフルで私を狙撃してくるかもしれない。
 ど、どうしよう……。
 熱で汗ばんだからだが、足元から立ち上ってくる冷気によって凍えていく。
 不意に身体がぞわぞわと鳥肌が立った。

 チャリチャリ……。

「ひぃッ!」

 鼻から悲鳴がもれる。
 金属音がし、ドアのチェーンがひとりでに揺れる。
 私がみじろぎも出来ぬ間に、ドアのロックがガチャンと外れた。私がなにもしれないのに、鍵のつまみが半回転したのだ。
 なにが起きたの……?
 見たくないと思うのに注視してしまう。
 呼吸を止めたままの世界で、ひとりでにドアのチェーンすらも外れていく様子を、私は泣きそうになりながら見ていた。

 ドアノブが下がり、ガチャリ――と開いていく。

「なんだ……ちゃんと居るじゃあないか……」

 わずかに開いたドアの隙間から、太陽を背負った男性が顔に影を作りながら、ニタリと笑った――。
 ――ほらほらちゃん。おいでよー
 ――あはは、そんなにはしゃいで子供みたいですよ。

 大好きなセンパイが、原っぱを駆け巡る様子を、私は笑いながら見つめている。
 シロツメクサの原っぱが綺麗だ、楽しい、と言うセンパイに、センパイを見ているほうが楽しいな、と思った。
 手をふられ、促されて私は先輩に駆け寄る。広げられた腕のなかに飛び込もうとした瞬間――足がなにかにひっぱられた。
 植物のつたが私の足首からすねに絡みつき、地面に縫いとめる。
 私がうろたえる間に、大草原の景色が変貌していく。
 重低音が鳴り響く中、私はザシュザシュという足音を聞いた。背後からだ。
 おそるおそる振り返ると、黒服の男性がこちらに歩いてくる。彼の歩くところ草木が枯れ、昆虫が死に、地面は乾いた荒地へと変貌していく。
 私は助けを求めるようにセンパイへと手を伸ばした。
 私がセンパイに触れると、センパイはにこやかに笑ったまま粉々に砕け散ってしまう。

「他の男に助けを求めるからそうなる」

 低い声が頭上から聞こえ、私の肩に男性の無骨な手が触れる。
 まるでへびのように私をからめとり、男性は耳元で囁く。

「お前の命は俺のものだ」

 そんな――そんな、悪夢だ。


「うっウワー命だけはお助けをーッッッ!!!」

 叫びながらベッドから飛び上がった。
 ぜえはあぜえはあと息をするうち、ここが草原ではなく自分の部屋のベッドであることに気付いた。
 周囲を見渡して、布団の感触を確かめる。……うん、まぎれもなく私の部屋だ。
 よかった、あれは、あの悪夢は夢だったんだ……。
 そうだよね。ひとりでにドアの鍵が開くなんてこと、あるはずないよね。

 熱で身体はつらいけれど、開放感がすさまじい。
 額にたれる汗をパジャマの裾でぬぐおうとし、私はふとんの上におしぼりが落ちていることに気付いた。
 なんだろう、これ。私寝る前に自分でおでこにつけたのかな。サイドテーブルには氷水が張った桶もある。
 あれ……? 

「起きたか、急に倒れたもんだから心配したぞ……。あ、台所借りてンぞ」
「……?」

 ぎぎぎ、と首を回して扉を見る。
 ガチャリとドアを開けて、私のラブリーな鍋つかみで小鍋を持ったあの『男性』が、悪魔のような笑みを浮かべた。

「体調はどうだ?」

 表面上こそ私をいたわる言葉に、私は魂を飛ばした。
 男性はベッドのそばに座り込むと、勉強机に花柄の鍋しきを敷いて小鍋を置く。

「粥を作ったんだが、食べれるか?」
「えっと……あの……」
「すこしでも食べておいたほうがいい。一口だけでもな」

 私の答えを聞かずに、男性はてきぱきとお皿にお粥をよそいはじめた。
 手にお皿を突き出されてとっさに受けとる。
 なにがなんだかわからなくて、私はクマさんエプロンを装着した男性を見上げた。

