不安な気持ち
「お前って、いつも髪下ろしてるよな」
唐突に形兆くんが言った。
わたしは雑誌に落としていた視線をあげて、体をよじって形兆を見つめる。わたしの背後で床にねっころがっていた形兆くんも、体を起こしてわたしを見つめていた。
きょとんとしてしまった。言われてみれば、確かにいっつも同じ髪型かもしれない。
「家ではひっつめたりしてるんだけどね」
「外ではいつも下ろしてるんのか」
「まあ……髪結んだり、面倒だからなぁ」
「めんどくさがりめ」
大きな手が、しかるようにわたしの手の甲をつねった。さして痛みはない。単なるコミュニケーションであって、単なるじゃれあいだ。
しばらくふにふにするようにつねったあと、形兆くんの手は浮き上がってわたしの髪をはらりと触った。
毛先が揺れる感覚が毛根まで届いてむずがゆくなる。
目尻を下げて、ぼんやりとしながらされるがままになってしまう。からだが脱力して、全身で形兆くんの指の動きに集中する。
武骨な指が耳元の髪に差し入れられてつるりと動く。それが心地よいのに、わたしの心臓はとてもせわしなくなる。
ふいに髪を撫でてくれる手がとまった。
それが寂しくて、わたしはテーブルに向かっていたからだを形兆くんのほうに向き直した。頭を形兆くんのほうに傾けると、仕方ないなと言わんばかりに指の動きが再開される。
目の前に形兆くんの身体がある。いつもの改造制服に包まれた身体だ。
抱きついたら怒られるかな。抱き締めてくれるかな。
どうだろう。
気になるところだ。
こうして休日、形兆くんの部屋に招かれる程度には、形兆くんはわたしの存在を認めてくれているのだろう。でも、関係の名前はわからない。
恋人? たんなる友達? それとも、都合のいい相手?
起き上がった形兆くんが後頭部を引き寄せる。形兆くんの顔に吸い込まれながら目を閉じる。
唇の感触を唇で感じながらも、わたしの頭は悲しい疑問でいっぱいだ。
抱きしめてほしいな。と思う。
心のなかでおねだりしながら、なにも言わずに虹村くんの肩におでこをくっつけた。形兆くんはこばまず、抱き寄せるようにわたしの髪の毛をもてあそんでいる。
わたしが抱きしめたりキスしても、形兆くんは拒まない。拒むときもあるけれど、最近はくすって笑って受け入れてくれる。
でも好きだよとは言われない。
だからわたしは、わたしの存在に自信がない。
「たまには他の髪型にはしねぇのか」
「ふぇ……?」
薄暗い思考に形兆くんの言葉が割り込んだ。形兆くんを見上げると、形兆くんは眉を寄せた。
耳を引っ張られる。
「勝手に寝んな」
「あいたたたた」
加減してくれてるとはいえ、やっぱりちょっと痛い。むっと睨むと、ひどく意地悪い瞳と目があった。
形兆くんはわたしの髪をおもちゃかなにかとでも思っているのか、そのまま髪をひっぱったりぐちゃぐちゃにして遊び始めた。
こんなことで喜ぶなんて子供みたいだ。幼い一面を見せてくれるぐらいには――心を許してくれてると思うとどきどきして、泣きそうになる。
涙がこぼれそうになって、ごまかすように明るい声を出した。もう一度形兆くんの肩に額を押し付ける。
「ええと、髪型? さっき言ったように面倒だからなぁ。別に長いのが好きなわけでもないし、そろそろばっさり切ろうかなとも考えてるんだよね」
「は? 伸ばしてたんじゃないのかよ」
「願掛けっていうか……」
「願掛けェ? なんのだ」
腰まで伸びた髪をさらさら揺らしながら、形兆くんが眉をはねあげた。
答えようか答えまいか悩んでいると、言えよ、とばかりに髪の毛をぐいと引っ張られた。痛くはないけど髪の毛が痛みそうで心配になる。
唇を引き結んで首を振ると、ふいに名前を呼ばれた。
「」
「う、……っ」
「こっち向けよ」
言いながら顎を掴まれてむりやりに顔を向けさせれる。
すぐさま眼前に形兆くんが迫ってきて、とっさに目をつむった。
かさかさした、荒れた唇がゆっくりと触れてくる。押し付けられるとわたしの唇がふよんと形を変えるのがわかった。
形兆くんの舌がわたしの唇をべろりとなめあげる。ざらざらした感触にぞわりとして、気づいたら噛み合わさっていた歯をあけていた。