「あ、あの……」
「どうした? 他になにかしてほしいことがあるか」
「な、なにしてるんですか」
「ん?」

 ベッドのそばに膝をつき、まっすぐに私を見つめる三白眼が、首をかしげる。

「昼休みにお前の教室に行ったら、休みだと言われた。三年は今日午後の授業がないから、こっち来た……わかったか?」

 男性の言葉は私の疑問に応えているようで、答えてくれるものではなかった。
 あからさまにびくびくしている私に、男性はムッとしたように眉をまげる。

「なにしているように見えるんだ、お前には」
「えぇと……か、看病……」

 ――を、してくれているようにしか見えないから、怖い。
 見たところおでこについていたおしぼりは男性がつけてくれたものだ。桶を見るに、何度か取り替えてもくれたらしい。
 そうして、いま、お粥も作ってくれたと言う。
 甲斐甲斐しく世話を焼かれる理由がわからなくて、戸惑う。
 男性はニヤリと薄い笑みを浮かべると、そんな私に頷いた。

「お前の思う通りさ」
「……!!」

 背筋がはねて肩がこわばる。
 お、俺が殺すまでは死ぬんじゃねぇ……という意味での看病なのか、やっぱりっ。
 やっぱり生きるか死ぬかの瀬戸際には変わりないらしい。目尻に涙がにじんだ。
 男性はクスクスと笑った。まるで猫が喉から出すゴロゴロ声のような笑みは、地獄の底から立ち上ってきたもののように恐ろしい。

「ひとりで心細かったんだな。安心しろ……じきによくなる」

 すぐに苦しみすら感じられなくしてやるからな、という裏の声に私はまた泣きそうになった。

 弟妹たちが使うとラブリーでかわいげのある花柄の鍋つかみもクマさんエプロンも、男性が使うと威圧感を強調させる結果にしかならないのが不思議だ。
 味のしないお粥を無理やり胃に流し込みながら、ぼんやりと思う。
 すぐそばの存在感に圧迫されて息が出来ない。息苦しさをどうにかしたくて胸元に手をやると、ふたつボタンをあけていたはずのパジャマはきっちりと襟元までぼたんがついていた。
 あれ? 首をかしげながら、第一ボタンを外す。
 おぼつかない手つきで第二ボタンまで外そうとしたとき、男性の手がそれをさえぎった。

「やめろ……目に毒だ」
「あ……き、汚いもの見せてごめんなさい……」
「いや……」

 どうやら、男性がボタンをつけたらしい。
 頭がぐあんぐあんと痛くて、隣に猛獣よりも危険な存在がいるのに集中できない。警戒しようにも、気を強く持った瞬間にほころんですべてが曖昧になってしまう。
 これだから家宅侵入までされてしまうんだ。でも、毅然として帰ってくれという度胸もなければ体力もなくて、私はされるがまま死へと近づく看病を受け続けた。

 ふと気がつくと、窓から夕日が差し込んでいた。
 どうやら寝てしまったらしい。
 ぬるくなったおしぼりを額からはがす。男性はもう帰ったのだろうか。ぼんやり考えていると、階下から弟妹たちの声にまじって低い音がもれ聞こえてきた。
 とっさにガバッと起き上がった。背筋に冷たい金属を当てられた気分だ。
 体調が悪いとか、喉が痛いとか言ってる場合じゃない。
 私は転げ落ちるようにしながらベッドを出て、階下の居間へと向かった。
 居間への扉を開けると、弟妹たちが男性の身体によじのぼるようにして髪の毛をぐしゃぐしゃにしていた。

「わー! おとこのくせにみつあみだー!!」
「ねーちゃんのクマさんエプロンにあわねーなっ」
「算数嫌い!」
「めしまだー?」
「ええい、夕飯ならさっき食わせてやっただろうッ。朝まで我慢しろ。お前はどこがわからないんだ、見せてみろ」
「!! や、やめなさい栄太!!」
「む! 起きたのか、小娘……」

 慌てて、男性の肩によじのぼって髪の毛を引っ張る弟に飛びついた。
 どうにか手を外させると弟を床におろして、慌てて頭を下げる。

「お、弟が申し訳ございません!! なにぶん子供でして、どうか、どうかお許しを……ッッ!!」
「ああ。別に怒っちゃいな――」
「なんでもします! なんでもします……なんでもしますから、どうかこの子たちだけは……!」
「なっ……こ、子供のいる前でなんてことを言ってるんだ、お前はッ」

 腕に飛びついて懇願すると、その勢いに気圧されたのか男性は身をかたくしてうろたえた。
 心なしか男性の顔が赤い。
 子供のいる前で……? どういう意味だろう。

「そういうのは二人きりのときだけにしろ……それに、色々段階ってもんがあるだろ」
「ふ、二人きり? 段階?」
「ああ。そういうものだろう」

 男性はふかく頷く。
 どうやら弟妹たちのいる前では殺人のそぶりを見せないでいてくれるらしい。男性の顔が赤いのは、それぐらいの情けや良心はあるという憤慨のようだ。
 段階という言葉が不穏だけれど、とにかく弟妹たちの無礼には怒っていないらしい。ほっと息をつくと、頭の痛みがぶり返してきた。

「う……」
「おい、大丈夫か」

 ふらついた私の手首を掴んで、男性が引き戻す。すっぽりと男性の胸の中に私の身体がおさまる。
 はっとして、背筋が凍った。

「気をつけろ」

 乱暴に背中を撫でる手が恐ろしい。このまま首をこきんっとひねられれば、それだけで私はお陀仏だ。
 弟妹たちの前ではひどいことをしない、という言葉を信じるしかない。
 男の人に抱きしめられて恥ずかしいし怖いのに抵抗することもできず、私はされるがまま身をかたくしていた。
 不意に私の肩を男性が押して、引き剥がした。

「えぇい、見るな、お前ら……!」
「ねーちゃんたちいちゃいちゃー」
「いちゃいちゃー」
「や、やめなさいふたりとも……!!」
「ねえちゃん照れてる!」
「照れてる!」
「て、照れてない! それにいちゃいちゃもしてません! し、失礼でしょう!?」
「俺は別にかまわないが……」
「ひいっ。お、弟と妹がゴメンナサイ……」

 どうやらほんとに、弟妹たちにはご容赦してくれるらしい。
 でも、これ以上危険にさらしたくなくって、私は制止を聞かない弟妹たちに強く祈った。

「そういやねえちゃん、バイト休んだんだな。ゆっくり休めよ? 最近疲れてるみたいだしさー」
「あ……お、思い出したッ!」

 色々とつらいことが多すぎて、すっかりバイトのことを忘れていた。
 慌てて時計を見ると時刻は七時。五時からのバイトの予定だから、完全にすっぽかしている。

「おい、それはいまからでも連絡したほうがいいんじゃないか」

 さすがの男性も私を心配してくれている。うう、でもこわい。
 男性に許可をとって、私はバイト先に電話をさせていただいた。
 コールはすぐに繋がったけど、言い訳する間もなく『もう来なくていい』といわれ、私はずるずるとその場に崩れ落ちた。

「どうだった?」
「く、クビになっちゃった……」
「ええ! そんな……」
「……新しいとこ探さないとなぁ~……」

 脳内で予定表と照らし合わせて、今月の収入と支出を計算する。ずっと欲しかったごほうびは当分先になりそうだ。
 受話器をおいて頭を悩ませていると男性が眉をしかめた。

「まぁ、いまはとにかく休め」

 気遣うような声が聞こえる。確かに、今後の予定をたてるよりもいまこの場を生き延びなければ。



 結局、男性は弟妹たちにごはんを食べさせてくれただけではなく宿題の面倒まで見てくれた。

「おおお! アニキの『ブツ』すげえな!」
「おにいちゃんおっきー!」
「こらふたりでスペース取るんじゃない、コイツが入れんだろう……よし、俺も」
「わー!! お湯がなくなるー!」
「座ったらもっとすごいぞ。アヒルが落ちないように持っていろよ」

 お風呂場ではしゃぐ声をリビングで聞きながら、私ははーっと長い息をついた。
 本当は早くにお帰り願いたかったのだけど、男性は『風邪なんだからじっとしていろ』と聞いてくれなかった。それになぜだか弟妹たちは男性にとてもなついていて、一緒にお風呂にまで入りたいと言い出したのだ。
 それを二つ返事で了承してくれた男性は……ありがたいはずなんだけど、やっぱりこわいな。水責めとかされないかな。大丈夫かな。
 こうしてもいられない。男性の着る服を探さないといけないのだ。
 甚平でいいかなぁ。フリーサイズだから、男性の巨体にもあうと思うんだけど……。