侵入してくる舌にぎこちなく応える。形兆くんの飲んでいたブラックコーヒーの味がしてほろ苦い。
キスに応えるのは難しいけど、してもらうのは好きだ。
愛されてる気がして。
合間合間にひっしに酸素を取り込みながら、ぎこちなく舌をからめた。
でも、すぐに形兆くんは身を離してしまう。
「で、なんの願掛けだって?」
「ぇう……」
頭を撫でる手もおろされてしまった。
言わなきゃ二度としてやらんぞ、と言わんばかりの冷たい表情に寂しくなって泣きたくなる。
都合のいい相手なんだろうな。いつ居なくなってもいい相手、むしろ居なくなってくれたほうがせいせいする存在なんだろう、わたしは。
うっとうしく付きまとっている自覚はある。抵抗しないからキスしたりそれ以上のことをするだけで、そこに深い意味などないはずだ。
形兆くんになにかしてもらえるのは嬉しいけど、同時にとてつもなく悲しくって死にたくなる。
都合のいい相手でも、心の隅にとどめてくれるだけでかまわないと言ったのはわたしだ。
だからわたしは、形兆君の望む『都合のいい相手』でいるために真実を白状する。
「形兆……くん、が……」
「俺?」
「好きだって言ってたから……」
恥ずかしさで顔が熱くなる。形兆くんのきょとんとした吐息が悲しくてむなしい。
多分形兆くんは覚えていないはずだ。それは数年前の他愛もない世間話だった。好きな女優に長髪が多い、そんなくだらない会話だった。
伸ばしたからといって関係がどうなるわけじゃない。それでもわたしはなんとなく髪の毛を切れなくなって、今の長さだ。
いたたまれなくなって俯いた。嫌がられたかもしれない。いや、嫌がるはずだ。
くだらない会話まで覚えていて気持ち悪い――そう思われたはずだ。
だけど予想していた罵りはなかった。おそるおそる顔を上げると、形兆くんは頬を染めて視線を泳がせていた。
「……覚えてたのかよ。あんな会話」
「え? ……虹村くん、覚えてたの?」
質問に答えはなかった。ただぎゅっと抱き締められて息が止まる。
かたい胸板が頬に当たって、じんわりと暖かさがしみてくる。
どくどくしているのは、お互いの鼓動だ。
ああ――やばい。泣きそう。
頬をすりよせると、形兆くんが喉の奥で笑うのがわかった。耳をくすぐる低い声があまりにも心地よすぎて、わたしはいつも泣いてしまう。
「う……く、ふっ……」
嗚咽をもらしはじめるわたしの肩を、形兆くんは優しく撫でてくれる。その温度が嬉しくて苦しくて、胸をぎりぎりと締め付けられる。
迷惑なんだろうな。でも抑えられない。
「泣かせてぇーわけじゃあないんだがなぁ……」
優しい声色には、所在なさげな感覚が混じっていた。
申し訳ないと思う反面、もうすこしそう感じてくれればいいと思う。
レッド・ホット・チリ・ペッパーズに不意打ちを食らった形兆くんは、本来あそこで死ぬはずだった。九死に一生を得たとはいえ、死にかけたことにはかわりない。
あのときの――心臓がギリギリと締め上げられてばらばらに引き裂かれるような恐怖は、二度と味わいたくない。
わたしが毎日感じている片思いのせつなさと、形兆くんが死んだときの恐怖。それに比べたら、いま形兆くんが感じている思いなど大したことじゃない。
これぐらい苦しんでくれなきゃ割りにあわない。
そんなふうに思ってしまう自分が汚すぎて自己嫌悪する。
形兆くんはわたしの肩を撫でながら、もう片方の手でわたしの髪をもてあそんだ。
「俺のために伸ばしてたんたんなら、切るな」
優しい命令系。とっさにこくこくと頷いてしまう。このままずっとぎゅっとしててほしいと思って、でも口には出せなかった。
わたしが泣き止んだ頃合に、形兆くんはそっと身を離した。肩を押されてぬくもりから遠ざけられ、ぐっと息がつまる。
寂しくなっていると、不意に真剣な目で形兆くんが言った。
「髪、とかせてくれ」
面食らってしまった。普段命令ばかりの形兆くんが、わたしになにかを頼むということは珍しい。
わざわざ聞かないでも、頼まないでも、無言で櫛を持っていざなってくれればわたしは従うのに。