「あ、あの。着替えここに置いておきますね」
「あぁ……すまない。手間を取らせる」
「い、イイエ」
「あれ~? なあアニキ、この傷なんだ?」

 脱衣所に着替えを置いていると、すりガラス越しに弟の間抜けな声が聞こえた。
 き……傷?
 ごくりと喉が鳴った。

「ああ、これはまあ、昔色々あってな」
「ヤンチャしてたころの古傷ってやつか」
「そんなもんだ」

 フッ、と男性は鼻を鳴らした。きっと男性にとっては武勇伝のような傷なのだろうけど、それを自慢することはなかった。
 傷。どういう傷なんだろう。
 失礼だと思うのに考えこみそうになって、わたしはぶるぶると首を振った。

 考えを振り払うように脱衣所を出てリビングへと戻る。
 食器類も男性が洗ってくれたから、私がやるべきことはなにも残っていない。
 ちゃぶ台につっぷして息を吐いていると、電話のコール音が鳴った。
 もしかしたらバイト先だろうか。やっぱり仕事に来てくれ、みたいな? 期待に胸を膨らませて電話を取る。

「はいもしもしです」
「もしもしオレだけどー」
「あ、お兄ちゃん?」
「そうだよオレオレー」
「……どうしたの? 声、変わった?」
「あー風邪気味で鼻詰まってるからさぁ」
「あぁ、うつしてごめん……」
「いいんだけど、それでさー」

 お兄ちゃんってこんな間延びしたしゃべり方したかな?首をかしげつつ相槌を打つ。

「ばあちゃんか母ちゃん……いるかな」
「おばあちゃん? うぅん、今日は来てないよ。お母さんは、もちろん位牌はあるけど……どうしたの」

 仏壇に飾られた両親の位牌をちらりと見る。うん、お父さんもお母さんもちゃんといる。
 受話器越しのお兄ちゃんはすこしうろたえるように沈黙したのち、言いづらそうに喋りだした。

「おい、風呂出たぞ。いい湯だった――ん?」
「ええぇ!?! 車で事故ったって大丈夫!? 怪我は!?」

 伝えられた事実に思わず大きな声が出る。背後で誰かが出てきたような声がするけど、気にしてはいられなかった。

「こっちはけがないけど、相手が大ケガして……今日中に治療費払えば示談にしてくれるって言ってて……」
「うん、うん、治療費ね! わかった!! いくら振り込めばいいの?」
「五十万……でもこんなこと父さんには相談できなくて」
「そりゃお父さん生きてたら殴りそうだもんね、でも遺産くずせばそれぐらい大丈夫でしょ?」
「じゃあ、振り込み頼めるかなぁ」
「もちろん! 銀行いってくるね!!」

 通帳と印鑑を持ってこようと振り返った瞬間、背後に突如出現した壁にぶつかりそうになってしまう。うっと上を見上げると、男性の不機嫌そうな顔がある。
 さぁーっ、と現状を思い出して血の気が引く。まずこの人をどうにかしなければ、お兄ちゃんを助けられない。

「どうした?」
「えっと……兄が……」

 兄が事故に遭ってお金が必要で、いま振り込みにいきます。等と行ったらどうなるだろう。だが、自分の命よりもまず兄の命だ。

「あ、兄が大変なんです、それで、私、」
「だいたい、話は聞こえてたが……ちょっと一旦保留にしろ」
「で、でも」
「いいから」

 ぎろりと睨まれ萎縮する。先程の決意がどこにいったか、闘争心はしゅるしゅるとしなびてしまう。
 振り込むべき口座を聞いていなかった私は、メモを探すと断って受話器を保留モードにする。

「いいからすべて話せ。全てだ」

 ごまかしは聞かないらしい。泣きそうになりながら説明する。
 心を込めて訴えればきっとわかってくれるはずだ。しかし現実は非常だった。

「いや、詐欺だろ」

 男性は冷静にそう指摘したのだ。
 詐欺。これの詐欺がどこだというのか……。あからさまに眉をしかめる私に、男性は続ける。

「事故に遭ったなら警察から電話が来ないか? それに、その男は名乗ったのか? 示談するにしても、今日中に払わなきゃいけないってことがあるわけがない」
「そ、そんなこと……っ」
「小娘、なにをもって電話の相手がお前の兄貴だと判断したんだ。風邪気味で声が変わっている……お前のが感染った時に事故るなんてできすぎだろう」
「そう。私がうつしちゃったんです。それで、今すぐいかないと兄が……」
「だからそれが……いい。わかった」
「あ、ありがとうございま――」

 言うが早いか、男性が私の隣をすり抜けて保留中の受話器を掴んだ。そのまま耳に当て、保留を解除する。

「もしもし、兄貴ィ~? 俺だけど、形兆だけど」

 間延びした声で男性が受話器ごしの兄に呼び掛ける。
 あっ!? と声をあげそうになった瞬間、ギッと睨まれとっさに口をふさぐ。

「あいつから聞いたぜ~事故ったらしいじゃん。印鑑、とりあえず用意したけど、これからどうすればいい?」

 なにを言っているんだろう、この人は。意図がわからなくて困惑する。男性は険しい顔で、しかし声だけは間延びした心配そうな声を出している。
 男性の指がスピーカーボタンに触れる。電話機本体のスピーカーから、電話の先の声が流れ出す。

「じゃあ、そのまま銀行に行って、指定する口座に振り込んでくれないか? ごめんなケイチョウ……よろしく頼む」

 兄は見知らぬ男性の言葉をそのまま受け入れて、話しを続けている。なに、なんなの、これは。
 動揺する私を見やり、男性はわかったか、と首をかしげる。まだ信じられないでいると、ダメだしとばかりに。

「他ならない億泰の頼みだからな」
「ありがとう、お前みたいな弟を持って幸せだよ」

 ああ――ニセモノだったんだ。
 私はもういいですと首を振った。男性は私の意思を確認して、ガチャンと受話器を電話に戻した。
 電話が終わる。
 よくよく考えてみれば馬鹿な話だ。相手はまったく名乗らず、私が勝手にお兄ちゃんと勘違いしただけ…。冷静になって思えば、どうして騙されそうになったのかもわからないほど状況説明もめちゃくちゃだ。
 十年後、この手法が『オレオレ詐欺』という名で世を騒がせることになるなど、今の私には知るよしもない。

「ご、ごめんなさい……私の早とちりで……」
「騙されなくてなによりだ」
「なんとお礼を言っていいか」
「別にいい。それよりも、お前」
「は、はい」

 ぴんっと背筋が伸びた。な、なにを言われるんだろう。詐欺被害にあわなかったのだから、お金を半分寄越せ……みたいな。

「はやく良くなれよ。じゃないと張り合いがないからな……」
「は、はい……」

 張り合い……。猫は獲物を殺す際散々もてあそぶという無駄な知識を、何故か私は思いだしていた――。



「じゃあ、そろそろ帰る」

 その言葉に、私はなんだか拍子抜けした。
 ずっと居座られるかと思っていたのだ。殺人予告をしてきた相手に思うことではないかもしれないけど、疑ってしまったようで胸が痛んだ。
 ほっとすると、パニックになっていた先ほどは気付かなかったことに気付く。
 お風呂に入ったものの、男性は髪の毛は洗わなかったらしい。逆立った髪が下りるとどうなるのかちょっとだけ気になっていたから、すこし残念だ。

「では、この服借りていくぞ」
「は、ハイ。なんなら返していただかずともかまわないので……」
「そういうわけにも行かん。……なぁ」
「はい……」
「お前の兄貴によろしくな」
「え?」
「いつか挨拶しなきゃならんからな……」

 あ、挨拶ってなに。お礼まいり、みたいな?
 案外いい人なのかな、と思った私が馬鹿だった。
 やっぱりこの人は私が嫌いで、いつでも私の寝首を掻こうとしているんだな……。
 扉が閉まったあとも緊張が解けず、私は溜息をつきながら居間へと戻る。
 肩こりがひどいのは、熱のせいだけでは絶対にないはずだ。

 なんとなく気になって、勇気を出して窓辺に立った。
 スナイパーに狙撃されることはなかった。心底安堵する。この日本社会で銃なんて――と思うけど、怖いものは怖い。
 窓の外で、男性が私の部屋を見上げていた。
 目が合うと男性は私に手を振った。なにかジェスチャーされた気がするけど、なんていっているかわからない。
 お前を殺す、だったらどうしよう。

 闇に溶けていく大きな背中を見ながら、私はもう一度溜息を吐いた。
 朝よりは体調もよくなったけど、心理的負担の大きな一日だった。それは男性に殺しの告白をされたときから続いていて、男性のことを考えない日などなかった。
 ――私を殺すこと、諦めてくれるといいんだけどな。
 泣きそうになって、忘れるようにお布団のなかに飛び込んだ。





2014/11/18:久遠晶
 もしいいね!と思っていただけましたら送っていただけると励みになります!
萌えたよ このキャラの夢もっと読みたい! 誤字あったよ 続編希望