「い、いいよ?」
緊張するのは、形兆くんが緊張しているからだ。
テーブルに向き直ると、わたしの背後に形兆くんが座り込んだ。そろりと、髪の毛に櫛が通されていく。ひっかかると無理には通さず、優しくほぐしていく。その手つきがくすぐったい。
形兆くんの指が耳や首筋を掠めて、わたしはつい呼吸を止めてしまう。
いつもそうだ。穏やかな時間が流れると、身構えるように呼吸を止めてしまうくせがわたしにはある。
呼吸音を気取られることすら恥ずかしくて、自分の呼吸音で形兆の発する音が聞こえないのがいやだから。
いつ形兆くんが居なくなってもいいように、という自己防衛も多分にある。
「とくのが終わったら……」
「うん……」
「いじっていいか」
「え?」
「髪を」
形兆くんがわたしの髪を掬い上げる気配。またもやの頼みごとにわたしはどきまぎしてしまった。
「いいよ」
「よかった」
安堵を押し殺した溜め息。
おなかのそこに染み渡るような声が、震えるようにわたしのなかにはいってくる。
「どういう髪型がいい?」
「そうはいってもなぁ……あ、じゃあさ」
振りかえって、形兆くんを見上げた。深い色をした瞳の奥でわたしをとらえてくれることが、嬉しすぎて唇がぐにょぐにょしてしまう。
「形兆くんと同じ髪型にしてよ」
「いや、これはお前には……」
「あーっ、もちろん髪逆立てるのはいいや。尻尾の部分。どうやってるのかなあって」
「これはこめかみのほうから髪持ってきて、二つ髪の束つくって編み込んで……ほら」
説明しながらわたしの髪をするすると編んでいく。しばらく編んで髪を前にもってこられると、形兆くんの尻尾と同じになっていた。
「自分で編むの難しそう」
「なれりゃどうってことねぇよ」
「わたしはいいや。形兆くんにやってもらう」
緊張ぎみに言うと、形兆くんが髪の毛を編み込む手を止めた。困惑する吐息に緊張する。迷惑だったろうか。
「髪型でペアルック……って、アホじゃねぇか」
声がかすれていた。形兆くんははあっと長い吐息を吐き出すと、両手をだらんも下ろしてわたしの肩口に顔を押し付けた。
背中に呼気が当たって、むわりのしめっぽくなっていく。むき出しの首筋に鼻先が当たるのもくすぐったい。
編み込みを放り出されてしまったから、髪の毛が自然とほどかれていく感触がした。
「髪型でペアルック…?」
「みてーなもんだろ。二人で同じ髪型すんなんて」
「そ、そうだね……あんまり、よくないね……形兆くんはペアルックとか嫌いだよね」
「やるんだったら、せめてアクセだろ。ピアス……は目立つか。ペンダントとか、じゃなきゃ指輪とか」
「ゆびわ?」
思わず反応してしまった。指輪。たいした意味合いなんて込めてないとわかってるのに、どきもきして緊張してしまう。
この会話の流れだと、アクセサリーならわたしと同じものをつけてくれる、っていう意味にどうしても考えてしまう。
きっと、そんなことなんてぜんぜん考えていないはずだ。
わたしとペアにする理由がないんだから。
形兆くんはわたしの言葉に顔をあげた。
「なんだよ。指輪がほしいのか?」
「ん……な、なんでもないよ」
「そういう声には聞こえねぇ」
わたしはごまかすように笑った。
指輪がほしいって言ったら買ってやるよ――ってニュアンスの言葉だけど、やっぱりその気はないだろう。
もしその気があるなら迷わず指輪だ。指輪を頼もう。ああでも、下心まんさいかな……いやがられるのはいやだな。やっぱり、プレゼントなんていらないよって言うのがいいことなのかな。寂しいな。寂しいのにはなれてるけど。
「わたしに指輪なんて似合わないし、ほしいものは特にないよ」
「本気で言ってんのかよ、てめー」
急に形兆くんの声が低くなる。不機嫌そうな声音に身体がびくつくのが自分でわかった。
どうしよう、選択肢を間違えちゃったかな。どう繕えばいいのかわからず、わたしは言葉を舌にのせては吐き出せずにまごついた。
ゴニョゴニョと言葉を濁すわたしに形兆くんは眉をしかめて、それから整えたばかりの髪をグシャグシャに引っ掻き回した。
「あーもうっ! ほしいならほしいって言えよ! そりゃ昔はおやじだ弓と矢だっつって構えなかったけどよ、いまはちげーんだからよぉ!」
「え? いや、ほんとに」
「もう一度うそついてみろ。粉みじんにしてやる」
周囲にバッド・カンパニーを発現されて息がつまる。完全に脅迫だ。
黙りこむわたしに溜め息をつくと、形兆くんは立ち上がった。とたんに見捨てられたような恐怖がせりあがってきて、でも拒絶されるのも嫌でなにも言えない。
そんなわたしを見て、形兆くんの顔がグッと辛そうなものになる。
形兆くんがもう一度しゃがみこむ。視線を合わせたくなくて俯いたら、両頬を掴まれてむりやり顔を上げさせられる。
「こっち向けよ」
「ぅあ……や、やだ……」
「向いてくれよ、」
わたしを呼ぶ声には思った以上に切実さがこめられていた。思わず形兆くんのほうを見ると、泣きそうな瞳と目があった。
「苦労……かけたろ。お前には。だから……せめて。なんかさせてくれよ……」
くしゃりと歪んだ顔で懇願されて、どうすればいいのかわからなくなる。たまらなくなってもう一度泣けてきた。
「ああ、泣くなよ。泣かせてぇーわけじゃねえんだよ……」
困ったような吐息に目頭が熱くなる。
これは……やばい。わたしは自意識過剰になってしまう。
期待するなと冷や水を浴びせるわたしと、もしかしてと浮き立つわたしが心のなかでせめぎあう。
好きだといえば、いまの形兆くんはほんとの意味で受け入れてくれるだろうか。形兆くんのそばにいてもいいのかな。迷惑じゃないかな。嫌われてないかな。
聞きたいことも不安なこともやまほどあった。でも全部ぶちまけるのは悪いし、いまさら好きだともう一度伝えるのも野暮な気がした。だからわたしは、一番聞きたくてずっと飲み込んできた質問を、ひとつだけすることにした。
「形兆くんは……しあわせ?」
形兆くんの目がかつてないほど大きく見開かれた。そのままの面食らった表情でじっとわたしをみて、それからふっと表情を緩めた。
「お前が笑ってくれたらな」
涙をぬぐう親指の熱に、わたしはまた泣いてしまった。
しばらく経ってわたしの嗚咽がおさまると、形兆くんは再び立ち上がった。濡れタオルを持ってきて目元に押し当てられる。
「いまコップにはいってる分の麦茶飲んだらでかけるぞ」
「う? ……うん。でも、今日は家にいるんじゃなかったの」
「指輪買いにいく」
「へ?」
思わず大きく口が空いた。形兆くんはすでに立ち上がってわたしに背を向けている。その表情はわからない。
「おめーが指輪いやがっても、俺はほしいんだよ」
「え、それは……その……ペアルックが?」
「……わりぃか」
返事は憮然としていた。
「俺だって不安な訳じゃねぇんだよ……最近仗助の目も怪しいしな、ここらで一発俺のもんだってガッツリ――」
「は? え? お、俺のものって? なにが」
うろたえていると、身支度をしていた形兆くんの手がぱたりと止まる。その表情はやはりわからない。
「嫌か」
「嫌じゃない、けど……」
むしろすごく嬉しい。
「ならいいだろ」
言葉はやはり憮然としていた。だけどピアスの揺れる耳が赤く染まっている。思わずわたしも赤面する。
胸からこぽこぽとあたたかいのが染み出してきて、やっぱり泣きそうになってしまう。でも泣いたら形兆くんがこまるだろうからこらえる。
「好きとか付き合ってくれとか飛び越えて所有物発言って、結構だいたんだよね形兆くん!」
代わりにそう言って笑ってやった。
普段なら――弓と矢を持ってスタンド使いを増やしていたあの頃なら――ムスッとして冷たい目を送ったはずだ。
でも、いまの形兆くんはくすっと笑ってくれた。
「俺もお前のもんってのじゃあ不服か?」
にやついた笑みにたまらなくなって抱きついた。
ああもうどうしよう、形兆くんがすごく好きだ。しあわせ。
やっぱり家でごろごろじゃだめだろうかと思いながら、わたしは形兆くんにキスをぶちかましていた。
2013/8/29:久遠晶
もしいいね!と思っていただけましたら送っていただけると励みになります!